ほろ付きの馬車に、二三名の無名の騎兵、私とオイフェはそれぞれ馬に乗り、馬車の中には、シャナンと小さな子供たちと、その乳母達が乗っている。
誰も何も言わず、ただ馬の足音と、馬車の車輪がきしむ音だけがする。
それほど歩いた感じはしなかった。後ろから、馬の駆けてくる音がする。気がついたのだろう、オイフェが
「追っ手でしょうか」
と私に囁く。手が剣にかかっているのを私は制して
「…単騎よ。止まって、待ちましょう」
私は皆を止まらせて、その足音が近づくのを待った。
やがて
「おおーい」
という声がする。私は少し馬を進ませて、その姿を確認した。
「ベオウルフ!」
泡を吹く馬を止め、なだめながら
「ひでぇよ姫さん、いきなりいなくなっちまうんだから」
と軽口を叩くのに、私は拍子抜けする。
「雇い主に煙に巻かれる傭兵なんて、笑い話にもなりゃしねぇ」
この期に及んで、ベオウルフは、私についてくるのだ。
「あなた、向こうの傭兵隊はどうしたの」
「そんなの、俺が聞きてぇ。夜明けと同時に全員集められて、大将自らおおせがあって、まとめてこれだ」
これ、と、ベオウルフは顎の下を水平に撫でた。騎兵達が、顔を見合わせた。彼らの困惑も分からないではない。大規模で純然たる戦力の突然の切り離し。リューベックに残っているだろう後の戦力を考えると、ほとんど必要最低限の人間だけで、シグルド様は砂漠を南下しようとされている。
「エスリン様は残念だけれども、もういらっしゃらないから…今は、私があなたの雇い主なのね」
「ああ」
「わかったわ。あなたの好きなようになさい」
「へいへい、好きにしますよ。
それに、ただの道行を装うなら、一人ぐらい柄の悪いのが混ざっていたほうが、それっぽくていいもんじゃねぇか?」
あくまでも、伝聞でしかない。
でも、この話は、とてもつらい。
シグルド様は、バーハラに何とか到着された。しかし、アズムール王にまみえることはおできにならなかったらしい。
バーハラの宮廷は、何かの拍子でふと世に出てこられた、いつか暗殺されたクルト王子のお姫様…アズムール王にとっては孫姫様…の夫なる男が支配していたという。
「なんだっても」
と、その様子が、逗留する街々で語られる。
「どえらい炎魔法をお使いになる方で、骨さえ残らず焼き尽くされておしまいらしいよ」
「お連れの方たちも、ひどい目に合われたらしいねぇ」
「ああ、長いものには巻かれときゃあいいのになぁ」
イザークびとでさえ、その街を辺境と呼ぶ。
超えがたい山を越え、行き着いた場所、それが「ティルナノグ」。
その集落が見え始めたとき、ベオウルフはつくづく感嘆したように
「一体、どこをどうすれば、こんなところに街を作れるんだ?」
と言った。私も同じ思いで、その街をみた。緑の中に、ちらほらと、赤や黄色に色づく木々があって、その光景は、とても、幻想的だった。
町の中には、物々しさなどかけらもない。だが、私達は明らかに警戒されていた。通りから人が消えてゆく。
その中で、シャナンが飛び出した。バルムンクを両手にして、ただ静かに、往来に立つ。
「なにしてるんだ、あの坊ちゃんは」
ベオウルフがいぶかしそうに言うのを、エーディン様が
「まあ、見ていて差し上げましょうよ」
と仰る。しばらく、無意味な時間が流れたように見えた。
しかし、シャナンの気配が、ぞくりと私には、鬼気を孕んで感じられた。まだ青年にもならない体で、バルムンクと語り合い、彼は、無言のままで、神剣とその使い手がそこに現れたことを、知らせようとしているのだ。
その気配が大きくなるにつれ、家々から、通りの角々から、イザーク廷臣らしい姿の人たちがちらほらと集まり始める。そして、小さな後継者に、その誰もが額ずいた。
「偉大なるオードの末裔、シャナン王子」
「よくご無事で、イザークにお戻りになられました」
その中で、言葉を発したのは、廷臣の中でも重要な位置にあるものだろうか。シャナンは、額ずいた大人たちに向かい、
「今、戻った」
大人になりかけの、少しかすれた声で、
「しかし、まだイザークは再興のときにはない。『侵略者』が、この街に気づくのも、そう遠くない話だろう。
僕達を、ただの戦に焼け出された子供と、その家族として受け入れてほしい」
でも、そんな彼にも、こんな重々しい声が出せるのだ。廷臣たちはさらに頭を低くして、
「かしこまりましてございます、すぐ準備をいたさせますほどに、しばらくは私めらの家に」
「そうしてくれるとありがたい。皆疲れている」
廷臣たちは、数歩、シャナンに背中を見せないようさがり、三々五々散ってゆく。やっと、通りには子供達が出始め、黒髪でない私達の姿がものめずらしいのか、まじまじと眺められたりした。
「しかしまぁ、すげぇ気迫だこと」
茶化すではなく、ベオウルフが言う。
「イザークは、オードの血を、どの国よりも尊く思っているの。その血を引く末裔は、絶対的に従うべき存在」
「へぇ」
「手っ取り早く言えば、シャナンも神様みたいなものね」
「へーぇ」
ベオウルフが顎をひねった。
聖者の末裔とその元に集うものたちの、一つの完成された形がここにあるのかもしれない。私は、そんなことを思いながら、休める場所まで案内してもらった。
乳母に、
「デルムッドのご機嫌はどう?」
と尋ねると、乳母は
「はい、お坊ちゃまはよくおやすみですよ」
と言う。肌の色が、少し白くなってきて、ふくらかになって、私がよく見知っている乳児の面影に、だんだん近くなってくる。
「起きたら、お乳をあげても構わないかしら」
「かまいませんが、私の仕事でございますよ」
「ううん、私にさせて。ここでは、私はこの子の母親以外の何者でもないのだもの」
「わかりました、姫様が仰るなら」
「『姫様』もしばらくダメね」
「ではなんとお呼びすれば」
乳母も所詮、ある一定の階級育ちなのだ。ティルナノグで、庶民並の生活を送ることになるだろう、その苦労は私にも計り知れない。
「私の身分が分からないような呼び方なら、なんでもいいわ」
「それじゃ俺は、『ご主人様』とでも呼べばいいんかねぇ」
ベオウルフが、少し戸惑った顔をした。
「もう『お嬢様』って立場でもねぇし…」
「そうねぇ、私も、本当はどう呼ばれたいのか、全然分からないわ」
ティルナノグの中でも、やや奥まったところにあった、林の中の山荘が整えられて、私達はその中に招かれた。
「手狭でお見苦しい住まいとは思いますが、いずれ建て増しなど命じますほどに、王子には臥薪嘗胆のお言葉のごとくにお堪えくださいまし」
重臣らしい人物が二三来て、シャナンにそう言った。しかしシャナンは、
「がしんしょうたん?」
と首を傾げる。この辺は、まだ子供らしい。
「古くからの言葉でございます。受けた屈辱を忘れぬよう、あるいは口に苦い肝をなめ、あるいは並べた薪の上に眠り、屈辱をそそぐことを日々新たに誓う、今の王子にふさわしい言葉でございます」
「今、この神剣のおわすべき偉大なるイザークは、いまやグランベルに蹂躙され、見る影もございませぬ。
このティルナノグを、王子が作られる新生イザークの、最初の都と思し召して、どうかその時をお待ちいただきますよう」
「…わかった」
シャナンの顔は神妙で、家臣達には、進言したことへの覚悟を示した、全くもって王の器にふさわしいとみえたことだろう。
でも、その場所にいた何人かは、彼の表情に、一抹の不思議な揺らぎを感じていた。
アイラがシャナンに託していった双子は、持っているオードの血脈に呼応しているのか、シャナンに誰よりもなついていた。
他の子供達と違って、その見たところはほとんどイザークぴとと変わらないこともあって、ティルナノグの人々も、彼らが一番かわいらしく見えるらしい。私達はむしろ、シャナンが伴ってきた客人という立場のようだった。
シャナンの膝を奪い合うようにして、双子はその傍らで眠っている。双子を見ながら、
「ドズルの侵略は、どこまで進んだのだろうか」
と、そういった。
「時間的には、もう城塞のあるような大都市はおさえられてしまっているかもね」
エーディン様がぽそりと返される。
「俺、変だよ」
と、シャナンの口ぶりが急に大人びる。
「イザークがドズルの色に塗り替えられている。ここで隠れ住んでいる人たちは、俺にそのドズルの勢力をいつかは排除して、イザークの再興をと願っている。
でも、それがなんか、変に感じたんだ。
ラクチェとスカサハに、半分ドズルの血が流れてるって知られたら、どうなるんだろう」
「アイラと双子の話はしたの?」
と私が訪ねると、シャナンはひとつうなずいて、
「でも俺、レックスのことは言わなかった。
いつの間にか生まれてたって言った。俺も聞いたけど、アイラは何も答えなかった、父親が分からなくても、この双子が自分の子であることに間違いはないと言ってた、って」
「そう、それは賢い選択ね」
油の切れた歯車のような二つの勢力の関係を、この双子がきっと直してくれる。アイラは、双子をかわるがわるに撫でながら、そう言っていた。
「シャナンが、家臣の人たちの言葉を変に思ったというのは、とても大切なことだと思うわ」
「そうかな」
「そうよ」
訳知りの大人たちは、みな一様にうなずいた。
「家臣と意見がぶつかることは、それは仕方のないことよ」
と、私もつい言う。経験則というものだ。
「でもね、シャナン」
「うん」
「これは絶対に間違っていると思うことについて、あなたはそれを変えるだけの力があるの。
国王って、そういうものよ」
「俺が、ドズルと仲良くしようって言ったら、そうなるの?」
というシャナンの問いに、わたしは少し考えて、
「今すぐは、無理ね」
と答えた。
「イザークに対して、ドズルの力が大きすぎるわ」
「今の坊ちゃんの仕事は、なにより、よく食ってよく遊んでよく寝て、剣の腕を磨くことだな」
とベオウルフが混ぜ返す。
「双子のことは、しばらく、アイラ姐さんの秘密ってことにしておきゃ、余計な波風もたたなかろうさ」
「もし、俺が話す前に、バレたりしたら?」
「さぁな。アイラ姐さんがどういう経緯で、レックスの坊ンとそういうことになったか、説明する必要はあるな。
上手く受け入れられるなら、それはおかわいそうな目に合われたのですね、で、同情で済むかもしれねぇ。
でも、受け入れられなかったら、オードの血により罪一等を減じて、生涯幽閉、てところが妥当かな」
「ラクチェとスカサハは、何も悪いことしてないのに」
「アイラ姐さんの腹を借りて、ドズルの一党として殖えてきたのが、何よりの罪なのさ」
「そんな」
シャナンは双子が起きてしまいそうなほど大きな声を出したが、それが現状なのだ。
「絶対に、二人にそんなことするなんて許さない」
「そうよ、それが、二人があなたに託した願いなの」
私は、そうシャナンに言った。そして、エーディン様がお言葉を添えてくださる。
「イザークとドズルが、アイラとレックスのように、短い間にその間を縮めるのは、すぐには出来ないこと。
でも、あなたと双子が、もっと大きくなって、いろいろなことを知るころには、すこしは、お互い近づこうという動きが、出始めるんじゃないかしら」
「姐さんと坊ンみたいな、奇特な奴らは、俺らが知らないだけで、何人もいるわな」
へへ、と、ベオウルフは、少しお酒が上がってきた顔で言った。でも、それも真実なのだ。時間は、春が雪を融かすように、少しずつ、今は隠すだけの、もう一つ、もう二つのアイラたちをつくってゆくにちがいない。
「ベオウルフ、だからと言って、あまりシャナンに必要以上に具体的な知識を教え込んだりしたらいけなくてよ。
前科ありなんだから」
「うへっ」
「きちんとお妃を迎えて、健やかなご夫婦になっていただかないといけないのですからね」
と、エーディン様にも釘を刺されて、ベオウルフは、
「酔っ払いは、退散しますかね」
と、外に出て行ってしまった。シャナンはきょとん、としている。
バーハラであった悲劇の詳細が、少しずつ入ってくる。逃げられた方もあった。その場の命は助かったけれど、手当ての甲斐のなかった方もあった。
からがら抜け出して、自分にもつらい報告をしてくれる一兵士に、つらい質問を投げるのは、とても苦しい。
「…アイラは、どうしたの?」
その場にシャナンはいなかった。シャナンがここにいたら、彼はきっと、取り付くようにアイラの安否を聞くだろう。きっと帰ってきて、双子をもう一度抱きしめてくれるはずと、信じているのだから。
とにかく。私の問いに、一兵士は言葉を選びながら
「それが…負傷者の中にも、遺体の中にも、お姿がなかったのです。レックス公子と、一つ馬に乗り合わせておられたのは、他のものが見たといっていましたが」
と言った。そして、彼の馬は、シグルド様のすぐ後ろについていたという。
「そう。ありがとう」
ここの人たちは、アイラが戻り、シャナンが成人するまでその助けになってほしいことを望んでいる。レックスが一緒だったとしても、言い出しさえしなければ、彼の出自も明らかにはならないだろう。
でも。
シグルド様を中心とした、何十人かの兵士や騎士は、放たれた炎の竜に食われるように、跡形もなく燃え尽きたという。その中に二人がいれば、事件の後の姿が見えなかったというその報告にも、納得がいく。
私は兵士に、養生をしてから、帰るなりとどまるなりを決めるよう告げ、その部屋を出た。
あの二人は、ひとかけらも残らずに、ともに燃え尽きたのだ。そう信じたい。あの二人は、どちらが生きながらえたとしても、きっとこの軋轢には耐えられない。
私は、後から帰ってきたシャナンに、アイラのことを正直に話した。
「この話を、あなたがどう受け取るのか、それはあなたの自由よ」
シャナンは、ぐす、と鼻を鳴らした。
「アイラ、最後まで幸せだったのかな」
「あなたはどう思う?」
「…幸せだったと思う。だって、レックスが一緒だったんだから」
「そうもいえるわね。
でも、彼女の遺体が確認できていない以上、生きている可能性は否定できないのよ」
「思わせぶりはいいよ」
シャナイはぐい、と、袖で涙をぬぐった。
「でも、みんなには、話さないでおく。アイラが帰ってこないって分かったら…みんな、ばらばらになってしまうかもしれない。
ラクチェとスカサハにも…黙っておく」
「それでいいの?」
「…思い出話にするには、まだ、俺の中で整理がつかない」
「そう」
「俺、ベオウルフと剣の練習してくる」
シャナンはそう言って、部屋を飛び出した。
「アイラは、『オードの愛し娘』と呼ばれていたのだそうよ」
と、エーディン様が仰った。
「宮廷のことを知っている人はみんな、アイラを手放しでそう誉めるわ。父上様と兄上様が大好きで、そのために、剣ではもう、お二人以外にかなうものはなかったって」
そして、シャナンが開き放しにしていった扉を見やる。
「シャナンは偉いわ…アイラの話、どんなに心が痛かったでしょうに」
「…」
エーディン様は、いつ生まれてもおかしくない、大きくなったお腹を撫でながら、黙っていらっしゃる。この方には、つらいお話がもたらされていた。
「あなたの気持ちが、少しだけ、わかります」
そう仰るので、私は少しだけ驚いた。
「半身をもがれた痛み…おつらい思いを、されているのですね」
「私が?」
「そうでしょう、イード砂漠のこと、お忘れになって?」
そう言われて、どきりと胸がなる。そうだ。私の半身も、本当は痛いはずなのだ。
エーディン様は、涙を流されない。でも、天を仰がれ、その指がごく自然に、聖印をきっておられた。
「聖戦士の末裔は、エーギルが尽きると天の聖戦士のもとに導かれるといいます。
でも、血脈のないものは、ひとりひとり神の前まで歩き、生前の善悪を審判されるといいます。
ジャムカは…そのみ許まで、迷うことなく歩いているかしら」
そのお姿は、とてもさびしそうでいらした。
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