お兄様とグラーニェ様のご結婚式を数日前にしたある朝、お母様は、夜、眠ったままのお姿で亡くなられていた。
お綺麗なお顔だった。お母様のお命が、本当になくなってしまわれたことを確認しにいらしたお医者様が、寝台の脇にある引き出しの手紙を持ってきてくださった。きちんとご自分の字で書かれ、ノディオンではなく、マディノの、お母様の紋章で封蝋されてあった。
結婚式の前に亡くなったら、お祝いの行事がすべて終わって、さらに一ヶ月後まで誰にも知らせてはいけないこと、遺灰はマディノとノディオンにわけて、ノディオンではお父様の近くに埋葬してほしいこと、墓碑は簡素にして欲しいこと、マディノにある、お母様名義の財産は、時局に急変がないかぎり、私が成人した時に相続すること、そんなことが書いてあった。最後に、私達の幸せを、永遠に祈ります、と。
グラーニェ様は目を真っ赤にしておられた。
「やはり、皆に知らせるべきと存じます…なさぬ仲とはいえ、私達のお母様。
式は、伸ばしてもやむを得ませんわ…」
「いや」
お兄様は、それをかぶりを振って拒んだ。
「何も望むことのなかったこの方が望んだことなのだ、できるだけ、遺言通りにして差し上げたい」
私は、そういう会話がかわされている中で、涙も出さずに立ち尽くしていた。これが、「覚悟」と言う言葉で培われていたものなのかもしれない。
前々から、お母様は、御自分の背中に迫っている何かの存在を、かくさず私に見せてくださった。知らずのうちに、この日が来ても動揺をしないように、無言で教えてくださっていたのだ。
その私の体を、後ろから、グラーニェ様が抱き締めてくださっていた。
「…とうとう…おひとりになってしまわれのたね…お可哀想に…」
背中が暖かくて、ほんのりといい香りがした。
「お強い子…私、お祖母様をなくした時には、こんなにしっかりしていられませんでした…」
グラーニェ様は暖かかった。あたたかさと優しさが、背中伝いに一気に流れ込んできた。
「…」
私達を見るお兄様の顔が、急に歪んできた。溶け出したように、涙が出てきた。肩に回された手を握りしめていた。
「…お姉様…」
その言葉が自然に出てきていた。涙が止まらなかった。歪んで見えるお兄様は、お母様の顔をじっと見つめたまま、ずっと、唇を噛み締めていた。
お母様の遺言は、忠実に実行された。
その日が近づくほどに、遠方からお招きしたお客様がお城にいらっしゃってにぎやかになり、式も、予定通りに執り行われた。誰もが、お二人をこれ以上の似合いはいないと誉めそやした。
お姉様のお話によく出ていらっしゃる、レンスターのキュアン王太子様をはじめてお見受けした。晴れの日が多くて、暖かいといわれているレンスターのお国柄を、そのままここに持ってこられたような方だと思った。残念だけど、お妃様はお姫様が生まれたばかりでお留守番だそうだ。
お兄様は、シグルド様と三人、たいへん楽しそうにしていらっしゃる。朝になるまで、浴びるように飲もう、そんな言葉が聞こえた。
そして、その直後から、ぽつりぽつりと手紙が届けられるようになる。手紙の文例集をまるうつしにしたような、交際の申し込みが何通か。エリオットからの物ももちろんあった。こんな手紙を突然よこされてもどうしていいかわからない、と私がぼやくと、
「お年頃ですもの、それでよいのですよ」
と、お姉様は至極当然のお顔だった。
「あなたは、そうやってお手紙を下さる中から、しかるべくお相手を決められてもよろしいし、もしそれがおいやなら、陛下にお願いして、お嫁に行く先をみつけていただくの」
「…はぁ」
私は生返事をした。
「お姉様は、どうなさいましたか?」
「私?
私は、早くから、こちらに来ることが決まっておりましたから、知らずに送られて来たお手紙は、全部お断り致しました」
「はぁ」
私はまた生返事をした。なんとなく、説明されても実感がなかった。
「もしかしたら、陛下はもう、お探しになられているかもしれませんね。大切な妹姫様を、安心してお任せできる方を。
ええ、陛下が選んでくださる方なら、きっと幸せなお嫁入りができますわよ」
お姉様は、幸せそうだった。幸せそう過ぎて、目がくらみそうだった。
その話をすると、お兄様は
「それでなんだ、お前もどこかに行きたくなったか」
と、書類に目を通しながら、くつくつ笑った。
「そうじゃありません」
茶化されて、つい頬があつくなる。お兄様は
「グラーニェがうるさいか? 釘を刺して欲しいか?」
と聞く。
「いえ、お姉様はご好意で仰っているのですから。
でも、政略結婚の道具にはなりたくないことだけを、はっきり言っておきたくて」
「なるほど」
お兄様が書類から目を上げた。椅子に背を預け、腕組みをしながら、
「気持ちはわかるが、難しいな」
と言った。
「俺が直々に確認するのは問題があるが、話にきけば、お前にもヘズルのしるしが出ているそうじゃないか」
「はい」
私に見える場所にはないからこれにも実感はないけれど、背中に、薄く、剣の形にみえなくもない形のアザがあるらしい。
「庶子とはいえ、聖痕つきの王女を嫁にとるというのは、他のどの国にとっても箔のつくことだ。ヘズルの姻族になるわけだからな。
で、その交際の申し込みはどれだけ来たんだ?」
「ほんの、数通です」
「お前はまだ公の場所に出るようになって日が浅いから、それだけで済んでいる。
だがもし、何かの折でアグスティにいったら、俺は考えるだに恐ろしい」
お兄様の顔が急に真面目になった。きっとその、恐ろしい考えを想像しているのだろう。
「とにかくだ。
俺はまだ、お前をどこかにやってしまおう等と、考えてはいないぞ。
今そんな事をしたら、お前を厄介払いしたいように見えるからな」
「…はぁ」
「だが、お前がすぐにでもどこかに行きたいというなら話は別だ。
誰だ? やっぱりエリオットか?」
「お兄様!!」
私は、思わず声を高くしてしまった。お兄様は、その混ぜ返しがよほど自分の琴線に触れたのか、机に突っ伏すほどの大笑いをした。その後、お兄様は改まって
「安心しろ、エリオットについては、何があっても願い下げだ。あんな奴が俺の義理の弟になるなど、虫酸が走る」
と言った。
「しかし、なまじ聖痕があるだけに、お前の縁組みには苦労しそうだな」
「聖痕が、邪魔なのですか」
「もし俺達に子供ができない場合、お前に魔剣継承の大役がまわってくる。お前のように、弱いながら聖痕があるものを探して、嫌でもその相手と結婚せねばならない。
その結果、魔剣が継承できる子が出来ればいいのだが、これも必ずと言うわけではない。
アグストリアは、そもそも魔剣のもとに集った連合なのだからな。それが維持できないというのは、アグストリアは崩壊の危機に直面することになる」
「そうなのですか」
なんだか、背中がむずむずしてきた。消せる方法があれば、とも思った。私が望んでいるのは、おとぎ話にあるような幸せのための結婚。でも、私自身がその障害になっているだなんて、なんて皮肉な話だろう。
「もしお前にそれがなければ、どこにでも行けるのだがな。
たとえば、いつかグラーニェが話していた、キュアンが目にかけている見習い騎士とか…
そういう男でも、お前が望んで、俺の首実検に合格すれば、いってしまってかまわないんだぞ」
いきなり具体的な例をだされても、その人がどういう人かもわからないのに、私はただ困るだけだった。私は、私が誰とその人を理解して、納得ができなければと言っているのに。
お兄様は、私が難しい顔をしたままなのがよほどおかしいのか、少し笑いを含みながら言った。
「だから言っているだろう。お前はまだ、どこにも行かせない。
さっきのアグストリアの危機も、まだまだ回避できる余地は十分にある。まだ俺達に子供はいないのだからな」
「…はい」
「家臣達が望む通りに、グラーニェから、継承が発動しそうな濃い血の子供でも生まれてくれば、だが」
「お姉様は、まだご懐妊されないのですか?」
私がつい尋ねる。お姉さまのサロンにお邪魔するたびに、周りのご婦人方が「まだでございますの?」とおたずねになり、そのたびにお姉様は真っ赤になってしまわれる。お式の前にも十分にお時間もございましたし、お式がすんでももう幾月ほどかたつから、懇ろであればもう、と仰るご婦人もいた。でも私は、お姉様から
「みんなああ仰っておられるけど」
と、耳打ちのように聞かされていた。
「陛下は本当につつましくていらっしゃって、お式の前に私のお部屋にお泊まりになったことは、一回もありませんでしたのよ」
とにかく、私の問いに対して、お兄様はむっすりとした顔で椅子から立ち上がり、こつん、と、指の先かで私の頭をつついた。
「あ」
「お前まで、家臣と同じ圧力をかけてくるんじゃない」
「お兄様にご信心が足りないのですわ。お姉様みたいに、神さまに真剣にお祈りなさらないと」
「黙りなさい」
お兄様が、私の目をにらみつけてきた。少し恐くなって、やっと私の口も閉じる。
「お前は、自分の結婚について相談をしに来たのではなかったのかな」
「はい。…でも」
「俺達の子供のことは、俺達で考える」
お兄様は
「グラーニェには、私から言っておこう」
そう言い、三つ子の騎士が新しい書類を持ってきたのを口実にして、私を部屋から出した。
確かに、お姉様をお迎えするときに、私はこう言ったことがある。
「ノディオンには砦の聖戦士ヘズルの血が流れている。その血を絶やさないことは血を伝えるものにとっては義務に等しい」
と。
でも、それは頭の中だけのことだった。具体的に、それがどう言うことなのか、話を聞きはするけれども、私は分かったようなわからないような心持ちでいた。まだ完全に成人しきらない私には、まだ遠い話とされていたのかも知れない。
だって、神様の前で誓った二人が、もっと真剣にお祈りさえしていけば、神様と砦の聖戦士さまがお話し合ってくださって、それでお子様が生まれてくるのだと、私は信じきっていたのだから。
お姉様は、物語の継姉のようなそぶりはかけらもなく、
「私、姉妹も兄弟もなくて、小さいころは、妹が欲しいと親にねだって、困らせたものでしたわ」
と仰って、私を本当の妹のようにかわいがってくださった。
お兄様をひとりじめしているようだからと、お兄様といらっしゃる時でも私を呼んでくださったりした。レンスターから、昔お召しだった服を取り寄せてくださったり、本を貸してくださったり、レンスターの言葉で、歌を教えていただいたりした。
後になって、それがとても美しくて切ない恋歌だとわかって、お姉様がどれだけ、このノディオンとお兄様の元にいらっしゃりたかったか、身にしみるほどに思われた。
「最初は、不安もあったが、仲が良いようでなによりだ」
と、お兄様が言った。
「強い子だから、グラーニェと喧嘩しはしないかと気を揉んだりもしたが、心配するまでもなかった」
「まあ、お兄様、そんなこと考えていらしたのですか?」
「当然だ、お前が、母上と俺とのことを心配したのと、なんら変わらない」
お兄様は、私の角口にいかにも、と言う顔をした。
「…あの時、思いきってグラーニェを迎えて良かった」
「ま」
お姉様が目を細めて、口元に手を当てられた。
「家臣達の期待は相変わらずなんだがな。もっとも、今度は『おはやくお世継ぎを』だが」
「もう、陛下ってば」
お兄様がくすくすと笑う隣で、お姉様が顔を真っ赤にされる。そのお二人の顔には、お母様が亡くなったということなんて、残っていないように見えた。あの時、お兄様もお姉様も、あんなに悲しそうだったのに。私は、二人の前では元気でいられるけど、まだ時々、一人でいる時には泣いてしまう。
「ねえ、お兄様? お母様のこと…」
そう口にだしかけた。でも顔をあげた時、お兄様は、お姉様に誘われるままに部屋を出た後だった。
「今夜は、お妃様のお部屋にいらしてはいけませんよ」
夕方、ばあやが私にそういった。
「どうして? そろそろお借りした本を全部読んでしまいそうなの。
次を早く読みたいのだけど」
と返すと、ばあやはすこし困った顔をして、
「とにかく、今夜はいけません、いいですか姫様」
と言った。
でも私は、すぐそんな事を忘れていた。悪い魔法使いがドラゴンに護らせた高い塔に、お姫様を閉じこめてしまった。本はそこで終わっていた。思わせぶりな終わり方で、私はどうしても、読み上げた興奮の残っているうちに、続きを読みたかったのだ。
「大丈夫かな…」
窓から、ちょうど反対側になる、お姉様の部屋のあるあたりを見た。まだ明かりは消えていない。本を返して、続きを受け取る。それだけなら、大してお邪魔にもならないだろう。私は自分勝手に理由を付けて、部屋をこっそりと抜け出した。
お城の中の、大部分の明かりは落ちている。悪い魔法使いやドラゴンが、そこの角や使っていない部屋から出てきはしないか、そんな事を思いながら、小走りに、お姉様の部屋に急いだ。
お姉様のお部屋には、人の気配はしたけれど、侍女の姿がなかった。やっぱり、おやすみになってしまったのかしら、と思いながら、続きになっている寝室をのぞいた。
なぜかそこに、お兄様がいた。私の見ている方からは、背中しか見えなかったけれど、その背中にうきあがる剣の形のアザは、お兄様しかいない。
結っている髪を解かれて、お姉様は、俯いてなにかおっしゃっているようだった。お兄様は背中を少し揺らして笑い、お姉様はその言葉に遠目にわかる程顔をそめられて、ついと、お兄様の体に顔を寄せられる。お兄様は、そのお体に手を回して、そして…
私は、瞬間的に、声をあげそうになった口を手でおさえて、扉の脇にへたり込んでいた。そのまま、寝室に背中を向ける。走った訳でもないのに息が浅くなる。結局、お二人に気付かれなかったのは幸いだったけれども、私のいることを二人ともご存知でないということは、遠慮するような振る舞いは何もないということだ。物音だけでは、何もわからない。でも、声は時々、ため息のように聞こえてきて、それを聞くとはなしに聞きながら、私は、体のふるえがおさまるまで、その場所を動くことが出来なかった。
動けるようになってから、そろそろと、部屋を出てからは全速力で、私は自分の部屋に戻っていた。
なぜか、本も持って帰っていた。
目が冴えて眠れなかった。頭が冷えはじめた時に、「そういうことなんだ」と、妙に納得していた。跡継ぎを作るって、家臣は口で簡単に言うけど、…ただのお祈りじゃ、神様は祝福してくださらないんだ。お兄様が、あの部屋にいて、お姉様の寝台にいなきゃいけない、ものすごく特別なお祈りなんだ。
私も、お父様とお母様のあの特別なお祈りで生まれてきたんだ、お兄様とお姉様も、ああしているうちにお子さまができて…
私も、いつかは、そうするのだ。そうしないかもしれないけれど。でも、その時は、自分のことなんて、考えがおよびもしなかった。動転ついでに脱線していたのだ。
これまで、さまざまに、楽しそうにしていらっしゃるお二人のお顔が浮かんだ。
お母様がなくなったのに。
お兄様が、あんなに大切にされていたお母様が亡くなったのに!
複雑な感情が、もろもろと私の体の中を駆け巡る。その感情に呼応するように、体の内側がうずうずと痛くなってくる。体を丸めて、私は無理矢理寝た。
それから二三日は、お二人の顔を見る私の顔は、少しく引きつっていたかも知れない。そそくさと本をかえした後は、続きを借りることをためらってしまった。だから、本の続きはわからない。ドラゴンの塔に閉じ込められた姫君は、一体誰が助けに来たのやら。
遺言通り、お母様の死去は、ご結婚のお祝いに関するすべての行事が終わってから一ヶ月経って公にされた。ご遺骸は既に灰にされていて、お城の中の礼拝堂でお祈りが捧げられて、お望み通りの小さい墓碑の下に埋められた。
御葬式までの二三日と言うもの、お兄様は、今まで見せていた笑顔を見せなかった。
「家族として…父上が出来なかった分も、あつく見送りたい」
お兄様は、御葬式の準備を手伝う家臣達に、そう言ったそうだ。
私は、それまで、一人になると時々泣けてしまうのを、止めようと思った。
なにより、お母様は涙がお嫌いだったもの。
すべての予定が終わった夜に、お兄様がいない、とお城が騒ぎ始めた。ご自分の部屋にも、執務室にも、お外にもいないと。姉様も、心配そうなお顔をされる。三つ子の騎士は、既に城をしらみつぶしに探し始めたらしい。
でも私は、心当たりが有るような気がして、
「お兄様を探さないで」
と言いおいてから、お兄様のいるだろう、あの場所に走った。
私の思っていることが正しければ、お兄様は、お母様のお部屋にいるはず。臨終の時まで、お兄様をいれて差し上げなかった、お母様のお部屋に。
案の定、だった。
お兄様は、お母様の部屋の、寝台に座っていた。お父様が描かせたのだろうか、お若い頃のお母様の肖像が壁にかかげられているのを、ろうそくの明かりだけでじっと見ていた。
邪魔をしてはいけないような気がした。声をあけあぐねていると、私の気配が分かったのか、振り向いて
「本当に、いなくなってしまったのだな」
と、言った。
「一ヶ月以上、忘れていられるかどうか…グラーニェと話し合って、試していたつもりだ。作法にある喪の期間が過ぎたら…俺はクレイスの事など、最初からいなかったようにふるまわねばならん」
「そうですね。王様が暗いお顔をしていたら、みな心配しますものね」
と言うと、
「よそ事のように言うんだな、自分の母親のことだろう」
と、返された。
「私は、お母様の為に泣かないと決めたんです」
そう言うと、お兄様は
「相変わらずだ、強いな」
と小さく言って、
「…だが、クレイスも同じことを言っていたな」
「そうなんですか?」
「王宮仕えは、楽しいことだけではない。辛いこともあるけれど、自分は泣くことは絶対にしないと。
今にして思えば、あの頃あたりから、父の愛人になったのだろうな」
お兄様は、顔をあげた。
「一度は宮廷を離れたはずなのに、俺はクレイスをここに呼ばずにいられなかった。王となって、最初で最後のわがままを通した」
そして、真剣な顔で、私に向き直った。
「お前の都合で対面上義母として王妃と呼ばせるようにしたが、それでよかったのか、もう聞くことも出来ない」
「ノディオンからお兄様のお手紙が届いた時には、嬉しそうでいらっしゃいました。お兄様がなさった扱いに対して、お母様は何も仰ってはくださいませんでしたけれども…」
「そうか…やっぱり、強がらせてしまったのかな」
私が返すと、お兄様は何か、納得したような、諦めたような、そんな顔で、お母様の絵を見上げた。
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