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 お兄様は、何かの事情があったらしく、マディノの粛正がおわっても、しばらく城に帰って来なかった。だから、大々的な凱旋式はなく、玉座の間で自ら帰ってきたことを報告するだけだったらしい。
 その間聞いたことといえば、マディノ王家は、イムカ様により取り潰されたそうだ。でも、お祖父様はご無事で、そのイムカ様から直々に、マディノの治安維持を託されたそうだ、私達はそれを聞いて安心した。
 そして初めて、私達とお兄様との、公式な対面の席が設けられた。
 初めて着る、レースの沢山ついたドレス。流したままだった髪も今日だけはかわいらしくまとめられて、お母様と私は、何人か、えらそうな人たちがいる中に通された。
 お母様は、実質的に王妃として扱うように言われていたから、お椅子をすすめられてはいたけれど、えらそうな人たちは、私達の顔を見て、何かひそひそ話し合っている。お母様は、顔をうつむけがちにしておられる。少し、恥ずかしそうというか、寂しそうだった。
 あの三人の騎士の誰か一人が入ってきて、
「陛下のおなりです」
と言うと、皆、入り口の方を向いて立ち上がり、頭を下げた。残る二人の騎士の後に入ってきた人物の顔を見て、私は思わず
「あ!」
と声をあげていた。えらそうな人たちが、さっと私を見る。お母様が、「静かにしなさい」と言いたそうに服を引かれたが、私は、静かにするどころか、頭を下げることすら忘れていた。
 入ってきた人物…それは私がマディノでであった貴族と、顔かたちか゛寸分も違わなかった…は、ことさらに私を見て
「ひさしぶりです、姫」
といいながら、私達に改めて座るように、椅子を勧める。
 マディノであったノディオン貴族、それがまさしくお兄様本人だったなんて!
 お母様が視線でとがめるのもわからずに、私は
「ひどいわ、どうしてお兄様だって、あのとき教えてくれなかったの?」
と聞いていた。
「あそこで、私がノディオン王だとわかると、すこし面倒だったからだよ。あの時は、イムカ様から命じられた仕事をしていた所だったからね」
と、お兄様は答える。そして
「…一人で、よくここまで来ようと思ったね。強い子だ」
と言った。その時の微笑みがちくりと、私の胸をさす。旅の間は本当に気にならなかったけれど、立派な王様の服を着たお兄様は、話で想像していたより、ずっとお綺麗だった。
「…ええ、だって、お兄様とお母様と、本当に仲良しになれるか、心配だったもの。私が嫌いになる人なら、絶対駄目だと思ったもの。お母様はお体が弱いから、大切にしてくださる人じゃないと、駄目だもの」
「もちろん。大切にしたいから、私は君と母上をここに呼んだ。父上が何もしてあげられなかった分も」
お兄様は、満足そうに笑いながら、今度はお母様に話し掛けた。
「妹を、よくここまでにしてくれた…礼を…いや、その前に、ここに呼べなかったことを、許してほしい」
「勿体ないお言葉です」
お母様は、恭しく膝を折られた。
「何もわからぬままにマディノにあった田舎者の私達をお気にかけてくださって、感謝の言葉もございません」
「気兼ねは要らない。これからは、ノディオンにいてほしい。
 君たちは大切な…私の…母と妹だ」
お兄様は、お母様をとても懐かしそうな顔で見た。

 お母様はもともと、お父様の侍女であり、そのお仕事は年の近いお兄様のお遊び相手にすぎなかったと、それは伺っている。
 そして、お父様はお妃様(お兄様の本当のお母様)を亡くされてから、正式に新しいお妃様を迎えられなかった。家臣の中には、何度か、お妃としてご自分のお身内を勧めたようではあったけれども、ご寵愛はどれも実を結ばず、子供…つまり私ができたのは、ただの侍女にすぎなかったお母様ただ一人だけだったのだ。
 お母様は、十四で私を身籠られて、認知状とともにマディノに帰された。厄介ばらいというよりは、あまりにお母様がいたいけすぎて政争に巻き込ませたくないお気持ちがかったようだと、おじい様は仰る。
 お兄様は、お母様をずっとおそばから離さなかったそうだ。でも、お母様がいなくなってすぐ、許嫁が決められ、士官学校に入られたという。
 そして新しく国王として即位したお兄様が、妹の私がいるという理由だけで、お母様を、お妃様と同じ扱いにしたのことに、少々の揶揄もないではない。お兄様に直接言うことができない代わりに、お母様への風当たりも優しくはなかっただろう。
 どうしてそうなったのか、そうされねばならなかったのか。それを理解できるのはもう少し後になってからの事で、ノディオンで十二歳を迎えた私には、まだ難しい話だった。

 とまれ、私の新しい生活が、ノディオンで始まった。
 ノディオンの城は、マディノの家よりもずっと広くて綺麗だった城の西の棟は、私とお母様がいつでも住めるように、前々から準備が整えられていたのだ。綺麗なお庭もあった。お母様はこのお庭がすぐお気に召したと言う。ここには、お母様の好きな季節の野の花がたくさん植えられていた。
 その花が折々のいろどりを見せるのを、部屋からなんとなく見ながら、私は、宮廷絵師が、私の肖像画を描くために、その場所にじっとしていなければならなかった。
「ねえ」
と、私は絵師に尋ねる。
「あなたの絵の具の中に、青い色はどれだけあって?」
「いろいろとございますよ、絵でも始めになられますか」
絵師はカンバスに向かいながら、楽しそうに言う。でも私はかぶりを振って、
「絵の具を見ていい?」
と尋ねていた。絵師が席を立ち、「こちらです」と、絵の具のはいった小さい入れ物をたくさん持ってくる。
「姫様のお衣装はどの色にいたしましょうか、どの色も姫様のかわいらしさを消してしまうようで、いろいろと考えてしまいますよ」
絵師が、入れ物をつまみあげながら、私の顔色とつき合わせる。でも、私の興味はそこにはなくて、いつか見た青と、同じ色がないか探していた。でも、近いと思うけど、同じと思える色はなくて、すこし拍子抜けしながら、私は絵の具の箱を絵師に返した。絵師は私が青の絵の具ばかり真剣に見ていたのにそう思ったのか、
「姫様は青がお好きですか」
と言う。
「ええ。でも、私の一番好きな青は、この色の中にはなかったわ」
「それは残念でございました」
しばらくして、出来上がってきた私の絵は、青の小花が散らしてあるドレスを着ていた。それはそれで気に入って、「絵と同じドレスを作って」を、出入りの仕立て屋を悩ませたけど。

 お母様は、ノディオンにおいでになってからは、いつも笑顔でいらした。お兄様と、私と、三人でいることが、本当に嬉しそうでいらした。
 でも、夏が終わり、秋の声を聞く頃になったら、夏の暑さがこたえてきたのか、またおからだの調子が思わしくない。ノディオンで招かれたお医者様は、お母様の体をよくよく調べてくださって、適切なお薬や治療をしてくださって、少しずつ元気におなり始めたと目に見えてわかってきていただけに、ご様子がまた思わしくないのは、本当に心配だ。私の眠る前のお祈りは、お母様の体の事ばかりだった。

 暑くもなく寒くもなく、お庭をお歩きになるのはこれ以上はないほどの気候なのに、お母様はなかなか、それもできない御様子だった。
 それでも、お兄様とお会いになる時は、精いっぱい装われる。少々おつらくても、お兄様のお話は、いつも笑顔でお聞きになっていらした。
 お兄様は、お仕事の忙しくない時は、極力私達の側にいる。今までの時間をうめるように。私がお勉強の時間になって部屋の中にはいっても、窓の外からは長いこと、お二人が話ししていたのが見えた。何を話しているのだろうと思ってはいたが、きっと昔の思い出話をなさっているのだと、私は無邪気にもそう思っていた。
 でも、それは子供だったわたしの完全な思い込みであり、真実はある秋の深まった日、日だまりでお茶の時間を過ごしている時に明かされた。

 その日、お母様は、傍らの花を一本手折られて、それをくるくるとまわしておられる。なんか、言い出したそうな、でもそれが恐いような、ためらいのしぐさだった。
 しばらくそうしていたあと、
「陛下」
と仰った。
「たびたびのお申し上げで、苦言かとは重々承知しております。
 ですが、ご家臣の皆さま、皆私にご心配を申し上げられます。
 どうか、グラーニェ様のお話をお進めになってくださいまし」
初めて聞く名前だった。なんのことかわからない、きょとんとした顔だろう私の前で、
「…」
お兄様は、急に難しい顔になった。私の前で話すことではない、そんなことを言った。
「ですが、即位と前後して御結婚と言うお話だったと伺っております。ご即位になって大分おなりなのに、何もご行動がないのは、先様に失礼でございましょう」
「しかし、まだ父上の喪が」
「私のことをお聞きおよびになったレンスターのカルフ陛下から、継母として口添えを、と、切々にお言葉を賜りました。先様は陛下のご即位をお知りになって、ここにいらっしゃる日はいつになるのか、それはおまちかねと…
 グラーニェ様を、お早くお迎えくださいまし… それが何よりの、ご家臣の皆様の御安心と、ノディオンのご安泰に繋がるかと…
 王妃の椅子は、どうか、グラーニェ様のためにおあけくださいますよう。クレイスの覚悟はできています」
夕方の風が、さっと走るようにやってきて、お母様は急にせき込まれた。
「お母様!」
揺らぐお体を支えようと、私が手を差し伸べようとしたけれど、間に合わず、お母様は流されるように、お兄様に身を預けられる。お兄様は、とても悲しそうな顔をして、軽々と、お母様を抱き上げた。
「部屋に入った方がいいな」

 お医者様の手当てを受けられて、お母様は今は安静にしておられる。このまま、ひどくなってしまわなければ良いのだけれど。
 そして私は、眠る前のしばらくの時間を、お兄様が政務を執られる執務室に呼ばれていた。私達の前には、ユグドラル大陸の地図があった。お兄様が厳かに言う。
「昼間、母上が仰ったように、君には姉上になる方を、早晩私は迎えねばならない」
「はい」
つまり、グラーニェという名前は、そのお兄様の本当のお妃様になる方のお名前だったわけだ。うなずく私の前で、お兄様が、地図の東の一点を差した。
「この…レンスター王国から、その方をむかえることになる。現在のレンスターの国王はカルフ陛下というが、その方が、レンスターにとっては宝とも言える、王太子妃となってもおかしくない方をご紹介下さった。文通ばかりだが、もう十年ばかりの知己になる」
「はい」
「政治のために、形だけ行われる結婚だ。確かに、私とグラーニェ嬢は言葉の上だけだが知己の間柄だ。しかし、政治のための結婚と思うと、嬢に申し訳なくも思っている」
政治のための結婚と言われても、私にはぴんとこなかった。だって、私が知っている結婚は、おとぎ話の中のだけのもので、それはほとんど全て、いつまでも二人が幸せに暮らすためにと書かれているのだから。
「私は今、判断に迷っている」
地図から顔を上げて見たお兄様の顔は、本当に切なそうで、戸惑っていた。
「…俺は何より…クレイスの…お前の母上の体を第一に考えたかったのだ。まだノディオンに来て日も浅いというのに、このうえグラーニェ嬢を迎えたら、彼女の負担になりはしないかと。そうなるのならばもうしばらく、先に伸ばしても良い、と」
お兄様は、その実、お妃様を迎えるのが嫌なのかも知れなかった。
 侍女は、子供の私の前では隠すまでもないことと言うように、お兄様のことをうわさする。お兄様は、ほとんど年の替わらないお母様を、昔から好きだった、と。だから、王様になって、わがまましてお母様を呼んだのだと。
 お母様も、直接的な言葉にはしないけれども、きっと多分、今でもお兄様が好きなのだ。お年でも、お二人の間は四年しか違わない。
 でも、お兄様のためになるから、お妃を迎えなさいと、言ったはずなのだ。それがお母様の本当の気持ちでなくても、お母様はそれを仰らなくてはならない立場なのだ。
「お母様は、お兄様のことを思って、おすすめになったのだと思います。お母様が、お兄様のためにならないことをお勧めするとは、思いません。
 私は、お母様の仰るとおりになさったほうがいいと思います」
「え?」
お兄様は、お母様のために、いやがってほしいことを期待していたのかも知れない。意外そうな顔をした。
「お母様から聞きました。ノディオンには、砦の聖人様のひとり、ヘズル様の血が受け継がれていると。お兄様にはヘズル様から伝えられたミストルティンを、後々まで受け継ぐ大変なお仕事があると」
笑ってみせた。その「大変なお仕事」の中身がその時わかっていたら、私は一体なんと答えただろう。私は、廷臣と同じように、「ミストルティン継承のために、早く結婚して子供を作りなさい」と言ったのと同じなのだ。
 お兄様は、あぜんとした顔で私を見て、しばらく考えていた。それから、私から顔を背けた。
「なるほど、お前は本当に強い子だ」
「はい。だから、私とお母様のことは心配なさらないで」
無邪気にも、私はそうとも言った。お兄様は深く溜め息をついた。
「わかった。お前までが言うのあれば、俺の方が間違っていたことになる。
 グラーニェ嬢を迎えよう。
 ありがとう、決心がついた」
お兄様は、薄暗がりの中で、少し控えめに笑っていた。
「さあ、もうおやすみ。
 エッダの神に、母上のご病気が早くよくなるよう、よくよくお祈りしなさい」
「はい、おやすみなさい、お兄様」
私は、ちょんと膝を折って、執務室を出た。
 私は、まるで鞘を無くした抜き身のナイフのように、無邪気だった。

 その翌日には、お兄様は、まるで吹っ切れたように家臣一同の前でグラーニェ様を迎えることを宣言し、その場で使者がレンスターに送られた。私はその有り様を、玉座から一段おりた王女の椅子から見ていた。
 家臣は一様に安堵の顔を浮かべていたが、空席の王妃の椅子に、もしお母様がいらしたら、どんなお顔をなさっただろう。

 そして、遠いレンスターからいらしたお姉様になるグラーニェ様は、お母様より二つ三つお年下と聞いていたけれど、お背がすこし小さくて可愛らしいお方だった。
 まだ、お父様の喪はあけていなかったから、正式な結婚は少し先の話になる。それでも、ご入城の式典は相応に華やかに行われた。
 お母様は、ご自分から王妃の椅子を遠慮され、私の隣に、椅子を用意させて、そこに座っておられた。今思えばその椅子は、私よりも下座にすえられていたかもしれない。
 お兄様が、グラーニェ様の手を取って、隣の王妃の椅子に座らせるのを、お母様は目を細めてご覧になっていた。そしてその日から、玉座の間においでになることもなかった。

 式典を一通り終えて、私達四人は、国王とその家族のための空間にいた。お母様は遠慮なさろうとしたが、お兄様はそれをあえて、とどまるように言った。
「もっと早くお迎えすべきでしたが、何分に国内の情勢が不安定なことに加えて父の死去が重なりまして…申し訳ありません、お待たせいたしました」
そう、お兄様は四角張ったことを言う。グラーニェ様は満面に笑みをたたえられて、
「いいえ、今までのことは今日、全部忘れることに致しましたわ。長くの夢がかなったのですもの、これ以上何を求めましょう」
と仰る。とても綺麗なお声だった。私の側で、お母様は、お二人を笑ってごらんになっていらっしゃる。お兄様は、それが手紙の中での本当の口調なのだろう、少しくだけて、
「キュアンは元気にしているのだろうね。士官学校では学ぶ方向が違ったから、一足先に卒業して行ったが。結婚式以来会ってないな」
「はい、機会があれば一度ノディオンにも、とはよく仰っておられましたけれども、なかなか、それもできないご様子で… カルフ様もそろそろ、本格的なご譲位をお考えなのではないかと、うわさでは伺っておりますわ。
 そうそう、キュアン様といえば、お妃様がご懐妊ですって、ご存知でした?」
「それはこの間、シグルドから聞いた。今ごろ、祝いの使者が到着しているのではないかな」
「お城では、今から、王子様か王女様か、はたまたノヴァ様のみしるしがでるかどうか、予想で持ち切りでしたわ」
グラーニェ様は、その情景を思い出したのか、くすくす、とお笑いになった。
 私は、すこし、羨ましいな、と思った。キュアン様については、まだ話にしか知らない方だった。バーハラの士官学校で、お兄様の大切なお友達のお一人だった方なのだとか。今も時々このお城にいらっしゃって、お兄様とお話をして行かれる、もう一人のお友達シグルド様の妹姫さまをお嫁にされたというのも、聞いていた。
 士官学校がお休みの間に出会われて、卒業されてすぐご結婚なさったと聞いて、私が知っている、おとぎ話の中のような幸せのための結婚の例が、一つ現実にあるのだと思った。お二人がとても幸せだから、エッダの神さまが祝福下さって、お子様が生まれるのだろうなと、そう思った。
 でも、お兄様は政治のためにグラーニェ様を迎えられる。意味はわからないけれど、お兄様の振る舞いで、そうであろうことは、なんとなく思った。
 お二人の間に、よそよそしい振る舞いはない。言葉だけでも、十年という時間があって、それが自然と二人の距離を縮めていたのだろうなとおもった。二人がこのまま仲がよければ、「しあわせ」も、きっと、後からついてくるに違いない、とも。
 とにかく、グラーニェ様は、お笑いになって少しお苦しくなったのを鎮めるように、胸に手を押さえられた。
「なかなかお妃様と水入らずでお話になるのもかなわないと、それだけがご不満のようでしたわ。なにぶんに初めてのご懐妊で、何があるかわかりませんものね。
 そのかわりなのかしら、先頃亡くした側近のご子息を、弟同然にお目にかけていらっしゃるそうですわ。王太子宮殿に住まわせて、お手ずから教練をされているとか」
「それは奇特な。男には愛想が悪いと、士官学校では有名だったのに」
お兄様とグラーニェ様は、お二人して声を上げて笑われた。私も釣られて笑いそうになった所で、後でつい、とお母様が私の服を聞かれた。
「お勉強の時間が近いでしょう、そろそろお二人にして差し上げなさい」
「はい」
振り向いて見た、お母様の顔は少し白かった。私は、経験から、お母様のお加減が悪いと直感した。
「大丈夫ですか、お母様?」
「大きな声を出してはいけません。少し冷えただけです、横になればだいじょうぶ」
「…はい…」
私は、お兄様を振返った。あちらの話は笑い声もまじえながら、まだまだ尽きる様子はなさそうだ。私は、お母様を支えるようにしてゆっくりと歩いた。私の腕をつかまれるお母様の手が、少し震えておられる。
「部屋にはいるのか?」
声がかかった。お兄様が立ち上がって、私達の方に走ってこようとしていた。しかしお母様は
「陛下、私のことはどうぞお気になさらず」
と、これが病の人の出す声かと思うほど、強い調子で仰った。お兄様の足は止まる。私がその後を、
「私は、お勉強して来ます」
と続けた。
「…そうか。
 二人とも、今日はいろいろ式典があって疲れたね。よく休んでくれ」
お兄様はそう仰って、グラーニェ様の元にもどられた。
「行きましょう」

お母様は、私の腕に引かれるようにして、ゆっくりと、城の西の棟に入って行かれる。
 お部屋に戻る途中、お母様はふと足を止められた。
「先に、行きなさい」
「でも」
「行きなさい」
お母様は、私から手を離し、壁を便りに立っておられた。たまたま側を通りかかったメイドに、
「お母様を、お部屋にお連れして」
と言って、私は小走りに、自分の部屋に向かって行った。

 お母様は、なぜか泣いていらっしゃる。振り向いてはいけないと、子供心に思った。

 それからお母様は、ほとんど起きられることがなくなった。
 お母様の容態を、私にわかる範囲でできるだけ詳しく、隠さずにと尋ねたら、お医者様は、お母様の体の中には悪いものがあって、それが毒を吐き出して体を弱らせているのだと教えてくださった。こう説明できるほどに、その悪いものの存在が明らかになってしまった今の段階では、どんな治療も薬も、一時的な延命措置にしかならないそうだ。
「母上様はどてもご気丈な方です。体は相当お痛みになっているはずと見立てておりますが、弱音など、私がお伺いしている限り、一度もお見受けしてけません。
 ですが、よろしいですか。姫様にはまだ、よくわからないことと思いますが、お覚悟をされてください」
お医者様はそう言った。
 お母様は、お食事の量もお話の量も少なくなり、一時は溢れるばかりだった笑顔も少しずつ消えてゆき、眠っておられることも多かった。私は、お母様が、私の知らないどこかにむけて振り向かずに走って行ってしまわれるようで、少しだけ、恐かった。
 ああ、これが、お医者様の言う覚悟なんだ、と思った。そのどこかに行ってしまわれるまでを、私は見届けなければいけないのだ、と。
 お母様は、お兄様達がお見舞いに来るのを、かたくなにお断りしていた。病気のお顔は人に見せるものではないから、と。
「陛下は、グラーニェ様とあなたとを、お気にかけてくださればそれでいいの。
 あなたが、私を忘れないでくれれば、それでいいの」
と、細い息でおっしゃる。短い言葉を仰るにも、大きく息をつかなければ、お母様はもう言葉を出すことさえも難しい様子でおられる。ばあやは、お母様がこんな状態になってからは、何かにつけては涙ばかり落としている。
「お父様の喪が、じきにあけます。家臣の方々に、お早く、お式をあげられるように、進言していただきましょうね…私のお願いと言えば…陛下は…
 グラーニェ様は、それは何年も何年も、この時をお待ちでいらしたのですもの」
そして、ため息をつかれた。
「あなたにも…そろそろ、しかるべくお嫁入りのお話がある頃でしょうから…何人か、そういうお言葉があるような話、伺っていますよ」
「まってお母様、私まだ」
「早いことはまったくありません。レンスターのエスリン王女様はそのお年で御婚約されたとか、伺っていますよ」
「でも」
お母様は、私のこれからを心配していらっしゃる。お兄様はグラーニェ様と、いずれ生まれてくるお子さまとで、王家をのちのちまで伝えてゆく。お母様の違う妹の私は…家臣や外国との仲を保つ為に、どこかにお嫁に行かなくてはいけないのかも知れない。先生もそうおっしゃっていたし…
 でもまだ、少しだけ、今のままでいたかった。お母様は…まだ…ここにいらっしゃる。
「私…私、お母様の側を離れたくありません」
そう言った。お母様が、ひさしぶりに、声をあげて笑われた。
「…あらまあ…半分大人になりかけている人が、何を言うの」
嬉しそうだったけれど、寂しそうだった。
 それが、お母様の笑顔を見た最後だった。


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