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 でもその夜だけは、何かが違った。
 私は、恐ろしい夢の中にいた。
 突然、ノディオンに召喚されて、そこには、三つ子の騎士や廷臣たちが、私を、鬼気はらんだ表情でねめつけている。逃げようとした私を追い続け…もう走れない、地面にのめった私にたくさんの手が伸びかかってきて…
 ものすごい息苦しさで目を覚ました。起き上がろうと思ったけど、体が動かない。
 体が震えてきた。涙が止まらない。私の普通じゃない雰囲気に、さすがにメイドは気がついたらしい。
「いかがなさいました?」
と尋ねられた。近づきそうな雰囲気だったが、私はそれを止めた。メイドは、
「しばらく、ご辛抱ください、いつもの方を、すぐ呼んで参りますから」

 明かりが一つ増えて、まだ見慣れない部屋の壁が、ぼんやりと映えた。
「御用ですか?」
と尋ねる声に、私は、夢のことを正直に話した。
「怖い…夢、見たの」
「怖い夢、ですか」
「私がノディオンに帰ると、みんなが私を責めるの。
 何でお兄様を見殺しにするようなことをしたのかって。
 どうして生きてつれて帰れなかったんだって。
 謝罪なんかいらない、生きたお兄様をここにつれて来い…って」
話をしながら、その夢の中身が思い起こされて、震える私を、彼は抱きしめてくれる。
「シルベールで何も出来なかった自分が、すごく惨めで… 夢でいわれたとおりよ。何でお兄様を無理をしてでもつれて帰れなかったのって…そういうこと考えたら…涙止まらなくて…」
彼は、私を、子供を抱きかかえるようにして、広い胸板に体を預けさせてくれる。
「お兄様…最後まで…戦い続けるしかないって…」
「はい」
「それを…何時間も説得して…停戦を言い出してくれて…」
「はい」
「それがシャガールの意志に沿わなくて…処断されるって…わかってたのに…」
「はい」
「私も一緒に停戦を奏上したいって言ったら…だめだ…って…」
「はい」
「私それ以上…お兄様に何もいえなかった…」
「…」
「お兄様は…最後まで…アグストリアの騎士だった…」
「…」
「シャガールの気まぐれに弄ばれて…死んでいってしまった…」
「…」
言葉少ない返事が、最後にはなくなっていて、彼はただ、私の髪を撫でている。私は顔を上げた。
「お願い、あなたはお兄様のようにはならないで。
 私を残して、死んだりしないで。どこにもいかないで」
そう言ってしまった私の耳元に、冷静な声が聞こえる。
「行きません」
その声で、私の体の震えが少しずつ、収まってゆく。この人は、いえば必ず実行する人だ。
「本当ね?」
「当たり前です」
彼は、私の体を、再び寝台の上に横たえた。しばらく、不思議な沈黙が続いた後、彼は少し熱くなった頬を寄せて、私に耳打ちをした。その言葉に、私はどうして否と言えるだろう。
 言葉にその意味は含まれていなかったけれども、彼ははっきりと、私が欲しいといったのだから。

 彼は素肌で、素肌の私を抱きしめる。片手は私を融かすように愛撫し、背中に回された指は、聖痕を、意図的に撫でた。
「あ」
声が出そうになって、のどに力を入れる。彼は、メイドはこの部屋を離れているから、気兼ねする必要はないと言い、私の体を撫でた。私は、泣き出してしまいそうなほど、その手指に酔ってしまっていた。
「お苦しくないですか?」
「…大丈夫」
一度そう確認した彼は、指を差し伸べて、私の体の芯に直に触れてくる。この前は、この人は、こんなものがあることすら知らなかったのに。二度と失敗はしたくないという思いが、その指から伝わってくる。触れられた体の芯をわずかに刺激されて、私の体が跳ね上がるように反応する。彼は私の反応と顔をしげしげと見て、
「お可愛らしい」
と、真面目な顔で言う。その真面目な視線に見つめられるのがどうしても恥ずかしくて、顔を隠そうとした私の耳元で、彼の言葉が耳を撫でる。
「こんなに可愛らしいお姿をお見受けできる私は、果報者とおもいます」
横目で見る彼の顔では、細いあかりをうけて、優しい青の瞳が、取り乱しそうな私を見つめている。私の体の芯は、潤んで、溶け出しそうで…それを分かっているはずなのに、彼は、何もしない。何かを待つように、私の顔をうかがいながら、私の体を優しく苛む。
 囁かれ、唇を重ねて、そして融かすように撫でられて…体の中に波が来る。寄せては戻る。波は私の体のどこかに激しくぶつかって、その波に耐えられなくなった時…私は、音を上げていた。
 体の奥のほうが、つん、と優しく痛む。私は、手足が自分のものでなくなったようで、ぼんやりとしていた。彼は、私に体重がかからないように、ひじで支えながら私を上から抱え込み、
「その可愛らしいお声も、私だけに聞かせてくださるのですね」
と言った。真顔で。

 でも、あの気が遠くなるような気持ちは、すぐあとのひと悶着の前借りだったことを私は思い知ることになる。
 まるで、短剣の鞘に無理やり槍の穂先を納めようとしているみたい。腰から先が二つに割れてしまいそう。半分泣き声になっている私を気遣うそぶりもなくて、彼は、苦しそうに息を吐きながら、少しずつ、私の中に割り入って来る。あんなに優しい人なのに、何故今はこんなに懸命なのか、私は頭の中が混乱していた。
 その彼が、動きをやめて、ぎゅう、と私を抱きしめる。そして、彼は身を起こした。そのとき、胸の辺りに、ぽつん、と雫が落ちた。
「どうしたの? 泣いてる」
つい言っていた。彼は、自分の涙を、指を確認した後、腕でぐい、とそれを払って
「最初お見受けしたときに、まさかこうなるなんて、考えていなかった」
「…」
「貴女をお守りするだけで嬉しかった。その嬉しさが、ますます貪欲になって…」
私は、腕を伸ばし、軽く彼の頭を引き寄せて、頭を撫でた。
「泣かないで。
こうなりたくなったんでしょ? 私も、同じなの」
腰の割れるような痛みが、少しずつ、治まってくる。お互いの体が、なじんでゆく。これが「結ばれる」ことなのかな、と、何となく考える。私の胸に落ちる彼の涙は、本当に、あたたかい。
「もう、離れたくないの」
「…はい」
「抱きしめて」
「…はい」
「だから、私を離さないで」

 目が覚めたら、寝台には私しかいなかった。私が動いた気配が感じられたのだろうか、メイドが一人、寝室の入り口あたりに立っていて、
「お目覚めですか、姫様」
と声をかけてくれた。妙に日差しがまぶしくて、
「朝?」
と尋ねたら、メイドは
「いえ、日はだいぶ高くなっておりますよ」
と答えた。寝台の私の隣は、まるで最初から誰もいなかったようにきれいになっていて、
「あの…」
とメイドに尋ねる。
「騎士様は少し前にお部屋をお出になられました」
メイドはそう答えた。残念。もし私が先に起きていれば、あの人が起きるまで寝顔でも見ていてあげようと思ったのに。
「おめしかえしましょう。その前に、お食事にされますか?」
メイドは私に尋ねてくる。おなかは、確かにすいていた。でも、
「先に着替えたいわ」
そう言った。
「お湯も用意させておりますが」
「ありがとう」
そういって、私は寝台を出ようとした。出ようとして、掛け布団から出てきた私の足は、生々しい素肌の色をしていて、私はそのとき、自分が何も着ていないのに気がついた。
「あ」
私は、胸の前に布団を寄せて、うつむいてしまう。昨晩、ここで何があったか、見る人が見ればすぐわかってしまう。メイドは、
「私の声を覚えておいでですか?」
と私に聞いてくる。そういえば、昨晩、泣き出した私を心配して、声をかけてくれたメイドだった。
「私たちこの部屋のものは、ラーナ陛下直々の面談を経てそろえられたものばかりです。姫様のお身におこられたことは一同、自分から口外することはございません。どうか、ご信用くださいますよう」
そういわれて、私は少しだけ、安心する。
「お困りのことがございましたら、おっしゃってください」
また促すように言われて、私は、
「それじゃあ…なにか、羽織れるものを出してくれる?
 あと」
私は、昨晩きていた夜の衣装を出す。
「これを、きれいにしてもらえないかしら。…お母様が使っていたのを、持ってきたものだから、大切に着たいの」
「はい、お預かりしましょう」
「あと、大変だろうけど…」
「はい、ご寝室もきれいに整えておきます」

 私は、お湯を使う前に髪を上げるために、鏡の前に座る。鏡の中の自分を見つめてみたけれど、昨晩と違うところは、何もない。でも、おなかの奥のほうが少し痛くて、昨晩のことが夢じゃなかったのを、私に教えてくれている。
 あの人、昼間見るのとは全然違った。どっちがあの人の本当の姿なんだろう、そんなことを考えてみても、私には、わからない。
 私と「結ばれ」て、こぼれたあの人の涙、あれはあのときの言葉どおりの意味だったのかしら、それとも?
 でも、私がそんなことを聞いても、あの人はきっと、何も答えてはくれないだろう。そんな気がした。
 何故って、私の目が覚める前に部屋を出て行ったのは、起きている私と目を合わせるのが、はずかしいからに違いないのだから。

 朝でも昼でもない、そんな食事を摂りながら、私はマディノのおじい様に手紙を書く。
 部屋のメイドたちは、確かに私に優しいし、尽くしてくれるけど、やっぱり、ばあやがいないと、落ち着かない。それに、アグストリアを出たことがないばあやに、シレジアの風景を見せてあげたかった。
 でもそれが終わったら、特に何もすることもない。
部屋でぼんやりとしていると、体に残ってる違和感が、ざわざわとおちつかない。この二三日はまだ、教練の類はしないつもりでいたけれど、この体のささやかな違和感は、少なくとも今日一日はおとなしくするように言っている気がする。

 徒然と部屋に出て、私は、そういえば逆の突き当たりがアイラの部屋だったことを思い出した。マディノで最後に会ったときは、大して調子悪そうにも見えなかったけれども、話に聞けば、突然得意技の「流星剣」が出せなくなって、それがきっかけでおめでたが分かったらしい。そういえば、自分のことばかりで、お見舞いにも言っていなかったな。
 そう思って扉を叩くと、待っていたように開いた。
「いらっしゃい」
「エーディン様、こちらにいらしたのですか」
「エスリン様もいらっしゃるわよ」
といわれて、私は恐る恐る中に入る。入ると
「おめでとう!」
というエスリン様の声がして、私はぎゅうう、と抱きしめられていた。何のことか全くわからなくて、私の目の前は、息苦しさにちかちかするばかりだ。
「え、エスリン様、苦しい…」
「あ、ごめんなさい」
ぱ、とエスリン様は手を離してくださる。はあ、と息をついてから、
「わ、私、アイラにお祝いを言いに来たはずなのに、何故私が逆におめでとうって言われなければならないのですか?」
と言う。アイラは、寝台の上で身を起こして、珍しく目を細めている。よく見れば、確かに、おなかが少し大きく見えた。
「そろそろ、君が来るころじゃないかと思って、お二人を呼んでいた」
アイラがそう言う。
「話はエスリン殿から聞くといい」
「?」
エスリン様は、キュアン様が「元気がない」とぼやいておられた割には明るくて、もう何か言いたくてうずうずしたお顔でいらっしゃる。
「どういうことですか?」
「どういうこと? ご自分の胸に手を当てて、よくお考え遊ばせプリンセス。
 私の夫が誰で、誰がその夫に仕えておりましたかしら?」
えーと、エスリン様の夫はキュアン様。で、仕えているのは… そこまで思い至ってから、私は昨晩のことを残らず思い出した。怖い夢以外は。
「律儀な子よ、本当に。キュアンに『首尾よくできました』と報告してくれて」
それは律儀を通り越していないだろうか。とにかく、少なくともこのお部屋にいる方は、私のあのものすごく痛い思いを真夜中に味わっていたことを知ってることになる。顔があわせにくくて、ついうつむいてしまった。
「私も、そんなことじゃないかとは思っていた。何日か前に、レックスがなにか楽しそうに部屋から出て行って、楽しそうに帰ってきたから、何があったと聞いたのだ、そしたら、王手飛車取り…ではなかった、なんといったっけ、エスリン殿」
「チェックメイト?」
「そう、そのちぇっくめいとの極意を卿相手にあれこれ指南していたと言う。盤上の遊戯でそこまで楽しそうな顔をするものかとは思っていたが、なるほど、君が飛車か」
「クイーンではなくて?」
エーディン様がふふ、と笑われる。この方達は、もうお子様が生まれるか生まれたかなさってるから、そういう話題に臆面がないのだ。そういう方たちと、昨晩やっとこの道に入った私とでは、含みの質も量もかなわない。
「でも、私達、少しだけ安心しましたのよ」
少し間をおいて、エーディン様が仰った。
「あなたがそうして、少しずつでも、元気になってくださるってことは、天のヘズル様のもとにおいでになった兄上様にも、何よりのご安心ですもの」
そう仰って、聖印をおきりになる。でも私は、その言葉に、奇妙な違和感を抱いた。
 そうかしら。言いたいのを飲み込んだ。私は、他ならない兄によって、心身をすり減らすほどの思いを今までしていたのではなかったかしら。もちろん、原因の元の元をたどっていけば、私のしたことにつながるけれど、兄妹が敵同士に回ることになって、私は一生分のせつなさを味わった。なによりあの人は、私の本当の姿を見ようともしなかった。
 何故だろう。兄のことを考えたくなかった。だまってしまった私を、エーディン様は少し戸惑ってご覧になって、
「あ、悲しいことを思い出させてしまいましたかしら」
と仰る。
「いえ、大丈夫です」
私は機械的な返事をしていた。
「それよりも、エスリン様」
「何?」
「今、お父様の公爵様が行方知れずですよね…おつらくないですか?」
「つらくないといえば嘘になるけど」
エスリン様は、ほのかに笑まれた。
「父はまだ生きてる、そんな気がするの。たぶん、バルドのみしるしが、そうやって私に教えているんだわ」
「わかります」
とエーディン様が仰った。
「お姉さまが、どこかで生きていると、なぜか信じてこられたのも、わたしにあるウルのみしるしのためだったのかもしれません…」
「だから、私は心配をしないことに決めました」
エスリン様が、決心したように仰った。そういいきれるエスリン様は、やっぱり、私とは違う。
「悪いことはいくらでも考えられるけれども、あの人の子供である私たちは、希望を持たないといけないから」
と笑いさえされながら仰るエスリン様を、私は半分口を開いた顔を見上げていた。

 「この大役は、私でなければできないのだ。このしがらみをとくのに、私達の子を置いて、ほかに適任が現れようか」
アイラが、静かに言った。
「このシレジアで与えられた時間は、未来と希望を紡ぐ時間」
「あなたは、その未来と希望を紡ぐための関門を、昨晩くぐり抜けた人なのよ。私達が秘密にしていれば、わからないから、ね。
エスリン様が仰った。
「まだ、少しお痛みになりますか?」
エーディン様が尋ねられる。
「痛くはありませんけれども…でも」
「清らかさを失う痛みは、この人と決めた覚悟を、自分自らの体が問うもの」
昨晩の思い出を、大切になさいませ。エーディン様はそう仰った。するとエスリン様は、
「まぁ…貴女が前々から理想にされてたお兄様には程遠い子だけど」
と苦笑いをされる。私はそれに、ごく自然に
「程遠くても、いいと思います」
と答えていた。
「それに私、程遠いとは思いません。君主第一で融通の利かないところなんか、そっくりです」
「これはとんだご馳走様だ」
と、アイラが笑った。


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