お兄様の代わりなんて、漠然とおもってはいたけど、真剣に考えたことなんかなかった。
それだけに、そのことを考え始めると、止まらなかった。
夜は誰にも平等に訪れてくれたけれど、眠りは私には訪れてくれない。
窓から眺め上げる月と星とは、ゆっくりと、でも確実に動いていて、見張りの交代する物音が、確かな時間の移ろいを教えてくれる。
「…ふぅ」
考えるのにも疲れて、窓枠にもたれ掛かろうとした時、
ときん。
小さく胸がなって、私は改めて背筋を伸ばした。何かの虫の報せなのかしら、いやなことでなければ良いのだけど。
見張りの交代の音がした。多分、これが今夜最後の交代だろう。私は、部屋を出て、物見にあがっていった。胸の鳴りは、まだとまらない。
物見には、若い騎兵達がいま別れて見張りに立とうとしていた所だった。
「あ」
少し安心した声が出た。私の護衛隊の面々だったからだ。もっともこの半年、戦いらしい戦いが無くて、退屈そうだったけれども。その中の二、三人が私を見つけて、声をかけてくれた。
「朝早くからご苦労様」
「姫様、もうお目覚めですか」
「いいえ、眠れなくて、いっそ徹夜してしまおうかしらとおもって、起きていたの」
「やっぱり」
騎兵達は一様に、何か合点の行った顔をして、袖を引きあった。私はなんのことかわからなくて、ついけげんそうな顔になってしまう。
「やっぱり、って、なにかあったの?」
「いえですね、実は昨日」
「待て」
騎兵が話を始めようとした時、私の後で声がして、騎兵は「わ」と声をあげた。振り向くと、この護衛隊の隊長が、苦り切った顔で立っていた。
「任務を忘れたわけではないだろうな」
「いやまさか、めっそうもない」
「ならば速く持ち場に行け」
騎兵達は、まだ何か笑いあいながら、三々五々、城の四方を見張りに散ってゆく。
「まったく、目を離すとすぐああなる。失礼な言葉でしゃべるなとも言っているのに」
「厳しい隊長さんね。少しおしゃべりしただけよ。許してあげて」
そう言うと、隊長は、騎士の徽章をかがり火にぼんやり光らせて、
「一見、安穏そうに見えますが、状況は累卵の上にあるのと同じこと。一時も、気は緩められません」
そう答えた。この人の言うとおり。その静かな気配は、かりそめのものでしかなくて、ただ戦闘がない、それだけの違いで、今も戦の真っ最中なのだということ。でもこの人が物堅いのは、戦闘のあるなしにかかわらずとは聞いているけれど。
まだ、朝と言うよりは、夜という時間だった。かがり火はまだまだその勢いを失わず、物見全体がその輝きで、ぼんやりと浮かび上がるように見えた。
「王女も、一度お戻りになって、きちんとお休みになられた方が。
まだ、朝まで間があります」
と彼が言う。でも私はかぶりをふった。胸の音が止まない。その理由がわかるまで、眠れそうにない。
「時々あるの、こんなふうに、何をしても眠れない夜が。
そういう時は、諦めて起きているの、朝になったら、眠くなるわ」
「左様ですか」
彼は、そういうことには興味が無いのか、それともそういうこともあるのかと感心したのか、どちらかの感情が入った声を出した。
「この見張りは、いつまで?」
「おそらく、朝までだと思います」
「交代まで、ここにいてかまわないかしら?」
「ご随意に。ただ、この頃冷えて参りましたから、これを」
彼は、自分のローブを取って、私に着せかけた。
「ありがとう」
そう彼の顔を見上げた時、かがり火の影が当たって、彼の顔に傷があるのを見つけた。
「どうしたの、その顔」
「顔、ですか」
彼は、しばらくいいよどんで、
「少々、ヘマをいたしました」
とだけ言い、私に背を向けた。おそらく、その傷を、私に見せたくないのかもしれなかった。
「まあ、キュアン様からものすごく大切にされて、私と年がほとんど変わらないの騎士叙勲を受けた人が、それでもヘマをするの」
私はそう言った。彼は気まずそうに、私を横目で見て、
「ヘマといういいかたは、間違いでした。
私は傷と引き換えに、王女の名誉を守ったのです。
騎士の誓約にしたがったまで、後悔はしていません」
「わたしの、ために?」
「はい」
忘れていた胸の音が、とん、と私を揺らした。
「でも、痛いでしょう? ライブ、しましょうか?」
と言ってみた。でも…いえ、やっぱり、彼はそれを断った。
「いえ、この傷は私のほこりです。この傷で、王女の名誉は守られた。それだけで、私は十分ですから」
「そう」
どこか、そう遠くない所で、ひゅう、と、茶化すような口笛がなった。私は、それ以上、彼の顔の話をすることをやめた。昼間の食堂のことを思い出していた。
「でも」
「はい」
「私のためにケガしたのなら、私になら、見せてもいいのよね、それは」
彼は観念したように、ゆっくりと振返った。最初はびっくりしたけど、よく見れば、ライブをしなくても、数日で消えるような傷だった。
「大丈夫よ。すぐ治るわ」
「ありがとうございます」
彼は軽く顔を伏せた。そして、いよいよこの話から逃げたい風情で、
「王女は、どうしてこんな場所にまでおいでに?」
と尋ねてきた。わたしは、特に隠すことでもないので、
「眠れないついでに、夜明けの青が見たかったの」
と言った。
「夜明けの、青、ですか」
彼は、それがわかったようなわからないような返事をした。
「そう。朝日が昇る前にほんの少しだけ見える、すごく綺麗な青なのよ」
「私のような武骨者には、夜明けはただの夜明けにしか見えませんが…」
「その時が来たら、教えてあげる」
私達は、ぼんやりと、空を見上げた。見知った星が西にかたむいて、朝が近いことを教えてくれる。
「もうすぐよ、すぐ終わるから、見逃さないでね…ほら」
私は、天頂を指す。果てもわからない深い夜の青は、その扉を閉じ始める。消え残った星は、まだ小さく瞬いて、空は一時、朝日が昇るまでの、静寂の青に染まる。
「綺麗でしょう?」
私がそう言って、彼の顔を見ようとした。でも、そこから先の言葉がでなかった。
彼はその色の中に、違和感なく溶け込んでいて、昇ってきた朝の光がその横顔の輪郭を浮き上がらせても、通り過ぎて行ったはずの夜明けの青は、彼の髪の光と瞳に、そのまま、とどまっている。
「本当に、一瞬でしたね」
その彼が、しみじみとした感慨をこめて言った。
「王女が教えてくださらなければ、私は一生、この風景を通り過ぎていたかもしれません。
…眼福でした」
そして、私を見た。細めた目の奥で、夜明けの青が深く光る。私の胸が、また鳴った。音、とは少し違うかもしれない。きゅう、と、しめつけられるような、そんな、決して嫌ではない拘束感。
そんな彼を、あっけにとられて見ていることしかできなかった私を我に返したのは、騎兵達の声。
「あーあ、眠みぃ」
「隊長、見張りの交代ですよ」
彼はその声に
「すぐ行く」
と返し、くるっときびすを返そうとした。私はあわてて、着ていたローブをとり、
「あ、これ」
返そうとした。しかし彼はそれを押しやるようにして
「今は急ぎますので、後ほど届けさせてくだされば結構です」
と言い、交代の部隊との点呼に駆けて行った。
私も、小走りに部屋に戻って、平伏のまま靴だけ脱いで、寝台の中に潜り込んだ。
私が眠っていたのだと思っていたのだろう、部屋付のメイドが朝の身支度の準備をしていたが、私が寝室に駆け込むのに、唖然としていた、そんな事もどうでもよかった。
綺麗な青。私が大好きな青。あの青を持つ人が、本当にいたんだ。それが無性に嬉しかった。
胸の音が嫌な予感でなかった安心感と、あたらしく気がついた、胸の不思議な拘束感が、寝台の中の私を、心地よく眠りに誘う。
「…おやすみなさい」
寝台の脇にかけたローブに、小さく声をかけて、私は目を閉じた。
約束の時間は、一年のはずだった。
しかし、その時間を待ちきれず、シャガールは動いた。
アグスティに近いマディノで、兵が展開を始めたという報告が入った。
半年。それが、こらえることを知らないあの男が待てる、極限の時間だったのだ。
そのシャガールを、アグスティ陥落直前に助け、マディノにいさせたのは、誰あろう、あの兄なのだ。信じたくないけれど、じかに面会ができたシグルド様がそう仰っていたのだから、間違いないだろう。
マディノに自分も因縁浅からぬ事を、知らないあの人でもないでしょうに。でも、アグスティをじかに狙えるもっとも攻略しやすい方向はマディノ方面なのだ。何の苦言も呈さなかったのは、シャガールへの騎士道か、それとも自分も動転していたからか。
しかし、兄はシルベールを動かなかった。ということは、兄にとってはシャガールの行動は予想の範囲外だったということか。使者を出したが、砦の前で門前払いを食らったそうだ。
私は、ますます兄の真意がわからなくなっていた。
とまれ、シャガールの軍勢は、じりじりとアグスティに向かって展開し、前進してくる。
「かなり好戦的な雰囲気が感じられます。こちらが防戦にでれば、大規模な戦闘になることは間違いありません。
また、オーガヒルの海賊も、この混乱に乗じて沿岸の村を襲い始めているようです。
できるだけ速い対応が必要と思われます」
と、地図をひらいてオイフェが言った。
「シルベールは沈黙したままか」
苦しいお顔でその先を促されるシグルド様のお隣で、奥様は細い体を一層折り込むようにされて、寄り添っておられる。お子様が生まれたばかりなのに、それをお祝いするヒマもない。
「おそらく、シルベールでも把握できなかったと思われます。今回関与してこないのは、準備ができていないからか、それとも、私達とシャガールの間で迷っているのか、それはわかりません」
「一年という時間を必ず守らせると、奴は約束したじゃないか。
きっと、シャガールはシルベールも呼応してここを挟撃すると思っていたはずだ。それができるとわかっているはずなのにシルベールが乗って来なかったのは、あいつのせめてもの抵抗で、シャガールにとっては誤算だったはずだ」
と、キュアン様。
「どうするんだシグルド? このまま、アグスティを包囲させておくのか?
シャガールの約定違反は明らかなんだぞ、シルベールの判断を待つ時間が、私達に与えられているとは思えない」
「そうだぜ大将」
待ちきれないというように、ベオウルフが口を挟んでくる
「ご主君様がどんな阿呆でも、それがご主君様であるかぎり裏切れねぇのがあいつの性分だ、半年で十分過ぎるぐらいわかってるんだろう?」
どちらも、兄の人となりをよくわかっての言葉なのだ。そして、それはシグルド様もよくわかっていらっしゃるようだった。
シグルド様は長らく黙っておられた。そして、一同が息を飲んで言葉を待つ中で、
「制圧するのではない」
と、口を開かれる。
「マディノにて、約定の期間を改めてお守りいただく為の出陣と心得てくれ。
…布陣をする」
しかし、シャガールの暴走は止まらなかった。説得の準備のため城に近付く途中、シャガールはマディノを放棄、あろうことかシルベールに逃れた。
結局軍を出さなかった兄を、おそらくシャガールは怒髪天の勢いでなじり、責めているだろう。
アグスティと、シルベールの間に、決定的に引かれた、埋めがたい溝。目眩すら覚えるような心持ちだった。近くて遠くなってしまったシルベール。すぐあえると信じていたそのひとは、今は余りにも遠すぎる。
「今度ばかりはシルベールからも、軍をださねばならないだろう。マディノを放棄した今は、シルベールのみが、アグストリアなのだから」
シグルド様のお声は、限り無く暗い。シャガールがシルベールに逃れた時と同じくして、アグスティから奥様が謎の失跡をされたのだ。その悲しみを押されての軍議。誰も、声を出さない。
私はノディオンから、兄の帰還について全権を預かってきた。三つ子の騎士や廷臣のみならず、城下の民のことごとくが、私と共に兄がかえってくるのを心待ちにしている。
兄は、確かに、今は不条理な辱めをこそ受けてはいないものの、シャガールのもとに束縛され続けているということは、捕われていることと、何のかわりもない。
私にとってままならないことは、それだけではない。
私は軍議の終わりに、シグルド様に呼ばれた。そして、いわれた言葉に愕然とした。
「君には、後営に下がっていて貰いたい」
シグルド様は、確かにそうおっしゃった。
「…え?」
「クロスナイツとの衝突は、避けられない事態になっている。
君等兄妹が争う姿は、私は見たくないんだよ。
…すまないが…」
そして、立ち上がり、私に頭を下げられた。
「君のためにも、何とか事態を押さえようと努めてきた。もっと強硬にアグストリアを管理せよというバーハラの言葉に逆らいもした…
しかし、戦いは終わらない」
「兄も、この事態は予測し得なかったのです。シャガールは、兄と一年待つと、約束したはずです。
その一年を守らせられなかった、兄はその責任も感じていると思います」
「その一年をもっと短くし、早く元に戻したいのは、私もおなじだ。
しかし、シャガール自らが、アグストリア早期平常化の道を自分で閉ざしたことを、どこまで気がついているのだか」
「シグルド様」
私は、いよいよ兄の意向を確かめたくなってきた。こんなに事態を難しくさせる一方のシャガールに、どうしてついているのか。
「どうか、私を前方に置いてくださいまし。私ならば、兄はきっと話を聞いてくださいます。
兄に会わせてください、決して足手まといには」
「それはできない」
お答えは、私の言葉が終わるのも待たない勢いだった。
「君は確かに、自分から志願して、この軍の将校の一人に名前を列ねていようが、大切な預かりものと思っている。君にもしものことがあったら」
「戦の成りゆき次第では、身内の不幸も余儀無いことと、そう兄より教えられてきました。 覚悟はできています。
それに、本来これは、アグストリアの中だけで処理すべきこと、それを私の独断でシグルド様キュアン様に援軍の申し出をしたのですから」
「しかし」
「シグルド、だから俺はいっただろう? 急に下がれといっても納得しないって」
キュアン様がおっしゃる。
「いいから、前方に置いてあげてくれ。最前線とはさすがに俺も言えないが、第二線ならいいだろう?」
「…」
「な、シグルド、後は俺とエスリンとオイフェに任せて、眠ってくれ。
何日起きていると思っている」
「そうよ兄上、お義姉様のことは、探してくださる方に任せて」
「そうもいかない…正念場なんだ。あいつもつらいんだ」
「馬鹿野郎!体調を崩さないのも指揮官の仕事のうちだ!」
すくみ上がる程の強いお声。驚いて、二三人入って来た兵士に、キュアン様はシグルド様をお部屋につれていくように指示をされた。抵抗なさるようなら、魔法や薬を使ってでも、眠っていただくように、とも。
「待ってくれ、キュアン、私は」
「ディアドラがいないと眠れないなんて、ナマな言い訳は聞かないぞ!」
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