私は、王女をお迎えに行くのを、あきらめねばならないようだった。
臆病になったのではない。
王女がお望みになっている、落ち着いたお暮らしをさせて差し上げられない可能性が、私に次の行動に出る足をためらわせていた。
戦場でならば、どんな敵の攻撃からも、お守りできる自信はある。
だが、宮廷の政争にはとんと不慣れな私に、戦場と同じようにお守りできる機微はあるだろうか。
コーマック卿の出入り差し止めは、まだ続いている。しかし、かの卿には派閥があり、代弁者がいるのは確かだ。
「グレイドはうがちすぎですよ」
しかしアルフィオナ様の仰りようは、全くそれを意に介さないご様子だった。
「ですが王妃様」
と、グレイドが食い下がる。
「なにかあったとき、こいつが、ふたり分の擁護をするような弁が立つとは、私にはどうしても思えないのですが」
「弁など、ことさらに立てる必要なんて、ありませんよ」
と、アルフィオナ様は飄々とされたものだ。私達二人を前に、とうとうとお話なさる。
「目下騒いでいるのはコーマックとその一党、彼らからの中傷を論破できるかと言うことですね、グレイド」
「そうです」
「プリンセスが、行方不明のアレス王子を捜索されるために、ヘズルの血族の長としてレンスターにいらっしゃるということを、コーマック一人ごときで止められるとおもいますか?」
「ぐ」
グレイドが唸った。
「ノディオンの王女でいけなかったら、マスターナイトとして、お迎えすればいいのです。あの称号は、エッダ教会が管理するものですからね」
「はぁ」
「いずれのご身分であっても、逗留先のアレンの街で、昔なじみであるその領主との間に、一歩踏み出た特別な感情に発展するようなことがあったとして、何の不思議がありますか?」
「お言葉を返しますが王妃様、それは詭弁と申されませんか」
「詭弁な事があるものですか。
そうだとおもうなら、一度きちんと、プリンセスを隠棲先からアレス王子探索の便宜を図るという名目で、レンスターにお招きすればいいのです。
おそらく、プリンセスを見れば、コーマックの中傷が全くの言いがかりであることに気がつくでしょう」
「そうでしょうか」
「ねぇ、そうでしょう?」
アルフィオナ様が私をご覧になる。私は、二人の問答が一段落つくのを待つ間、王女が何を仰っていたのか、その記憶を思い返していた。
「アルフィオナ様のお話もご尤もなのですが」
「あら、どうかしたの」
「…王女は、王女としてはこのレンスターにおいでになることを、おそらく是とはなされないかもわかりません」
「まぁ」
王女は、アグストリアが諸侯連合の機能を失ってこの方、王女と呼ばれるのを嫌っておられた。今私がかの方をそうお呼びしているのは、ご本人にとってはただの慣性にしか聞こえておられない。
王女は王女でおられたくないのだ。王宮の奥深くのお部屋に客人ととしてお迎えされ、ちやほやとされるのは、おそらく、今のあの方は望んでおられない。
何故そうされるのか、なぜそうなされたくないのか、その理由は、私から、とても言えたものではない。
「王女は、アグストリアの動乱を引き起こした一端にある人物と、ご自分をとらえておられます。そして、ご自分のお手が、その崩壊を招き、敬愛する兄王をも、歴史の中に追いやったというご自責が強く、たびたびそそのことで悩んでおられるようでした。
アレス王子の捜索は、確かにあの方が率先して行ってしかるべきこととは思います。
ですが、それを建前として、レンスターがお招きするのであるとしたら、あの方は、おそらく」
アルフィオナ様は、にこやかなお顔をすうっと、おちついた笑みに直されて、
「そうですか。プリンセスは、あなたの奥様でいらっしゃりたいのね」
と仰った。私の顔が、一瞬、わずかに熱くなる。
「それは」
「まあ、照れることなんて全くありませんよ。
そうならそうで、そのように、お迎えすればよいこと。どこかのお姫様のようでもあるような、お美しくて気立てのよい奥様を迎えられたことで、あなたの羽振りに箔がつくというものです」
アルフィオナ様は最後に、ころころとお笑いになる。
「参りました、年の功には勝てません」
グレイドがへなりと力を抜かした。
「まあグレイド、誰が年ですって?」
お迎えに上がれないとなると、どうやってこちらにお招きすればよいのか、私は執務室の机の上で、アルフィオナ様からいただいた対の指輪を前に考えてしまっていた。
まさか、お一人では参られまい。信頼できるものがあって、あの方に同行されていれば、あるいは可能かもしれないが、まさか、手の離せない年頃であろうデルムッドをおいて全くのお一人と言うことはないだろう。
だが私は、その発想が、自分の全くの見当違いだったことに目をむくことになる。
帰国してしばらくの、煩雑な出来事、相次ぐ悲報。それらが私の中で、あの方にまつわる一部を記憶の彼方に押しやってしまっていたのかもしれない。
とどまり考えるよりは、まず歩く。それがそれがあの方だということを。
いつものように、私は相変わらず館と城との往復に明け暮れていた。
リーフ様のことは、アルフィオナ様やセルフィナといった女性達に預けていたほうが安心なお年頃であるから、もっぱら私は、ドリアス卿やグレイドと一緒に、ランスリッターの教練をするかたわら、街から時々送られてくる書類に目を通すといった具合だ。
従騎士として私が育成することになった数人の少年達の中で、一族から推薦された双子が、もっぱら街と城の往復を手がけてくれている。でも私には、どっちがどっちだかまだ区別がつかない。双子は、王女についておられた三騎士のように、ほとんど同じ顔をしていたからだ。
その双子を一週間ほど、休暇を取らせて街に帰らせていた。戻ってきたときに、決済を求める書類の箱を私に渡してくれる。
「ゆっくり休めたか?」
という私の問いに、二人はほとんど同じ声で同時に「はい」と返事をする。
「何か変わったことはなかったか?」
「はい、とりたてて問題になることはありませんでした。詳しくは書類をと」
「分かってる。
もう少し、何か見聞してきたのだろう? 笑い話になりそうなことの一つ二つあるだろう」
「…笑い話ですか」
「ご主人様も、存外に砕けた方なんですね」
「当たり前だ、私だって木石ではない」
促されて、双子はお互いの顔をみやった。そして
「ご主人様が僕達を残してお城にこられた次の日、だったかな、シュコラン」
「そうそう。この頃、新しいワインを出すので評判の酒屋の主人がだよ、ブラン」
「なんでも、新しいワインは領主様…じゃなかった、ご主人様のご推薦らしいですね」
「そうだったかな」
「はぐらかさないでくださいよ、商人と直接お話までされていたじゃないですか、先日は」
「まあいい、その酒屋だか酒場だかで何があった?
酒が原因の喧嘩や訴訟話なら、改めて書類で出してもらうんだな」
「あ、はい。
僕達が、自分の家に帰るつもりで館を出たときに、その酒屋の主人がいて、ご主人様に会いたいという二人連れをつれてきたんです」
「二人連れ?」
「はい。外套をかぶっていたので、その風体までは分かりませんでしたが、一人は確かに男でした。
領主様…じゃなかった、」
「好きに呼びなさい」
「すみません。
領主様のことを訪ねてこられたようだったのですが、領主様はすでにご不在でしたので、もしよんどころなくして領主様に御用ならと、宿を紹介して帰ったんです」
「ほぉ」
私は、あまり面白くない話だった、というつもりで声を上げた。私がここで妻帯できない理由を知らない貴婦人が、何かと理由をつけて会いに来ることも、ないではなかったからである。ご本人にしろお身内にしろ、そろそろ理由をこじつけて帰すのが億劫になってきていた。
「そうしたら、二人連れのもう片方の方が、伝言を、というので…
その箱のどこかに、入っていると思います」
「伝言?」
言われて私は、箱の中を探る。無造作に書類をつかみあげて、ぱらぱらと揺すると、こつん、と、折ってひと結びにされた小さい紙切れが落ちてきた。それを開く。
「ブラン」
「はい」
「シュコラン」
「はい」
「その二人連れに、どの宿を紹介した?」
「はい。どうも、ワインを扱っている酒屋にご縁のある方のようでしたので、酒屋に近い宿を」
「二人連れの片方は、女性だったかな」
「たぶん…
背格好は確かに女性だったかもしれません。伝言をわたしてくれた手も、そんな感じがしました」
「いいか二人とも」
「は、はい」
「今から言うことは、アレン領主として、何にも優先される指示である。戻って、館に伝えなさい。
その宿に滞在されている二人は、即時館に。女性の方には、母上のお部屋をお使いいただくよう」
「はあ?」
双子が裏返った声を上げた。
「細かい理由は今知らなくていい。行きなさい」
双子を走らせて、私は部屋の椅子に腑抜けたように座った。そして改めて、託された伝言を見た。
<サブリナに、会いに来ちゃった>
決めただけの仕事が片付くでの二三日、館に帰るのがこれほど待ち遠しいことはなかった。
「グレイド」
と、教練上がり、彼に言う。
「私の館に来ないか」
「お前、何か悪いものでも食ったか? お前の口からそんなこと聞くのは初めてだ」
「なんでもない。
ただ、私の館に来客があるのだ。まだこの土地に慣れておられないから、せめて誰かとは会わせて差し上げたくて」
と言うと、グレイドはにんまりとした顔になり、
「そうか、分かったぞ。
例の方がお出ましだな」
と、私の頭を抱えてぐらぐら揺する。
「わ、わ、わ」
「わかった、そういうことならお邪魔しようじゃじゃないか」
「来たな少年」
館に入るなり、私は何者かに首を抱えられ、危うく後頭部を床に打ち付けそうになった。
「いや、今は領主様か。
なんでもいいや、出世しやがって」
ぽかんとしているグレイドを尻目に
「相変わらずですね、卿も。無事でほっとしました」
と言う。ベオウルフは頭をぐしぐしとやりながら、
「だから、卿はやめれって、かゆいから」
と笑った。立ち上がった私に、グレイドが
「まさか、この方が?」
「いや、この人物は故あって、あの方をここまで守ってこられた」
「びっくりさせてすまねぇ」
手を差し出すベオウルフ。グレイドは、勧められるままに握手した。
「まあ…人物卑しからぬことは、彼の相好でなんとなく察しました。
いずれのご家中か分かりませんが、レンスターにようこそ」
「いや、俺はただの傭兵さ」
ベオウルフは言って、やがて聞こえる馬車の音に、私を顎で促した。
馬車から出てきた人物達をみて、私は「あ」と声が出そうになる。グレイドが話をしたのだろう。ドリアス卿とセルフィナが馬車から降りてくる。そして、続いて馬車をおりられたのは…
「ア」
「しぃっ」
アルフィオナ様は、私の唇をさして、黙るよう言った。
「ドリアスの身内ということにしていますので、よろしくお願いするわね」
「は、はい」
執務室に、複雑な顔をした一族のものがいた。
「いささかご領主のなさることに脈絡のなさを感じるのですが、これはいったいどういった騒ぎなのですか、王妃陛下もいらっしゃるとは…」
「いかようにとらえても結構です。
母上の部屋におられる方以外のお客様を、会議室に。例の方は、私がお連れします」
「は、はい」
「改めて一族と街の主だったものを集めて説明しますが、あの方が私の妻です」
「えっ」
一族のものが目をむいた。
その部屋の前で深呼吸などしている私は、たぶん一族のものには奇異な目で写ったかもしれない。ついぞ、深呼吸するような緊張など、この場所ではしないからだ。
だが私は、ほんの一二年前は、こうして、深呼吸をしてから扉を叩いたものだ。
扉を叩くと、
「入れて差し上げて」
と声がする。耳から小刻みな震えが全身をかける。扉を開けて、顔を出した行儀見習いの娘が、
「あの、お着替えは、おすみですから」
と言う。
「ありがとう。後は私がお相手するから、今日の仕事はもういい」
娘は、少し膝を折って、ぱたぱたと廊下を駆けていった。
「あなたも、もうお休みください」
私は一族のものに声をかけ、中に入った。
部屋に入ると、そこにいるのは物寂しげだった薄い記憶の母ではなく、分かれてこの方、忘られないお姿だった。
「ごめんなさい。
びっくりさせるつもりじゃなかったのだけれど」
と、王女は面はゆそうにうつむかれて仰る。
「手紙見たら…どうしても…」
「いいのですよ。私も、お手紙を受け取ってから、いつお迎えに上がろうか、そのことだけ考えておりましたから」
「それと、もう一つ…
デルムッドを、つれてこられなかったの」
「仕方ありません、ここまでの道行き、小さな子を連れての旅は無理です」
私は言って、王女の手を取った。
「ありがとうございます。貴女は、私に、新しい家族を与えてくださった」
「…私にとってもよ」
「そうですよ」
私を見上げる王女のお顔は、いつか分かれたころより、落ち着いた母の貫禄をひめて、改めて、そのお美しさを、上手く形容する言葉が出ない。
「あの、ね」
と、その王女が、いつかに変わらず少女のような口ぶりで
「着替え、ほとんどなくて、そしたら、この部屋のものを使っていいっていうから…服、借りたの。
おかしくない?」
と仰る。
「いいえ、全く。残していた母の服が役に立つとは思いませんでした。
でも、すぐにあつらえさせましょう」
「ううん、私はこれで十分。
でもまさか、ここでもあなたのお母様の服を借りるなんて、へんな話ね」
「そう仰らず。
さあ、行きましょう、ごく親しい友人だけ、招きました」
私が手を取って、会議室にお連れした王女に、みながほぉ、と息をついた声が聞こえた。
「皆様、今夜は、私のためにお集まりいただきまして、感謝の言葉もありません。
レンスターの慣わしなど何も知らぬ田舎者ですが、皆様どうか、よろしくお導きください」
しかし、その身のこなしは、アグストリア式で一片のソツも見られない。
メイドが入ってきて、茶菓の準備を始められたとき、カップを差し出された王女は、
「私ではなく、あの方に先に差し上げて」
と、アルフィオナ様を指される。ぽかんとした私に
「あの方、ご身分を隠しているけれど、キュアン様のお母様でしょ」
と囁いた。
「何故わかりますか」
「みんな、そのつもりがなくても、一歩遠慮されてるもの」
「なるほど」
「きっと、もう私が誰かと言うのもわかっているわね」
「ええ、まあ」
「それでもいいわ」
王女はそう仰って、優雅に一口カップの中を含まれた。
そして。王女の左手には、アルフィオナ様からいただいた指輪がきらりと輝いている。指に通したとき、測ったようにぴったりだったのに、私は驚くばかりだった。
王女は、今夜は母の部屋ではなく、私の部屋におられる。式を挙げた当夜なのだ、館の中は私達をはばかっているのかそれとも聞き耳でも立てているのか、しんとして誰もいないような雰囲気を漂わせている。深夜だが、館の外では、今日に乗じた街の騒ぎが、まだ続いている。
私は、明かりを消した。王女が怖がらないよう、一つだけ残して。
誰かが聞いていそうで、子供が生まれて変わりすぎた体が面はゆくてと仰るのを、私はすべて聞き流した。情けの限り抱きしめつくして、そのお声が高くなりゆく陶酔感を、体全体で味わった。
今夜からは、もうはばかる必要はない。合図も必要ない。私達を、神は許し給たのだから。
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