シグルド様が部屋から完全にいなくなられてから、キュアン様は改めて、地図にある布陣を確かめられた。兄らしく、その布陣の形には、一部の隙もない。丘の上になるシルベール砦へは、一本きり、通行可能な道はなく、その道すら、兵の壁があり、進むことが困難に見えた。
「明日の君の居場所は、第二線のこのあたり、最前列のすぐ後でいいな?」
「かまいません」
周りは、護衛部隊で守らせよう。俺が指示を出しておく。奴も多少は使えるようになってきたからな。何とか君を守りきってくれるだろう」
「ありがとうございます」
「しかし、あいつらしいというか…厄介な布陣だな。クロスナイツを全部撃破して、シルベール砦本体に進むまでには、たっぷり一日かかってしまうだろう」
「…はい」
確かに、厄介はではあるだろう。クロスナイツは、ほとんど自慢というものをしない兄が自慢する、数少ないものの一つだから。でも、見えない果てでは、なくなっていた。時間はかかっても、シルベールに入れれば、兄にあえる。
「キュアン様。その停戦の会談は翌日になりますか?」
「そうだな、双方、兵を休ませ、頭を冷やす時間があった方が良いだろう。
中立的な第三国が事実上いないのが問題だが…どんな交渉も、やってみないとわからない」
そう言いかけてから、
「何か、考えているな? 後営に下るのを嫌がっていたことといい」
と、キュアン様がにやりと笑まれた。そのお言葉に、私は背をただす。
「その予備交渉を、私にお任せできませんか?
その夜の間に、何とか兄を説得して、こちら側の味方をしてもらえるように掛け合ってみます」
「ひとりでか?」
「はい」
型で押したような停戦協議の席よりも、私のいうことならば、きっと考えてくれると、少しだけ、そういう打算もあった。
キュアン様は暫く思案されていた。そして、顔をあげられた。
「成功するかどうかは分からないが、…試しもせずに否定をすることはできない。
それに、このままでは、君がここにいる理由もうやむやになりそうだからな。
シグルドは知ったら間違いなく渋い顔をするだろうが…俺からよく言っておく」
「有り難うございます」
「ただし、行帰りの道中、誰かつけさせてくれ、曲がりなりにも戦場だからな」
「はい」
シルベールにいけることが分かっているなら、あとはどうでもよかった。私は、キュアン様に何度も念を押し、自分の部屋に戻った。
でも、なかなか眠れなかった。
私は、自分から、自分の運命の扉に似たものを、叩く決心をしていた。
シルベールを守るクロスナイツを退けるのには、予想通り、一日たっぷりかかった。翌日の停戦交渉の席を設ける余裕ができた時には、日はすっかり傾いていた。
完全に月が膨らみ切らない、細い光の照らす中で、私は、暗い色の外套で身を包むように隠して、馬上にあった。一人で行くという私を心配して、キュアン様は一番たよりになると仰って、護衛部隊の隊長をつけて下さった。
誰が来るのだろうと、正直少し不安だった私は、その護衛が、いつもの隊長だとわかって、少し安心していた。私の前に出てきて、彼はあの青い目を伏せて一礼した。
いつか兄が、「お前にヘズルのみしるしが無ければ、どこにでも行ける」と話した時、例を引いた人物であると気がついた時には、さすがに面はゆかったが、彼は私のために怪我をしてもいいというほど、私を守れというキュアン様のご命令に忠実でいる。少しだけ、あの夜明けにときめいてしまった自分か恥ずかしくなってしまうほど、彼はできた人物なのだ。
他の騎兵達は、私を友達のようにおもって、軽く話しかけてくれるけれど、彼だけはそうしない。今も、私を優しく馬に乗せ上げて、ゆっくりと、馬を進めている。
そして、その彼が、心底感心したような声で言った。
「お一人で敵地へ停戦の予備交渉とは、立派なご決断ですね」
「立派かしら」
私は、自嘲するでも無く呟いた。
「私から始まったことだもの、自分で見届けたいだけ。そのわがままを聞いてくださって、あなたを付けてくださったキュアン様には、いくらお礼をいっても足りないわ」
「私は、お話しを承りつつ、勇気のある方だと感服いたしました」
「お願い、そんなに誉めないでよ。
私、自分のしたことの重さが、今になって刺さってきているの。
アグストリアを乱した一因は私にもある。私が、その成りゆきを自分の目でみまもりたいというのは、いけないことなのかしら?
王女なのに、王女ながらって、ずっと言われてきた。王女のくせに破天荒なのは、私も分かってる。
だからといって、王女らしくお城の中にいることなんて、私一番したくなかったの」
いってから、はっとした。騎士はもくもくと、手綱をさばいている。私は、その背中しか見えていない。
「御免なさい、あなたにこんなこと話ししても、仕方がないのに」
「いえ、私でお気がすむのでしたら、御存分にお話下さい。
話すことで楽になることもあるから、お話は聞くようにと仰せつかって参りました。
お話相手には不足とは思いますが、聞くことはできます。何でもおっしゃってください」
「…ありがとう」
私は、騎士の背中に、額を当てていた。まだノディオンに来たばかりの頃、遠乗りする兄の後ろで、話しつかれた後にしたことと、同じことをした。それがなぜか自然にできた。
何も知らないこの騎士に、愚痴ばかりの今の私が、なんだか申し訳ないような気がした。だから、話を替えようとした。
「…馬って、素直な生き物よね。可愛がる分だけこたえてくれるって、お兄様いつもおっしゃってたわ。
…人間も、それぐらい素直になれたらいいのに」
でもやっぱり、最後には愚痴になっていた。騎士は、暫くしてから、実に静かに、
「…そうですね」
といった。いつも彼がする、一見味気ない返答だ。他の誰かがそう言ったなら、私は「そんな、無責任な事いって」と機嫌をそこねるはずだ。でも今日に限っては、私はその返答に安心した。この人は、揺るがない。私がしようとしていることが、成功することを信じている。
可能なら、兄の所まで、彼についてきてほしかった。そのほうが、安心できる気がしたから。
でも、一人で行くといった以上、私はそうしなければいけない。この人まで、何かの渦に巻き込んでは行けない気がしたから。
「王女」
彼が、私の視線を上に上げさせた。
「到着いたしました。シルベール砦です」
私は、彼に帰るようにいった。話が終わり、連れて帰るまでが任務だと、騎士は困った顔をしたが、私はそれをあえて帰した。
次に私がここを出ていくのは、シャガールを見限った兄とともにか、賊として捕らえられ、無言の者になって出てゆくか。
二つに一つ。
そうして、自分を追い込んで、砦の門をくぐった。
衛兵は、私を見ぬふりをしてくれたのか、何もいわなかった。ただ、私をその場所に止めて、将校を呼んでくれた。
駆け付けた将校は私に膝を折り
「姫様のご用の向きは存じ上げております。
陛下のお部屋まで御案内を致しましょう」
と、先頭に立って歩いてくれた。しばらく階段を登って、通された部屋には、はたして、兄がいた。
本当なら、ここで、何年と会えなかった分だけ喜びの対面になるはずだ。しかし、
「お前のいいたいことは、大体分かっている」
兄は、私の姿を見るなりそう言った。懐かしそうな顔を、しない。
「まず前置きしよう、俺は、…アグストリアの騎士だ」
「はい。そうでしょう。
ですが、私もこの事態の収拾を自ら申し出た使者として、こうして兄上のもとに参っております。停戦か、さらなる交戦か、命運は今、私達兄妹の手の上にあることを、どうか御理解下さいまし」
「…」
長い沈黙。それが、重かった。
これが、何年とあいたかった兄なのだろうか。
全身に焦りをみなぎらせ、明らかに数日起き続けた顔をしていた。何がこの人の人間らしい部分を奪ってしまったのか… 言葉にはできるが、今はためらわれる。
「まずシグルドに勘違いをしてもらいたくないのは、この半年という間、俺が決して手をこまねいていたのではないということだ」
「はい」
「シグルドが、バーハラに対して、できるだけ早期にアグストリア返還が実現できるように、再三働きかけてきたことも知っている。
それに見合っただけの動きを、俺もしてきたはずだ。口約束などないことにせよとはやる陛下を、抑えお諌め続けてきた」
「はい」
「それでも、奴は…不満なのか」
「…この、もはやさけられなくなってしまった戦いをつくり出してしまったのはシャガールです。保身のためになりふりのかまわない行動をとり…結果、こうして多くの人間を、戦に巻き込みました
シグルド様は、シャガール様への不安を口にしはなさいますが、兄上へには、一度も」
「陛下がとられた行動は、ある面ではごく当然のことだ。他国に占領されて、御自身は辺境におしやられ、それを不当と感ずれば感ずる程に、起死回生を計りたくなるものだ。
…牢の中の俺も、そうだったからな」
「兄上は、シャガールの味方をされるのですか?」
自分でもどうしようもない程、嫌な質問だった。答えは分かっていても、口に出さずにはいられなかった。
「俺はアグストリアの騎士だ」
兄の返答は、判を押したように返ってくる。
「ただ一人になろうとも…陛下のために、この身を尽くさねばならない」
「こんな場所で、兄上を朽ちさせたくないのです…アグスティの方々は、みなそうお考えです。
おねがいします。どうか、シルベールをお出になって、私達のお味方になってくださいまし」
「そんなことができるか!」
頭を下げた私の上で、兄がこぶしで机を叩く音がどん!と聞え、私の体はすくみ上がった。
「お前が言っているのは、俺に騎士道を外れろと、そそのかしているのと同じだ!
いつのまに、お前はそんな、魔女のような物言いをするようになったんだ?」
兄の目が、正気を失いかけていた。
「気紛れや、大儀の前には儚い程の友誼で、この忠義をゆがめてどうする? ノディオンに代々忠誠を誓ってきた、俺を信じて付いてきた、多くの騎士に道しるべを失わせることなど、できるはずがないだろう!」
「兄上こそが、アグストリアの新しい道しるべに相応しいことは、…シャガールと手の者以外全てが、思っていることです」
「俺は、その器ではない」
「いえ」
言い知れぬ重圧に、押しひしがれそうな兄の姿は…見ていることに忍びなかった。私は、指の震えを手を組んで押さえ、半分目を閉じて、言った。
「そうお思いなのも、兄上だけ。
そもそも、ミストルティンを継承するものが、アグストリアの主になることは、不文律とはいえ当然の事でした。
兄上。本来、このアグストリアは兄上のものでしたのに。
ですから、イムカ様も、兄上には一目置かれて、接してくださったのですわ。ご自分の息子がああでは、お兄様がその制動をかけるにふさわしいとも思って」
「では、お前は、俺にアグストリア王を名乗れとでも言うのか、そんなつもりも無いぞ、あくまでこの国の正当な王統は、シャガール陛下にあるのだからな」
「…そんな、まるで小さな子供のように…」
ただ、自らの信念にもとづいて、どんな話にもかぶりをふるだけ。でも、このかたくなな心が、私にはいとおしくなってくる。
暖かいものが、私の中に帰ってくる。懐かしいその感じ。
…お母様が、私に、兄に対峙する勇気を与えてくださる。
いえ、私の口を借りて、お母様がお兄様とお話ししているのだ。
「俺は、そんな運命になど、生まれついてはいない」
「お目をお覚まし下さいませ」
兄を見る程に、私は冷静になってゆく。
「巷では、兄上を称して『眠れる獅子』ともうします。…真にアグストリアのためを思ってならば、暗君を捨てることも、騎士道にはもとりません。前例は限り無くございます
兄上がミストルティンをもって、アグストリアの新王をお名乗りになれば、ノディオン以下各国の、良識ある者たちはきっと立ち上がり、グランベルとの和平の道を探り、あるいは抵抗に、いずれにせよ、兄上のもとで命の惜しみなく戦うでしょうのに…
この混乱を極めた現状が、以前陥落寸前のノディオンを助け、妹の私を助けてくださったシグルド様への友誼の証ですか、兄上の騎士道ですか」
「…」
「シグルド様、キュアン様…そういう方々が差しのべて下さる手を…兄上はやみくもにお払いになっているのですよ?」
兄は、呆然としていた。長いこと、口を閉ざしていた。
がっくりと、首をうなだれた兄から、こういう言葉がもれたのは、座ったままの私の前にある、窓から見えていた月が見えなくなるまで、たっぷり時間がたった頃だった。
「…わからないんだ。もうどうすればいいのか」
「…」
「俺がしていることは間違いかもしれないと、…自分でも、分かっている。しかし、捨てることは出来ないのだ。
俺の生きている意味が…なくなってしまう…それでもお前は、俺に益のある道を選べと、ほかならぬお前が言うのか」
「…兄上は、私は良き政治の師となってくださいました。
もし、シャガールがこのまま王として統治し続けるにしても、それからのアグストリアを支えるためには、兄上はもはや不可欠です。
兄上、あなたは、手段目的はどうであれ、生き永らえてくださらなければなりません」
「なるほど…賢い事を言うようになった」
兄上の悲壮な顔を、少しでもやわらげたかった。でも、私の微笑みは…我ながら引きつっていたかも知れない。
「賢いなら、わかるだろう。今の俺が立つ場所というのも」
「はい。重々に」
「もはや、友誼のためにこの身を二つにわけることは出来ない。
お前も言ったように…俺が離れれば、陛下を御するものはない。さらに、戦局が悪化すると言うことも、十分に考えられる。どうすればいい」
「…」
私は、倒れそうな兄上を、寝台に座らせた。
焦りを覆い隠すように、穏やかな諦めが、包んでいた。
このひとは、もう私では説得が出来ないのではないだろうか。シャガールに刺さった最後の楔。この場所を動けないこの人が…この人と、この人の守りたい全てのために、せめて、できることは…
「せめてあす一日限りでも結構です。停戦を奏上してくださいませ。
とにかく、軍を収めて、話し合いましょう。私達の方にでは、もう準備は整っております。
シャガールさえ手を引けば、すぐに戦は終わるのですよ」
「ほんとうか? あいつも、グランベルから、追究を命じられているのではないか?」
「シグルド様も、兄上と同じように、恐くなる程に実直なお方です。
このまま停戦がなれば、シグルド様はすぐ、アグストリアの各拠点にいるグランベルの官吏を集めて、本国に送致なさって、ご自分もお帰りになるでしょう。
国元にお戻りになれば、厳罰が待っておられるやも知れません、それでも」
「あいつらしいやり方だな、子が出来たとはいえ、ちゃんとした聖剣の直系男子はあいつしかいないのを、わかってやっているのか」
兄が、やっと笑った。私は、それに一時心を緩めた。
「明日、一緒に、奏上に上がりましょう。私を使者として、シャガールの前に出させてくださいまし」
「いや」
しかし、兄上は、それをはねつけた。
「それは出来ない。お前は、来訪の前ぶれなくここに来た。表立つ所に出るならば、例え妹でも、お前を賊として突き出さねばならん。
今、陛下をお守りしているのは、直属のわずかな兵を除けば、俺とクロスナイツのみなのだから。
夜の間に、帰ったほうがいい」
言ってはいるが、兄は、私の肩を掴む手を離さなかった。前よりも、節が目立つ手…服の影になる手首には、明らかに、戒めの跡とわかる肌の黒ずみが消えていない。
私は、その手に自分の手を重ねた。
「私、帰りません」
「え?」
「…今の兄上は、一人にはできません。…おそらく、御自分の命を持って停戦をお勧めになりましょうから」
「…」
「…そんな奏上など、徒に後世の好事家の哀れを誘うだけ。今のシャガールになんの動かす所もございませんよ」
兄は、何も言わなかった。私も返答など、期待しなかった。主君となった人間に、自分を投げ打っての忠誠を尽くすのが騎士と、その教えが血のように、体を巡っているのが、兄なのだから。
私は
「そんなにお急ぎになられても、お母様はあってくださいませんよ」
と、言った。やっぱり兄は
「そうやって、お前は俺の決心をゆるがそうとする」
と、苦笑いをした。
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