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 間もなく、エーディン様はお嬢様を挙げられた。私もお手伝いをして差し上げたど、人のお産を見るのは初めてだ。自分もこうだったのかと思うと、恥ずかしくなりそうな、必死なお姿。お子様が出てこようとする痛みが来るたびに、エーディン様はお言葉にならない叫びをあげられる。痛々しい。
 でも、すべて済まされたあと、お湯を使って、柔らかいおくるみに包まれたお嬢様を胸になさって、
「あの人に似て、優しく、誠実な子になりますように」
そう仰られて、頬ずりされた。セリス様がそのお世話のお手伝いをなさろうと一所懸命なのを、私達ははらはらしながらでも、楽しく見ている。
「セリス様、邪魔をされてはいけませんよ」
と、オイフェがそのたびに離そうとするのを、セリス様はじたばたと、身をのけぞらせて抵抗されるのが、またおかしい。まだセリス様は、お世話する乳母とオイフェだけが、ご自分の世界のすべてでおられるのだ。

 シレジアに近いこの街は、山あいということもあって、冬の雪はしんしんとつもる。
 私はその雪の中の家の暖かさに守られて、デルムッドにお乳を与えながら、エーディン様のお言葉を思い出していた。
 あの方は、「半身をもがれた痛み」と仰った。神に誓って結ばれた方と、文字通りの、引き裂かれるような別れ。この世のどこを探しても、結ばれた方はもういないという、突きつけられた事実への絶望。
 同じ痛みを、私も経験されていると、エーディン様は仰る。
 私が鈍感なだけかしら、それとも、私の心はすべてデルムッドだけのものになってしまったのかしら。
 胸は確かに、時折ざわざわと騒ぐようだけれど、砂漠の悲劇を聞いた直後に比べれば、自分はおかしいぐらいに落ち着いている。
「わっ、たたっ、たっ」
という声がして、私は思わずその方向を振り向いた。乳母があわてて、私の胸の辺りに肩掛けをかける。
「ノックぐらいなさってくださいましな」
と怒る乳母を、私はなだめて、
「ちょうどいいわベオウルフ、少し話がしたかったの」
と言った。ベオウルフは、少し遠くに座り込んで
「すまねぇ、まさかそんなこと姫さんが自分からしてるなんて、少しもおもってなかったもんで」
と言った。私は
「だって、ここでは私はデルムッドのお母様でしかないもの」
と答え、乳母に隠されるようにして、吸わせる胸を換える。
「お母様がお乳をあげるのは、当たり前のことでしょ、ね、デルムッド」
「やれやれ」
ベオウルフは少しあきれたような声を出した。
「すっかり坊ちゃんに骨抜きだな。少年が見たらどんな顔をするやら」
「どうでしょうね」
「で、なんだい話って」
「あなたこそ、何故ここに?」
「んー」
ベオウルフは少し考えた声を上げる。そして改まって
「姫さんよ」
と言った。
「あんたほんとは、もう気がついてるんじゃねぇか」
「何を?」
「バーハラの話を、あんなにけろっとして聞いてた姫さんが、少しおかしいと思ってな」
「おかしい?」
私はその言い口に少々の違和感を感じた。でも、なんとなくそういう風な感じがするのは自分も思っていたところなので、乳母にデルムッドを預け、服を調えて、改めて向き直る。
「私のどこがおかしい?」
「なんというか、こう」
「余裕がある? 深刻じゃない?」
「そう、それだ」
ベオウルフがぽん、と手を鳴らした。私は首を少し傾げて、
「そうね。私の話も実はそのことなんだけど」
と言った。
「おかしいわよね。本当なら、もっと前から、打ちひしがれたままで、デルムッドなんて乳母に預けっぱなしでも当たり前なんでしょうけれども」
「だよな」
「ベオウルフ、あなた、リューベックで私に言ったわよね、自分の体に聞けって」
ベオウルフは少し考えるしぐさをした。
「ああ…そんなこともあったな。姫さんがあんまり不憫で、つい期待を持たせることを言っちまったかもしれねぇ」
「ううん、その場しのぎなんかじゃ全然ないわ」
私はかぶりを振った。
「デルムッドを見ながら、よく考えたの。最初は、あの子が生まれてきた、その忙しさに取り紛れただけなのかもしれないって、思っていたのだけれど…
 それでも、こんなに落ち着いていられるのが不思議で…
 もしかしたら…って」
「へぇ」
この人に言われた、「自分の体に聞いてみな」というのを、私なりに実行して、導き出した結果なのだ。
「本当のことは、自分の目と耳で確認したいから、あくまでも可能性だけで、これは誰にも言わないつもり。間違いってことも、あるから」
「間違いでなきゃ、いいけどな」
「そうね」
「そしたらそのうち、お姫様が乗るような立派な馬車が、この家に横付けされら」
「あはは」
私は、昔のことを少し思い出して、笑った。

 雪の季節は過ぎていた。葉を落としていた木々が、今年の木の葉を生み出す、その柔らかい緑は、子供達の遊ぶ庭に、よく似合っていた。
 デルムッドは、生まれて半年をすぎて、この頃は人に微笑むというしぐさを覚えた。
 ゆりかごの中でちょこりと座り、私や、大きな子供に軽くあやされるたびに、にっこりと目を細める目許が、あの人に似ている。あの人の、あの笑顔に、私はもう一度会えるのかしら、どうなのかしら。
「よいしょ」
抱き上げるときに、ついこんな声が出てしまう。お腹に入るほど小さかったなんて信じられない。そのデルムッドが、忽然と腕の中から消えた。
「あら?」
左右を見回すと、ベオウルフが、デルムッドを抱き上げている。
「ほーら、お前の親父だぞぉ」
と言うのを、デルムッドは笑い声すら上げて楽しんでいる。投げ上げそうな勢いに私は叫ぶ声さえ見つからず、
「デルムッドが本気にしたらどうするの」
と、私はそれだけようよう言った。
「坊ちゃんのことになると冗談通じねぇんだからなぁ」
ベオウルフは楽しくなさそうな顔をして、私にデルムッドを返す。
「あなたのためにも言っているの。どうも、ここの人たちは、私とあなたとデルムッドでひと家族のように思っているらしいから」
「まあ、この村じゃあ、ちょっと目立ちすぎるからな、俺達は」
「もうだいぶたつもの…気になる人がいたりしたら、その人に悪いじゃない」
「いねぇよ、そんなひとは」
ベオウルフはにべなく答えた。
「あいにく、そっち方面については、ココロってやつが俺はがちがちに凍りついてるんでね」
「…」
そういう顔は、ひどく真剣だった。おそらく、私の知らない彼の人生の中に、彼をそうさせる何かがあったのだろう。でも、ここで私が見知る人は、一様に同じ傷を抱えているもの。余計な詮索はせずにいた。
「しかし、シャナン坊ちゃん遅いな」
ベオウルフが腕を組む。
「そういえば、いままであの子に稽古をつけていたわね、どうしたの?」
「さぁな、なんか、元王国のお偉いさんが来て、ひっぱるように連れ出して…
 と、来た来た」
シャナンが、二頭の馬に追われるにして走ってくる。追われるように、と言うよりは、先導をするように、と言ったほうがいいかもしれない。シャナンは、全身に喜びをたたえている。
「レヴィンがきたよ!」
と言う声に、私達は
「ええっ!?」
と同時に裏返った声を上げていた。

 「ごめんレヴィン、今、ここの人たちはみんな知らない人に警戒してて」
「なになに、お前が謝ることじゃないさ、警護のしっかりさがよく分かった」
やって来たレヴィンたちを上げて、私達はレヴィンを取り囲む。他のみんながどうなったのか、知りたいのだ。が、レヴィンは私を見て、
「あんたには専用のお客人がいるぜ」
と、ついてきた人物を指差した。
 どき、と胸がなる。もしかして… 差し伸ばされた手は、私の肩をぽん、と叩いた。
「久しぶりだね」
と聞こえる声は、違うものだった。でも、私の喜びに変わりはない。
「…おじい様!」

 レヴィンが周りのことを話している間、私とおじい様は庭に出ていた。
「来る途中、何度も思ったが、ここは格別春の緑が綺麗だね」
「はい。隠れ住まいと言うのがもったいないほどに」
ゆらゆらと、梢が風にゆれて、庭の草の陰が遊ぶ。
「さて、おじい様に、曾孫の顔を見せておくれではないかね。そのために来たのだから」
「はい」
デルムッドを受け取られたおじい様は
「最後に、こんな赤子を抱いたのはいつだったかな。
 お前だったかな。年を離して実の娘を産ませたような孫娘を抱き、また曾孫を抱けるなんて、私はなんと幸せ者だろうか」
と仰る。そのお顔に、少し涙が浮かんでいらした。
「名前は、なんといったかな」
「デルムッド、です」
「いい名前だ。歴史書で名騎士とある人物に、しばしば見る名前だよ」
卿は存外に博識なのだな、と、おじい様は仰る。
「ああ、本当だ。瞳の色があの方と一緒だね」
「はい、それが一番の自慢なんです」
それが、私とあの人をつなぐ証なのだから。おじい様は、服の隠しから、
「さあ、これを読みなさい。その間、この子は私が見ていよう」
 封蝋に、あの紋章。恐る恐る、封を開けた。
 文字が少し、震えている。読む私の手も、震えている。
 手紙は、自分の足が地についている理由を述べていた。
 本来なら主人の供を無理を押してもするはずの所をそれができず、主人の死に目にもあえず、死出の旅の供を出来ない自分のいたらなさをつらつらとしたためてあった。
<…バーハラの悲劇のことを聞くに及んで、よもや貴女も、と思ったとたん、いいようのない寂莫とした気持ちが襲ってきて、情けないことですが、しばらくは何の手もつかぬ有様でした。
 そこに、レヴィン様と貴女のお祖父様がご来臨下さり、貴女は御健在で、デルムッドもまた無事イザークに落ちのびた由お伝えくださって、レンスターの国体危うい今、不謹慎ではありましょうが、私は安堵いたしております。
 よんどころなくして、今はお迎えに上がることはできません。お話をお聞きならすでにご存知やも分かりませんが、マンスター地方にグランベル軍が少しずつその勢力を伸ばしてきております。私はなくなった方々の御遺志をついで、どうしてもレンスターを守らなければいけないのです。貴女が、アレス王子行方不明の今、デルムッドをヘズルの未来としてお守りなさらねばならないように。
 しかし人間とは勝手なものです。主人を失い、心から哀悼の意をもちつつも、貴女が御健在と知ってからは、目を閉じるごとにまぶたの裏に面影が浮かんで参ります。とはいえ、この混乱に乗じて世界がどう動こうとするのか誰にも予想の出来ない今、矮小な人間一人のささやかな望みは消え入るべき運命の様な気がしてなりません。
 それでも私は切に願ってやまないのです。私が何をいわんとするかはお察しください。うまく言葉になりません。…>
 署名の、二つ重なったNのあたりに、ぽつんとにじんだ跡。
 私は、手紙を何度も、指でその筆跡をたどりながら読んだ。
「あなたすこし勘違いしてるわよ。
 私がデルムッドを守るのは、ヘズルの未来だからではなくて、私達の子供だから」
そうやって、憎まれ口すら出てしまう。
 おじい様は、緑の葉をつかもうと手を差し伸べるデルムッドを腕にして、顔を上げた私に笑顔でこたえてくださる。戻ってきて、
「やれやれ、年は取りたくないね…腕がしびれた」
と仰りながら、デルムッドを私に差し出してこられる。
「少しは、安心できたかね」
「…はい」
腕の中のデルムッドは、青い目をぱっちりとひらいて、私のほほに伝っている涙を、不思議そうに触っている。
「まだ迎えにいくことはできないが、常に気にかけていると伝えてほしいと、仰っていたよ」
「…はい」
単純にその気持ちを伝えられる甘い言葉を、自分からすぐには使えない、そんな口下手なところも変わらない。
「返事はどうするのだね? 出すのなら、私がマディノに戻ってから、隊商を使って届けさせるよ、卿の領地のワイン商人と商談を取り付けたのでね」
でも私はかぶりを振った。
「あのひとは、あの人にしか出来ない仕事をしています。
 だから私も、私にしか出来ないことをします
 離れていても、同じ空を仰いでいることは、変わりません」
「強がるね…そんなところまで、クレイスに似なくてもいいのに」
おじい様は少し笑われた。そして、荷物の中から革の袋を出し、それを私の前に差し出した。
「何ですか、これは?」
「何って、いつかマディノで書類に署名してくれただろう。お前が得るべき正当な、お前の財産だ。ほんの一部だがね」
そんなこともあった。おじい様の街で出た売り上げのほんの少しを、私の財産として貯蓄しておくという、そういう書類だった。
「必要なときに、必要なだけ使いなさい」
「でも」
「気兼ねはしなくていいのだよ。この村の大人にも、お前達がお世話になっているお礼として、しかるべく渡してあるから。
 いざと言うときも路銀がなくては、なにもできないよ。いつまでも、ここにはいられないのだろう?」
「…はい」
「大切にしなさい。もし足りないようなら、届けさせるから」
「でも」
「お前達の居場所が、当局にすぐ知られるようなものをよこしはしないよ」
渡された袋の中身は、みんな金貨で、すぐには数えられないほど、袋に入っていなかったら、わたしの両手からこぼれ落ちてしまいそうなほどあった。今はもう、金貨の重みと価値は、十分分かる。
「こんなにあれば、足りないことなんてありません。
 それに私…おじい様にあまりご心配は…させたくありません」
「おやおや、一昔前には突然家を出てしまって、私の胃の腑を痛めさせるほど心配させた娘が、今度は私に心配をするなと」
おじいさまははははは、と高笑いをされた。
「私のことは、何も心配は要らない。
 むしろ、卿を心配しなさい。おまえが生きていることを知るまで、仕事三昧で気を紛らわしたあげく、過労で倒れて王宮出入り差し止めを言い渡されているそうだ」
「まあ」
「やはり、返事は差し上げたほうがいいと思う。
 吟遊詩人殿に預かっていただこうか。あの方はこれからも、お前達の仲間を訪ねて回るそうだから」
「そう、ですね」
立ち上がろうとして、デルムッドがむずがりはじめる。
「おや?」
「あら、どうしたの、さっきまであんなにご機嫌だったのに」
「…言いにくいが」
おじい様が私の服を指差す。しっとりとしみがついていた
「ま」
「少し、長話が過ぎたようだね。手紙を書くなら、ついでに着替えてきなさい」
おじい様はそう、苦笑いをされた。

 おじい様にデルムッドを預けて、私はレンスターに行こうと思ったことは、正直否定しない。でも、おじい様に心配をかけないと決心した以上、それは出来ない相談だった。
 二三日、レヴィン様とおじい様は逗留されて、おじい様はどう交渉されたのか、時々行商を向かわせることを承諾してもらったという。おじい様はもう、貴族と言うより、商人だった。
 村の出口までお見送りしようと外に出ると、おじい様は馬上から、
「では、私は行くよ。
 デルムッドを頼む。
 聖ヘズルのご加護が、お前たちにありますように」
そうおっしゃって、ティルナノグの人に守られるように、村を後にされた。


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