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 私と兄は、しばらく、昔の思い出を話した。そして私は、アグスティにいる人々の事を語った。
「邪険にされていなくて何よりだ。お前も居心地が良いのだろうな、雰囲気が変わって見える」
と言う。私の目の奥まで見るような好奇心にすんだ目が面映くみえて、私は、思わず、目を瞬いた。
「変わりましたか?」
「ああ。…それが、本当のお前なのかも知れない。誰の支えがなくても、一人で美しく立っていられる」
「ひとりでは、ありません。あの場所にいる、多くの方達が、どこかで誰かを支えあいながら立っています」
「お前も?」
「はい。沢山の…支えがあります。
 私は、兄上にも同じように、沢山の支えがあることを、お伝えに来たのですから」
「…ありがとう」
兄の声が、小さくなってゆく。
「その支えの手を、俺は裏切ることになるのだな」
「…」
その言葉に、どうかえそうか、迷っていた時、兄は突然、私に倒れこんできた。
「!」
倒れそうな所を、背をそらしてその体を受け止める。私の目の前には、兄の金色の髪がいっぱいに広がっている。
 眠ってしまったのかと、おもった。でも、すぐ、そうではないと分かった。背中に手を回して、その体一杯に溢れるふるえを、抱き締めた。
「かわいそう…」
つい言葉になった。切ないまでに綺麗な心は、今その水晶のように透明でガラスのようにもろい殻をやぶられて、醜い政争に踏みにじられている。今になって、兄には、その痛みが襲ってきているのだ。
 私の胸に顔を埋めて、兄は慟哭した。言葉にならないほとばしりが、乳房を通して突き刺さってくる。
「こんなに、一所懸命なのに、その心を誰もわからなくて」
ほんのりと、胸の奥が熱かった。この綺麗な心を受け止める喜び。…私の中のお母様が、喘ぐ程に、喜んでいる。その胸の熱が、お母様がされていたような、柔らかい暖かい言葉になる。
「いつか、お約束しました。私はどこにも行きません」
視界が潤んできた。目を閉じて、頬に熱いものが流れるのを感じた。涙ごと、その頬を包むのは、兄の手。兄は、私の目の、奥の方をすかすように見ていた。
「離れるな、ずっと…俺のそばにいるんだ」
「…はい」
唇に、兄の熱い息を感じた。

 弁解に聞えるかもしれない。
 詭弁かもしれない。
 おそらくは、それは既成事実として、後世、私達のすねの傷となって、ノディオンの歴史を汚し、好事家のおもちゃにされるかもしれない。
 でも私は、私達のために、言っておかねばならない。
 神族のみしるしをもつものとして、もっとも忌まれるべきこと。それは、一人の神族から生まれた二人が作り上げる、「呪われた血の円環」。もしそれで子がなるようなことがあれば、継承の発動は確実と言われているが、その血の濃さと引き換えに、人間らしい何かを必ず失うという、神族にとっては滅亡の危機の前兆となる禁忌。
 でもそれは、私達二人の間には成らなかった。私はその体の清らかさを守られ、兄は、お姉様への貞淑を貫いた。
 それでも、一度はその覚悟を持って、寝台に上がった私達は、何一つまとわぬ体を合わせて、その暖かさを知った。
 狂おしく、私の体を襲う波に、私は幾度か、短く気を失うほどに陶然とした。目の奥で、青白い火花がぱちぱちとはじけるような、ひとりでに涙と声が出てしまう。
 あの日見てしまったお姉様の寝台の上で、お姉様が同じ思いをされながらアレスを身籠られたことをおもうと、それが何故かしら妬けてくるほどだった。
 寝台に寝かされた私には、そのとばりから通る夜風越しに、窓が見えていた。月は完全にどこかに消えた。しぱしの暁闇が、窓の外を黒く染め、ちらりと明かりがふるえた。潤んだ私の目を、満足そうに見る兄は、くったりと力の抜けた私の膝に力を入れる。私の体は、難なく開いて、全てが、少し冷えた風にさらされた。
 兄が、私の体にかぶさってくる。うなじの下に手を差し入れられて、私は、兄の首に手をからめた。
 視線が合う。覚悟を問う眼差しに、私は眼差しで答えた。
 目を閉じ、
「…お願いします…、私を…」
教えられた通りに、兄を乞うた…はずだった。しかし、兄は諦めたような苦笑いになって、溜め息をつきながら、私の体から離れた。
 まだ立ち上がれない私の、汗した額の髪を掻きやり、一つくちづけてくれた後に、
「…悪かった。もう、やめよう」
と言う。
「え?」
体に力が入らないままに、起き上がろうとした私に、布団をかけてくれながら、
「あともう少しで、俺はとんでもない間違いをするところだった」
寂しそうに言った。
「どうしてですか?
 私は…」
それがこの人のためになるのなら、血の円環だって、作っても構わなかった。どんな結末になっても、私がそれを一生、胸の中に入れていればいいこと。でも兄は、かぶりを振って
「外を見なさい、もう時間はない」
と言った。私は寝台を転がるように抜け出し、ほとんど裸のまま、窓に張り付いた。
「あ…」
 この青は。
 私の目には、いつの間に涙が溜まっていたのだろう。それがひとしずく、裸の胸に落ちる感触があった。兄は、私の後に静かに寄っていて、私の服を着せかけてくれている。振返ると、兄は目を細めて、同じように、窓の外を見ていた。
「この青には見覚えがある」
「え?」
「しかも、初めて聞く名前じゃない」
私は、口を押さえていた。
「お前のその可愛らしい唇は、私をその名前で呼んでいたのだよ、気がつかなかったのかな?」
「嘘です、私そんな」
「自分の心に尋ねてみなさい」
兄は静かに言って、仕事用の椅子に、大儀そうに腰をかけた。
「お前の目のような、美しく熟れた知恵のハシバミは、愚かな賢者と同じように、私の手には入らなかった。
 それだけのことだ」
何かの書類を取り出し、ペンを走らせながら、
「すぐに日が昇る。帰る準備を急ぎなさい」
そう言う。私は、その兄の元に駆け寄って
「でも、お兄様」
「心配するな、まだ俺には、分別は十分残っている」
私の手を、兄はいとおしそうにとった。その瞳の中に、私は、私ではない、でも見知った影が見えた気がした。きっと兄が、私の中にいるらしい、誰かに気がついたのと、同じように。
 身支度を済ませ、慇懃に膝を折り、きびすを返そうとした私の手を、兄がまたとった。
「ありがとう。俺の決心を許してくれて」
「…」
「お前がいたから、ここまで来られたんだ」
「…」
「どこにいても、お前を感じた。
 いつか誓ってくれた通りに、お前は、俺を守ってくれた…」
私は、少し兄を振返った。ほんの少し残った熱さが、言葉になる。
「これからも、そうですわ」
私は、その、すがってくるような目を見た。切なそうな、母親に置いていかれるような瞳は、すぐに毅然と王の瞳の輝きを取り戻し、
「…よかろう」
兄は手を離した。でもその瞬間、すうっと、その熱が引いた。
「あ」
つい声を上げた私を、兄が、不思議そうに見る。
「どうした」
「な、何でもありません」
そう返しはしたが、私は、その熱の引いた寒さからか、体が震え始めてくる。その時、扉が鳴った。兄がその音に問う。
「どうした」
「見張りが交代いたします、姫様をお逃がしになるなら、今かと」
「わかっている」
兄は答えて、
「聞いた通りだ、帰りなさい」
心配そうな顔をした将校が
「お急ぎを」
と扉の向こう側で言う。足の動かない私に、兄は扉を開きながら言った。
「行きなさい、行くべき所に」

 見張り交代の喧騒に紛れるように、門まで連れてきてくれた将校に、
「兄上のことを、よろしくお願いします」
膝を折り、頭を下げた。将校は、しっかりうなずき、
「残る一同、陛下とともに、姫様の無事をお祈りいたしております。
 お早くお戻りを」
私は、きびすをかえし、振り向かず、砦から平地に降りる坂を駆け降りた。

 走りながら、涙が止まらなかった。泣いちゃだめ。何度も自分に言い聞かせた。でも、無理だった。
 私は何もできなかったのと同じだった。兄は、停戦させるためなら自分の命も惜しまないだろう。それもあの人の分別のうちなのだから。それで停戦がかなったとしても、兄を無事、みんなのもとに、ノディオンのお姉様に、連れ戻す約束は、守れない。
 どうすればいいの。どうしたらいいの。坂を下りきった道の片隅で、迫ってくる重さばかりに追いつめられ、私はうずくまってしまった。せめて、涙を止めて帰らないと。
 空を見上げた。すっかり夜は明けて、昇り始めた陽が、木立の向うのアグスティの輪郭を白く照らしていた。その、浅い青に向かって、ぼんやりと呟いた。
「私を連れて行っては、くれなかったのね」
震えが止まらなかった。私の中にあった、何かの熱が引いた後には、冷えた風のようなものが吹き込むだけだ。できることなら、あの夜明けの青の中にとけて、自分もここからいなくなってしまいたかった。でも、私には、それはできない。
「アグスティに…帰らなくちゃ」
あんな結果でも、報告をしなくちゃ。立ち上がり、とまりはじめた涙を手で払って、私はそのアグスティに向かって歩き始めた時、騎馬の走ってくる音が聞えて、
「誰!」
私は、腰に下げていた剣に手をかけた。しかし、そのあと聞こえた
「よかった、ご無事だったのですね」
の声に、私はその殺気をおさめた。私を送ってきてくれた騎士が、そこにいた。下馬し、片ひざを着く彼の姿をみると、外套が、露で濡れていた。
「私を、迎えに来てくれたの?」
と聞いてみる私の顔を見ようとした彼の目が、本当に綺麗だった。
「いえ、王女を無事お送りし、かつアグスティに戻られるまでを護衛するのが私の使命、シルベールに気取られぬよう、付近にて待機しておりました」
戻りましょう。私を馬に乗せ上げるためにとった服の袖が、露で重く濡れていた。でも、その手は暖かかった。
「じゃあずっと、待っていてくれたのね」
「はい。急ぎましょう、すぐにここは戦場になります」
彼はいい、馬に鞭を入れた。結果はどうなったか、何も聞いてこなかった。

 私ならばと申し出た交渉の事実上の失敗を、シグルド様達にお伝えするのは、正直、胃の腑が痛むほど辛かった。
「…あいつがしてくれるといった、停戦の奏上にかけよう。それまで、私達は待機する」
「そうだな、それしかないな」
お二人は、まずそう仰って、長く黙られてしまった。その間に、止まっていたはずの涙が、また出てきてしまう
「申し訳…ありません…出過ぎたことを…」
「大丈夫」
キュアンさまが、ぽん、と、しゃくり上げる私の頭に手をおかれた。
「停戦の可能性か確実にあるという事がわかっただけ、収穫はあったと思うべきだよ」
「でも、兄上が」
「心配するな。俺達が何とかする」
そうだよな。キユアン様に同意を求められ、シグルド様は、
「…ああ」
重くうなずかれた。ややあって
「…シャガールめ!!」
だん! 机をしたたかに叩き付ける音がした。
「どこまで、あいつを苦しめるんだ! 自分が、自分本人と一番の忠臣の首を絞めているのが、まだわからんのか!」
「シグルド、落ち着け。それはシャガール本人にじかに言うんだ」
「これがおちついていられるか!」
「止めろ、恐がっているじゃないか」
足の震えが止まらない私をかばうように、キュアン様がシグルド様との間に入られる。シグルド様は、私の顔を見て、
「…すまん」
申し訳なさそうに言った。
「君は、君の精一杯をしてくれたんだ。気に病まないでほしい」
「…はい」
「約束だったね、今日は君は後営にいてほしい」
「はい」
「キュアン、準備を始めよう」
「うむ」
シグルド様が会議室をお出になる。キュアン様がその後を行かれるのを引き止めて、
「あの」
彼の話をした。
「一晩中、私を待っていてくれたんです。露でずいぶん冷えていたようでしたから、体に気をつけて、と」
「いいよ」
キュアン様は少しく笑まれた。
「でも、自分からは言わないのかい?」
「そう思ったのですけど…すぐ、今日の準備に入って行ってしまったので」
「なるほど、わかった」
キュアン様は、また私の頭にぽん、と手を置かれた。
「伝えておこう。君は休んでおきなさい。奴は俺がこき使ってやる」

 その日、私は、かねてよりシグルド様が指示くださったように、後営に下がった。
 大きい戦いはおこらず、私が報告したように、シルベールの中で停戦の奏上が行われ、…容れられぬまま処断が行われた報告を、夕方に聞いた。
 沈黙を、見ていられなかった。
 この軍が、こんなに静かだったのは、初めてだった。
「…シグルド様、申し訳ありません。
 私が、せめて停戦の奏上に付き従っていればこんなことには…」
軍議の席から、動かれぬシグルド様に、私はそう言っていた。夜陰に乗じて私が説得に出たことはもうだいぶ知られた話になっていたし、私では結局、事態の収拾には役には立たぬ、肉親の情にほだされた挙げ句、いいように言い包められて戻ってくる。そんな穿った声があるとも、聞いている。
「…君は、できる最上の事をした。そうなんだろう?」
シグルド様の声が、地面を這うように聞こえてくる。
「…あいつの人となりは、私も良く分かっているつもりだ…遅かれ早かれ、こんな形になることを覚悟していたはずなのに…いざそうなると…何も言えないものだね」
「…」
私は、もう一度、「もうしわけありません」と、頭を下げた。

 そして、「兄」が、アグスティに戻ってきた。遺体は相当痛めつけられていたらしく、私は整えられた体を、礼拝堂の中でやっと見ることが許された。
 シグルド様は、キュアン様と、明日も続くだろうシルベール攻略の打ち合わせに入っておいでだ。私の傍には、ベオウルフだけがいる。
「少しきれいにして見せてやりたいってな」
と、ベオウルフは、兄に会えるのが遅くなったわけを軽く説明してくれた。
「顔は綺麗だが、服の下はすげぇんだぜ、本当は。命がねぇのを確認できるまで、刺したり斬ったりしたんだろうなぁ」
その、断末魔の様子は、兄の顔からは全く伺えなかった、むしろ、穏やかそうな顔で、私は少しだけほっとした。
 どんな傷が、体にはのこっているのだろうか。でも、私から見えるのは、もともとの服の色が分からなくなるほどに赤黒く染まった血の色の服が見えるだけだ。首に切られた様子はなかった、将校達は、きっと決死の覚悟で、首を守ってくれたのだろう。
「たぶんこうなるとは思ったが、強ぇな、姫さんは」
「どうして?」
「ウィグラフがこんな姿になっても、泣かねぇのか」
「ええ…だって、涙は嫌いだもの」
私は、傍目から見れば、気丈か非情か、いずれかに見えただろう。でも、なぜか私は涙は流せなかったのだ、そのときは。

 ノディオンから、私の急ごしらえの喪のドレスと、兄の正装が一式送られてきた。兄の体を改めてぬぐい、その正装を着せて、胸の上に組んだ手には、神器継承者だった証に、模造の魔剣が握らされる。本物は私に託された。まだノディオンに残っている、あの小さなアレスにこの魔剣を渡してあげるのが、今の私のただひとつのするべきことだった。
 私は、一人だけで、そこに立っていた。肉親が故人と過ごす、最後のひと時だ。本当なら、お姉様とアレスもいなくてはいけない。でも、それができない理由は、察せられた。
 兄は、本当に、眠っているようだった。
「お兄様、結局、停戦の奏上の代償はお命だったのね」
そう呟いた。
「私、最後だけは、お兄様を守れませんでした。お兄様は私を女神とまで仰ってくださったのに…それなのに、最後だけ…」
そう呟き続ける私の頬に、やっと、厚いものが流れ始める。心に空いた隙間をなみなみと満たして、あふれた涙がやっと流れてくる。
「行くべきところに行きなさいと、おっしゃいましたよね。それが私には分からないのです」
兄からの返答は、ない。
「どこにも行くなとおっしゃいましたよね、そばにいろとおっしゃいましたよね。なのに、何故?」
私は、模造の魔剣を抱く手に触れて、でもすぐその手を引いた。温かかったような気がしたのだ。
「…?」
幾人のも人間が、命のないことを確認した。それなのに何故、生きている人間と同じぬくもりを感じるのかしら。
 うすら寒さを感じながら、その場から動けずにいると、大きくて、温かい気配が、ふわりと、兄を挟んで反対側に降りてきた。私は、すぐ、それが何であるか分かった。
「…お母様…」
兄の手を、最後はなした瞬間、私の中につめたいものが流れ込んできた。つまり、お母様は、あの瞬間に私から離れ、今までずっと、兄の傍についておられたのだ。兄は、停戦奏上の勇気を、お母様の手で促され、その場に立ったのだ。
 私の目にも分かるほどに、うっすらと、その影を持たれたお母様は、兄を、実に懐かしそうに、愛おしそうにご覧になった。私と同じように、兄の手に触れられて、もともとはそうであった、赤い花びらのような唇を、兄の唇に寄せられた。

 私が見ているのは、夢なんだろうか。
 兄が、目を開けたように見えた。お母様が促されるままに起き上がる兄は、お母様と同じように、うっすらとした影しかもっていなかった。本物の体は、礼拝堂の台の上に横たわっている。
 お母様がついと床を蹴り、浮かび上がられると、手を引かれるままに、兄も、体から完全に抜け出た。
 兄は握っていた手を手繰り寄せるようにしながら、やがてお母様を体の限り抱きしめた。そして、結ばれることが運命であるような二人が交わすような深い口付けを交わし、そのまま、二人は中空に消えた。
 そのあとで、兄の手に触れてみた。やはりもう、完全に冷えていた。


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