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「私は、近いうちにターラを離れることにします」
「何ですって」
その方が、よほどに私には衝撃だった。ついがたりと椅子を鳴らして、立ち上がりそうになる。
「ターラを離れて、一体どこに向かわれるというのですか」
「詳しい予定は何も立っていません。でも、もう一度デルムッドの様子は見ないとね」
「王女がアレンにおこしになったときとは、情勢が違いすぎます。
暗黒教団を名乗る賊がでて、イード砂漠はほんのかすめるだけでも危険だと」
「ナンナと私は、一緒にいてはいけないの。
 断絶しそうな血脈に本当に必要なのは、その血脈を後々にまでつなげることの出来る、受胎できる体なの」
「だからといって、貴女が」
「あなたが言ったその危ない状況の中で、ナンナを一人旅になんて出せると思う?」
私はぐうっとうなった。
「…すぐにあなたにわかってもらえる話だとは思っていません。
 どうしてもその策が危険なら、別の策を考えます。
 …時間をとらせて、ごめんなさい」
王女は音もなく立ち上がり、どこへかに行ってしまわれた。

 王女のご意志はすでに堅く、私のささやかな抵抗など、もう全く通用しなかった。
 私に隠れるように荷物を整理されている姿をわか利ながら見ているというのも、切ないものだ。
 シレジアでの立場が逆転したなと、私は一人ごちながら苦笑いする。今度は、私に子供が残され、あの方一人が、旅立って行かれるのだ。
 その邪魔をせぬよう、何をするでもなく別室にいると、
「お父様っ」
とナンナが飛び出てきた。そのままの勢いでひざに飛び乗ってくるナンナに、
「母上としたおすましの約束はどこに行ったのかな」
つい言うと
「お母様、合格だから元気にしてもいいよって」
とナンナは私に猫のようにじゃれつきながら、
「いっぱい大切なものもらっちゃった」
「大切なもの?」
と私が答えると、
「ほら、剣が二つでしょ、それから、お母様の耳飾り!」
ナンナは剣を抱えている。その耳元で、ちらりと懐かしい光が光った。
「ああ、この耳飾り」
「お母様の一番大切なものだって、お父様から最初にもらったのって」
「そうだよ、これは確かに私に差し上げた。
 なくさぬよう、ずっとつけていてくださったのに、私はそのことをすっかり忘れていて、つれないとお小言をいただいたこともある」
「お父様も、お母様に怒られたんだ」
「人間だ、そういうこともある」
「それでね、剣は大切なものだから、お父様にもっていてもらいなさいって」
と彼女が抱えているビロードの包みから、柄が二本見えている。その正体を見て取って
「そうだね、私が預かっておこう。まだ使い方はわかるまい」
「うん」
私は剣を傍らにおく。いずれしかるべく彼女に渡さなければなるまい。できれば、彼女がこれを振るうときが、来なければ良いのだが。

 「お母様、かわいそうね」
ぽつねんと、二人で何くれと話しをしていたとき、ふとナンナはそう言った。
「どうして?」
「お父様とすごく好き好きなのに、お母様は旅に出るのでしょ? はなればなれになっちゃうなんてかわいそう」
しんみりというナンナの、金色の頭に手をやりながら、
「あの方がご自分でそうしたいと仰ったのだ、私は、それに反対できないよ」
「好き好きだから?」
「…そんなところかな」
「私、今からルー様とはなればなれって言われたら、さみしくて泣いちゃうかも…」
「大丈夫、それは当分ないから」
「本当?」
「私はうそは言わないよ」
「…お母様、どこに行くのかなぁ」
「まだ予定は決めてはおられぬようだが、一つ、行く場所はすでに決めていらっしゃるらしい。
「どこ?」
「…おそらくは、イザーク」

 無事であれば、デルムッドも、もう十歳にはなったはずだ。そろそろ、剣の修業など始めているころだろう。天恵は、あの子にきっと微笑もう。セリス様の友として臣として、そうなれば喜ばしいことだ。
「ルー様が地図っていうものをみせてくれたけど、イザークって、砂漠のとなりの、おっきなおっきな国でしょ?」
「そうだな、そんなところだな」
「お母様、どんなご用があるの?」
「おや、お前はもう聞いてると思っていた」
まあよい、それなら私が話すことだ。
「イザークに、お前の兄上がいるのだよ」
「…私の、お兄様?」
「そう。お前はアレンで生まれたけれども、あの方がアレンに来るまでには、いろいろとご苦労があって…」
悲劇のことは、私の口からは説明できなかった。時間が経てば、誰ともなくその話しをするだろう。まだナンナは、理解させるには早すぎる。
「名前は、デルムッドと言う。
 ほんの少しだけ、私達には離れ離れの時間があって、その間、お一人でお生みなさって…あまりに小さかったから、アレンにつれてこられなかったのだよ」
「お兄様は、お父様もお母様も知らないの?」
「母上は、彼が生まれから一年は一緒におられた。私の名前ぐらいも聞かされているだろうが、もう覚えていないだろう。
 私も、デルムッドのことは、話しにしか聞いたことがないのだ」
「…へんなの」
ナンナは、眠たそうに、私の胸に顔をこすりつけながら言った。
「ルー様のことはいっしょけんめいお世話してるのに、お兄さまのこと何にも知らないお父様って、なんかへんね」
「そうだな…いわれてみれば、そうだ」
「お母様、お兄様をつれて、ターラに帰ってきてくれればいいのにな…」
「…そうだな」
それを最後の一言に、うたた寝を始めてしまったナンナをそこに残し、私達は物音のやんだ別室にむかった。

 「あら、ナンナは部屋を飛び出したと思ったら」
すでに荷物は馬に積むだけに整えられた王女は、すっかり落ち着かれたふうに座っておられる。
「剣は、彼女が使えるようになるまで私がお預かりしていましょう」
「そうしてもらえるとうれしいわ。
 危ない旅だから、高価なものは何も持っていきたくないの」
宝飾品のたぐいも、市長殿に託され、換金するなり、リノアン嬢に使ってもらうなり、好きにされるよう仰ってきたらしい。
「あとは、これの始末をするだけ」
空の宝石箱には、まだ何か入っていた。少し古くなった封筒と新しい封筒。
「これを、預かっていて」
「え?」
「これ…マディノで預かった、兄がアレスにあてた手紙なの。それと、新しいほうは、私からアレスへの手紙」
「そんな、大変なものは」
うろたえる私に、王女は、封筒をついと、ことさらに私の前に押しやられた。
「大変だからこそ、私はあなたに預かってほしいの。私はもう…その手紙は空で言える程読んだわ」
「…」
「…あなたと合流できるときが近いなら、アレスを探して、私が読ませるわ。
 でも、私が長いこと戻れなくて」
「そんなことはおっしゃらず」
「いいえ」
私が、余りの御決心に取り乱しかけた私を、王女は強く、しかし優しく、引き戻してくださった。
「…あとになって、あの子に合うことが出来たら、あなたが読ませるの。
 ヘズルの血にかかわったあなたなら、その資格と…義務があります」
「…わかっております、しかし」
「王子アレスの捜索は、叔母、王女としての私の使命と、私は思っています。
 でも、それが出来なかった。こんな大切なことさえ、人任せにして、私はただヘズルの命脈を維持するための旅に出る…
 勝手だと思っています。どうか、許して…」
王女は、私に膝を折られた。私はそれに、それ以上、何もかえせなかった。

 翌朝、王女は誰にも知らせずお発ちになった。シレジアであったことの全く逆だった。
 隣にあったはずの人がいない。レンスターでに戻ったときもそうだったが、この、ごまかしようもない事実は、私には重かった。
「お父様、元気出して」
と私に顔をのぞかせてくるナンナが、これまでにもましていとおしい。ただ、救いなのは、私は一人ではなく、ナンナがいるということだ。
「私が、お母様のかわりになるから、ね?」
しかし、この母の面影をまるで写し取った娘は、あの方を偲ぶよすがにするには、あまりによく似ていた。
「無理をしなくてもいいのだよ、お前はお前があるようにあればいい」
私は、それだけを答えて、ナンナを少しだけ遠ざけた。
「少しだけ、私一人にしてくれないかな」

 領主館の窓から、街を望む。全く変わりがない日常が、そこにはあった。しかし、それに甘んじてはいけないと思っていた。王女は相応の覚悟をもってこの街を発たれたのだ、私達も、行動を起こさねばならない。
 そう考えながらいると
「奥方は無事発たれましたか」
と、市長どの声がして、
「はい…何もなく」
と、私は力ない返答をしていた。
「こたえておられるようですな」
「思えば初めてあの方をお見受けしてから今まで、離れていたのは合わせてほんの数年というところ…
 次がいつになるかわからない別れというのは、経験がないのですよ」
「なるほど、この時代にあって、卿は運のよい方だったのですな」
「私もそう思います。
 それはそうと、市長殿」
私達も出立を、と言いかけたとき、
「し、市長!」
と部下らしい影が走り寄ってくる。
「どうした」
「ま、街が」
と言うので、私達は窓の外を見やった。
 街にもう日常はなかった。物々しいよろいの触れあう音が、街の喧騒に変わって聞こえていた。
「感づかれたようですな」
「…そのようですね」
「さあ、逃げられよ、屋敷の者が総出でお守り致します。
 ターラを出られたら、東に、国境となる山脈がございましょう、少々難路ではありますが、そこを行くが一番です」
「市長殿、あなたはどうされます、リノアン嬢は」
「私達親子のことなら心配はご無用! 急がれよ!」
私達は、屋敷の衛兵達につれられるように、離れにむかった。

 すでにリーフ様が、馬を出そうとされていた。
「ナンナはどこに」
と私が問うと、リーフ様は
「まだ中だ。荷物をまとめるのに手間取ってる、助けてあげて欲しい。僕は馬を引いてくるよ」
「お願いします」
中に駆け込むと、ナンナが半ベソになりながら、あれこれと袋の中に押し込もうとしていた。私はそれを見て、
「少しでも迷うものは全部おいていきなさい」
と言い、今着られる彼女の服を数着出し、それを袋に入れる。
「どうしても必要なものはなるべく小さくまとめなさい」
ナンナは、あれこれと彼女なりに必要だろうものを、別の袋に詰め始めた。それは彼女の判断に任せた。
 ナンナを送りだし、私も適当にまとめる。すべてまとめて、壮絶にがらんとした部屋を飛び出した。
 途中まで、ターラの衛兵に守られて、私達は山脈をのふもとまでたどり着いた。
「峠越えが続いて、多少難儀も致しましょうが、商人が使い続けた道がございます。それをたどってくださいませ、
 途中、ミーズを経由いたします。商売という目的がら致し方ございませぬ、手前でやや東北に進路をとり、マンスターをみたら海伝いに南下されませ、今あのあたりは開拓村が点在して、隠れ住まうには事欠かぬと思います」
「ありがとうございます。市長殿に十分なお礼が出来なかった。いつかまた立ち寄り、このお礼を改めて述べたいといっていたと、伝えてください」
「もったいのうございます」
衛兵達が返ってゆく。リーフ様が
「ターラ、大丈夫かな」
と仰った。
「振り返る余裕はございません。無事と信じて、進みましょう」
私は、峠道にむかって、手綱を捌いた。

 「すごい道だね…」
道々、リーフ様が仰る。
「こんなにきつい道なのに、荷車のわだちが残るなんて」
「ミーズにたどり着くということは、ターラからこの道を使って、ミーズとの通商が定期的に成り立っているということになるでしょう。
 トラキアは不毛の地、このような通商をおこわなないと、生活は成り立たぬのです」
「荒れた地に住むって、大変なんだね…」
リーフ様が、ため息のように仰る。リーフ様のお気持ちもわからないではない。ただ、住まうところがそうだったということなのだから。しかし…
「ゆえに、トラキアは肥沃な北部を渇望し、また、このような国境の村から略奪などを行ってきたのです。
 民に憐愍の情を催されるのは結構ですが、本来、トラキアは不倶戴天の敵であることをお忘れなく。
「ふぐ、たいてん?」
「ともに天を戴かず。相争い、どちらかが滅びねば気が済まない程の敵ということです」
「でも…こういったら、お前はまた怒るだろうけど…、トラキアにも、きっといい人はいるよね」
リーフ様はまだ無邪気でおられる。
「私も、それを願っています」
私はそうとしか返せなかった。
 砂漠に朽ち果てつつあったキュアン様のお姿が、私の記憶からは離れない。
 トラキアにある、多くの罪なき人に敵意を抱かずにいることに、やぶさかではない。しかし、私はいずれ、このトラキアの中心に、自分の槍をつきたてねばならないという、義務感のようなものを感じていた。
 隊商の使う道には盗賊が付き物、そういう輩を振り切って、狭いながらも平野に出ることが出来た。
 しかし、その様子は、先日商人から聞いていたものとは、ずいぶん違っていた。
 竜の体重では越えられない山脈はいさ知らず、平地には砦や要塞が築かれつつあった。フリージにとっても、トラキアの襲撃は困りものらしい。
 しかし、砦や要塞の建設現場には、間違いなくフリージの兵がいる。リーフ様のことがわかったら大事どころの話ではない。私はそれぞれの馬の様子を見た。
「まだ、歩けそうですか」
「たぶん…」
「では、水を飲ませて、先に行きましょう」
「うん」


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