執務室で待っているのも暇になって、部屋を出ようとするのを、ベオウルフが見咎めて言った。
「姫さんの部屋に近づくなよ。いまあそこは修羅場だぜ」
「そうなんですが、何か手伝えることは」
「オトコに手伝えることは何にもねぇよ」
ベオウルフはにべもなくそう言った。
「冬眠あけの熊みたいにな、うろうろおろおろするしかねぇのさ、シレジアでだって、みんなそうだったろう」
「ですか」
「そうさ」
私はまたつくねんと、執務室の椅子に座っているよりなかった。
話を、一年少し前までさかのぼると、こういう会話から始まっている。
何かの予感を感じられたのか、風邪のようなお熱のひかない王女が機を見て呼ばれた医師は、執務室の私の前で、
「奥様のこれまでのご容態を、拝見などいたしておりましたが」
と、もったいぶって言う。
「おそらく、奥様お見立ての通り、ご懐妊と見て間違いはなさそうです」
私は、執務室の椅子からずり落ちそうになるほど脱力して、
「そうですか、ありがとうございます」
と言うのが精一杯だった。
「ご領主は、お子様は初めてでしたな」
「そうです」
「ですが、奥様のお体には、すでにお一人はお産みなさったような跡がお見受けできます。
どうしたことでしょう」
「…さぁ」
デルムッドのことを隠すつもりはなかったが、言ったら迎えに行こうという話になる。大仰に迎えにいった後先で何かがあったら大変なことになると、王女はデルムッドのお話はまだ先のこととして、今は話さなくていいと仰っていた。
「私は、あの方の過去には頓着していませんでしたから」
と言うと、
「奥様はお美しいですからな」
と、医師は笑って返した。
「医師の出番はここまでです。あとは一族の経験者が、ご出産までよろしく奥様をお世話するでしょう」
医師を帰らせて、私は、つい笑みが漏れる。王女と結ばれたことでさえ、過分の果報と思っていたのに、神は二度も、私達を嘉して、子をさずけてくれようとは。
ご懐妊の最初のおつらい時を、何とか王女は切り抜けられ、ふっくらとしたお腹に私の手を当てさせ、
「そのまま、じっとしてね」
と仰る。何があるのかと思うと、そのお腹から何かの感触が伝わってくる。
「!」
思わず手を引いてしまった私を王女はくすくすと笑ってごらんになり、
「お父様には何もかも始めてづくしのようね。あなたはこんにちはしただけなのに」
と、私をからかう余裕さえおありだった。
その王女が、領土経営のお話を私とされているときに、
「…来た!」
と仰ったのだ。最初は何が来たのか全くわからなかった。ただ、呼ばれた二、三人の、一族の女性達が、王女をお部屋にお連れして、そのまま私は待ちぼうけを食らっている、と言うわけだ。
ところで。
ベオウルフが、ぴん、と金貨を私にはじいてよこした。
「次も男」
「は?」
「自動的に、お前は女、だな、オヤジさんよ」
ああ。そういうことか。私も金貨を出し、
「では私は娘に」
夕刻ちかくなり、館のざわめきがいっそうあせりを増す。
「そろそろかな」
「ですね」
執務室から会議室に場所を移し、一族が集まり、その知らせを待つ。ぱたぱたぱた、と、かけてくる音がして、行儀見習いの娘が顔を出した。私を含む、一族の注視に一瞬体を硬くはしたものの、彼女は
「い、今お生まれになりました…お嬢様です」
わっと部屋に喚声が上がる。男でも、同じ反応だろう。要は、私に子が出来たことそのものが嬉しいのだ。
やがて、誰かが街に触れまわしたものか、館の外もだんだんとにぎわしくなってゆく。ベオウルフは私に
「俺の勘も鈍ったな」
と言いながら、金貨を二枚渡した。
ご懐妊のわかる直前、レンスターではじめての雪を見たときから決めていたと王女は仰って、わが娘には「ナンナ」という名前が与えられた。春と花の精。冬のような絶望の中にあっても、春の希望を与えられる、そんな子になりますように、と。
しかし、そのナンナの顔もよく確認しないまま、
「さあさあ、ご領主様はしばらくお出になっていてくださいまし」
一族の女性に部屋から出されてしまう。
「な、なんなんだ、この扱いは」
自分は必要なのか必要じゃないのか、どうにも解せず困り果て、王女の部屋の前に立っていると、ベオウルフが笑いながら近づいてくる。
「ははは、締め出されたか」
「…はい、何がなにやら、さっぱり」
「見ないほうがいいぜ、姫さんと夫婦付き合いしたかったらなおさらだ」
「は?」
「今の姫さんの体はな、しばらくお嬢ちゃん専用なんだよ」
この街を一族の誰か年長者に帰させるのかと言う一族に対して、やっと物心ついた私を一応領主とさせて、年長者はそれを成人まで守り立ててほしいと日々懇切に説いて回る母の面影は、部屋にあっても何の楽しみもなく、それは物寂しそうだった。だから、私の記憶の中の「母」は、いつも何かを沈思している、そんな姿ばかりだった。
でも、この「母」は違う。
城から戻って、いつものようなお出迎えがないと思っていたら、王女は執務室の私の椅子の上で、すっかりくつろいでお休みになられていた。誰か来てその様子を見たのだろうか、冷えないように毛布がかけられてある。
机の上を見た。「未決裁」「署名のみ」「一族に計らう」などと書いた箱に書類が分けられてあり、久方ぶりに起きた、領主の裁定が必要な訴訟の書類があって、それには別紙で、王女の添え書きがついていた。
<決裁を下す材料が不足です。もう双方落ち着いているでしょうから、冷静に事情を聞きなおして、みなさんともう一度話し合ってください>
街の雰囲気が格段によくなった、その理由の一つに、王女が時々されるこういう示唆がきいていることは、想像に難くない。私は相変わらず、城と館との数日ずつの往復が続いているが、署名と決裁におおわらわだったはずが、館はいつのまにか、私がやすらえる場所に変わっている。
私はメイドを呼び、王女をお部屋にお運びするように指示をした。そのメイドのひとりに
「ナンナはどうしている?」
と聞くと、
「はい、大変よい子でお休みです」
と言う。乳母に預けてあとは普段どおりにされると思いきや、王女は大変物慣れた風に、ナンナのごく身近の世話までお一人でされてしまう。一族が探し出してきた乳母が、
「これでは私、何のためにお屋敷に来たのかわかりませんわ」
と困惑するほどであった。
しかし、ナンナを胸に、陽だまりで安らいでいるお姿は、まるで絵にしたような神々しささえ感じられて、私は、この方でよかったと、安堵するのだ。
王女はやっと館の中をお歩きになれる程度で、時々来る城からの召喚の手紙にも、「産後の様子芳しくなく」と、お断り申し上げている。そのせいで、私はアルフィオナ様や貴婦人達に会うようなときには、必ずと言っていいほど
「奥様が早くよくなられますように」
といわれてしまうのだ。
ある朝、登城の前の準備をしようと執務室に入ると、すでに王女が起きていらして、ベオウルフまでがそこにいる。その様子があまりにただならなかったので、
「どうされました」
と伺うと、
「驚かせてごめんなさいね。
ナンナがあまり眠らないでぐずるから、夜からそのまま起きていたの」
それで、なにげなく、お城を見たら…」
「何か、お気になる点でも?」
「心なしか、陰って見えたの」
「今日は快晴ではありませんか」
と言うと、
「そういう意味じゃねぇ」
とベオウルフが言った。
「姫さんが言ってるのは、城か、城がからむ事件に気をつけろって言いたいのさ」
「事件…ですか」
「ええ」
王女は一つうなずかれて、
「お城全体の雰囲気が、投獄される前のお兄様や、リューベック攻略前のシグルド様みたいな、言葉では上手くいえない、悲壮さにかげっていて…
気をつけて。何かあったら、すぐ、ブランなりシュコランなりを連絡に戻して」
「わかりました」
「街は、いつもどおり暮らしてもらいたいけど、ベオウルフが育ててくれた自警団には、いつでも街を守れる準備をするようお願いしていたところなの」
王女のお顔は、これまでになく真剣で、御自身に、その悲壮さが滲んでいた。
「私も気をつけますが、王女もお気をつけください。ナンナはまだ貴女が必要なのですから」
「わかってるわ。でも、私もあなたが心配なの」
「濡れ場はよそでしてくれ」
ベオウルフが冷たい調子で、しかし少しおどけた風に言った。
イードの虐殺、そしてバーハラの悲劇を経て、マンスター地方は急速にその結束力を弱めてきている。
しかし、まだ、マンスター地方にとって共通の敵はいた。
トラキア。峻険な山脈によって南北に分けられたトラキア半島南部にある、竜の国。大陸を席巻する混乱に乗じて、北部になるマンスター地方への征服欲が、頭をもたげていた。
その名を半島北部に冠させるマンスターが、トラキア王国からの侵攻を受けているという情報は、レンスターの王宮を鳴動させた。
「助けに、ゆかねばならぬの」
陛下はその一報を受けられて、まずそう仰った。
「トラバントめ…キュアンが斃れ、ゲイボルグを失ったとて、それでマンスターの盾がなくなったと思っているのか」
その仰りようは、静かながら、荘厳な殺気をおぼえた。
「マンスターに近いのはコノートであったな。コノートは今どうしている」
「は」
使者が陛下のご質問に平伏して返す。
「ご存知のように、マンスターと、トラキアの辺境ミーズの間は、山間の隘路より、行き来をする手立てがありません。
マンスター軍が前面に出、コノートは後方支援としてマンスター城郭の守備などいたしておりますが、やはり、ランスリッターをもって撃退されるが一番と、両国の将の一致した意見でございました」
「頼られたものだな」
陛下は、少し苦そうなお声でそれに返された。
「出撃なら、お早いうちが」
と、武官の一人が声を上げた。
「トラキアの竜を、あの山からこちらに越させるものか!」
「今をおいて、殿下のお恨みを晴らす機会はまたとございませぬ!」
「陛下、出撃を!」
「陛下!」
武官の声が、太く、王宮を揺らす。それを手を上げて鎮められ、
「私は行かぬとは言っていない。
ランスリッターを私の直属に。王宮ならびに城下町には非常事態を言い渡す。領地のあるものは領地を守るよう。
準備の整い次第、出陣をする。竜の翼は、思っているより、速いぞ」
私は、身震いをした。王女に朝示唆されていたのが原因ではなく、私本人にも、直感的に、これが荘厳なレンスター自壊の覚悟の瞬間であることを直感したからだ。
「ブラン!シュコラン!」
私は、従騎士たち一人ひとりの名を呼び、私の周りに集めさせた。
「いいか、陛下がマンスターを救助されるべく、コノートまでの出陣を宣言された。
今城は非常事態にあり、早い話が、私がお前たちを教育できる時間が、もうないことになる」
従騎士たちは互いに顔を見交わした。
「お前達はまだ若い。もし、トラキアに抵抗する力がないと思うなら、親元に戻り、親とともに領地を守りなさい。
トラキアに一矢でも報いたいものは、騎兵の一人として、陛下についていきなさい。
しかし、どちらにも共通することは、天が許したまうそのときまで、お前達は死んではならぬということだ。
お前達にもお前達なりに、守りたいものがあるだろう。そのためにも、死んではいけない」
そういったとき、王宮付きのメイドが私を呼んだ
「王妃様が御用です、お早く!」
「そういうことだ。もし、私についてくる自信があるものは、ついてきなさい。ただし、これが一番厳しい道になるだろう。
最後の指示をする。
解散!」
従騎士たちは、何事か話し合っていた。それを後ろにして、
「ブランたち二人は、話し合って、一人はアレンにことの報告を。一人は待機して、私を手伝うように」
ブランたちのほかにも、何人かは、私についてくるようだった。もとより、ブランとシュコランは一族なのだから、私についてゆく道を取らざるをえないのが不憫ではあった。
非常時であったので、許可を伺うことなく、私はアルフィオナ様のお部屋に入る。
「忙しいところ、ごめんなさい」
「とんでもありません、私はこのために生かされているのですから」
「そう自分を貶めるのは、不吉だからおやめなさい。
ですが、あなたの想像の通りです。リーフを預けます」
「かしこまりました」
「あなたのところに行くときに使わせている服を持たせます。身分は隠しなさい。この子の名前は、今から『ルー』です」
「はい」
私は、まだ城の騒ぎの何たるかをわかっておられない風情のリーフ様…便宜上、このままお呼び続けることにする…を、アルフィオナ様から預けられる。
「リーフ、アレンのお母様のところに遊びに行くのですよ」
とアルフィオナ様が仰る。
「うん」
「いい子になさいね。赤ちゃんが生まれたばかりですから、仲良くして上げてね」
「うん」
リーフ様は屈託なくうなずかれる。
「用意、整いました」
と、セルフィナが入ってくる。弓と矢を持ち、軽い武装をしている。
「まあ、セルフィナ」
「アレンまで、お供いたします」
「セルフィナ、君はドリアス卿のところにいたほうが」
「嫌です。もう子供ではありませんから」
「連れて行きなさい」
アルフィオナ様が仰る。
「ではアルフィオナ様にも、お早く脱出を」
「ええ、わかっています。
次出会えることを、ノヴァ様に祈りましょう。
サブリナ様…いえ、プリンセスに、よろしく」
ほんのわずかな時間であるはずのアレンまでの道が、これほど長く思ったことはない。
「あ」
騎兵の一人が声を上げた
「竜だ!」
「何!」
私は空を見上げた。一叢の黒雲のような竜の編隊が、真っ直ぐレンスターに向かってゆくのが見えた。
「マンスター襲撃は、ただのおとりにしか過ぎなかったということか!」
私は歯をかんだ。
武装した若者達がやぐらを組み、街の入り口を見張っている、その中にはいっていく。
「お帰りなさい」
王女もすでに武装をされていた。
「中にお入りください、まだ戦闘などできるお体ではないのですから」
「この街で戦闘するかどうかは、街のみんなと、あなたの手にかかっているわ。
それより、お城は? 陛下は? 王妃様は?」
矢継ぎ早の質問だった。私はあったことをあらかた報告する。
「…しかし、マンスター攻略は、おとりであったのかもしれません。レンスターの城も、今はもう…」
「わかったわ。
リーフ様はどちら?」
「こちらに」
私は、ローブを結び、できた隙間の中にお守りしてきたリーフ様を改めてお見せする。
「身分は隠して差し上げるよう、アルフィオナ様から言い付かっております。
ここより先、王子を『ルー』とお呼びするように、とも」
「わかりました」
「ナンナはどうされました」
「さすがに、まだ中よ。でも、あぶなくなったら、あの子も一緒」
そういいながら、王女は中に入ってゆかれる。
「たいしたもんだろ、姫さんのカンは」
と、ベオウルフが言う。
「全くです」
「恋する女も強いが、おっ母さんはもっと強いぜ」
ベオウルフはそう笑った。
「トラキアさんはどう出てくるかね、街まで襲うかね」
「わかりません。レンスターの陥落は避けられない事態ですが…」
と言ったとき、
「お城が!」
声がした。
夜になっても、炎上するレンスター城の姿は、城を望める高台から見ることが出来た。
少年のときの思い出が、一緒に燃えてゆく。
私はあの城で、自分の時間を刻み始めた。そして、ここにいる。
落ちてくる一つの時代の幕が、ひしひしと感じられた。
「まっか…」
リーフ様がそう仰った。リーフ様の幼い目にも、燃え上がるレンスターの城は、奇異にも、荘厳にも見えたろう。
これが時間の流れ。私が流す涙の一滴も飲み込んで、流れてゆく。
相前後して、陛下戦死の伝令が到着した。
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