デューからの荷物が届いたらしい。アイラが箱を抱えて部屋に入ってくる。彼女が運んでくる少しの果物と、それを流し込む少しの水。それが、すんでのところで、私の意識をたもっていた。
「それがデューの荷物?」
と尋ねるとアイラは「そう」と答え、
「君のためになるかもしれないものが、入っている」
と言った。でも、興味はわかなかった。アイラが私に近づいて
「また痩せたかな…つらいだろう」
と言う。
「アイラ」
「何?」
ぼんやりとした頭で、私はこんなことを尋ねていた。
「双子が出来たとき、怖かったって、言っていたわよね」
「…ああ」
「双子がいなければって、思った? 何もなかったように、消えてくれればって」
「え?」
アイラの顔は、虚をつかれたような顔をした。
「私、こんなみんなに心配させて、迷惑かけて…それがみんなこの子のせいだと思うと…つらくて仕方ないの…
このままでいれば、私の命が優先されるのよね?」
そういう側から、涙が出てきた。涙で視界がゆがむ前に、アイラの眉を吊り上げた顔が迫ってくるのが見えた。
「馬鹿っ」
ぴしっ、と、頬に衝撃が走る。でも私は、それも心配のうちだと思うと、涙を止めることなんてできなかった。泣き崩れる私の上で、アイラの声が高くなる。
「いきなり母の自覚を持てと、私はそんなことは言わない。でも、そこにいる子供だけは、絶対に否定するな。
そんな思いをするなら、最初から誰も近づけずにいればよかったんだ」
がたん、と、ぶっきらぼうに、アイラが椅子に座る物音がする。布団の中に閉じ込めようとしても、もれてしまう私の号泣だけが嫌に耳の中に響いた。
「何だ何だ、随分な修羅場だなおい」
と、ベオウルフの声がした。顔を上げると、彼は今つきました、と言う風情で、外套もはずしていない。アイラがため息交じりで言った。
「すまない、なりゆきで、…手をあげてしまって」
「姐さんらしくないねぇ」
後ろ頭に手をやりながら、ベオウルフは私のほうを見やった。
「姫さん、どうよ」
大丈夫、と言おうとした私をさえぎるように
「見たとおりだ」
アイラは言って立ち上がった。
「ああ、こんなやつれちまって…」
と、彼は私の顔を見る。前なら、戯れに指で頬をつついてくれたりしたけれど、あの人とのことがわかってから、この人は、そんなことを全然しなくなった。
「一人でがんばりすぎなんだ。心をいつまでも張り詰めた状態にしておくと、いつかは破れる。ちょうどその状態で」
「そうか…かわいそうになぁ、姫さん。大変な置き土産を抱えたもんだぜ」
「全くだ。
そこでだ、しばらく、この姫のところにいてあげられないものだろうか」
「俺がか?」
「他に誰がいる。泉下の兄上を口寄せするか? それとも、レンスターに無理を言うか?」
そういいながら、アイラが私に、湯気の立つマグを握らせた。レモンのような香りがしたけれど、それとは少し違う気がした。でも、この香りは、私の胃の腑を不思議と落ち着ける。快い甘みと酸味が、すうっと温かく、のどを落ちていった。
「おいしい」
と呟くと、アイラは
「よかった。デューも、だいぶ手間がかかったらしいが、何とか見つけてきてくれて助かった。だが、今の君には、これ以上のものはないだろう」
イザークには、秋から冬にかけて実る、オレンジのような実があるそうだ。そのままでは酸味ばかりで食べられないが、刻んで蜜につけておいたものを、蜜と一緒にお湯で薄めると、体を温める、冬にちょうどいい飲み物になるらしい。
「君の口に合うならば、しばらく試してほしい。私達は、君にも、その子にも、万一のことがあってほしくないのだ」
アイラは少し笑ったような顔をして、ベオウルフといろいろ話を始める。最初は、私もそれに耳を傾けていたけれど、いつの間にか、眠ってしまっていた。
起きると、アイラはもう、出発の準備をしていた。
「戻るのね」
「ああ。あれが飲めればじきに普通の食事も取れるようになるだろう。本当ならもう少しいたいのだが、前線に、双子より手間がかかるのを一人、置きっぱなしにしているのでね」
「ま」
と声が出てしまったのを、
「ほら、笑えた」
とアイラが言って、目を細めた。
「だが、無理は禁物だ。動いていいかどうかは、この宿の女将が判断してくれるだろう。動けるようになったら、前線からの指示を仰いで、言われたところで安全にしていてほしい」
「わかったわ」
せめて戸口まで送ろうかと、立ち上がろうとした私の手に、かさりと当たるものがあった。
「あら」
「ああ、それを忘れていた。
ラーナ王后からのお祝いだ、君が眠っている間に届けられた」
「お祝い?」
「返事が必要かもしれないから、すぐ開けたほうがいい」
アイラは目を細める。ラーナ様お手ずからのご筆跡は
<フュリーからことの次第を聞き、すぐしかるべく使者を出させました。いまさらあれこれと、余計なことは申し上げません、返って来たお手紙をそのまま、貴女にお渡しいたします。
シレジアの予断許さぬ事態に、ご懐妊の体を押して助けの手を差し伸べてくださった、徳高きマスターナイト様に敬意を表して>
とあり、封筒には、もう一つ、封筒が入っている。
封蝋に、開けられた気配はない。でも、その封蝋を撫でて、おされた紋章の形を確認するなり、私は物も言わず、その封を開けて、食い入るように中身を見た。
でも、最後まで読めなかった。涙が落ちて、読もうとする先の筆跡が滲んでしまう。手紙をわきにのけて、涙を止めるほうが先だった。
「もう、大丈夫だね?」
アイラがもう一度、確認するように言った。私は、声を出せない代わりに、大きくうなずいた。そこに
「姐さん、準備できたぜ」
ベオウルフが扉から顔だけ出す。
「あれあれ、姫さんまた雨模様か」
「いや、通り雨だ、じきに晴れる。
ラーナ王后もやはりレヴィンの母上だな、勘所をおさえた、粋なことをなさる」
「なぁるほど」
ベオウルフは、納得した声をあげて、アイラをつれて、前線に戻っていった。
<…ラーナ様より直々にご親書をいただきました。こちらでの生活に取り紛れて、ご挨拶を先延ばしにしていた私の不調法をいささかも責められることもなく、親となる私を祝福下さいました。
この度の御懐妊、王女には無上の慶事ではありながら、私のことと考えると面映くもあります。主君の言うことには、そうとわかっていれば、私をその場に残してもしかるべきだったとのことですが、どちらも大事な私は、シレジアとレンスター、二つの土地に一つずつ、からだが欲しいところです。
私は、よんどころなくして、今すぐにそちらにうかがうことは出来ません。ですが、これもエッダの神が下した試練と思い、その試練を乗り越えたときの祝福を期待したいと思っています。
どうか、御身を大切に為さって、よい御出産をお迎えされますように。きっとお兄上とお母上様がお守り下さいましょう。私も僭越ながら、遠い空の下より、無事をお祈りいたします
追伸:エスリン様がこの手紙を御覧になって、なにもできないならばせめて子供に名前を贈るがよいだろうとおっしゃられました。男児であれば「デルムッド」とお名付けいただければ幸いです。私の家で代々使われてきた名で、古の名騎士にあやかった佳名と、手前勝手に存じております…>
彼の手紙には、甘い言葉はひとつもない。でも、彼は一体どんな顔でこの手紙を書いたのだろう。それを考えると、私は、人知れず笑いが出てきそうになるのを止められなかった。
「女の子だったら、どうしようかしらね」
そう呟いた。手紙は大切にしまい、封を直して、枕の下にそっと差し込んだ。
アイラがおいていってくれた、数個の小さい壷に入っていたイザークのオレンジ(本当の名前を知らないので私はそう呼んでいた)の蜜は、少しずつ、私の新しい体を作り、すべての壷が空になるころには、ほとんど普通と変わらない食事を取れるほどになっていた。
痩せてしまったせいだろうか。なんとなく、お腹が目立つような気がする。でも、もう悲しくなかった。この子が無事でいてくれたことが嬉しかった。
「きっと二人で、お父様に会いに行きましょうね」
私はそういって、その小さな命を撫でた。
私に知らされていないところで、戦況はめまぐるしく変わっていた。トーヴェを落ち着けたのを見計らっていたかのように、ザクソン伯はシレジアに野心を燃やす。無用な争いをもとより好まないラーナ様は、何かのご覚悟があってか、シレジアの城を明け渡されたそうだ。
私は、セイレーンに戻された。ばあやが出迎えてくれる。
「ばあや」
と飛びつく私を
「姫様、そんなお転婆をなさったら、お腹のお子様がびっくりなさいますよ」
ばあやは嬉しそうにいいとがめる。
「よくお帰りくださいました。シレジアの天馬騎士様が姫様のことを教えてくださって、いつお帰りになるかとばあやは心配しておりましたよ」
「ごめんなさい、ばあやに心配をかけさせたくなかったの」
私はそういった。そして、言うべきときが来たと思った。
「ねえばあや」
「はいはい」
「ばあやは、私に、いろんなことを教えてくれたわよね。
お母様と一緒にノディオンまできてくれて、初めてオトナになった日も、お母様と一緒に喜んでくれたわよね」
「そんなこともございましたねぇ」
「あの人のことも、喜んでくれたわよね。ばあや…私の体に無理がないように、一所懸命考えてくれて」
「そうですよ、大切な姫様ですもの」
「あのね、ばあや」
「はい」
「今の私、もう子供でもないし、ただのオトナでもないの。不思議でしょう?」
「何の不思議があるものですか、ばあやはお嬢様のお産で姫様をおとりあげしたのですよ、姫様のお子様も私が」
ばあやのその期待を、否定することは、少し言いにくい。
「でもね、ばあや、私がこれから行く道は、今までにないほど厳しいの。ばあやには、もう無理かもしれないわ」
「それでもよいからと、あの騎士様を好かれたのでしょう」
「そうなの。そうなんだけど。私、お母様になるんですもの、そろそろばあやから卒業かな…って」
ばあやは、しばらく私をあっけに取られた顔で見て、ふう、とため息をついた。
「いつかそんなことを、仰る日があるのではないかと思っていましたよ」
「ごめんなさい、ばあや」
「なんのなんの。姫様はもう私が助けて差し上げなくても立派な方になりました。お嬢様はこの姿をごらんになれないのが、それが悔しゅうございます」
ばあやはそういって、目頭を押さえた。
「ばあや、まだ、オーガヒルの海が安全なうちに、マディノの街に戻って。おじい様に、私のこと伝えて。『ひいおじい様になりますよ』って」
「ええ、ええ、わかりましたとも」
ばあやは、私を何度も何度も振り返りながら、セイレーンの街を、兵士に守られながら歩いていった。
そうこうしているうちに、シレジアの城は無事奪還された。ラーナ様は再びお城に戻られて、さすがのレヴィンも観念したのか、シレジアの宝・風の魔法フォルセティを受け継いだ。
そして、私は、ラーナ様の元に伺っていた。
でも、シレジアのお城がラーナ様のお手に帰るまでには、とても悲しいことがあって、
「あのように才気にあふれた美しい子を、なぜ天は私より先に召し上げてしまわれたのでしょう」
ラーナ様は、シレジア奪還戦でなくしたフュリーのお姉様・マーニャ卿のことをしのばれて、ほろほろと涙された。
「レヴィンはフォルセティをついでくれたけれども、あの子と、フュリーとで支えてあげることが出来れば、私もより安心できたものを」
神器を継いだことは、即位と同じことになる。レヴィンは、伴侶にフュリーを選んだ。でも話では、マーニャ卿が存命なら、彼女がその椅子にすわったんじゃないかしらと。でも、私にそんな詮索を楽しむ悪趣味はない。
マーニャ卿を、ほとんど見たことはないけれども、フュリーとは違う、自分にも他人にもとても厳しい人で、シレジアでもまれにしか見ない霊獣ファルコンを駆っていたという。
ファルコンナイトは、有能な天馬騎士に授けられる名誉称号だと聞いていたけれど、マーニャ卿に限れば、名実ともにファルコンナイトだったのだ。それが、たった一本の矢で失われたなんて。
レヴィンとフュリーの、結婚式ともつかないお披露目が、私がこうしてラーナ様にお目にかかる前に執り行われた。でも、二人の表情はあまり浮かなく見えた。親しかったマーニャ卿を失った悲しみからなのか、それとも、二人の双肩にかかってくるシレジアにも波及してきた波乱を思いやってのことか、私はうかがい知ることは出来なかった。
「ラーナ様、そんなにお嘆きにならないでくださいまし」
心なしか、気配の小さくなられたラーナ様に、私はそう声をかけた。
「内乱は、収まりつつあるのですよ。だから」
でも、上手く言葉にならなかった。戦線にいなかった私には慰めの言葉がないのだ。でも、シレジアの内乱にも、何かの暗い影が付きまとっている気配がしてならなかった。
とにかく。ラーナ様は目頭をおさえられ、
「そうですね」
と仰る。
「後は、シレジアが落ち着いて、私がおばあさまになれるようお祈りしないと」
そして、私を見やられた。
「先だっては、出すぎたことをしたとは思いましたが、フュリーからあなたのご様態を聞くほどに、我慢が出来なくなって」
「とんでもありません」
私は、顔があげづらくなった。
「私のようなもののために、過分のお計らいを頂きまして…
お礼が今になって、申し訳ありません、ありがとうございます」
そうなのだ、私は、ラーナ様のお計らいで届いた手紙のことでお礼が言いたかったのだった。でも、ラーナ様は
「いえいえ、いつぞやのご迷惑のことを思えば」
と先ほどの涙をすっかり隠して、
「これほどのことはどうと言うこともありません。もともと、レンスターにはしばしば戦局をおしらせに天馬を飛ばしておりましたから」
とほんのりと笑顔で仰る。
「何か急なことがございましたら、遠慮なく仰って」
お気持ちの切り替えが上手な方なのだ。私の姿を上から下までご覧になって
「かわいらしくおなりだこと」
と仰る。お腹を邪魔しないよう、胸高に作られたドレスは、今の私を隠しようもなく包んでいる。ラーナ様は私の隣に腰をかけられて、
「動かれますか」
と仰った。
「いえ、まだ」
「そう。
じきに、びっくりするほど動きますわよ」
ラーナ様は、昔のことを思い出されたのか、くすりとお笑いになり、
「もったいないこと、こんなかわいらしいお姿を見せることが出来ないなんて」
と仰った。
「でも、あちらはあちらで、あなたを無事に…いえ、堂々とお迎えできるようにご精進の最中でしょう」
「はい、いただいた手紙で、それは」
「あなたはあなたで、今とても大切なお仕事の真っ最中なのですから、気負わなくてよろしいのですよ」
ラーナ様はふと神妙な顔におなりになる。
「お産は女の戦、と昔言った方もおりますの。最後の最後までなんともなくておられたのに、いざお産となって、それがもとでなくなってしまうことも、悲しいことですが、ない話ではありません。
無事お身二つになられますように。お子様の元気なお顔を見せて差し上げないとね」
「はい」
「それにしても、一人しか生まない私がしても、全然説得力のない話でしたわね」
「ま」
ラーナがすこしおどけて仰るので、私はつい笑ってしまった。
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