私の記憶の中のセリス様といえば、まだ頑是無く、母上のお顔を知らずに育って行かれるのかと思うと不憫で、シグルド様は、戦場のどこに行かれるにも、後衛の奥深くに守らせておいでだったという。
聞く話では、そのお顔立ちは、行方知れずになった奥方に似て、それが猶シグルド様にとって嬉しくもあり、悲しいことでもあったと。
そして、セリス様はイザークに逃れたと聞いている。きっと、イザークで帝国の圧制に触れ、成長とともに旗を上げられたのだろう。イザークといえば、シャナン王子がおられた。きっと、今は立派な戦士となり、セリス様と並び立って、指揮をとられているのだろう。
とにかく。
もう、アルスターからの襲撃はないことを報告した。リーフ様は一瞬眉根を寄せられて、
「本当に?」
と仰った。
「根拠がわからないよ。レンスターは、いつでも片付けられるからって、アルスターは慢心したの?」
「それもございますが」
と、私は、先刻のレヴィン様からのお話をする。リーフ様はもちろんのこと、周りの面々にも、戸惑いながらの希望の光が差してくる。
「…セリス公子って、お前が前に話してくれた、シグルド殿の」
「はい。イザークでシャナン王子とご一緒に旗揚げされて、破竹の勢いでイザークを平定されたそうです。
今、リーフ様がこのように窮地にあることを知り、フリージ軍をひきつけながら、レンスターを助けられる方策を考えておられると」
「信じていいんだな」
「はい」
そのお言葉に、私は自信を持って答えることが出来た。
翌日、そのセリス様からの使者があったらしい。私は王太子宮殿の、自分の使っていた部屋で泥のように眠っていたから、その会見には参加しなかった。代わりにグレイドたちが、リーフ様の元に伺候しているはずだった。
しかし、その二人の足音らしいものが、いつにないあわただしさで近づいてくる。
「起きろ!」
目を覚ました私の顔面に、鼻が突き刺さるような勢いのグレイドの顔があった。
「また襲撃か?」
と立ち上がる私に、セルフィナが別の部屋から、服を一式持ってくる。
「こちら、主人の替えで…お体に合うとよろしいのですが」
まっさらのデュークナイトの制服だ。幸いにして、私達はあまり体形が変わらないから、グレイドの服だとて困らないが。新しいローブに徽章をつけなおしていると、
「もう少し髪をおきれいになさってください」
と、後ろからセルフィナが櫛を出してくる。
「グレイド、これは一体何の騒ぎだ」
「何の騒ぎだと? 自分の胸に聞いてみろ」
グレイドは、にんまりとした口で、詳しいことを全く話すつもりはないようだ。
こうして引っ張り出されて、いい目を見たことなど全くない。それでもせかされながらリーフ様の部屋に
「御用でしょうか」
と入る。リーフ様は、執務室の椅子の上で、いつもキュアン様がされていたのと同じ笑い顔をされながら、
「休んでいたところ、ごめん。
でも、お前がいないと話が始まらなくてさ。
ねぇ、ナンナ、そうだよね」
ナンナは、部屋の傍らの椅子で、すっかり泣きはらした顔をしていた。
「どうしたナンナ、そんな顔をして」
しかしナンナは、言葉を出そうとすると、先に涙が出てしまうようで、何の言葉もない。
「やれやれ」
私がナンナを理解しあぐねていると、リーフ様のお声がする。
「心配するのはナンナのほうじゃないよ、こっち」
指差されるままに振り返ると、ぽかんと口を半開きにした、青年と呼ぶにはまだ早い若い男が立っている。
「セリス公子が親書を託してくださった使者の方だよ。
名前はデルムッド。お前がつけた名前なんだって? それなら、忘れるわけがないよね」
「…デル、ムッド?」
「はい!!」
ついいぶかしげな呼びかけになってしまうのに、デルムッドは直立不動で返事をする。ナンナと同じ金色の髪を短く撫で付けて、目には、私が鏡を見るたびに見るものと全く同じものが、幼さの抜け切らない顔に二つ綺麗にはまっている。
「変な話だね」
リーフ様が仰った。
「お前は、僕を命がけで育ててくれた。それなのに、自分の本当の息子には、今はじめて出会うんだから」
「でも僕は、父上の勇名をずっと聞いて育ってきました。あんな立派な騎士が自分の父上であればいいと思っていたのが、まさか本当で、こうしてお会いできるのですから、だっ僕は嬉しくて言葉が出ません」
私は、一歩近づいてデルムッドの姿をよく見ようとした。私の血で少し劣化はしていようが、抗えない何かの雰囲気をもっている。片方の腕に、淡い色の違いを見た。
「それは」
「はい、ヘズルのみしるしです。母上が僕に残してくれた、唯一の宝物です」
「そうか…」
私は、何も彼に残せるものを残していなかった。
「…すまない。
居場所を知りながら、今まで、お前を迎えにもいけずに…」
涙が出そうになる。王女と私がシレジアでともに見た夢の名残の果実、何よりの絆が、今立派に成長して、私の前にいる。しかし嬉しさより先に、申し訳なさが先に立った。
「僕は全然気にしていませんよ、父上。現にこうして出会えたんですから、それでいいじゃないですか」
「僕もそう思うな」
そうリーフ様が仰る。
「結果よければ、っていうじゃないか。
それより、これからのことを相談しようよ」
「これから、ですか」
リーフ様は、直接返礼の使者としてセリス様のもとにむかうことを決心されていた。
「言葉で返すのは失礼だと思って。それに、解放軍の負担を減らしたいと思っているところなんだ。そのために、よくセリス公子と話あってもみたい。
グレイド達が、レンスターの留守を預かってくれるって言ってくれたから、僕は安心して出られる」
と仰るので、私はグレイドに、
「いいのか?」
と尋ねた。
「何を断る必要がある。家族は一緒の方がいいんだろう? 俺も同じ、それだけだ」
グレイドはそう答える。
「お前の仕事は、もう半分以上終わっているんだ。
『レンスターの青き槍騎士』の伝説を、もう一つ二つぐらい作ってこい」
「…無責任な奴だ、そんなもの、自分で作ろうとして出来るものだと思うのか」
と言いながら、私は部屋にあった槍を思い出した。念入りに磨けば、また使えるかもしれない。ドリアス卿の勇者の槍は、形見として、この二人に預けていきたかった。
「もっていけばいいのに」
とグレイドは言ったが、
「いや…国王が勇者の槍を下賜することは、一代に何度もないことだ。
それはドリアス卿のもの…その名を残すものとして、お前が持つのが妥当だろう」
「じゃあお前はどうするんだ、空手でゆくのか? お前がもらったはずの勇者の槍を見たことないぞ」
「神器と継承者程にではないが、縁があれば私のところに帰って来るだろう」
「なくしたのか? のんきな奴だ」
グレイドはそう笑った。
「まあ、そういうのんきな顔をして、絶対やらかしてくる男だからな、お前は」
しかし気になったのは、デルムッドに会ってこの方、ナンナの表情が浮かないことであった。
アレンの館に戻り、
「私がリーフ様の前に参るまで、デルムッドと何を話していたのだね?」
と問うてみた。するとナンナは、
「お父様」
と改まった顔で私に聞いた。
「お母様は、どうして、お父様や私を置いて、どこかに行ってしまわれたの?」
真正面からそう問われて、私はむ、と言葉を詰まらせる。
「あの方がいつからそれを覚悟されていたのか、それは知らない。
しかし、来るべき時が来て、あの方とお前とは、離れていなくてはいけないと、そう仰ったのだよ。
すべては、ヘズルの血脈の維持のためにと」
私は、聞かされたすべてのことを飲み込んで、理由の芯となるほんの一部分だけを口にした。断絶が危惧される血脈に必要なものは、誰でもない、血脈を生み出せる存在。それをナンナに説明し、納得してもらうには長い時間がかかるだろうし、彼女の琴線の嫌な部分を叩いて、自分の血に嫌悪感を持ってもらいたくもなかった。
「デルムッド…お兄様は」
ナンナは、まだ耳慣れぬ兄の名をたどたどしく言い出して、
「お母様は、お兄様を私達の元に迎えるためにイード砂漠を越えようとなさって、そのまま行方がわからなくなったと、そう聞かされていたそうです。
本当なのですか?」
「別れてからの、あの方の足取りは私にもわからない。だから、仮にデルムッドの言う通りだったとしても、私は助けにいけなかった」
「ではなぜ、ヘズルの血脈を保つために、私とお母様は離れ離れでなければいけなかったの?
お父様なら、お母様も私も守りきれると思っていた、私は間違っていたのですか?」
ナンナが、はしばみの瞳に涙をいっぱいにためていた。
「それは、もっとお前が大人になったら教えてあげよう」
「そんなことを仰って、それでは、行方不明のもとに思っているお兄様がかわいそうです、私といやおうもなく離れ離れでいなければならないお母様がかわいそうです」
かぶりを振りながら、涙を撒くナンナに、私はなんの言葉も言えなかった。
「どこかで生きていらっしゃるかもしれないのに、もう私と会うことも出来ないなんて、お母様、かわいそうすぎる…」
ナンナがそう言った時、私の中で、久しく忘れていた胸の痛みが、鈍くうずいた。
「ナンナ、もう一度言ってくれ、どこかで生きていらっしゃるかもしれない、と?」
ナンナは涙をぬぐって、顔を上げた。
「はい、お兄様がおっしゃいました。
セリス様にはレヴィン様という軍師がついていらして…その方は何でもご存知で、お母様は生きてらっしゃるのだと…
私、お兄様と、戦いがすべて終わったら、お母様を探しに行こうと約束を…」
「レヴィン様がそんなことを…」
たまに諧謔なことも仰るレヴィン様が、嘘や冗談を仰っているとは、その時、私にはどうしても思えなかった。
「わかった。私もレヴィン様と、デルムッドの言葉を信じよう」
「…お父様?」
「本当のことは、さっきも言った通り、お前がもっと大人にならないと教えられない。
だが、あの方は、デルムッドを一人残して、レンスターにおいでになったのを、長く後悔されていた。
だから、離れ離れになって、すぐ、デルムッドのもとに行こうとしたことも、私は否定できないのだよ」
生きておられるのならば、探しに行けばいいのだ。
答えは、アルスターの向こうにある。
翌朝、登城の前に、私は、王女からお預かりしていた剣を二振り、ナンナに渡した。
「この剣のことを、覚えているね」
「はい」
「どちらも、お前の身を守る大切な剣だ。大切にしなさい。
それから」
私は鞍袋の中から、包みを出した。
「これも預かっていて欲しい」
「なんですか?」
ナンナはきょとん、とした顔で私に尋ねるが、
「その中身は後で話そう。リーフ様のご出立に遅れてはいけない」
私は馬の首を返した。
デルムッドは朗らかで、実によくしゃべった。
「デルムッド、話しているのもいいけど」
と、リーフ様が仰る。
「まだアルスターは陥落していないんだろう? どうやって、あそこを越えてメルゲンにいけるんだ?」
「そのことですか」
デルムッドはこれも飄々と、
「来る時も、警備の隙間をくぐり抜けてきたから、同じように行けばいいと思います。
いまアルスターは、メルゲンの援護に全力を傾けているはずですから」
快活で楽観的なところは、この子は本当に王女によく似たと、私はしんがりを歩きながらそう思う。
「僕に出来ることは、あるだろうか」
リーフ様が仰る。
「リーフ様のご勇名のことも聞き及んでいますよ、だから、陣にはいれば、みんな喜んで出迎えてくれるはずです」
「そうならいいけどな」
馬に乗って剣なんか使ったこともないし。リーフ様は息子の言葉に首を傾げられる。
「出来れば僕は、これからもずっとセリス公子の力になりたいんだ。それが出来るかどうかも、今日公子にお会いしないとわからないけれども」
そうなのだ、レンスターを奪還したのは、マンスターに行くよりは、レンスターの方が進路として行きやすかったからだという面があった。
「どうなるんだろうなぁ…」
と天を仰がれたリーフ様に、デルムッドは
「どうにかなりますよ、これから起こることを悩むより、先に進んだほうがいいんですから」
と言った。
この陣は、確かに、私達が慣れていた解放軍とは少し違った、不思議な明るさがあった。
「待っててください、僕セリス様に報告してきます」
と、さっさと離れていってしまうデルムッドの背中に、
「…本当にお前の息子なのか?」
とリーフ様が仰った。
「申し訳ありません、何分、心当たりがあるだけに」
「いや、そうじゃないんだ。
ずっと、両親の顔も知らないで育ってきたのは僕と同じなのに、デルムッドはどうしてあんなふうに笑っていられるのかなって思って」
「…はぁ」
それにしても、一国の王子をこのまま立たせておくのか、私はその方が気になる。
そのうちに、リーフ様と私は帰ってきたデルムッドに先導されて、セリス様のもとに行くことになった。
「私は、どうしていましょうか」
ナンナが不安そうに言う。デルムッドが、
「君はもう少しここで待ってて、誰か、女の子達のところまで案内してもらうようにするから」
と言った。
「はい」
ナンナは素直な返事をして、立ちっぱなしだった馬をつなぎに行くようだった。
もしリーフ様が長くここにいらっしゃるようになれば、必然的に彼女もここにとどまることになるだろう。新しい環境で、気後れをせねばいいのだが。
入ったセリス様の天幕では、当のセリス様らしい方を交えて、二三人が話をしている。その中に、レヴィン様のお姿もあった。セリス様が、私達の姿を認めたらしく、
「ありがとう、デルムッド」
と、セリス様は私達にむかって、人懐こそうな顔をされた。レヴィン様は振り返って、何か気くばせでもするように片目をつぶられてから、
「よしデルムッド、最近拾ってきた話でも、みんなの前でしてやるか」
と、デルムッドを伴って天幕を出て行かれた。
「せ、セリス様…この度は…」
リーフ様がこれまで見たことないほど堅くなっているのを、セリス様は
「かちこちにならなくていいんだよ。ここに座って」
とご自分の向かいをすすめられる。
「は、はい」
座ったとは言え、その席のなじまないほど堅くなっているリーフ様に、セリス様はねぎらうように
「レンスターの防衛、大変だったね。でももう大丈夫だよ」
と仰る。
「ここでメルゲンとアルスターを陥落させてしまえば、フリージ王国はマンスターとコノートだけになる。
リーフ、君の目標はマンスターだと聞いたけど?」
そう仰るセリス様に、やっと体を楽にして、リーフ様はこれまでのいきさつを語られる。
「…嫌な魔法だね。石になるなんて。レストで治せないの?」
エーヴェルが石になったことについて、セリス様はそう仰る。
「はい、なんでも、特別な杖が必要で、それがマンスターに封印されているとか…
僕は、マンスターまで言って、育ての母も同然のエーヴェルを、助けなければならないのです。僕の代わりに、そんな目に遭ってしまったのだから…」
「うん。君の言いたいことはよくわかる。僕もさっきまで、そのことで話をしていたんだ。
マンスターでは、君も知ってるように、マギ団が解放運動をしているよね。もしアルスターが陥落したら、ブルームはどこに行くんだろう、そんなことを考えていたんだよ。」
「それはもしかして、僕達のために進路を変える可能性があるということですか?」
リーフ様が身を乗り出された。
「僕達の最終的な目標は、バーハラなんだよ。フリージ王国は、その途中の通過点でしかない。コノートが先になっても、マンスターが先でも、僕たちの到達点が変わらなければいい」
そうだよね、オイフェ? セリス様は後ろに控えている騎士にそう声をかけられた。
「確かにレヴィン殿はそうおっしゃいましたが…もしマンスターを先に攻略されるとして、トラキアとコノートが手を組んで挟撃されたらいかがなされます」
騎士は、コノートからマンスターへという進路を受け入れたくないようだった。
「口を挟んで申し訳ありません、セリス公子」
私もつい、口が開いた。
「挟撃の可能性は、確かに捨てきれません。トラキアとコノートが手を組むということはおそらくありませんが、時を同じくして、ということは考えられます。
ここはそれぞれに、当座の陥落目標を変更しないがよいと思われます」
「あなたが言うのもわかる」
セリス様は、切なそうなお顔をされた。
「でも、リーフが連れてきたマンスター解放軍は疲れ切っていると思うんだ。僕たちの方がまだ余力がある。
いっそ合流してしまったらいいと思わない? どっちにも、いい刺激になると思うんだ」
私は、セリス様の懐の深さに唖然とした。清濁併せ呑む勢いのこの深さは、その底が計り知れなかった。
シグルド様がお持ちだったその深い懐。それが、破竹の勢いの進撃を可能にしてきたといっても、過言ではないだろう。
「僕は、リーフにしばらくここにいて欲しい。僕が書いた手紙の返事を、自分の口で返したいから来るなんて、なかなか出来ないことだよ」
セリス様はそう仰って、
「オイフェ、後で、この天幕でリーフも眠れるようにさせておいて」
と、隣の騎士に指示をされる。騎士はその髭であまり表情はわからないが、何となく不承不承という雰囲気で
「わかりました」
と言った。
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