「セルフィナに弓をお預けに?」
彼がきょとん、とした声を出した。
「ええ。なんとなく、素質があるように感じたから。使い古しだけど、弓と矢をあげたの。あ、あと、胸当てと」
「さようですか」
「真面目に練習すれば、きっといい弓使いになると思うわ。トラキアに対抗するのに、弓は必要でしょう?
レンスター軍のことは知らないけれど、弓は積極的に取り入れるべきと思うの」
「そうですね、考えておきます」
彼はそういって、また書類に目を落とす。私は、暖炉の中に薪を足した。
「この間の夜、雪を見たのよ」
「雪ですか。ここではあまり雪は残りませんが、レンスターもいよいよ本当の冬ですよ」
「そうねぇ」
私は、書類を押さえている彼の手を取り、そっと自分の首筋に当てた、
「!」
「冷たい。
無理しないでね。風邪なんか引いたら、みんな心配するから」
「…」
彼は、私に手を預けたまま、
「王女こそ、お熱があるようですよ」
と言った。
「あらやだ」
「この頃寒い中、お一人で教練されていたからでしょう。
もう、おやすみください」
「そう、ね。ありがとう。おやすみなさい」
扉を閉じて、私ははた、と、同じようなやり取りがあったことを思いだす。
そうよ、私は前も、こんな風に熱があるのを、彼から指摘されて気がついたんだわ。
そのデジャヴュは、大当たりした。指折り数えたら、、私の月の満ち欠けはぴったりと止まっている。そして、微熱が続く。デルムッドの時と同じ。
冬の始まりで風邪を引いたかと心配そうに彼はお城に出かけてゆく。
私は、部屋の寝台の上であれこれと世話を焼かれているけど、こんなときほど、お城の彼が帰ってくるのが待ち遠しいことはなかった。
帰ってきた彼は、制服のままで、私の部屋に入ってくる。
「お加減はいかがですか」
「ええ、この間から変わらないわよ」
「それはいけません、お薬などちゃんといただいてますか」
「まぁ、ね」
私はあいまいに答えて、帰ってきたばかりの冷たい彼の手を、温めるように包む。
「思い出すわね。
あなたがここに帰ってくる前のシレジア」
「は?」
「熱が引かない私を、手紙で、そうやって心配してくれた」
「そんなことも…ありましたね」
「あれには、続きがあるのよ。
あなたが帰った後にね…お医者様に聞いたの。そしたら、なんていったと思う?」
そこまで言って、彼の顔色をうかがう。彼は、「さぁ」とでもいいたげに首をかしげた。私は、ついでる笑いを抑え切れなくて、
「あの、ね」
と言う。
「…おめでとうございますって。ご懐妊ですよって」
彼の気配がその一言で、びきっと音がしそうなほどに硬直した。
「そのときと、まったく同じなの。もう少したったら、お医者様を呼んでもらって確認するけど…」
「は、はひ」
「もっと喜んでよ、今度は、最初から最後まで、子供が生まれるまでを見せてあげられるんだから!」
私は、硬直したままの彼の首に飛びついた。
最初はそう、喜んではみたものの、今度こそ彼に可愛い子供を抱かせてあげる前には、いろいろつらいことがある。私はそれを忘れていた。
忘れていた、と言うのは、へんな言い方かもしれない。でも忘れてしまうのだ。私の世話をしてくれる一族の女性達も、
「生んでしまったら、みんな思い出になってしまうのですよ」
と言う。もしかしたら、もう一人、もう一人、と産んでゆくためには、いちいちつらいことを覚えていたらやりきれないと、体にあらかじめ刻み込まれているのかもしれない。
「また二、三日は戻ってこられませんが」
と、登城前の彼が心配そうに私の顔を覗き込む。
「どうかご養生なさってください。まだ、お顔が白いですね」
「仕方ないわ」
と私は苦笑いした。
「だって、この子の自己主張なんだもの。生まれてきたいって」
「ですが、ほとんどお食事をなさらないそうではありませんか」
「そういうものなのよ。あとは誰かから話を聞いて頂戴。
ほら、ブランたちが待ってるんでしょう?」
私は彼を出るように促した。女性達が
「全く心配ございませんからね」
「奥様は私達がしっかりお世話いたしますから」
と言いながら、彼を部屋から押し出してしまった。
デルムッドのと時は確かに、とてもつらかった。心が弱いときに重なって、手当てが遅かったら、本当に、生まれないデルムッドと一緒に、逝ってしまっていたかもしれない。
でも、今度は何かが違った。つらいのは確かにつらいけれど、心は穏やかで、食べられないことを除けば、普段と全く変わらない。
それはベオウルフも気がついたようで、
「一回産んだ後は余裕綽々ってカオだな」
と、自警団の練習記録を持ってきた時に、私の顔を見て言った。
「シレジアのときみたいに、一人きりで始めて尽くしとはわけが違うもの。
助けてくれる人はたくさんいるし、それに一人じゃないもの」
「へーへー、ご馳走様」
ベオウルフは肩をすくめて書類を執務室の机にぽいと投げた。
「しかしよ姫さん、こんな自警団なんか作ってどうするんだい? レンスターの領地の中で一番安全だって言われてるこの街に、いまさらそんなものが必要かねぇ」
「必要よ」
と私は答えた。
「ウィグラフんとこのガキのことでか?」
「それもあるわね。
その上に、この街は、レンスターが何かあったときに、リーフ様をお預かりする場所なのだそうよ」
「へぇ」
「あと、あの人のためにね。もしあの人が、何らかの事情でレンスターのお城から動けなくなった時には、誰がかわりにこの街をまもれるの?
そういうことよ」
「奴の目の青いうちは、大丈夫そうながするけどねぇ」
首をひねるベオウルフに、私は言う。
「『泥棒を見つけてから捕まえるための縄を作り始める』では遅いのよ。
いつかはわからないけど、きっと『あってよかった』って思うときがあるから」
「出来れば、そんなこたねぇ方がいいな」
ベオウルフはいつものように、にやりとした笑みを浮かべた。
「そんなせっぱ詰まった中じゃ、生まれてくる子供がかわいそうだ」
あの人の人格を慕って、自警団に入ると名乗り出てくれる人がとても多いのはとてもありがたかった。でも、春から秋にかけては、まずそれぞれの仕事に励んでもらうことになる。
自衛のために街の外周に設けたかった物見を作る仕事は、農閑期…つまり、作物の収穫が終わって、次の種まきの間に行うことにしていた。
秋の声を聞くころには、そのための手配を始めなければいけない。
「街の東あたりの森は、どこまで切り出せますか?」
と尋ねると、補佐の人は
「もう少しは切り出せると思いますが、あまり奥深くまでは」
と言った。
「あの森は、『迷いの森』と呼ばれるところにつながっております」
「迷いの森?」
「はい。
入ると方向感覚を失い、自分の進みたい方向と全然違う方向に歩いていることなど、しょっちゅうあるそうです。
人ならぬものが守る森には、手を出さないほうが賢明でございますよ、奥様」
「わかりました。どこまで切り出せるかは、普段から森に入っている人に聞いた方がいいですね」
「はい…
しかし奥様」
「何ですか?」
「そんなにお腹も大きくてらっしゃるのに、起きていらして大丈夫なのですか?
ご領主は奥様にはあまり無理をなされないようにと」
「時々釘をさしておけ、と?」
私は補佐の人の言葉を混ぜ返して、つい笑いが漏れた。
「私の体のことですから、私がよく分かっています。この子は丈夫に育っていますよ」
と言う。事実、デルムッドなら生まれてしまっていた日数は過ぎていた。時期が来れば、自然と生まれてくるはず。
「でも…そうね。あまり根をつめて心配もさせたくないから、そろそろ切り上げましょう」
「そのほうがようございますよ」
手を貸してもらって、私が椅子から立ち上がると、ぽこん、と、お腹の内側から何かが当たってきた。
「あ」
「どうされました」
「いえ、ちょっとうごいただけ。
窮屈だったのね」
ごめんね。お腹をさすりながら、私はふと、お姉様を思い出していた。
『あらあら、私が立ち上がると楽になるのね、暴れん坊さんだこと』
そして、彼がお城から帰ってきて、物見の話をしていたとき、その日からしくしくと張るような痛みが、突然強くなった。
「…来た!」
私は思わず声を上げていた。
「いかがされました」
彼が当惑しきった声でいる。しばらくの痛みを耐えた後、私を部屋に運んでくれるよう、女性達を呼ぶよう言う。おろおろとしはじめた彼に、
「大丈夫。
お祈りしていて。
あと、男の子の名前をもう一つ、考えておいてね。おねがいよ」
私はそう言った。
でも、生まれてきたのは女の子。別に男の子を期待していたわけではないけれど、たぶんあの人は驚くだろう。自分の血を分けたのに、女の子なんて。驚く顔が今から楽しみだ。
お湯を使って、つれてきてもらった子は、瞳もはしばみ色で、大きくなったら、きっと私みたいな顔になるのかもしれない。それとも、お母様に似るかしら。
この子を身ごもったころに見た、天から降る花を思い出していた。冬に花はないなんて、そんなことはない。地上に花のない季節は、天が花を作るのた。
「…ナンナ」
春と花をもたらす妖精の名を呼んでいた。その名前にしよう。この先どんなに厳しいことがあっても、希望の花となってくれますように。
そのあと、右手と右足が一緒に出てくるような歩き方で入ってきた彼に、私はつい笑ってしまった。
「がちがちじゃないの、どうしたの」
「どうも、しませんよ」
「女の子よ、可愛いでしょう」
と顔を見せたが、彼はなんだか複雑な顔をしていた。可愛いといっても、見慣れない人にとっては、どこが可愛いんだといわれても仕方ないような顔をしているのだから、それは仕方ない。
「お嬢様のお世話をいたします」
と、若い人が一人ついてくれたけど、私は一通りのことは出来たから、その人と半分半分に世話を分け合ってみた。
「なれておられるのですね」
といわれたけれど、デルムッドのことは言えなくて、
「家にいたころ、ちょうど小さい子がいてね」
と言い濁しておいた。デルムッドに、妹が出来たことを知らせたいけれど、あの子はそれがわかるぐらいに大きくなっているかしら。
ナンナの時間は、私達の都合では変わってくれない。しばらくは、お世話の若い人と、かわるがわるにおきてはお乳を上げたり、着替えさせたりしていた。
ある夜明け。私は、ナンナが寝ぐずるのをあやすままに、お城が朝焼けで染まってゆくのをみていた。
白い石つくりのレンスターは、まるで燃えるように真っ赤で、とても美しい。
「ナンナちゃん、どうしたの?」
居心地の悪そうに、いつまでも眠ろうとしないナンナに声をかけながら、私は改めてお城をみた。
「おねむになってくれないと、お母様が先におねむで、お父様をお城までお見送りできないわ」
と言ったけど、顔を上げたとき、私は、ぎょっとして、その場所に立ち尽くしていた。
今まで朝焼けで美しく染まっていたお城に、うっすらと、暗い陰がみえたのだ。
私は、ナンナをお世話の人に預けて、まずベオウルフの部屋に走った。あの人は朝が早い。たぶんもう起きて、剣の練習でも始めようとしているだろう。
案の定、ベオウルフはもう起きていて、ちょうど着替えを済ませたところだった。
「どうしたい姫さん、血相を変えて」
と言うのに、私は
「お城が、変なの」
としかいえなかった。
「変?」
「ええ、なんか、暗い陰がみえて…嫌な予感がするの。ナンナもむずがって」
「お嬢ちゃんまで? そりゃ妙だな」
「自警団の人に、何があってもいいように、準備だけはさせて」
「了解、姫さんのカンだな」
「ええ…ごめんなさい、急がせて」
「なになに、どうってことはねぇさ」
ベオウルフは、部屋を飛び出していった。
彼は半信半疑だった。私にしか見えない、悪い予感の付きまとう影のことは、彼にはなかなか上手く伝えられない。
「なにか、大変なことが起こりそうな気がするの。
何かあったら、すぐに伝えて」
「わかりました。
…何もないことを祈っていてください」
「はい」
私はまんじりともしないままで、執務室の中で、何かの知らせがあるのを待っていた。こないでほしいと思いながら。
でも。
「サブリナ様!」
とシュコランが入ってくる。
「マンスターがトラキアと衝突しました、陛下がコノートまでの出陣を決定されて、準備整い次第出陣と」
「やっぱり」
私は胸をおさえた。
「あの人は?」
「ご領主様は、リーフ様をお預かりになって、こちらにすぐお戻りになります」
「わかりました」
私は、そのままシュコランに、自警団へ武装を命じ、自分も戦支度をした。後は鎧をつけるだけのすがたで、ナンナのところに行くと、お世話の人は驚いて、
「奥様、どうされましたか」
と言う。
「ええ、ちょっとね」
と言い、ナンナの旅の支度をさせる。
「いつでも持って歩けるように、一つにまとめておいて」
そんなことを言っている間に、彼が帰ってくる前触れがあった。
果たして、数人の部下とセルフィナを連れて帰ってきた彼は、シュコランと同じことを私に言い、
「リーフ様をこうして、お預かりしてまいりました。アルフィオナ様は、身分を隠すために、ここからは『ルー』とお呼びするよう、と」
「わかりました。ルー様ね」
私は、リーフ様を渡してもらう。リーフ様は
「あれんのおかーしゃま」
と仰って、嬉しそうに笑まれた。
「はい、アレンのお母様が、これからルー様のお世話をいたしますからね」
きっと、いつものように、少しの間私と過ごすものとばかり思っているのだろう。でも、そうではないのだ。これからは、私が、エスリン様のように、この王子を見守って差し上げなくてはいけない。
「でもセルフィナ」
と、私は、私があげた胸当てをつけ、手に弓矢をぶら下げたセルフィナに言う。
「あなたは、お父様のところにいて差し上げたほうがいいと思うわ。お父様も、今はご自分の土地を守ることに専念しておられると思うの」
「いえ」
でもセルフィナはかぶりを振った。
「私も、王妃様からリーフ様のお世話を言いつけられた一人ですから。
父のことで特別扱いなら不要です。弓も、あれから教えてもらったりして、少し上手くなったんですよ」
たぶん、そういう子なのだろう。いつかの私みたいに、誰かのためにならなくちゃと、懸命な。
「わかりました、それなら、一緒にリーフ様をお守りしましょうね」
「はい」
セルフィナは、朗らかに微笑んだ。そのとき、
「お城が!」
と声がして、私達は上の階に駆け上がった。レンスターのお城から、煙と、火の手が上がっていた。
夜。
レンスターのお城は、真っ赤に燃え上がっている。彼は、リーフ様を腕にして、それを長いことみていた。セルフィナも、唇をかんでそれをみている。
どれだけの思い出が、あのお城の中にあったのだろう。アレンの街よりは、お城で過ごした時間のほうが、この人には長いのだ。私の知らない、少年時代のあの人を知るお城は、もう何も語ってはくれない。
そして、キュアン様とエスリン様が、あのお城の中ではぐくまれた思いすら、あの火は焼き尽くしてしまっている。
あの人の背中に、話しかけることが出来なかった。彼は、今日の朝見た朝焼けと同じ色に燃えてゆくレンスターのお城を、動くことなく、いつまでもみていた。
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