二、三日、意識が朦朧としていた。その意識がはっきりしてきたとき、
「これを」
と、彼が私の手の中になにかを握らせる。川の音が小さく聞こえる、教会の小部屋でのことだった。
「金貨?」
重い表情の彼の口から、この場所に最初着いたときの顛末が説明される。
アルスターからの追っ手は、川を渡っても全く気にする様子もなくこの町に入り、このまま身動きが取れなくなる前に、と、ベオウルフがその追っ手をまくために飛び出して言ったそうだ。その時に、この金貨が渡され、
「それをごらんになれば、貴女は何もかも事情をお分かりになるだろう、と」
「ベオウルフは今どこにいるの?」
と私が聞くと、彼は重い表情のまま頭を振った。
「そう…わかりました」
私は、手のひらの上の、まっさらな金貨に目を落とした。
お母様のためにノディオンを見ようと、マディノの家から飛び出した私を、危なかしいとずっとついてきてくれた。戦場で再会して、時に勇み足になる私を立ち止まらせ、考えるということを教えてくれた。
そのベオウルフが、人越しとは言っても、私との契約金としてはそれ以上は決して受け取らなかった金貨一枚を返したということは、その時点で、私との契約を破棄して、全くの自由の身になっていった、ということでもある。
私は、聖印を切った。そして、
「一つ、お願いがあるの」
「何でしょう」
「この金貨を、この教会に寄付して」
「よろしいのですか、卿のお形見でしょう」
「いいの。そのほうが、あの人も喜んでくれると思うから」
本当にそうなのか、実際のところ、私にも分からない。ただ私に分かるのは、いつかきっとの次の約束はもうない、と言うことだけだ。
槍を受けた背中の傷は、まだかすかに痛む気がした。
「申し訳ありません、何分に小さな教会のことですから」
と司祭様が仰る。
「表の傷をふさぎ、血を止めるのが精一杯でした。腕を動かされるとまだ痛みますか」
「はい…少し」
「元の感覚に戻られるまでには、しばらくかかりましょう。ですが、急ぐ道行きでもないのでしたら、どうでしょう、こちらにご滞在なさっては」
司祭様の突然のお言葉に、私達二人はきょとん、とした。彼が
「ご迷惑になりませんでしょうか」
と言う。
「迷惑でなければこんな差し出がましくは申し上げません。
こちらにご滞在ください」
司祭様に頭を下げられてしまっては、私達もこれ以上遠慮するのはかえって失礼になりそうだった。彼が、私の顔色を伺っている。それにうなづくと、彼は
「では、しばらくご迷惑になります」
と言った。
「かえって危ない道を選んでしまったかしら」
と、私は呟いてみる。
「本当なら、ここは素通りしてターラまで真っ直ぐのはずだったけれども」
「ターラは、ここから西に進路を取ればよいのですが」
「…ターラは、自由都市として信用できる?」
「以前から商業都市として、才気ある市長に守られて、もう十数年と聞いております」
「私達がたどり着くまで、そのままであればいいけれど」
旅の拠点拠点で聞く情報ほど当てになるものもなかった。私達がたどり着くまでに、何かがあったら、そのターラでさえも、安住の地にはならない。
そして、彼が言った。
「私とリーフ様が先行して、ターラ市長に庇護を求めましょうか。
安全な場所が確保できたら、改めて王女とナンナとをお招きいたします」
そう言ってみる。でも、私の顔は、その言葉にぞわっと怖気たつものを感じた。
「そんなの、いや」
つい、そのことが単純な言葉になる。
「何故です、王女がアルスターでされたことを、かわって私がするだけの話で」
「それでも、いやなの」
私は、彼の腕をつかんで、すぐには動けないようにしていた。準備が必要なのに、言ったら最後、すぐ実行されるような気がして、怖かった。
「わかりました、ならば、ここにおります。
王女が完全に癒えられるまで、ゆっくりと休みましょう」
彼の口元が緩んで、そういう言葉が出て、私はやっと肩の力がぬける。
「…ありがとう。ごめんなさい」
「とんでもありません」
とはいえ、不安がないでもない。アルスターの兵がここまで追捕に来たということは、すでにここも、半分はアルスターの勢力圏内にあると考えていいからだ。レンスター遺臣を尋問にかけて、今リーフ様がどうなっているのか、もう伝わってもいいころだ。
ほんとうなら、ターラに今すぐでも行きたい。そこがこの逃避行の最後の場所であることを心底願っていた。
でも彼は、ここでの滞在は悪くはない、と、そんなことを言った。
「アスベルが」
と、司祭様のお孫様の名前を出して、
「私達では教えられないことを教えてくれるような気がするのです」
「私達では教えてあげられないこと?」
「はい。
リーフ様には同年代のご友人がまったくと言っていいほどおられません。アスベルがその最初の一人となってくれることを、私は願っているのです」
「そうだったの」
「私は人付き合いが下手で、親しい友と呼べるのはグレイドぐらいなものですから」
「そんなことをいったら、私はノディオンを出てからだわ。でも、仲間ではあったかもしれないけど、友達であったかどうかは…」
そういってから、気兼ねなくくだらない話も、将来を左右する重要な話も、一切合財できる相手が友人と言うのなら、ベオウルフは友人だったのかな、と、思い出していた。そう思うと、涙がたまってゆくのが押さえられなかった。
「いかがされました」
「なんでもない」
布団に押し当てると、涙はすぐに消えた。彼は神妙な顔をして、
「何か思い出されましたか」
と言った。
「…少しだけ」
手繰るように、私はひたと彼に添う。大きな腕に包まれて、
「申し訳ありません、こんなとき、どんな言葉をかけていいのか、私には分からない」
という低いささやきを聞く。その囁きが、耳から全身を震わせて、私の全身はもう、この人のことで一杯になる。
唇をねだると、そのようにしてくれて、後は私達の時間が過ぎ行くままに身をゆだねた。
それはまた別の話として、ナンナの機嫌があまりよくない。
安息日の礼拝にそっと参加してほどないころだった。
「ナンナ、もっとかわいいふくほしいのぉ」
と言い出し始めた。たぶん、礼拝に来ていた女の子達の服が、うらやましくなったのだろう。
アルスターのエスニャ様のところにいたとき、手紙を出して贈ってもらったおじい様からの仕送りは、ほとんど手つかずになっている。なにか大金を使ってでもぬけなければいけない関門が出来たときのために、これには手を出さずにいようと、二人で話し合ってそう決めたのだ。
ナンナには、アレンから持ってきた私の普段着を縫い縮めたり、リーフ様のお下がりを使わせてきたが、そんなちぐはぐな格好も、彼女の女心にはもう我慢も限界になってしまったようだった。
「困りましたね、こんなわがままに育てた覚えはないハズなのですが」
と彼が渋い顔で言う。
「荷物が増えるのいうのに」
「そんなこと言わないで。これを使うから、荷物はその分減るはずよ」
と、私は荷物の中から、アルフィオナ王妃様があつらえてくださったドレスを出した。
「これこそ、これから邪魔になるわ。これを売って、代わりに必要なものを買いましょう」
「ほんとに? ほんとに、ナンナにかわいいふくかってくれるの?」
と、馬上でナンナが言う。
「本当よ、だって、可愛い服を着たいのは、お母様も同じだもの」
売値次第では我慢しなければいけないだろうけれども。
町の賑やかなあたりに来て、道を聞き、古着屋を訪ねる。
「ひぇぇ」
古着屋の主人は、私が出したドレスに白目をむいて倒れそうになった。
「こ、こんな高級な服をみすみす手放されるのですか」
「今は必要ないので…
少し着崩してしまっていますけれど、おいくらほどになりますか?」
主人は服をためつすがめつして、これだけ、と紙に書いた。少し仕立てのいい剣でも、二、三本は買えそうな金額だ。たぶんこれを全部今払い出してしまったら、主人は困るだろう。
「服を選びますから、差し引きでお願いできますか?」
「どうぞどうぞ、ご自由に」
ナンナには、ほしいままに数着自分の服を選ばせ、私達は私達の必要な分を買う。リーフ様もあの人も、随分くたびれた服を着ていたから、そろそろ新しいものにしてもいいだろう。
差し引きにしてもらっても、私の手元には、相当額の金貨や銀貨が残っていた。私の足は自然と市場に向かう。多少の寄り道も、可愛い服がたくさんでホクホク顔のナンナには退屈でもなんでもないようだ。
道行の間に使える小銭を残して、私達は教会に戻ってくる。
「ご無事で…」
と言いかけた彼の顔が呆然とする。何となれば、私は物資の買い足しのついでに、馬まで買い足してきたのだから。
「どうされました、こんな…」
「リーフ様がいつまでもあなたと二人乗りじゃかわいそうでしょう。それに、少しは持ち歩ける荷物が増えるわ」
「そういうことでしたか」
「もしこの馬にリーフ様を乗せるのが不安なら、あなたがこの馬を使って、サブリナに乗せて差し上げればいいのだし…」
と、荷物を整理しながら言うと、
「そのサブリナなのですが」
彼は言いにくそうな顔をする。
「サブリナ、どうかしたの? 病気?」
「いえ、実は… 仔がとれそうなのです」
その意味を図りかねた。もう一度説明してもらう。
「それじゃあ…いやがうえにもここにいなくちゃいけないわね」
「ですね…落ち着くまでは」
私は、新しい馬をつないだばかりの厩に戻り、サブリナに声をかけた。
「おめでとサブリナ、あなたもお母様ね」
サブリナは、私を見て、ぴこ、と耳を動かした。
しばらくして、生まれてきた子馬を見て、私はついにんまりとした。
「あらやだ、私の馬そっくり」
「言われて見れば…そんな気も」
彼はあまり気にしてもいないようだ。でも
「馬は逆だったみたいね」
と混ぜ返されると、彼はがちっと動きを止める。子供達だけは、生まれたばかりで、まだ脚もおぼつかない子馬を、柵にぶら下がるようになって見ている。サブリナが、追い払おうと思うけど出来ない、みたいな顔をした。
「さ、お母さん馬は子供の世話で精一杯だから、静かに遊びましょ」
と部屋の中に向かって手招くと、子供達は口々に返事をしながら部屋に入ってきた。
その夜。この頃リーフ様は、アスベルの部屋で休んでおられることも多く、すでにナンナも夢の中だ。
「子馬は、半年ぐらいたたなければ、他の馬の歩調に合わせて走ることは出来ません」
と彼が言う。
「それが先日、司祭殿のところに市長と官吏らしき数人が来て」
「ええ」
「リーフ様を見つけたら、アルスターに差し出すよう、すでに近隣の自由都市には伝えられているそうなのです」
「じゃあ、もうリーフ様の身元も、知られてしまっているということ?」
「司祭殿にはよんどころなくして説明しましたが、それ以外には誰にも」
「後は、ここにいるのがわかるのが、どれだけ先になると言う話?」
「そういうことになります」
私は、腕を回してみた。つれるような感覚はあるけれど、そのうち収まるだろう。全快と言って差し支えなさそうだ。
私は、なるべく腕を動かすようにした。リーフ様が剣にご興味をお持ちらしいので、そのお相手をして差し上げる。村で自衛のために売られている、何でもない剣だ。それでも、怪我が治ったばかりの私と、剣を持つのがはじめてのリーフ様には、ちょうどいいぐらいだ。
そういえばこのごろ、リーフ様は私をお母様と呼ばなくなっていた。そのことを尋ねると、
「だって、ナンナにはたしかにお母様だけど、ぼくにとってはそうではないでしょ。ぼくの本当の父上と母上は、もういないんだって」
と、殊勝なことをおっしゃる。きっと、あの人がそういうのを、聞き分けられるお年頃になったのだろう。
「レンスターで生まれたというのも、なんか本当の感じがしないんだ。アルスターに、馬でよく連れて行ってもらったのは覚えている。そこからは結構覚えているんだけど。
あの人、いなくなったね。どうしたの?」
「あの人は傭兵と言って、お金を上げて、その代わり私たちを手伝ってくれた人なのです。
もう手伝いが終わったので、どこへか行きました」
「ふぅん。
でも、アルスターの前のことで、変なことを覚えているんだ」
「変なこと?」
「僕は誰かに抱き上げられて、何か赤いものをみているんだ。燃え上がってる…のかな…真っ赤で、ゆらゆらしてて…」
「きっとそれは、炎上したレンスター城ですわ。私もそれと同じものを見ていましたから」
「そうなんだ」
「主人は」
きょとんと見上げていらっしゃるリーフ様に、私はこう言う。
「あなたに、それを覚えていていただきたかったから、お見せしたのでしょう」
「トラキアに、やられたんだよね。トラキアは、絶対に許すなって」
「それは、もっと後の話かもしれません」
私は、腕の調子を確かめるように、剣を二三度振った。
「詳しいことは、主人からお聞きくださいまし」
「…うん」
どことなく、不安そうな顔のリーフ様に
「大丈夫です。人には天命があり、運命があります。あなたは、このような小さな町で隠れて終わる方ではありません」
と言った。
「そうならないように、私達がお守りしているのですから」
と、そのとき
「奥様ぁ」
と、シスターが一人かけてくる
「大変です、ご主人様が!」
とにかく駆けつけると、教会の前の道は大変なことになっていた。
数騎の騎兵と馬が、累々と教会の前で動かなくなっている。その真ん中で、彼が槍の血振りをし、ちょうど、聖印を切ったところだった。その騎兵達を見下ろす視線は、氷の青のように冷徹だった。
声をかけあぐねる。ばらばらばらと、人の足音が。司祭様が
「お逃げなされ、早く!」
と声を上げなければ、私達はそのまま正気を取り戻すこともなかっただろう。
よくしていただいたお礼も出来なくて、ただ荷物をまとめ、その場所から離れることしか出来なかった。
私はナンナをのせて、その後ろにリーフ様とアスベルの乗った馬が続いている。サブリナの子馬が、母親と走れるのが楽しそうに、後先になりついてゆく。
彼が振り返らずに、私に言った
「追っ手はありますか」
「…いえ」
追っ手らしい影はなかった。司祭殿が、私たちの身元を知らぬ存ぜぬで通してくれてるのかしら。アスベルは、あまり元気がない。
「アスベル、」
私はアスベルに声をかけた。
「大丈夫よ。おじい様が心配なら、その分祈って上げなさい」
「…はい」
馬を勧めながら、長く黙っていた彼が、ぽつりと言った。
「いつまで…こんな道行きを続けなければならないのでしょう…」
「どうしたの、そんな急に」
と馬を寄せた私の肩に、彼の額がごつん、と落ちてきた。手に暖かいしずくが落ちる。
「疲れてるのね…」
ナンナだけが無邪気に、
「あ、おとうさまとおかあさまがすきすきしてる」
と言った。
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