アイラの部屋を出てから、ちょうど正反対になる自分の部屋に戻るまでの間に、私の舞い上がった頭はだんだん落ち着いてきて、それから、また恥ずかしさで燃えたように熱くなっていた。
まったくあの人は、何を考えてそんなことをしたのかしら。
よりによってキュアンさまに報告なんて、それに、エスリン様のことだから、そのうち主だった方にはこのことが広まってしまう。
それにあの人のことだから、きっと今夜も来るかもしれない。二晩も続けてなんてことが知れたら、一晩も間を置けないはしたない人に思われないかしら。
かわいそうだけどちゃんと理由を話して、今夜来たとしたら帰ってもらおう、私はそんなことを考えていた。
そうしたら、運の悪いことに、私の方で都合が悪くなって…どうして都合が悪くなったかは、どうかお察しくださいませね…それが結果的に、「主君に律儀な報告をしたために気を悪くされてしばらく締め出しを食らった」という、彼の失敗談のひとつになってしまったらしい。
そうして私が安定を取り戻したころから、マスターナイトの教練が再開される。すべての武器と魔法を、馬上で操作するというのは、思ったより体力が必要だ。でも、続けていくうちに、上手く均衡を取れるようになる。そのかわり、私の脚はいかつく筋張ってきて、あまり、魅力的ではなくなってしまったけれど。
私が、一息ついていると、彼が、サブリナを引いてくる。手には、教練用の槍が二本。
「こちらにおいでになってからは、とんとこちらはなさってなかったですね」
「槍?」
「腕が落ちていないか、確かめますよ」
「あら、ずいぶんと乗り気だこと」
私は槍を一本受け取り、自分の馬に乗った。
私の槍は、この人からの直伝のようなものだ。私の槍さばきは、すぐに向こうに悟られて、回避されたり、受けられたりしてしまう。力押しにはぜんぜんかなわなくて、
「あ」
私は馬から落ちかける。彼はその私を、槍を投げ出して受け止め、そのまま、サブリナに乗る自分の膝の上に乗せた。
「ひどいわよ。あんなにぐいぐい押したら、私絶対負けるに決まってるじゃない」
「それは申し訳ありませんでした。ですが、お手合わせいただいた甲斐はありました。槍に限れば、もう私が教えて差し上げることは何もありません」
「そう?」
と見上げると、彼は目を細めて「はい」といった。
「もし、本気で私から一本取りたいのであれば、わが主君を、これからは師と仰がれるがよろしいでしょう」
そういって、彼は私の手を取った。手のひらの上で、彼の指が簡単な図形を描く。
合図だ。私はどき、として彼の顔を見た。二人のどちらかが、夜逢いたいときに、周りに知られずにその意志を示す合図を決めていたけど、彼が使ってくるのは、はじめてだ。
「いかがですか」
口頭で軽く尋ねられて、私は合図された手をぎゅ、と握り締め、うなずいた。
シレジアの春は、遅く来て、そのまま秋まで一気に駆け抜ける。
その春に、私はとうとう、マスターナイトのご推挙を、シレジアのラーナ様から受けられた。
クロード神父にお出しするご推挙の書類ににそえられた推薦の書面は、それはそうそうたるものだ。
私から剣を学び取り、代わりに魔法を教えてくれたアゼル。
この間、アイラから双子がうまれて、戸惑いながらも嬉しそうだったレックス。
普段はほとんど目立たないけれど、真剣に丁寧に、馬上での弓の使い方を教えてくれたミデェール。みんな、私より一足先に、上級騎士になった人ばかり。
もちろん、筆頭にはシグルド様とキュアン様が、その書類にいっそうの花を添えてくださって、あの人の署名は、一番下に、他の名前より少し小さく書いてある。
「貴女の叙勲を私の手で出来ることは、シレジアの遅い春にいっそうの興を乗せることになるでしょうね」
クロード様が仰る。となりで貼り付くようにしていたシルヴィアが、
「神父様、これなぁに?」
と興味深そうに覗いてきた。クロード様は、シルヴィアを、生き別れた妹姫様のかわりと思し召しのようで、この頃とみにお可愛がりらしい。
「この方がマスターナイトになられるのですよ。私はその儀式をお手伝いすることになりました」
「マスターナイトってすごい?」
「すごいですよ。すべての武器魔法を一通り修めて、なおかつ推薦するべき徳がないといけません」
「そのお式、私も見られる?」
「あいにくですが、それは無理です。騎士叙勲の儀式に参加できるのは、騎士の資格をもつものだけですから」
「じゃあ、私今からでも騎士になろうかな」
二人の掛け合いに、私は、兄の下で政治の勉強を始めたころのことを思い出す。あのころは、本当に何も知らなくて、ただ兄の役に立ちたくて、がむしゃらだった。
「ごめんなさい、シルヴィ。でも、セイレーンでもお披露目をしてくださるらしいから、そのときに、ね」
「うん。じゃあ、姫様のために、とっておきの踊りみせちゃおうかな」
「ありがとう、楽しみにしてる」
泉下の兄のためにとおもってなろうと思い立ったマスターナイトなのに、今は、それを途中で投げなかった自分にただ、驚いている。前だったら、絶対に、途中であきらめていた。
やっぱり、あの人がいてくれたからかしら。あきらめそうになる前に、あの青い目で、
「大丈夫ですよ、貴女なら」
と言われてしまうと、やっぱりその目が見たくて、がんばってしまう。礼拝堂での潔斎のはずなのに、私はそんなことを思っていた。ごめんなさい神様。
器の私が、まだ自分の中から完全に抜け出たわけじゃない。その私は、私の中の、奥深くに閉じ込めた。
これからの私は、マスターナイトの私。あの人のことで一杯な、おかしいぐらいかわいらしい私。
扉の向こうに気配がある。あの人、私と一緒に徹夜するつもりかしら。
マスターナイトになったと言っても、セイレーンの中の暮らしは退屈になりそうなほど静かで、誰と誰が結ばれたとか、誰がお子様をもうけられたとか、そんな話がもっぱら、私の耳には入ってくる。
そういう人たちを、私はとやかく言う立場にはない。だって、私もその話題の渦中の一つにあるんだもの。もっとも、私については、誰かすでにいるらしいけど、その誰かって誰だ? みたいな話で、あれこれと憶測が飛ぶのを見ているほうが楽しい。
マディノからはるばるきてくれたばあやは、彼とのことをとても喜んでくれた。でも、
「お忘れにならないでくださいましよ、姫様のことを一から十まで存じ上げているのは、このばあやなのですからね」
と、意味深なことを言う。
あるとき、体調のことを簡単に聞かれ、答えると、ばあやは指折りをして、
「今夜あたりから、二三日ご遠慮願ってくださいましね」
と言う。彼から珍しく「合図」をもらった日だったものだから、私は
「どうして?」
と声を上げた。ばあやは真面目な顔で
「お体に毒だからです」
と言う。ただでさえ毎日逢うことはないのに、折角彼から私を求めてくれているのに、それがだめなんて、なおさらに納得が行かない。でもばあやは私に何も言わせない勢いだった。
「部屋のものにそう申し上げておきますから、よろしいですね」
「わかりました。ならば、そのままで朝までおりましょう」
彼は以外にあっさりと言う。期待してきてくれたはずなのに、寸前になって断らなくちゃいけないだなんて、ばあやの心積もりが分からない。
唇を寄せたり、少しだけ肌を触れ合わせたり、そんなことをするけれど、肝心なことは何も出来ない。それに、理由もなくダメなんていわれると、なおさらそれを無視したい気持ちになる。でも彼は
「王女のおために判断されたことなのですから」
と言う。でも、青い目はなんとなく血走っていて、体も熱くて、堪えているのが一目で分かる。
そのうち思い立ったかのように、彼は立ち上がって、身支度を始めてしまう。
「帰るの?」
「彼女の信用を失いたくないですから」
「私よりばあやが大切なの?」
「彼女の信用を失ったら、私は金輪際ここにこられなくなります。
よい夢を」
彼は最後に、まるで子供が眠る前にするような、額への口付けだけして、こっそりと、帰っていった。
「もう、ばあやのバカっ」
二度目の冬が来て、年も改まった。
私達に、エッダの神様はなかなか微笑んでくださらない。お子様を挟んで楽しそうになさっている方達の姿を見ていると、口には出さないけど、うらやましいな、とおもう。
ここに着てから生まれたお子様達を、私は指折り数えてみた。
私がマスターナイトになる直前に生まれたのは、アイラ譲りの黒髪がかわいらしい双子。
収穫祭のころ、まさかと思っていたブリギッド様が、アイラの親戚筋らしいホリンとの間で男の子をあげられて、ティルテュは案の定と言うか、大の仲良しだったアゼルとひっそり結ばれて、おめでたがわかってから結婚式なんて騒ぎもあった。
何よりびっくりしたのは、昨晩、シルヴィアが女の子を産んだということ。神父様のおかわかいがりようは、そういうことだったのね。
それなのに、どうしてなんだろう。おいていかれている気がして、私がふう、とため息をついたとき、後ろで
「なにたそがれてるの?」
と声がした。振り返ると、ティルテュが、アゼルにそれとなく支えられながら立っている。
「起きていいの?」
「うん、もう大丈夫って、お医者様が。
今からシルヴィのところいこうかなって、二人ではなしてたところなんだ。
よかったら、一緒にどう?」
誘われたというよりは、ほとんどひっぱられるようにして、私は神父様のお部屋にいた。寝台の中で、シルヴィアが
「嬉しいな、みんなお祝いしてくれる」
と嬉しそうにしていた。隣のゆりかごで眠っている女の子は、生まれたばかりの子供になれていない私でも、将来は絶対にシルヴィアに似るだろうなと思わせた。
「神父様は、今どちらに?」
とアゼルが聞くと、シルヴィアは途端に眉根を寄せて
「それが聞いてよ、女の子が生まれたって分かった途端、礼拝所に飛び込んで、それっきり」
「あら」
「名前考えてきますって、もう一日も」
「すごいなぁ、神父様がそんなことなさるなんて。
アーサーが女の子だったら、僕も同じことしたかな」
「さあ、どうでしょうね」
ティルテュはなんだか曖昧な返事をした。
「でも、考えてくださった分、いい名前をつけてくださるんじゃないかしら」
「そうだといいね」
「実は、家を出る前、お兄様に女の子が生まれて…それがもう、いかにもトールハンマーを預かるために生まれてきましたっていう感じの女の子。
神父様、その子にすごくいい名前を付けてくださったの。だから、待っててあげたらいいんじゃない?」
「でもさ、『妻』としてはちょっと物足りないのよ。
名前付けるのも洗礼も後でいいからさ、一日そばにいて、『お疲れ様』の一言ぐらい、ほしいなぁって」
「シルヴィ、案外わがままね」
「だって、こんなに大事にされたの、神父様が初めてなんだもん…」
布団の端を弄ぶようにしながら、シルヴィアが頬を染めた。その姿は、まだ、何も知らない少女にも見える。そのシルヴィアが、急に、にんまりとした顔をした。
「さ、次はきっと、姫様の番だよ」
たぶん私が来るだろうとは思っていた、案の定そうきて、私はため息をつく。
「そうだと嬉しいんだけど」
「こればっかりは、授かり物だからね」
シルヴィアはそう言う。
「でもね、授かった瞬間って、私分かったよ。説明しろっていわれても、上手く言葉に出来ないけどね」
「わかるかしら」
「カンがよければ、もしかしたら、ね」
そう話している間、ティルテュが「ふああ」とあくびをした。
「大丈夫?」
「ちょうど私が眠ったころに、アーサーは起きるから…世話は乳母の人がしてくれるけど、ついつい一緒に起きちゃって」
「もう、もどろうか」
アゼルが言って、支えながらティルテュを立ち上がらせる。
「すぐ洗礼式があるかもだから、そのときは来てね」
シルヴィアは、にっこりと笑って手を振った。
「羨ましいなぁ」
と、つい声になった。
「どうかされましたか」
律儀に聞いてくる彼に、私も律儀に返答する。
「子供がいるのって」
隣の彼の気配が、固まった。
「ま、まだその時期ではないと、神が仰っているのではないですか」
「折を見て、よしとなったら、砦の聖人様と相談して授けてくださるかしら?」
「そうですよ」
逃げるような相槌に、私は彼の顔を回り込んで見る。
「嘘。そんな話を信じるほど、もうコドモなものですか」
「そう仰られても、授かり物ですから」
私は起き上がって、腕を組んだ。
「きっとばあやのせいだわ。なんで、あなたが来てはだめな日を調べているのか、私にはわかんない。
他の方々は、毎晩お二人なのに」
「ただお二人でお休みになっておられるだけで、毎晩、…その、営まれているわけではないと思いますが…」
「あなたも律儀すぎよ。私ももうマスターナイトになったのに、合図しないと本当に来てくれないんだもの」
「急ぐより、私は貴女のお体を大切にしたい」
彼も起き上がって、真顔で私を見る。
「王女のご都合の悪い日があるのはいたし方のないこと。私は耐えることにはなれていますから」
「でも」
「それに、お考えにもなってください。
シグルド様は、この状況の中、かたくなにお一人を守られてます」
「それは…」
シグルド様は、シレジアに移動されても、奥様の捜索に余念がない。消耗されるあの方を、ラーナ様はたびたびシレジアにお呼び寄せになって、後添えのことなどそれとなく仰っていらっしゃるようだけど、シグルド様はまだ、奥様を忘れかねていらっしゃる。
私が奥様をお見受けした時間は長い間ではなかったけれど、確かに、少しでも風が強く吹いたらなびき倒される小さな花のようなはかなげなご様子は、シグルド様にはこれ以上もなくいとおしい存在でいらしたのだ。
「でも、シグルド様は、シレジアにご迷惑がかからなければいいって」
「王女」
彼が、私の顎をついを指にかけて、自分のほうに引き寄せた。
「それほどに、私に我を見失ってほしいのですか」
「…」
青い目が真剣に、何かを訴えている。
「タガをはずせば、王女のご都合を考えずに、毎晩でも参りますよ。
ですが貴女は、そういう私をお望みですか?」
もっと打ち解けたい気持ちと、超えてはならない何かの壁の間でこの人は一人静かに自分と戦っている。私とこんな関係になったのを、決して自慢しないのも、野望や野心でこうなったのではないという、彼の自負から来ているのだ。
「わかったわ。あなたのしたいようにして」
「ありがとうございます」
言いながら、彼は、手元の明かりを消した。今夜は新月。また数日は、私の都合で彼に我慢をさせてしまう。真っ暗になった部屋に私はすくみあがって、彼の腕を捜して、それにすがりついた。でも、私はすぐに温かく抱きこめられて、唇と指が、私の琴線を優しくなで上げる。
「あ」
声を上げることにも、抵抗がなくなっていた。そのうち私は、彼の腕の下で、見も世もなく取り乱して、「ご満足」してしまうのだわ。
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