まず最初に私が思ったのは、シレジアの動静について何か、劇的な変化があったのか、ということだ。出来れば、朗報であればいいのだが。
伺った先でのキュアン様、エスリン様は、なにか、だまされたような顔をしておられ、
「お前に名指しで、かつ親展の、ラーナ殿からのご親書だ」
と、封筒をひとつ私に手渡された。
「…ああ、よかった」
私は肩の力を思わず抜いてしまう。
「シレジアで何かあったのかと思いました」
「戦況のほうは目立った進展はないよ…俺達が出て行く幕じゃない。
その手紙は、特に急ぎでといわれている。なんぞ、仰りたいことでもあるのだろう。
早く開けて、返事を差し上げなさい」
「はい。
…ここで開封しても、よいでしょうか。お二人に関係があることかもしれないので」
「ああ、好きにしなさい」
ラーナ様のお手紙には、ひとひらの物騒さもなく、むしろご筆跡には、そのご人格の宥恕さをも、私には感じさせた。
だが、のっけからの文章が、私をぐら、と、側の椅子に倒れこませるような衝撃を覚えさせた。
<そちらの春は、花が咲き乱れているのでしょうか。シレジアの春は訪れが遅く、やっと雪が融けたばかりです。
しかし、この雪融けは、これから芽吹くすべてのものを潤し、秋の実りを約束するもの。森羅万象がその実りを謳うその秋の頃に、卿も人の親となるかもしれません…>
「…私が?」
お手紙に、不遜な疑問を投げた。ラーナ様が、また何かの筋書きを作って、はるばるシレジアから私にお戯れでも仕掛けてきたのかと、最初は本気でそう思った。
が。
<…大切なことを、お伝えしましょう。
卿がこのシレジアで、何にもかえておいつくしみなさった美しい方は、今、卿のお子を身ごもられておられます。
シレジアの、不肖の身内の起こした事件については、卿もすでにお聞き及びのことと存じます。
そのシレジアのために、あの方は戦に出られることを決心されました。ですが、その時期と相前後してご懐妊の兆しがはっきりするところとなり、しかもそのご容態が芳しくなく、今この手紙をしたためている現在、その回復をお見守りしているところです。
こう申し上げると、ご心配もされるでしょうが、ご懐妊の最初は大抵そうなるもの、私の申し上げることがまだ信じられないのならば、エスリン様にでもお伺いなさいまし。
ですが、初めてのご懐妊で少々お心が不安でいらっしゃるのも確かなこと、何よりも、今あの方に必要なのは、卿よりのお言葉です。
私への返事は不要です、あの方に向けて、お言葉を差し上げてくださいまし。気丈な方でいらっしゃいますが、その気丈さにも限度がございます…>
ラーナさまのお言葉に、お戯れを感じさせるような言葉は何一つなかった。そのお手紙の一字一句に殴打された気分になって、私はしばらく、放心していた。
「どうしたの、そんな取り乱して」
と、怪訝そうに近寄られるエスリン様にお手紙を渡す。エスリン様はそれを一通りお読みになられて
「まあ」
とお声をあげられた。キュアン様も
「…ああ」
とお声を上げられる。
「広まったら、コーマックがまた何か言いそうだな」
そう仰って
「シレジアに戻ったほうが、よくなくて?」
エスリン様は眉を寄せられた。しかしキュアン様は
「いや…動かないほうがいいかもしれない、彼女の出自がここで知れるようなことがあったら困る」
と仰る。
「もちろん、最終判断はこいつがするだろう。俺の子供の話じゃない」
「そうでしょうけど、この状態で、まともな判断が出せると思って?」
キュアン様が私の元によってこられ、
「ほら、しっかりしないか、放心している場合じゃないぞ」
と、私の頬を叩かれる。私は頭をぶるん、と振るって
「どうしましょう」
と言った。
「どうしましょうも何も…お前のことじゃないか」
こんなことになるのだったら、お前を武者修行のつもりでシグルドに預けてくればよかった。キュアン様はそんなことを仰った。
「まず聞くぞ。
お前は、シレジアに戻りたいか」
戻りたい、という返事を、飲み込んだ。
「私には、やらなければならないことがまだ…残っています。それがすべてすまないうちは…王女は、私が戻ったとしても、よいお顔はなされないでしょう」
「そうかな、彼女はきっと、お前に戻ってきて貰いたいはずだぞ。
生まれてくる子供を、一緒に祝福する義務と権利が、お前にはあるんだ」
それは私も分かる。だが、今再びシレジアに行けば、私はもう、かのみ許を離れられなくなるだろう。このかたがたは、それでよいとおっしゃるかもしれない。しかし私は、我ながら愚かなまでに頑なに、シレジアに戻るとは言えなかった。
「今ここで戻ってしまっては、立身して帰ると誓った私自身をたばかることになります。
私は、自らが満足するほどに、まだ何もなしえてはいないのです。どうかこのままとどまることをおゆるしください」
お二人は、顔を見合わされ、エスリン様がはぁ、とため息を疲れた。
「わかりました、それがあなたの判断ならそうなさい強情張りさん。
でも、揺るぎのない事実はすでに始まっているの。あなたはもうすぐ父親になるのよ、自覚を持ってもらわないと困るわ」
そして、私の前に、紙とペンを置かれる。
「さあ、ここでお返事を書きなさい」
何度も書き直しをさせられ、手紙を差し上げはしたが、私はそれでも、呆然としていた。
父を知らない私が、父親になる? 実感など、まるでなかった。
「娘の父親は、いいぞ」
キュアン様はそう仰っていた。
「男である俺の血を継いでいるのに、アルテナは日にまして可愛い。損をしたな、こんな可愛い間を離れて暮らしていたなんて」
そう仰りながら、お部屋を駆け回るアルテナ様をふいと抱き上げ、頬ずりをなされる。アルテナ様はきゃあ、と笑い声を上げられて、誰に教えられたのか
「おとうしゃま、しゅき」
と抱きついたりなさる。
「まったく、帰ってきたらこれなんだもの」
とエスリン様は少しあきれておられるようだが、これが家族と言うものなのかと、漠然と思ってみたりもした。
この頃は、従者がついたり、何かと重臣方と話し合うことも多く、なかなか一人きりになるところがない。
しかし、王太子宮殿の厩舎までは誰も来なかった。この頃は従者に任せきりだったサブリナの体を、久しぶりにてずから磨いている。サブリナは、その後鞍を載せられると、走れるのが待ち遠しいように前足を鳴らした。
そのサブリナが、突然顔を上げ、耳を動かす。
「どうした」
と尋ねたとき、厩舎の陰から、誰か私達を見ているのに気がついた。
「…アルテナ様?」
歩み寄り、視線を合わせるようにかがみこむ。
「どうされました?」
アルテナ様は、私ごしに、サブリナをご覧になっているようだった。
「あのね、あのね」
「はい」
「おうまに、のせて」
おそらく、お二人は危ないといってお許しにならなかったのだろう。それを私がそうしていいものか少し迷ったが、乗せて差し上げると、心配そうなお顔が急に笑顔になられる。
手綱を引いて、馬場をめぐろうとして、アルテナ様が
「いやいや」
と仰る。見上げた私の手を取られて、
「のって、のって」
と促される。私は仕方なく、アルテナ様を抱き込むようにしてその後ろに乗った。少し離れた宮殿の窓から、お二人の苦笑いされる顔が見えた。
視線の高くなったのがお珍しいらしく、アルテナ様は左右を身めぐらしておられる。私は、サブリナを、極力揺れないように、ゆっくり歩くよう手綱を緩めていた。
遠征の前には、お生まれになったとしか、話にしか聞かなかったアルテナ様は、いつの間にか、ご自分で歩かれるようになり、少しながらご自分の意思を表すお言葉をお持ちになられている。それだけの時間が、あったということだ。
「あっち」
と仰るままに、馬場のはずれの木立の中に入ってゆく。小さい花がちらほらと咲く、柔らかそうな草の一隅があった。
サブリナを側の枝につなぎ、下ろして差し上げると、アルテナ様は、サブリナを不思議そうにごらんになっている。サブリナも、この小さい生き物はなんだろうかと言う顔をして、アルテナ様を見ていた。アルテナ様が、手を伸ばされる。
「いけません」
私はつい声が出た。おとなしいとはいえ、突然目の前に手を出されたら、サブリナだって噛み付くかもしれない。アルテナ様にお怪我をさせでもしたら、とんでもないことになる。しかし、サブリナは、アルテナ様のお顔に、ついと鼻面を当てただけだった。アルテナ様はぽかんとして、サブリナを見ている。
「この馬は、アルテナ様をお嫌いではないようですよ」
「うん」
「ですが、馬の前に手を出されると、とても危ないのですから、それはおやめください、いいですね」
「うん」
アルテナ様は、本を一冊、両手に握り締めておられた。本と言っても、レンスター世継ぎの姫が読むのだ、宮廷抱えの語り部が物語をつくり、書記官が字を書き、画家が挿絵を書くという、大陸に一冊しかない絵本だ。
「よんであげるね」
と仰って、アルテナ様は本をひらかれる。その本は逆さまだ。しかしアルテナ様は、もう中身をすべてご存知らしく、
「むかしむかし、どこのおうさまがおおさめになっていたくにでしょうか、たいそううつくしいおひめさまがおられました…」
と、すらすらとはじめられる。
「そしてそのくにには、わるいまほうつかいもいて、くにのみんなを、とてもこまらせていました」
と、挿絵に、黒衣の魔導士が書かれているのをさされて、
「このひと、こわいの」
と解説も下さる。
「あるひ、おうさまのところに、わるいまほうつかいがきました。
『おまえのむすめがほしい、くれなければ、このくにをめちゃくちゃにして、みんなをこまらせて、かなしませてやるぞ』
といいました。
おうさまは、どうしたらいいか、とてもなやみました。おひめさまは、おうさまのたいせつなおひめさまで、つぎのおうさまになってほしいとおもっていたからです」
アルテナ様はそこまで逆さまのまま、絵本を読まれて、
「おひめさまも、おうさまになれるの?」
とおたずねになる。
「なれますよ。アルテナ様はきっと、王様になられますよ」
「ふぅん」
アルテナ様はあまり私の答えに実感を抱かれてはおられないようだった。
「おひめさまは、とてもやさしいかたで、なやんでいるおうさまをしんぱいしていいました。
『おとうさま、わたしはあのまほうつかいのところにおよめにゆきます。くにのみんながしあわせでいられるなら、そのほうがいいのです』
そして、ひとりであるいて、わるいまほうつかいのすむやまにいきました。
わるいまほうつかいは、とてもよろこびました。じぶんのいえの、いちばんおくのへやにおひめさまをとじこめて、
『これで、もっともっとひとをこまらせることができるぞ』
といいました。おひめさまをかえしてほしいなら、といわれると、おうさまも、わるいまほうつかいのいうことをきくしかありませんでした。でも、わるいまほうつかいは、ぜんぜん、おひめさまをかえしてくれなかったのです」
よくある、子供の喜びそうなおとぎばなしだ。しかしアルテナさまは、ご自分でその絵本を読みながら、閉じ込められた姫君に感情移入でもされているようだった。
「おうさまはこまってしまって、くにじゅうに、おふれをだしました。
『わるいまほうかいのいえから、おひめさまをたすけたものは、おひめさまとなんでも、すきなものをあげよう』
そのしらせをきいて、ちかいくにからも、とおいくにからも、もちろん、おうさまのくにからも、『わたしがたすけにいきます』というひとがたくさんやってきました。
でも、わるいまほうつかいのいえは、とげだらけのつるくさと、おおきなドラゴンがまもっていて、みんなこわくなってにげていってしまったのです」
敵の要害がドラゴンとは、レンスターらしい。私は少しだけ苦笑いをした。ひろげがちに座ったローブのうえで、アルテナ様はちょこりとおすわりになって、熱心に絵本を読み続けておられる。まだ逆さまのままで。
「もうだれも、おひめさまをたすけるものはいないのか、おうさまがすっかりこまってしまったとき、きしさまがひとり、くににやってきました。おうさまがこまっているときいて、きしさまは、『わたしがいって、おひめさまをたすけましょう』といいました。
おうさまは、またにげだしてしまうのではないかとおもいながら、きしさまに、おひめさまをたすけてくるようにいいました。
きしさまは、きらきらのよろいと、きらきらのけんと、きらきらのやりをもっていました。
きらきらのけんで、とげだらけのつるくさをぜんぶきってしまいました。きらきらのやりで、ドラゴンをやっつけました。
わるいまほうつかいは、わるいことはなにもしないときしさまにやくそくして、どこかとおいところににげていってしまいました。
きしさまは、おひめさまをたすけて、おうさまのところにもどりました。
おうさまはとてもよろこんで、『むすめをあげよう、なんでもあげよう、すきなものをいいなさい』と、きしさまにいいました。ですが、きしさまは『なにもいりません、わるいまほうつかいがこないように、よいまほうつかいをおしろによんで、おうさまとおひめさまをまもっていただくといいでしょう』といって、たびにでていってしまいました。
おうさまは、さっそくいうとおりにしました。そして、おひめさまをおうさまにしました。
でも、おうさまになったおひめさまは、たすけてくれたきしさまのことをおもいだすと、すこしさびしくなるのでした。
おしまい」
アルテナ様はぱたん、と絵本をとじられた。私は
「大変お上手におよみになられました」
と、アルテナ様をほめた。アルテナさまはまた絵本を抱きしめて、
「アルテナね、ほしいものがあるの」
と仰る。
「なんでしょうか」
「きしさま、ほしいの」
「いずれ、アルテナ様には、たくさんの騎士が忠誠を誓うでしょう。
もちろん、私も、その一人ですよ」
と言うと、
「ちがうのちがうの」
と仰る。
「アルテナだけのきしさま、ほしいの」
仰る意味が、少しだけはかりかねた。
「アルテナがばあやにおこられたりしたら、『アルテナさまはいいこだから、おこってはいけません』って、いってくれるきしさま、ほしいの」
「さようですか」
それは騎士とは少し違うのではないか。私はそんなことを思った。すると、アルテナ様は、黙って私を見上げられる。
「どうされましたか」
「アルテナだけのきしさまに、なって」
「え」
私は、もたれていた木からずり落ちかけた。
「とおいくにからきたきしさまでしょ?」
「私は、アルテナ様がお生まれになる前から、レンスターにお仕えしているものですよ」
アルテナ様が、くうっと上目遣いになられる。
「いやよ、アルテナだけのきしさまになってくれきゃ、いや」
私達の会話に脈絡と言うか、意志の疎通はほとんどないと言っていい。
「やぶっちゃいけないおやくそく、ね? きしさまは、そういうおやくそくするのね」
それでもとどめの一撃をくらって、私はがっくりと力を落とした。このお言葉は誓約と受け取るべきなのだろうか。
必要以上に拒むのも、かわいそうな気がした。
「わかりました。アルテナ様の騎士になりましょう」
アルテナ様は「ほんとう?」と大仰に首を傾げられ、
「ずっと、アルテナのそばに、いてね」
と仰った。
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