きっかけは、私が、町で拾った一枚の紙だった。
この町には、いろいろなものごとを知らせるために、惜しげもなく、紙が印刷され散らされる。羊皮紙とは違った、粗い手触りの紙は、イザーク風のしなやかさもない。
紙の外見はどうでもよかった。問題は、中身だった。
<旧レンスター王国王子リーフ
上、グランベル帝国に親しき北トラキア王国にあだなすものとならん。情報をもたらしたものには、その信用度に応じて褒賞のあるべきこと。また、身柄について、生死を問わず差し出したものには…>
その紙に肖像は、少し幼い風で、お世辞にも似ているとは思えなかった。でも、似ていなくてもいい、似顔は、特長さえつかんでいればいいのだから。
しかし、どうしたことだろう、リーフ様の追っ手は、グランベル帝国になっていただなんて。
彼は、この紙を見て硬直した。何も言わなかった。
生死にかかわらず、当局にその身柄を提供すれば、高額のゴールドが与えられるという。
「でも、安心していいこともけっこうあるわ」
こんな言葉で彼が安心するとは到底思えなかったが、私は紙を見て言った。
「この紙のリーフ様の似顔は、少しお小さいころのだと思うわ。と言うことは、今の状況を知らない人間が書いた…つまり、現在のリーフ様は、私達しかしらないということよね」
「そう考えることもできますが…」
という顔は蒼白で、取り乱しそうだ。頬を合わせると、血の気が引いて、冷たかった。
「リーフ様の運命を信じて。
あなたがいままでやってきた、リーフ様へのご奉公を信じて。
大丈夫。きっとリーフ様は…こんなところで終わる方じゃないから…
取り繕うような言い方しかできなかった。こんな言葉をいくら尽くしても、この人の挫折感を埋めることは出来ない。
「私は、そんなあなたを助けるためにいるのですから…」
私達の動揺を敏感に感じ取っているのか、このしばらく、ナンナの調子が悪い。
どこがどう悪いというのではない。なんとなく不安定で、誰かと遊ぶのが好きなはずなのに、一人でいる時間さえある。
「お医者様に診せても、何の異状もないというのよね」
一体、どうしたことかしら。私達があまり、体調について深く聞こうとすると、ナンナは
「私元気だもん。病気なんかじゃないもん」
とぽん、と投げ飛ばすように言って、どこかに言ってしまうのだ。
「リノアン様には、何か心当たりはございまして?」
リノアンにも、目だって彼女がどうしたか、原因になるようなことは知らない、と言う。
でも。
思えば、生まれたその年のうちにレンスターが陥落し、アレンの町を離れなくてはならなくなって、アルスターとフレストと、短い滞在と長い道行きを繰り返して、彼女は腰をすえた暮らしを知らない。同じ年頃の友達もいなければ、ともすれば、私達両親はリーフ様を優先する。
自分を、もしや要らない子とでも思っていはしまいか。私はそんなことを思った。
「ナンナ」
庭で遊ぶ彼女に声をかけ、膝に抱えあげる。
「ナンナは随分大きくなったわ。生まれたときには、両手ですっぽり抱えられたのに」
というと、ナンナは
「私、もう赤ちゃんじゃないもの」
と言う。
「ねぇナンナ、もしかして、私達がルー様のことばかり心配しているのを、怒っている?」
余計な取り繕いは必要ない。単純に尋ねると、時間をおいてナンナは
「…少し」
と言った。
「そう、さびしい思いをさせてきたわね。
ごめんなさい。
お父様はそれが仕事だから仕方がないけれど、お母様はナンナの味方ですからね。何でも話してね」
「…うん」
ナンナはそれだけ答えて、ぷいっと、私の膝からとび降りた。
ナンナは、リーフ様にだけは、いささかならず心を開いているようだ。リノアンに負けたくないという気持ちは、ナンナの最低限の礼儀作法になって、
「ナンナはこの頃、急にお姫様みたいになっちゃったね」
と仰るリーフ様の言葉にだけは、ほんのりと笑んだのは、私は知っている。
今夜も、あまり機嫌のよさそうでないナンナを
「では、どうしたいの?」
とつい言葉を高くしたとき、
「ちょっと待って」
とリーフ様が止められた。
「僕が市長様と話する時間が多くなったから、ナンナはすこし機嫌が悪いんだ。
そうだよね」
リーフ様が確認を取られる。ナンナは目じりを染めて、つい、とその視線を避けた。
「お尋ねになっているのですから返事を」
と言う私をまたさえぎって
「今夜も、僕と一緒に眠っていい?」
とリーフ様が仰る。普段から特に確認を取ることもなく、慣性でそういうことになっていたから
「申し訳ありません、お願いします」
私はそう答えた。二人が寝室に消えて、私は、どきん、と胸がなるのを感じた。今までのものとは違う不安な気持ちというか、ナンナの不安定さが、私に移ってきたというか、そんな胸騒ぎだった。
翌朝。まだ起きるには少し早い時間だったけど、リーフ様が声高に私達を呼ぶ声で目を覚ました。
「ルー様?」
「ごめん、早く起こしてしまって。
ナンナの様子が、変なんだ」
手を引かれるままに、ナンナが眠っていた部屋に入る。
「ナンナ、ほら、お母様が来たよ」
と、傍らでリーフ様がお声をかけるけれど、ナンナはそれすらも拒むように、掛け布団のふくらみが少し動いただけだった。私は、昨晩の胸騒ぎを思い出す。後を追って入ってこようとした彼をリーフ様と一緒に押し出し、
「しばらく、私が様子を見ますから、朝の身支度を手伝って差し上げて」
と言って、扉を閉めた。
ナンナは、頭から布団をかぶってしまっている。
「大丈夫? ルー様が大変な勢いで私達を起こされたけれども」
ナンナは、しゃくりあげたままで、何も答えない。
「お布団、のけていい? 着替えないと」
「…」
「のけるわよ」
「大丈夫…自分でおきる…」
ナンナは言って、布団からするりとぬけた。私は目を剥く。
ナンナの夜の服の腰周りには、隠すにはもう手の施しようがない、乾いた血のあとがこびりついていた。もちろん、寝具にしかれた真っ白なシーツにも。
私の笑顔は、もしかしたら引きつっていたかもしれない。それでも、
「夜の間、リーフ様とけんかでもしたの? それとも、寝台から落ちたの?」
念のために聞いてみたが、ナンナはふるふると頭をふった。
「お腹痛くて…目がさめたの。お布団が真っ赤で…怖くて…」
泣いていた気配に、リーフ様が目を覚まされたのだろう。そして私達を呼ばれたのだ。
「ナンナのご機嫌がずっと斜めだった理由も、お母様にはもう全部わかりました」
いらっしゃい。寝台の傍で立っているだけのナンナを手をさし伸ばし、抱きしめた。
「怖かったのね。わかってあげられなくて、ごめんなさい。
おめでとうナンナ、オトナになったのね」
「オトナ?」
ナンナが、小さい声で言う。
「お腹痛くて、すごく怖くて、服もこんなに汚しちゃったのに、これでおめでとうなの?」
「そうよ。みんなといるときは恥ずかしいでしょうから、二人のときに少しずつ教えてあげましょうね。
さ、ナンナ、体を拭いて、お着替えにしましょう」
「…はい」
素直な、私達が知っているナンナだった。私は、手持ちの日用品からその手当てをし、少しの失敗はわからないような少し濃い色の服で、ナンナを部屋の外に送り出した。
「しばらく『おすましの日』にしましょう。いつも以上に、プリンセスでいるのよ」
「はぁい」
昨晩私が感じた胸騒ぎ。それは、ナンナの体の月がさざめいて、その自己主張をしている、同性にしかわからない波動のようなものだったのかもしれない。それを、彼女は長いこと発して、私達はその対処に戸惑った。しかし、この結果がついてくれば、ああ、そうだったのかと、思いあたるフシもある。
ばあやの話を思い出していた。私が、ナンナのように、オトナになったときのことだったかもしれない。私の体に半分流れる、聖戦士の話ではなくて、お母様の血の話だった。
『世の中には、不思議なことがありましてね、姫様。時々神様は、少しいたずらをなさるのですよ』
『いたずら?』
『今度初めて、姫様のお体の中の月が動き始めました。姫様が、程よくお健やかに大きくなられてからのことで、ばあやはとても安心しました』
『早かったり、遅かったりするひともいるの?』
『はい。神様のいたずら心が、時々、とても小さいうちに月を動かしてしまったり、逆にもっと大きくなられても、月を動かされないことも…
お嬢様がとても早く月の動いた方だったので、ばあやは、もしや姫様も、と、心配したのですよ』
私が、お母様と同じでなかった、その理由はわからない。でも、私から引き継いだ中のお母様の血が、ナンナをこんなに早く大人にしてしまったのはまちがいない。たぶん、最初のうちは、何の自覚もなく、ただ気分が悪いだけで済んだのだろう。でも、ここまでの有様から見れば、彼女の月は、もう順調な満ち欠けを始めている。
それより、この月の満ち欠けは、重要な意味を持っていた。
『もしかしたら、神様が、早く姫様のお顔をご覧になりたくて、お嬢様の月をとても早く動かすよう、いたずらされたのかしらねぇ…』
傍らでそれを聞いていた当のお母様は、何もおっしゃらなかったけれども。
とにかく私は、この逆らえない偉大な摂理のことを、話すべきものに話さなければならなかった。
稽古に出てゆくらしい彼を引き止めて
「私の話を、聞いてちょうだい」
とあらためて差し向かいに座らせた、
「朝の件で、あなたに話しておかなければならない重要なことがあります」
あまりにも四角張って私が改まっているのに、虚をつかれたのか、きょとんとした彼に、私の憶測と一緒に、ナンナの体の変化について、洗いざらい説明した。案の定彼は、大して重要そうな顔をしないで、
「そのときそのときで注意して差し上げれば問題はないことでしょう」
といい、また席を立とうとする。私はそれを強いて座らせて、それがいかに危険であるかと言うことも説明した。大分けんか腰だったけれども。
「わかる? 私も、あの時あなたが少し来てくれるのが遅かったら、エリオットかシャガールの子を産んでいたかもしれなかった、それと似たような事態が、今後ナンナにもありえるということよ」
彼は、何を言っていいかわからない、と言うように口を押さえて、何事もいわなかった。そして、私はふう、とため息をつく。
「私とナンナが、離れなければならないときが来たのかもしれないわ」
「何ですって?」
彼ががたりと椅子を揺らした。
「ナンナが不安定で、誰かの目が必要なのは、王女もご承知でしょう。
今離れる必要があるのですか」
私はうなずいた。
「ヘズルの血をばらしておくのは、補完のためには、致し方ない方法。
そして、より有効なのは、受胎できるものとさせるもの、複数が各地に点在すること。
でも、やっと九つになるナンナに、どこへ旅をしろと言うの?」
明らかに、私の思い立ちに反対の雰囲気である彼に、次善策があれば改めて打ち明けるといって、私は、その場を去った。
でも、本当は次善策などなかった。
今日だけで、あの人を説得できるなんて、そんなことは思っていない。彼の言うとおり、まだ急ぐ必要にある話でもないからだ。
庭に出ると、出された椅子と机で、ナンナはリーフ様と書き取りの練習をしていた。
「ナンナ」
私は彼女だけを呼び出して
「リノアン様のところで本を見せていただきなさい」
と言った。
「しばらくルー様とお話しますから、ゆっくり見せてもらいなさい」
「はぁい」
ナンナはかわいらしく返事をして、リノアン様のお部屋に小走りに向かおうとしたのを、ぴたりとやめて、ちらりと私を振り返って、おすましの足取りで歩いてゆく。リーフ様とそれを見送りながら、リーフ様が仰った。
「ナンナ、本当に大丈夫なの? なんか元気がないけど」
「今日はおすましでいることは、私とのお約束なのです。だから、ナンナはいつもどおり元気ですよ」
私はいいながら、ナンナがつづっていた字を見た。まだまだ。
「朝は、お早くお知らせくださって、ありがとうございました。もう少し遅かったら、リーフ様にもご迷惑をかけていたかもしれませんわ」
「ううん、ナンナが元気なら、僕はそれでいいよ。おすましのナンナもかわいいし」
「ありがとうございます。
でも、今から私がお話しすることは、お遊びではありません。真面目に聞いてくださいましね」
「うん」
まだお分かりにくいかもしれませんが、なるべく簡単に話します。よく聞いてください。
この朝から、ナンナは、大人になりました。大人と言うのは、体が大きいとか、小さいとか、そういう意味ではありません。産めるかどうかは別の話として、ナンナは赤ちゃんの作れる体になったのです」
「本当?」
リーフ様の顔がきょとん、とされる。たぶん、それとこれとのつながりがまだわかっていないからだろう。
「はい。
これからも時々、ああいう『おすましの日』があります。どうか、『おすましの日』だとわかっても、変に思ったりしないで、今日のようにお見守りくださいね」
「わかった。
市長様が呼んでくださる先生の中に、お医者様もいて、この間、そんな話をしていたよ」
「そうですか、それなら余計なお話でしたかしらね」
「ううん。僕はその話がよく分からなかった。
でも、ナンナの話で、すごくよく分かった。僕は、何か手伝える?」
「そうですね」
私は少し考えた。
「まだなれていないので、『おすましの日』のお作法を全部教えて上げなければなりません。それが終わるまで、私とナンナで眠ることをお許しいただけますか?」
「わかったよ。僕もそろそろ一人で眠れるようにって言われたんだ」
「では、おさびしいでしょうが、しばらくご辛抱くださいまし」
「わかった」
しばし時間があって、すうっと風が流れてゆく。
「僕は」
リーフ様が仰る。
「リノアンより、ナンナが好きだよ。ずっと一緒だったから。妹みたいに思うときもあるけど、もっと大きくなったら…」
「はい」
「貴女みたいに、綺麗になるんだと思うと、そんなナンナが僕とずっと一緒にいてくれたらと思うと…なんだろう。体のこの辺が」
リーフ様が、胸の辺りを押さえられる
「少し痛いんだ」
偽らざるお気持ちなのだろう。私達が思っているより、リーフ様は健全なお心で育っていらっしゃる。それなら、言い出しても早いということはないだろう。
「ルーさま、勝手ながら、お願いを聞いていただけますか?」
「何?」
「ナンナを守ってくださいませ。これから、もしかしたら、ずっとつらい旅があったり、ナンナを傷つけたり、いじめたり、そう思うものたちと対峙することがございましょう。そういうときに」
「うん」
リーフ様は、しっかりとうなずかれた。
「僕、ナンナを守るよ。今はまだ手伝ってもらいながらだけど、一人で守れるようになる」
「そうなることを期待しています」
私は、心がほぐれたような気がして、心底から安堵のため息をついた。
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