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 シレジアの不穏な動きは、日々濃くなっているらしい。レヴィンのお父様になる故シレジア王には、弟様が二人いらっしゃる。それぞれ、シレジアの拠点になるトーヴェとザクソンに封ぜられておられるけれど、レヴィンの優柔不断な態度と、私たちをかくまい続け、のみならず、グランベルと正面切って対峙されようとなさるラーナ様に、お二人それぞれにご心配されていただろうことは想像に難くない。
 でも、いきなり軍を展開して、セイレーンを制圧しようだなんて、どこをどうすればそういうことになるのかしら。
 でも、シグルド様にとって、シレジアへの恩返しの好機であったのは確かで、ラーナ様がお二人を抑えてくださるようという依頼を、一も二もなく快諾なさった。私達は、再び戦場の人になる。
「ただ心配なのは」
その軍議の席で、シグルド様が仰る。
「ここで生まれた子供たちと、その母親達だ。
 子供たちは、まだ母親を必要としている。そして、まだ子供とともにいなければならない母親も多い」
拠点となるセイレーンに、そういった方々はいるように、そういう指示があって、多少の戦力の低下は免れないが、防御線が厚いに越したことはないと仰られた。
「後衛の指揮を、君に頼みたい」
シグルド様は私を見やって、そう仰られた。マスターナイト叙勲をきっかけにして、私も部隊を任されることになっていた。自分の護衛隊だった人たちを、今度は私が指揮するのだ。寂しいなんていっていられない。
「シグルド様」
でも私の口からは、こんな言葉がついと出た。
「私を、前線に回していただけないでしょうか」
「それは無理だ。後衛は補給と回復の拠点だし、マスターナイトになってからの実戦は経験がないだろう。
 もっとも大切な場所に、もっとも大切で、頼もしい将は配するものなのだよ」
「ですが」
私はシグルド様の前に膝をついていた。
「戦力の低下は誰もが懸念しているところ、…私では、その代わりにならないものでしょうか」
「レンスターの件もあって、君に大事のないように、キュアンから言われてはいるんだが…」
シグルド様は困ったお顔をされる。そこに、
「大将、姫さんのやりたいようにさせてやってくれねぇもんですかね」
と、ベオウルフが言った。
「傭兵隊から人間裂いて、俺が後につく。それでなんとか」
「仕方ない、君までそういうのなら」
シグルド様は仰って
「君はまだ、人を斬ったことがないだろう。前線は、君が思っている以上に怖いよ」
と、私を立たせながら仰った。

 「まあ、少年ほどは役にたたねぇけどよ」
前線まで進む間、ベオウルフは照れるように、髪に手をやりながら言った。
「姫さんがああまでして前線を願い出るんだ、なんか、思うところがあるんだろ」
私はどきり、とした。フュリーは本当に、私との約束を守ってくれている。シグルド様も誰も、私の体のことは普段どおりだと思っていらっしゃる。お城のばあやは、もう薄々感づいてはいるだろうけど。でも、ベオウルフだけは、時に、名前どおりの、狼のような野生の勘を働かせるときがあるのだ。
「姫さん、なんか隠してねぇか。軍のためなら後衛でもいいって、アグストリアのころのおとなしさは一体どこにいっちまった?」
案の定、ベオウルフは、私を探りにきた。上から下まで見透かされて、お腹の中までわしづかみにされるような一抹の恐怖を感じて、私は馬の上で、彼から避けるように体をひねらせた。
「マスターナイトですもの、その実力をここではっきり見せないと、形だけになってしまうじゃない」
と言うと、
「ふぅん」
と、納得したのかしてないのか、そんな声をあげた。
「まあなんだ、そういう覚悟があるってんなら、俺が言うことはなにもねぇよ。
 おびえさせてすまねぇな」
「ごめんなさい、心配してくれているのに」
「なになに、どってこたねぇよ」
ベオウルフは飄々と言った。でも、すぐ後には、馬を寄せ、私の鼻に自分の鼻がぶつかるほどに顔を寄せて、言う。
「これだけは言っておく」
「ええ」
「気取られたくなきゃ、普段どおりでいな。無理だと思ったら、すぐに本当のことを言って、後ろに下がれ。
 こんなつまらねぇ戦でひと暴れして、その勢いで流しちまおうとか、そんなバチあたりなこと考えるんじゃねぇぞ。
 いいな」
こんなセリフの後、いつもならベオウルフは、にやりとえくぼが出来るほど唇をあげて笑うのに、今の彼には、そんな様子が少しもなかった。

 バチあたりなことなんて、少しも考えていない。私は、純粋に、いなくなった人たちの分を補いたくて、戦いたかった。
 背中を守ってあげるという約束、今は守れない。でも、あなたは、私の後ろにいてくれるわよね。
 外套の下で、聖印をきり、お腹をそっとなでる。いい子でいて、お願いだから。
 木立の間の、少しの開けた場所を選ぶようにして、トーヴェ軍の鎧が見え隠れする。シレジアの薄い日差しの中、きらりと空で光るのは、トーヴェ直属の天馬騎士団かしら。
 ひゅん。
音がした。矢が飛んでくる。戦線がにわかに動き出した。
「馬鹿、退れ、的になるぞ」
ベオウルフが、私の馬の手綱をつかんで、後ろに退らせようとする。でも馬の上で固まった私は、そのまま、馬上で気を失っていた。
 目を覚ますと、私は金属の鎧を全部脱がされ、天幕の中に寝かされていた。後衛詰めのシスターと、フュリーとベオウルフの顔が、ぐるりと私を囲んでいる。
 目が合うなり、ベオウルフが
「この跳ねっ返りが!」
と私を一喝した。
「いわんこっちゃない、だから退ってろとあれほど」
と言うのを、私はバツが悪い顔で見ていることしか出来ない。一息ついて、また彼が何か言いたそうに口を開いたとき、
「さあ、傷のお手当をしますから、殿方はご遠慮なさってくださいまし」
とエーディン様が入ってこられる。シスター達に押し出されるようにして、渋々とベオウルフは天幕を出てゆく。
「矢傷が少しだけありますわ。あと、落馬したときの擦り傷と」
と仰りながら、鎧下の隙間から見せる傷にライブを当ててくださる。そうされながら、
「フュリーが大体お話をしてくれました。おめでとうございます」
にっこりと、エーディン様は仰る。
「でも、フュリーを叱らないで差し上げてくださいませね」
私はフュリーをみた。フュリーは俯いた。でも、彼女をしかるつもりなんてなかった。たぶん、これが潮時というものなのだろう。
「ご懐妊の最初はご安静が肝要。ご注意あそばせ」
「はい」
「戦力の低下は、誰もがわかっていること。あなただけがお気になさる必要はありません」
私がどうしようと思って迷うほどのことなのに、エーディン様は全く動じていらっしゃらない。
「お寒くないですか」
「大丈夫です」
「何か、召し上がられます?」
「…いえ」
この頃急に、食欲が落ちていた。普通なら、そういうはっきりした兆しで分かるのだけど、私はなぜか、その前から気がついた。だから、無理を言えたともいえるのだけど。
「いけませんわねぇ」
エーディン様は、眉根を寄せられた。
「お辛いでしょうけれども、何か召し上がって。あなたにもお子様にもよくありませんからね」
「…はい」
「セイレーンにお戻りになったほうがいいとも思うのだけれども。あなたのばあや様もいらっしゃるし」
「いえ、それは」
私は、それだけはしたくないと思った。ばあやに甘えてしまうと、自分の中で何かがだめになりそうな気がした。
「では、こちらでご養生を。
 あと、シグルド様と主だった女性の方には、あなたのことをお知らせいたします。
 よろしいですね」
「…わかりました」
「シグルド様は、あなたのお怪我をご存知になって、予定通り後衛の指揮をとおっしゃっておられます。表向きは矢傷のお手当ということにいたしましょうね」
「ありがとうございます」
「お礼なんてとんでもない」
エーディン様はにこやかなお顔のままで、
「新しいお母様に、神と聖ヘズル様、聖ノヴァ様のご加護がありますように」
と聖印を切られた。

 命のやり取りが行われる場所だからこそ、新しい命は大切にされるのだ。この旅団は不思議なところだ。失われていくばかりの命の中で、新しく生まれる命がある。
 私は、革の鎧に着替えて、後衛を見回った。矢傷を隠すつもりの目くらましの包帯を少し目立たせて。
 後衛の中で特に大切に守られているのが、子供達のいる天幕だ。シグルド様がお側から離せないセリス様をはじめにして、特に一緒にと望まれた子供達がいる。その乳母達を取り仕切っているのはティルテュだ。そのあわただしさは、別の意味で戦場だ。
 声をかけあぐねていると、ティルテュのほうが私を見つけて、
「どうしたの?」
と人懐こく話しかけてきてくれた。
「何か、手伝えないかしらと思って」
「ダメよ、後衛の指揮官なんだから、ちゃんと兵士の人見回らないと、サボっちゃうわよ」
「…そうね」
「話聞いたよ。おめでと」
「…ありがとう」
「それで、やっぱり気になるんだ?」
図星のふちを射抜かれた気がした。
「そうかもしれない」
と言ってしまう。
「私の中に、別の命があって、後何ヶ月もすれば生まれてくる…いっぱい見てきて、自分にもいつか来るとは思ったけど…」
「ちょっと、時期が悪かったね。
 でも、子供が生まれるって、いいことなんだよ」
ティルテュが、私と歩きながら、そんなことをしんみりといった。
「私も、アーサーが生まれて、すごく不思議だなって、不思議だけど、大きいなって思ったの」
「おおきい?」
「だって、私は、おばあちゃまから生まれたお父様と、お母様の間に生まれてきて、そして私からアーサーが生まれてきた。…仲良くなったらすぐ出来ちゃって、私もアゼルもびっくりしたけどね。
 でもアーサーも、大きくなったら、きっと素敵な恋して、誰かと結ばれるのかな、それで子供が出来たら、今度は私がおばあちゃんだねって。
 そう考えると、すごく大きい流れの中に、私たちっていると思わない?」
「…そう、ね」
「トード様にもお父様とお母様がいらして、トード様がお子様を残してくれたから、今、私がいる。そして、私やアーサーがはじまりになって、まだまだずうっと、続いてゆく。
 流れはすごく大きくて、その全部は私には分からない。でも、私達一人ひとりは、その一部分で、誰も大切な一部分なのよ」
ティルテュの話が大きすぎて、私は何を返していいかわからなかった。ただ分かるのは、ティルテュは、道化にもみえる人懐こさの中に、人知れない深い聡明な心を持っているということ。
「ねぇ」
そのティルテュが、私の前に回りこんで、金色の瞳を輝かせた。
「本当は、嬉しいんでしょ」
「何が」
「その子よ」
そういって、ティルテュは私のお腹を指差す。でも私はぽかんとして、それに答えられなかった。周りに心配されるのが怖かった。迷惑になるから隠さないと、と、それをまず考えていた。
「まだなら、今からでも言ってあげようよ、『お母様は、君が来てくれて、とっても嬉しいんだよ』って。
 あの人に、似てるといいね。
 アゼルも言ってたよ、帰ってくるんなら、またチェスがしたいって」

 夜の見回りを、全部兵士に任せて、私は一人天幕の中にいた。暖かくするための夜具も火も十分すぎるほどあったけど、まだ、シレジアには、私が想像しているような春は来なくて、夜の隙間風は冷え切っている。
 私は、嬉しいのだろうか。
 馬にも乗せてくれない、食事もさせてくれない。私の中で、この子は、懸命に自己主張している。でもその自己主張は、私の意志の反対側にある。ティルテュが思うような境地に至るのは、まだまだ先になりそうだ。
 私は夜具に突っ伏した。お姉様のことを思い出していた。
 アレスを身ごもられたのを兄に知らせるお姉様は、はにかみながら、それでもとても嬉しそうだった。お腹が目立ち始めたといっては喜び、動くのが分かるようになったと言っては喜んでいらした。ご懐妊の最初、何も食べられなくてつらかったこと、アレスを産むのも難儀されたこと、それすらも、お姉様は思い出話のように笑ってお話くださった。
「次は、あなたによく似た、可愛いお姫様がほしいわ」
そんなことを私に言って、兄が照れ隠しに咳払いした、そんなことも、数年前のはずなのに、急に遠い話に思える。
 それなのに私は、いざ今誰かの子供を身ごもる立場になって、何でこんなに打ちひしがれているのだろう。やましいことなんて、全然ないのに。ただ、あの人が、今の私を知らないというだけなのに。
「ねえ」
私は、自分の体の中に問いかけていた。
「もしかしてあなたは、あなたのお父様に会いたいの?」
返答なんてあるはずもないし、独り言を呟くような姿は、我ながら奇妙だ。
 あの人、無事レンスターについたかしら。デュークナイトの叙勲を受けなおして、自分の領地に戻って…私が何の引け目もなく、あの人のところに行けるときが来るように、あの人はあの人で我武者羅に、レンスター王宮の中を泳いでいるに違いない。
「お父様に、会いたいねぇ…」
あと一日、半日でも、私が気がつくのが早かったら。でも、彼にそれを告げたとして、私達に何が出来ただろう。切ろうとしても切れない縁ができてしまって、彼の帰国の逡巡に、追い討ちをかけることしか、出来なかったかもしれない。
「…会いたい…」
言いながら、涙が落ちた。
 ごめんなさい。今のお母様は、お父様のことばかり思い出してしまうの。

 前線にあわせて、後衛も移動する。今後衛になっているのは、もとからそこにあった集落一つ丸ごとだ。
 苦境にあっても、報恩を忘れない人たちとして、私達は快く迎えられていた。でも、シレジアにより近い場所に移されたこの場所は、シレジアに何かあった際に、前線が移動することになっても、後衛として使える場所になっている。
 私の調子は悪いままだ。矢傷でごまかすことはもうできない。あてられた宿の部屋から出ることも少ない私だったけど、天馬騎士たちは、それだけ彼を忘れかねて、それで人事不省になってしまっているのだろうと、同情もこめた気持ちで接してくれる。
 聞けば、フュリーのかわりに、槍の教練に出てくれたこともたびたびだったらしい。知らないところで人気者で、それに自覚がないのは、あの人のいいところやらどうなのやら。
 そういうわけだから、天馬騎士たちは、前線への定期連絡を、私が何も言わないでもしてくれる。私がこんな状態である以外は至って平穏なのだから。
 でも、私の様子を伺いに来てくれたのか、後衛を訪れてくれたアイラは出迎えた私を見るなり、
「これで後衛異状なし、だと、伝令の耳目は節穴か!」
と声を上げた。私を部屋に戻し、寝台に寝かせ、何が起こっているのか、全然分かっていなさそうなシャナンに、
「下に厨房があるはずだ、すぐ食べられるものを運ばせなさい、それから、ご主人か、女将を」
と一気に言い、ぽかんとした私の前に、椅子を引き寄せ、座った。
「将の自己管理も戦のうちだ。そんな状態で、さっきはよく立って出迎えられたな」
「どうして」
と言う私に、アイラは部屋にかけてあった鏡をはずして私に渡す。鏡の中の私は、真っ白な顔で顎が細くて、
「これ、本当に私?」
とつい言ってしまうほどだった。
「鏡は嘘を言わない」
アイラは鏡を預かりながら言う。
「…そんな様子で、順調なのか」
「…たぶん」
「心配だな」
アイラが布団の中に腕を差し入れ、私のお腹を探る。
「冷えてはいないな。確かに大丈夫そうだが、出血などないか?」
「そういうのは、ないわ」
「ならいいのだが」
「でしょう?」
私の笑いは、我ながら、引きつっている感じがした。アイラは私の顔をじっと見て
「無理はしないでほしい。無理が過ぎると、母体は自分の命を優先させようとするから」
と言った。
「実はここに来たのも、デューにちょっとした使いを頼んでいて、その品物を受け取るだけだったのだが、もう少しいたほうがよさそうだな」
「いいの? 前線は」
私もつい声が出る。
「命のやり取りをしあうような、そういう相手とも少し違うようだからな。
 戦力の低下は、みんな分かっている。だから、その分を補うように戦っている。それが出来なくて、騎士軍人が務まるものかね」
アイラがそうやって、薄い笑みを浮かべたとき、扉の向こうでシャナンが
「アイラ、あけてよぅ。それから、宿のおかみさんが、アイラと話したいって」
 アイラが、宿の女将と話をしている間、私はシャナンがもってきてくれた食事を、少しでも食べようとした。私がスプーンを口に運ぼうとしているのを、シャナンはしげしげと眺めている。アイラがそれに気がついたのか、話を途中でやめた。
「シャナン、どこか別の方向を向いていなさい。やんごとない女性の食事する姿など、まじまじと見るものではない」
シャナンは「はぁい」とつまらなそうな声を上げて、窓の外を見る。私は、スプーンを口にふくもうとして、やっぱり、それをお皿に戻した。女将はいなくなっていて、アイラが
「食べられないか」
と聞いた。私は素直にうなずく。食事のにおいに反応した胃の腑が、何かを押し上げるようにうごめくのが分かる。でもあいにく、私の体の中は空っぽなのだ。
「シャナン、お腹がすいていそうだから、あげて。もったいないから」
「本当にそれで大丈夫なのか? 何なら食べられる? 何が食べたい?」
アイラが珍しく深刻に、私に乗り上げるような勢いで言ってくる。でも私は
「今は、何も」
と言うことしかできなかった。水をやっと含むぐらいしかできない私の体の中で、この子は、文字通り、私の身を削って生きながらえている。
「困った、デューの荷物が早く着かないものか」
アイラが額を押さえる。
「みんな、そうやって心配してくれるの。女将さんは、私が何も言わなくても、子供がいることを分かってくれて、どうしたら私が食べられるか、心配して、工夫してくれて…」
「それはさっき聞いた。でも、駄目だったんだな」
私はうなずく。
「重症だな… もうつわりなんて、終わっててもいいころなのに。まれに長引く人がいるとは聞いていたけれど、まさか君がそのクチなんて」
「お母様もそうだったって、ばあやがよく思い出話をしてくれたから、そこが似たのかも」
「厄介なところが似てしまったな」
アイラは苦笑いのしようもなさそうだった。
「女将さんはね、どんなにつらくても、一時だからって、すぐ治るって言ってくれるけど、私にはそのいつがわからなくて…」
ぽつりと、涙がおちた。
「ああ、泣かないで…今は一滴の水分だって無駄に出来ないのに」
それを袖でぬぐってくれるアイラに、
「ねぇ、アイラ」
私は尋ねていた。
「アイラは嬉しかった? 双子がいるって分かったとき」
藪から棒の質問だったのかもしれない。アイラはしばらく考えていた。シャナンが話を聞きたそうにしているのを見て、
「シャナン、食器を返してきなさい」
と言って、部屋をさらせた。それから
「君と大体同じかな…余計な心配をしてもらいたくなくて、隠していた」
と言った。
「あと、怖かった。レックスがもし、国許に誰かを残していたとしたら、私達は邪魔者になるかもしれないと。
 取り越し苦労でよかったと思っている」
「そうなの」
私は、ぼんやりとした頭で答えた。
「安心してやっと、不思議な気持ちになっているのに気がついた。
 口では上手く表現できない…心が母になってゆく神秘、とでもいおうか」
「私にも、来る? そういうときが」
「来る。だから、何とかしようと思って、ここに来た」
アイラは自信ありそうに答えた。

 見る夢は、セイレーンでの楽しい時間のことばかり。でも目を覚ますと、真っ暗で、夜明けにもなっていなかったりする。
 真っ暗な部屋の中で、声を殺して泣いた。何でこんなに涙が出るのかわからない。会えない人じゃないのに、もう会えないんじゃないか、そんな不安ばかり押し寄せてくる。
 ちがう。会える人だから、泣くことしか出来ない。セイレーンの夢の中で、終わらせられないのに、会える手段がないのがもどかしい。
 天馬が一頭、私の部屋に迷い込んでこないかしら、そうしたら、私はそれに乗って、何があってもあの人に会いに行くのに。
 涙が収まって、ぼんやりと、窓を見た。夜明けが近そうな気配がした。私はぬるりと寝台を抜け、カーテンを閉めた。あの青を見たら、たぶんまた、泣いてしまう。


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