どうやら私達は、シレジアの勧めで、向こうに行くことになりそうだった。
まだ、おじい様のところがあるから、私は正直、アグストリアを離れたくなかったが、彼は、
「王女の仰ることもごもっともですが」
と、それではできないといい諭してくれる。私達がこれ以上長くここにとどまると、おじい様の町が私達に協力していることをグランベルに知られてしまう。そうしたら、おじい様の夢もそこで終わる。
「ご理解していただけますね」
と念を押されては、私もそれ以上のわがままをいえなかった。
「あまりご心配なさらずに。私はいつも王女の側にいますから」
と言う彼の言葉が、ちくりと胸を刺す。
「もうアグストリアがなくなってしまっているのに、あなたはまだ私を『王女』と呼ぶの?」
「国土はなくなっても、レンスターに逃れられたグラーニェ様とアレス王子がご健在の限り、ノディオン王家は存続しています。
ましてや、貴女は今、まだお子様のアレス王子が成人なさるまで、ヘズルの血族の長です。
いずれレンスターにおいでになって…」
「ごめんなさい」
私は、ついと彼の言葉をおしやった。
「今はまだ、そんなこと考えたくない」
「…そうですか」
彼は黙ってしまった。彼の言いたいことはよく分かっている。でも、これまでも何も出来なかった私に、これ以上の何が出来るだろう。
「本当に、私の側にいてくれる?」
「…はい。それが貴女に誓った誓約ですから」
「…ありがとう」
ならば迷わない。この人が行くところに行こう。この人が私の手をとって、先に進んでくれるなら、私は安心して、その後を歩いていける。
シレジアは、もう雪の季節になっていた。雪がない季節には、木立の向こうに見える海が綺麗な部屋に、私は迎えられた。
一本、長い廊下が伸びていて、私の逆のつきあたりには、アイラが入るようだ。レックスに横抱きにされて、
「待て、おろしてくれ、これぐらいの廊下、一人でも歩ける」
「観念しろよ、平らな廊下だって、滑って転んだら自分ひとりの問題じゃないんだぞ」
などと言い合いながら、部屋の中に入っていった。
「まんざらでもなさそうね」
と私は呟いた。口でははずかしがっていたけれど、腕はしっかりしがみついていたもの。
セイレーンで私に当てられた部屋は、晴れた日には城下の町並みと海が綺麗に見えるという。でも、私たちがこの城に入る途中から、雪が降り始めて、部屋に通されて落ち着いたころには、雪はすっかり、風景を真っ白く塗りこめてしまって、建物の間近に植えられた木の枝が、やっとかすんで見えるぐらいだ。
部屋の中には、もう数人のメイドが待っていて、
「本日から、姫様のお身の回りのお世話をいたします」
と、そろって頭を下げられる。話を聞いていくうちに、このへやのメイドはみな、アグストリア出身か、縁があるものばかりだということがわかって、私はラーナ様のお心づくしに痛み入りながら、この人たちの故郷をなくしてしまったという自責の心が起こってしまう。
そういうことを考えていると、少し遅れて彼が部屋に入ってきた。多分、エスリン様につかまって、荷物運びの手伝いでもさせられたのだろうと思っていると、案の定彼はそう言って
「ご挨拶だけでもと、抜けてきました」
と、深々と頭を下げてきた。
「気にしていないわよ、だって、それがあなたの本当の仕事でしょ?」
私はそう返した。
「あなたの部屋はどこ?」
「はい、この下の階にいただきました。思っていたより広くて、もてあましそうです」
「本国に戻れば立派なご身分のデュークナイト様なのに、もてあますことなんてないでしょう」
私は、本当に困っている風の彼のいい口に、つい笑ってしまう。でも、そのつましい生活が今までの彼だったのだから、徽章相応の扱いは、かえって身が引けてしまうものらしかった。
「すぐ慣れるわよ。それに、もしかしたらちょうどいいかもしれないわよ、二人ならね」
私は、わざと彼を困らせるようなことを言った。彼は、それに対して、何の口も出せない。そんな様子がかわいらしくて、つい笑顔になって見入っていると、入り口のほうから
「見つけたわよ、まだ荷物が残っているのだから、早く戻っていらっしゃい!」
という、エスリンさまの大声が。彼は「は…」と返事をしかけて、私を見た。私は
「私のほうなら心配しないで、エスリンさまを手伝って差し上げて」
と言って、彼を送り出した。
セイレーンから、私のマスターナイト修養が本格的に始まる。
「話を聞いたよ」
と、私が準備をしていると、後ろから、アゼルが声をかけてきた。
「すごいね、マスターナイトになろうと思うなんて」
「ご謙遜」
私は、武器置き場から、練習用の剣を持ってくる。
「あなたも、マージナイトになるっていうじゃない、ティルテュから聞いてるわよ」
「女の子は耳が早いなぁ」
アゼルは苦笑いのような笑顔をして、
「でも、素養がありそうだって聞いて、僕は正直うれしかったよ。今まで、兄上のおまけみたいに思われていたから、なおさらね」
「アゼルのお兄様は、バーハラ王宮の近衛隊長、でいらしたわね」
「そうだよ。今ここに来て、本当に僕は、兄上に大切にされていたんだなあって思う。
でも、ここまで来なければ、僕にマージナイトの可能性があるって気がつかなかったから、兄上から離れてよかったとも思っている」
そういいながらアゼルは、私と同じように、練習用の剣を持ってきた。
「あら? 私、自分が使う分は持ってきたわよ」
「違うよ。
マージナイトになるには、剣を覚えないといけないんだ」
「そうなの。でも、マスターナイトはもっと大変よ、すべての武器と魔法と杖を覚えないといけないのだもの」
「知ってるよ。だから、取引…というわけではないけど、お互いの持っているものを教えあうのはどうかなって」
つまり、アゼルは私から剣を教わりたくて、私は彼から魔法の操り方を教えてもらえれば、お互いがお互いの役に立つ、と言いたいわけだ。
「私でいいの?」
「もちろん」
「じゃあ、変な怪我させてティルテュに怒られないようにしないとね」
「お手柔らかに頼むよ」
最初のうちは、そんな感じで、和やかに、でも手を抜くこともなく、修養は進んでいた。
でも、そのうち、私はその修養を休みがちになる。手がつかないのだ。
体調を崩したわけではないと思う。でも、どんな部屋でも、戦場の天幕でも、眠れないということがなかった私なのに、なぜかシレジアに入ってからこの方は、なかなか寝付けない夜が続いていた。そのせいか、ほとんど一日中、うとうととしている。
マスターナイトの訓練なんて、とても続けられなかった。
そういえば、マディノを発つ前の晩以来、あの人との距離は、むしろ離れているような気がした。
マスターナイト修養が続いた後、私が横になりがちになったというのが、一層に二人の間を広げているようだった。
その彼が、私が少し調子のよくなる夕方に、私の部屋にやって来る。というより、私が手紙で呼び出した。
「私が心配なら、もう少し顔を出して」
と、ついねだるようなことを言ってしまう私に、彼はしばらく複雑な顔をして、
「実は王女」
と言った。
「何?」
「申し上げにくいのですが」
「ええ」
「マスターナイトになられるまでは、その…清らかでおられたほうがいいと思うのです」
「え?」
私もコドモじゃない。彼の言わんとしていることは十分すぎるほど理解できた。
「それって、夜はここで私一人で寝ろってこと?」
と聞き返すと、彼は
「…はぁ」
と煮え切らないような肯定をした。
別に、期待をしていたわけじゃない。わけじゃないけど、頭からそういわれると、意見のひとつも言いたくなる。
「一緒にいてくれるって約束はどうなのよ」
「マスターナイトの修養は、戦闘の技術維持のために行われる教練より、はるかに過酷とお見受けしています。王女の体力など考えましても、夜はしっかりお休みいただきたいのですが」
そういう彼の手指が、無意識にか、もじもじと動く。このごろの人事不省の原因を、修養の厳しさが想像以上に私の体を痛めつけているのだと、彼は思っているらしかった。それは否定しない。マスターナイトの修養は、ものすごく疲れる。魔法なんて使ったら、その日はなにもしたくないほど疲れるときだってある。体は眠ったら休まるけれど、心の疲れは、それだけは癒えない。
だけど私は、このごろの調子の悪さは、それでは説明できない何かが隠れているような気がした。
それに私には、彼の顔が、まだ、あれからの一歩を踏み出すのが怖いように見えた。その年になって、女のあしらい方ひとつも知らないのかと、あの傭兵さんに笑われたって話を、知らない私じゃない。
「失敗が怖い? この間みたいな」
とハラを探ってみた。しかし、その言葉は、予想以上に彼の自尊心をえぐったらしい。彼は途端、まるで軍議に臨んでいる様な仏頂面になり、
「私は不調法者ですから。
失礼します」
部屋から出て行った。
部屋を出てゆく彼の背中に、聞こえないぐらいの小さい声で
「もう、変なところで臆病なんだから」
と言った。
ひとまずの安全圏に入って、緊張の糸が切れたのかとも思ったけれど、やっと来る私の眠りはとても苦しくて、すぐ目を覚まして、冷たい汗が、私の額には浮かんでいる。
「ねえ、誰か」
ある夜に、同じようにして目を覚ました時、私は部屋に詰めているメイドを呼んだ。
「御用ですか?」
明かりがひとつ、ぼんやりと、メイドの顔を照らして入ってくる。
「人を、呼んで欲しいの。この下の階に…」
説明をすると、メイドは、
「かしこまりました」
と言って、いなくなる。そして、聞きなれた間隔の足音が近づいてきて、私のそばにひとつ、明かりが増えた。
「いかがされました?」
彼は、少し心配そうな顔をして、私を見ていた。
「こんな時間に起こしてごめんなさい、あなたも眠っていたのでしょう?」
「いえ、これから眠るところでした」
「…そう」
こんな時間まで、何をしてすごして眠るのか、私はそれはわからないけれど…
「ひとつ、お願いしていい?」
私はそう言っていた。
「私ににできることなら」
「簡単よ。私が眠るまで、ここにいてほしいの」
彼の目の色が、少しかわったようにみえた。
「このごろ眠れなくて…変な夢を見ているみたいなの。
昼間もだるくて…教練なんて、できそうにない」
「それでこのごろはお部屋にこもりがちでおられたのですか。
…お辛いのを察することもできず…申し訳ありません」
彼がそういうのに、私はかぶりを振る。原因は私の中にあるのだもの、彼のせいではない。
「もし、私が夢の中で危ない目にあっていたら、あなた、助けに来てくれる?」
それでも、冗談交じりにそう尋ねてみた。彼は、しばらく思案するような顔をした後、
「その危ない目にあわれないように、今私がここにいるのではないのですか?」
と言った。そんな言葉が、この人の口から出るとは思ってもいなくて、私はつい、目じりが熱くなる。
「…手を貸して」
差し出された手を、私は、小さい子がぬいぐるみにするように、頬に押し当てた。大きくて、暖かくて、指先が少し冷たくて、槍を扱う彼の手は、少し硬かった。
「…眠ってしまったら、後は好きにしていいから。
おやすみなさい」
「よい夢を」
低く落ち着いた声が、私の頭の上で小さく聞こえて、私はつい、薄い笑みを浮かべたまま目を閉じた。
その夜は、深く眠りに落ちたようで、夢を見た記憶さえなくて、すっきりと目を覚ました。
私の中で、まだ何かがわだかまっているのに違いがなかった。アグストリアを動乱に巻き込んだ、その責任も取らないまま、私はこんなところで安穏としている。そんなことを考えた日は、決まって寝付けなくて、彼に来てもらった。
「どうぞ、そのことはお考えなきよう」
あるとき、彼にそう漏らしたら、彼はごく自然に私の髪を撫でて言った。
「王女が今ここにいらっしゃるのは、そうあれという神と聖ヘズルのお導き。アグストリアへの償いをお考えになるのはもっともです。ですが、長くそのことをお考えになっていては、貴女はそこから、一歩も動けませんよ」
「…あなたにしては、前向きなことを言うのね」
「…恐れながら、主君からの受け売りです。
皆様、王女のご回復について案じておられます。一日も早く、お健やかなお体を取り戻されるよう、ご自愛ください」
腕の力に従うままに、私は半分彼の胸にすがるような形になっていて、
「あなたが一番、私を心配してくれると、信じていい?」
そんなことを言っていた。マディノの町で交わした誓約が、私たちの間にあることを確認したくて、試すような口ぶりになってしまった。彼は、しばらくしてから
「お試しになるまでもありません」
と言った。
「誓約にて私がお預かりした王女の心の痛みは、そのまま私の痛みです。
こうしてそばにいて差し上げるだけでいいのか、ほかにできることはないのか、考えてもよい策の見つからない自分がもどかしいほどです」
「…」
私は、それに返す言葉がなくて、彼の顔を引き寄せて、唇をあげることしかできなかった。その彼の手が私の背中に回ってきて、私の心臓が、とくん、とはねた。手は背中を探るように動いて、明らかに、聖痕を探している。
私がマスターナイトになるまで、何もしないと言い張った人が、本当は違うんだと、そのとき思った。自分に原因があって私を突き放したのではなく、本当に、私を心配して、その我慢を自分に強いているのだ。
彼も、自分の手が何をしようとしているのかわかったのだろう、われに返ったように、私はその手から開放される。薄暗い上に明かりが逆光になって、彼の顔色はわからなかった。でも、差し出された手はいつもより熱くて、心なしか、震えているような気がした。
「…もうお休みください。お休みになるまで、ここにおりますから」
押し殺すような声に、
「…ありがとう」
私は目を閉じた。
臆病なんていってごめんなさい。
…今のあなたに応えてあげられなくて、ごめんなさい。
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