「リーン?」
「はい、アレス様がダーナからお連れした」
「ああ、彼女のことか」
何ぞ彼女が気になるのかと思っていたが、デルムッドの気になる方向は、私が思っていたのとは、全く違う方向だった。
「好きでもない他人に、自分をめちゃくちゃにされるって、一体どういう気持ちがするんでしょうね」
「それを彼女に聞くつもりかね? もう一度、嫌な出来事を思い出させて、リーンが翻弄されるだけだぞ」
「 そんなこと出来ないから、自分で、考えられるだけ、考えたんですよ。
たとえば僕が捕虜になって、全身傷だらけになるほどの拷問を受けたら、とか」
「それで?」
「でもやっぱり、女性の見えない傷の痛さはわからなくて」
「わからないだろうな、我々は女性ではないのだし」
「わかってあげられる方法、何かありませんか」
「方法?」
私が顔を上げると、デルムッドは真剣に眉間にしわを寄せて、答えの出ない謎を考えていた。
「一体どうしたんだ」
私は、デルムッドの、ともすればうなだれがちの顔をのぞくようにして尋ねる。
「ティルナノグでも…同じような事件があって… 女の子が、たくさん、リーンと同じ目に遭ったんですよ。
あの頃、僕はそれをみていることしかできなくて。
今度も、折角、開放されたのに、手遅れだったのが、悔しくて」
「そういうことか。
私が回ってきたトラキア半島にも、そういう悲しい事件はたくさんあったよ…
リーフ様を守るだけで精一杯で、他の心配をしなかった自分が、今になっても悔やまれる」
涙をこらえて震えるデルムッドの方を、私は二度三度と叩く。
「次は、そんな悲劇が起こらないように、お前が守ればいい。もう、黙って見ていることを自分が許すまい。お前が守ればいい。
守りきれないと思えば、私でもいい、誰でもいい、誰かとともに守ればいい。
みしるしが、お前にきっと勇気をくれるだろう」
「はい」
デルムッドは、ぐし、と袖で涙をぬぐって、仲間のいるほうに駆けていった。
「ティルナノグも、全く安全という訳ではなかったようだな」
私はそう一人ごちてため息をついた。
アルスターをいかにして攻めるかと言うその会議の席に、守られるように小さな影があった。
ティニーという。アルスターの城でブルームの監視下にあったという。身に着けていた首飾りが証拠となって解放軍にいたマージ・アーサーの妹だとわかり、彼女は捕虜の身から、今は解放軍戦士となっていた。
「ブルームおじさまは、本当は悪い方ではないのです。イシュトー兄様も…みんな、ヒルダおば様が怖くて、逆らうことができないのです」
「その言葉を、信じていいの?」
セリス様は、ややいぶかしげにお返しになる。ティニーは軽くうつむいて、
「すぐに信じていただけないことは、私も分かります。でも、お母様をバーハラに送って、相応の罰を受けさせようとしたおば様を止めたのもおじ様です。でも、罰はアルスターで受けて、お母様はなくなりましたけど…」
と言う。罰の内容は、口に出すのもおぞましい。シレジアでお見受けした、あの朗らかなティルテュ様は、みしるしあるお体を、文字通り削るような罰を受けられたそうだ。
血脈を生み出す体は、後継者の出た後は弄ばれるだけなのか。若い日に見た快活なお姿を思い出して、私も年がいなく義憤に燃えてしまう。
「でも、ブルームの名前の下で、みんなが苦しい思いをしているのも、確かなんだ。
わかってくれるよね、ティニー」
「…はい」
短い逡巡の後、ティニーはまたうなずいた。
「僕達は、民には絶対に迷惑をかけない。それは今までも守ってきたし、守らせてきた。
だから、心配しないで」
「…はい」
ティニーは、もう一度うなずいた。
そして私達は、一度、レンスターに戻る必要がありそうだった。
アルスターが陥落となったら、次の標的は再びレンスターだ。
「大丈夫ですよ。選り抜いて、伴っていってください」
レンスターの守りをもっと厚くしておきたいという私の要望に、セリス様が快く答えてくださる。戦力の低下など、全く考えておられないようだ。
「たぶん、自然と人は揃うと思います。レンスターの近くには、あなたの領地があるとか。
僕からの希望は、いよいよ戦わなければならないぎりぎりの時間まで、アレスとリーンを、一緒にいさせてあげてほしいことだけです」
「わかりました」
「ブラムセルの下で、望まない暮らしを強いられていた、それがやっと開放されたんです。お互いがお互いを必要としています。リーンが、少しでも安心できるなら、そのほうが」
「はい」
「あと」
「はい」
「リーフはそろそろ、もっと正直になったほうがいいよ、と」
「…はぁ」
ぽかんとした私を、セリス様はははは、と短くお笑いになり、傍らでオイフェが肩をすくめた。
セリス様が仰るとおりに、人は自然と揃っていた。リーフ様にデルムッド、ナンナはもちろんとして、アレス王子が、馬上で、大切そうにリーンを乗せあげておられる。
「俺が行けば、これ以上の人間は必要ないだろう」
アレス様は、それだけ仰った。ナンナが、
「あの、お父様、リーンをお屋敷でお世話してよろしいですか?」
という。
「構わないよ。部屋を用意させて、話相手などすればよい」
「はい」
「…あんたには、世話になりっぱなしだな」
王子が、投げやるように仰る。
「私は、迷惑などと思ったことは一度もありませんよ」
「まあ、これでも黒騎士と呼ばれて少しは名前も挙げたんだ、名前の分だけ暴れてやるさ」
王子がそう仰ったとき、その胸元のあたりでこそ、と影が動いた。
「寒い…」
「寒いか。しばらく我慢してくれ」
「参りましょう、夜が明けると目立ちますから」
私を含め数騎の馬が、できるだけ音を立てぬよう、静かに陣を出た。
町の入り口で、アレス様はリーンをナンナに預けられる。
「頼むな」
「はい」
ナンナは素直そうに答えて、
「あの、アレス様」
と言う。
「リーンのためにも、ご無事で戻ってくださいましね」
「大丈夫さ、俺はいつでもちゃんと戻ってくる」
アレス様はそう自信たっぷりにおっしゃって、馬の首をさっと返された。
「かっこいいなぁ」
デルムッドがつぶやく。
「そうだねぇ」
リーフ様もうなずかれる。
「最初から持っている雰囲気が違うんだね、きっと」
「ですね」
そういいあう二人を、私は、何となくしかれない気分でいた。うらやましがっている場合ではない。リーフ様にはプリンスとしての貫禄が必要であったし、デルムッドも、そろそろこの解放軍がティルナノグの延長でないことを自覚してもらわねば。
「さあ、リーフ様、急ぎましょう」
そう言って、私も馬を急がせる。
「もう一度、解放軍を集め直さなければならないのですから」
アレンの街や、その近郊、アルスター近辺に潜んでいた解放軍の面々が、レンスターの城に集まる。
追いかけて、アルスター陥落の報が入っていた。
「で、セリス様は、何と?」
と言う声に、リーフ様は
「その前に、今どういうことになっているか説明するよ」
と仰る。
「フリージ王ブルームは、王国の一番西、コノートに篭城するつもりらしい。
だから、僕達が目下進むべき道にはなんの障害もない。
セリス様がコノートを牽制してくださる。
僕達は、目的通り、マンスターに行けるよ!」
解放軍がどよ、とどよめいた。それは、迫った新しい出撃に緊張する声であり、また、ある種の安堵を含んでもいた。
「よかった、リーフ様」
と、マンスターからリーフ様についてきた「マギ団」の一人が言う。
「マンスターに潜んでいる仲間から連絡があって…
コノートから、大部隊が出ているそうです。目的地はレンスターなんじゃないかと」
「そうなんだ。
やっぱり来たんだね」
リーフ様は、これまでなら裏返るような声でなさっただろう返答を、いとも落ち着かれてなさる。
「セリス様は、アルスターが落ち着かれるのを待って、レンスターにむかってくださるそうだけど…
ねぇミランダ」
リーフ様は、そこでミランダ姫に顔を向けられる。
「アルスターに戻る? 君とコノモール卿が帰れば、随分みんなの励みになると思うのだけど」
「アルスター奪還のことは、私も伺いました。セリス様の指揮のお見事なこと、感服いたしました。
ですが、私は、このままリーフ様に随行することを決めました」
「どうして? まだドリアスの事を気にしているの?」
「違います」
ミランダ姫はかぶりをふられた。
「解放軍の一員として、リーフ様のお役に立ちたい、それだけです」
「そう。ありがとうミランダ」
リーフ様は目を細められた。
「レンスターを守りきろう。ここで守りきれば、マンスターはすぐだから」
そこに
「リーフ様!」
と声がする。一同がその方向を見る。私達のすぐ後を追ってきたのだろうか、アルスターで助けられたティニーと、その兄アーサーが立っていた。
「ティニー、君も助けに来てくれたの」
「最終的には、そうなります。
でも、その前に大変なことをお知らせしたくて」
「大変なこと?」
「はい。
イシュタル姉様が…トールハンマーを継承されたみたいなんです」
ざわりと、一部がどよめいた。
「イシュタル…ブルームの娘だね」
「はい。それまでバーハラにおられたようなのですが、おじ様のご様子が気になるのかこちらにおいでになって…そのまま継承が…」
「それって、大変?」
「大変なんてもんじゃない」
アーサーが、少しくあきれたように言った。
「イシュタルといったら、『雷神』って二つ名もあるぐらい、雷魔法の扱いについては、誰の追随も許さない。
そういうイシュタルがトールハンマーを持ったということは、俺達にも多少の死人を覚悟してもらわなくちゃいけないということだ」
「リーフ様、お二人の言う通りです」
ミランダ姫が仰る。
「このトラキア北部の魔力の均衡が、崩れ始めているのです。
魔力を扱うものとして、この均衡の乱れを、私はほうっては置けません」
今来た兄妹とミランダ姫とは、確かご血縁があったはずだ。そして雷神というそのイシュタルも、ブルームが父といえば同じように、血縁となる。
リーフ様も、それに思い当たられたようで、
「もしかしたら、三人とも、イシュタルの従兄弟にならない? 何とか説得して、軍は引いてもらうことは出来ないかな?」
と尋ねてみる。しかしティニーはまたかぶりを振った。
「ダメです。姉様には、何も言ってもダメなんです。姉様には、そうしなければならない理由があるから…
おそらく、今トールハンマーを継承されたのも、そのせいかもしれません」
そうして、切なそうに言った。
「理由?」
リーフ様が尋ねられたが、ティニーは何も答えなかった。
「私がお願いしたいのは、ただ、姉様にトールハンマーを使わせるようなことがないようにと、それだけを」
フリージの血に連なる者の中で、イシュタルがとりわけ特別なのを、私達は後になって知ることになる。
封ぜられていたはずの、忌まわしき過去の黒い恐怖は、今や大陸にあまねくはびこり、一人の神器使いの運命を惑わそうとしているのだ。
フリージの魔法騎士団の兵馬の屍が、累々と、レンスターの城門の前にあった。
「おけがなど、ございませんか」
聖印を切った後、アレス王子に伺ってみる。
「俺は別に、なんとも。こいつが」
と王子は魔剣を指され、
「多少の魔法は跳ね返してくれるからな。
心配なら、そこで転がってる息子にしてやりな」
と仰る。振り返ると、デルムッドが治癒を受けていた。
「大丈夫か」
「あ、父上… 少し、油断しました。雷魔法は…やけどみたいになるんですね、知らなかった」
「私もお前も、魔力にはとんと縁がないからな。しかし、たいていの魔導士には詠唱という動作がある。一度魔法をよけることが出来れば、詠唱の間に反撃が出来るだろう。覚えておくといい」
「あ、ありがとうございます」
デルムッドは、治癒をしてくれたシスターにも一言礼を言い、
「それにしても…」
と天を見上げた。
「雨が降りそうですね」
「そうだな」
確かに、魔法騎士団がやってきたほうに、雲が黒く凝り始めていた。
「雨が降ると厄介なんだよな」
魔法騎士アーサーがぶつぶつと、鞍袋の中を探る。
「雷魔法は元気だけど、俺の得意のファイアは全然役に立たない。
何より…」
「何より?」
「髪が濡れて気持ち悪い」
その場に居合わせた、数人が、ぽかん、と、アーサーの言葉に、返答のしようを失っていた。
「黙りこくってくれるなよ頼むから。冗談が言いにくいじゃないか」
やっと鞍袋からウィンドの魔導書を取り出した時、アーサーが片腕を押さえて
「ぐうっ」
とうなった。
「どうしたアーサー」
デルムッドが顔をのぞき込む。
「何でもない…ちょっとな、持病のカンの虫だよ」
「そんなことあるか、遠距離魔法か? 治癒は?」
「違う、そんなんじゃない!」
アーサーが怒鳴りつけるように言った。
「ティニー、来るぞ!」
「はい!」
ティニーが後ろで、やはり調子が悪そうに立っていた。その近くで、リーフ様の声がされる。
「ミランダ、大丈夫!?」
振り返ると、ミランダ姫もご自分の馬の上で体を倒されて、何かをこらえておられるようだ。
「ものすごい圧力…みしるしが痛むわ」
そんなお声が聞こえる。
聖痕の共鳴か。
「この雲は…雨をもたらすものではないようですね」
「そういうことだな」
アレス王子が、その雲の果てを見やられる。稲妻が走り、魔剣が怪しく輝いた。
|