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 オーガヒル義賊の船に守られて、私達はシレジアに入った。
 オーガヒルとは目と鼻の先になる、セイレーン城が、私たち流浪の旅団に用意された住まいであった。
「わぁ」
ご自分に当てられたお部屋で窓の外を見やられながら、王女が軽い感嘆の声を上げられる。
「マディノの雨は、こっちではもう雪になるのね」
そこは東翼の最上階の、木立の間から海が望める、落ち着いた部屋だった。きっと、お疲れの王女のことをお聞きになったシレジアの方が、配慮して用意してくださったのだろう。
「ばあやに見せたいな…私の世話ばっかりで、こんな綺麗な風景見たことないとおもうの」
「お呼び寄せになったらいかがですか?」
「落ち着いたら…そうしようかな」
王女は仰りながら、部屋のあちこちを見て回られる。
「さすがに、この部屋には秘密の階段はなさそうね」
そんな冗談も口にされる。
「あるならば、シグルド様かレヴィン王子のお部屋になるでしょうね」
と返答すると、王女は少し怪訝そうな表情をなさって、私に向き直られた。
「そうね、確かに、この部屋には秘密の階段は要らなさそうね。
 でもこの部屋には、絶対になくちゃいけないものが一つあるわ」
「何か、不備でも? 言いつけてまいりましょうか」
王女がそう仰るのに、私が部屋を出ようとすると
「ちがうわよ、もう」
と王女はあきれたようなお声を出された。
「全部言わせたいの?」
といわれて、私は、王女の仰ることがやっと分かった。やはり、先刻私が言ったことがよほど腑に落ちかねていらっしゃるようだ。
「マスターナイトの修養が先と思って、私は夜はうかがわないと申し上げたつもりなのですが」
「…夜は関係ないじゃない。まだあれから何にも進んでない。いつも一緒にいてくれるって、約束でしょ」
「よろしいですか王女、王女はマスターナイトになられる方なのですよ、教練の過酷なことは、私も拝見して十分分かります。ですから、夜はきちんと休養を取っていただかないと…
 無事に叙勲を終えられてからでも、遅くはありません」
「そんなこと言って、本当はこの間みたいに失敗するのが怖いんでしょう」
このお言葉が、ぐさ、と私を刺した。しかし、刺された場所はいつもの胸ではなかった。
「そこまで仰いますか」
「何?」
「結構、不調法者はここで失礼いたします」
私はくる、と踵を返した。
 自尊心も痛いが、図星も痛い。しかし王女には、無事にマスターナイトになっていただきたいのだ。教え込まれた耳知識は、確かに私の頭の中に入ってはいるが、私はまだ、そんな状況にはないと思っていた。

 その王女のお加減がよろしくないと伺ったのは、そんなやり取りのあった間もなくのことだった。
 ぱったりと、マスターナイトの教練を中断され、お部屋から出てこられない日が続いているそうだ。
 私があんなことを申し上げたからご機嫌を損ねたのかと、私は内心冷や冷やしていたが、実際はそうでなかったのを、とある夜の呼び出しで知ることになる。
「あまり眠れなくて…教練に身が入らないの」
王女はそう仰って、私に、眠るまでそこにいて欲しいと仰る。
「変な風に受け取らないで。あなたが言ったことは正しいと思うから、続きはマスターナイトになれたときのご褒美にしましょ。
 だから、ちゃんと教練できる体にならないとね」
私の無骨な手のひらに、ふわりと王女の頬が当たる。
「おやすみなさい」
と閉じられた目の、けぶるようなまつげが、ひとつともされた明かりにちらちらと輝く。マディノに眠られるまま運ばれたときと、同じ表情で、王女はゆっくりと、夢の道に進んで行かれるようだった。
 しばらくあって、そっと手を抜くと、そのまま、王女は枕の上で首を傾げられたまま、すっかりお休みになられていた。

 王女は、眠れないことにだいぶお悩みであるらしく、私の呼び出しもたびたびになる。なぜそのようにお休みになれないのか、お尋ねするのははばかられたが、マディノにおられた間だけでは癒えきれなかったものがあるにちがいなかった。
「いつも、ごめんなさい、あなただって眠いでしょうに」
「ご心配なく。私の体はこれでも、頑丈にできているのですよ」
王女のお言葉に、精一杯冗談を込めて答えると、くす、とお笑いになられて
「あなたは、うまく口ではいってくれないけれど、仕草でわかるの。私を心配してくれてるのが」
「ありがとうございます」
しかし、これだけでよいのかと、ただ、黙ってお見守りしているだけでよいのかと、問いただす自分が別にいる。
 私の目を、じっと見つめる王女が、ふと目を閉じられた。私の行動は、それに反射したと言ってもいい。気がついたら、慕わしい唇を吸い、すがられるようにされていた体を抱き寄せていた。お体がぴくり、と震えられたが、そのまま、私がするままにされておられる。
 今私の抱えている感情が破裂しそうだった。しかし、今それをしてしまったら、王女が私に傾けておられる信頼を失う気がして、そこまでしか、できなかった。
「もう、お休みください」
と、自分の中で暴れる虫を抑えるように言った。王女は、ほのかに潤んでおられるような目で私をじっとご覧になってから
「…ありがとう」
と目を閉じられた。

 王女のお部屋についているメイドが、静かに、しかし、ただならぬ雰囲気で私の部屋を訪ねてきたのは、それから二三日ほどあってのことだったろうか。
「今夜は特にお悩みのようで…お声が涙がちでございました」
という言葉を背中にしながら、私は王女のお部屋に入る。
「差し向かいにさせていただけませんか」
というと、メイドはそのまま、気配を消した。
 王女は、歯の根も会わぬほどに震えておられた。
「いかがされました?」
と、明かりをかざしながら入ってくる私を見るなり、王女は諸手を差し伸べられてこられる。
 私が近づいてくるのにそのまま抱きすがられるようにされて、
「怖い夢を見たの、とても怖くて…」
と、その夢の内容を、しゃくりあげながら仰る。
 …シルベールの呪縛は、まだ王女を完全に解き放っていなかった。最悪の結果しかノディオンにもたらすことがおできになれず、それが王女のどこかを苛んでおられる。
 そもそも、王女がここまでの呪縛に苛む原因を作り出したのは、どなたか。
 ノディオンの陛下が今ここにおられたら、私は分もわきまえず、何かを申し上げていたかもしれない。いや、恐れながら手をも出していたかもしれない。
 御自身の、一人しかいない妹姫に、このようなひどい傷を負わせたままで、ご自分はご自分の騎士道に酔われて逝かれたか。
 崩れ落ちてしまわれぬよう、硬く抱きしめる腕の中で、王女が、喘ぐように仰る。
「お願い…大事な…お願い…」
「…なんでしょう」
「あなたは…お兄様のようには…ならないで…」
「なりません。絶対になりません」
弱弱しい、しかし切々と迫るお言葉に、思わず、腕の力を強めた。
「騎士失格の烙印を押されても、貴女のために生きます。土をなめるようなことが何度あっても、生き抜きます。
 私は、貴女にそれを誓ったのですから…」

 その後は、くだくだしく述べるつもりはない。おそらく、そのとき初めて、お互いの求めていたものが一致したのだろう。存在を。暖かさを。…その肌を。
 ことが終わっても、王女は私のそばからはなれがたくておられるようだった。薄明かりの中、細く可憐なおみ脚のあたりに、はっきりと色を持って滴るものがあった。
「お辛くありませんでしたか」
と、つい尋ねてしまう。しかし王女はかぶりを振られて
「あなただから、いいの」
と仰る。
「これで、私は全部、あなたのもの」
「…」
「もう、怖い夢なんか見ないわ」
「…」
「だって、これからずっと、あなたがいてくれるから」
「…はい」

寝台の中、他愛なく話をされているうちに、王女はいつしか、私の胸の上で眠ってしまわれた。私は、そのおからだを、あらためて腕で巻くように抱きなおし、朝までのつかの間の眠りに落ちた。

 仰るとおり、王女はそれからは何かを脱ぎ落としたかのように健やかなお体を取り戻されて、中断されていたマスターナイトへの教練に絶えられるよう、お体を養われた。
 大詰めの教練はそれこそ、各武器・魔法もまったく保護のない実戦のものを扱われるので、この期に至って怪我でもされないかと、私は冷や汗をかくこともしばしばであったが、そのうちどなたもが、王女の実力ならばと、訓練の終わりを告げてゆかれる。
 その成果は雪の間に完全に実を結ぶところとなり、雪の季節が終わり、やや遅い新緑の季節に、シレジアのラーナ王后のご推挙を得て、王女はマスターナイトの叙勲を受けられることになった。
 シレジア城に、叙勲式に必要な方々が招かれて、王女はその前夜、礼拝堂で潔斎をされる。
「ありがとう」
その前に、王女は礼拝堂の前までついてきた私にそう仰る。
「あなたがいなかったら、私、あのまま途中で投げ出していたわ」
「何を仰います。王女は最後まで、ご自身の意志でご自身を磨かれてきた。それを分かっておられるからこそ、公子様方も私も、このご推挙に否やを申し上げることがなかったのですよ」
「…そう言ってくれるから、がんばってこられたの」
王女は私の手を取られ、その手を手繰るように、私の胸にぴたりと頬を当てられる。
「王女、これからご潔斎なのですよ」
誰か見てはいまいかと、私は思わず周囲を見めぐらす。
「だからよ。
 離れ離れの夜なんて、珍しくないのにね…」
「明日の、王女の晴れの姿を楽しみにしておりますよ」
「はい」
少し、不安でおられるのだろう。その不安を少しでも抑えようと、求められるままに唇をかさねて。王女は小さく手を振られながら、礼拝堂の中に入っていった。私は、その閉められた扉の向こうに、聖印を切った。

 ご盛装の胸に、マスターナイトのご徽章が輝き、さらに王女のティアラが、それに華を添える。エッダの神の前にひざまずき、誓約を唱えるお声が、聖堂の壁に、玲瓏と響く。
「間近にお見受けすることは余りありませんでしたけれども、こうしていると、なんて華やかでお美しい方なんでしょう」
ラーナ王后が、ため息をつくように仰るのが聞こえた。
「私にももう一人、娘でもいれば、今のくらしにも多少の華があろうのに」
「ご心配なさらないで、ラーナ様」
そのお相手をしているのは、エスリン様のようだった。
「じきに、レヴィン王子がお妃を決められれば、娘が一人増えますわよ。
 それに、ラーナさま、優秀な天馬騎士たち全員がお嬢様も同然ではありませんか」
「私はどうも、あの子に嫌われているのかしら、たびたび呼んでいるのに一向に足が向いてくれないなんて」
「時期さえ来れば自然ともとのようになられますわ、存外に照れくさくておいでなのかもしれませんよ」
「出来れば、あのマスターナイト様のような、美しくて賢い方が、あの子のところに来ればいいのだけれど」
お二人の視線が私に注がれているような気がしたが、私はそれを気がつかないふりをした。ラーナ王后をお見受けしていると、レンスターのアルフィオナ様を思い出す。お元気ではいらっしゃるだろうが、この頃は何かに取り紛れて、お手紙をだすことも間遠になった。デュークナイトの制服が届いたときも、お礼だけを返すのが精一杯だった。王女のこともお知らせすれば、もしかしたら喜ばれるかもしれない。だが、成り行き上キュアン様に「報告」してしまったのをご存知になって、それから二三日お部屋に入れてくださらなかったほど気恥ずかしがられた王女のことだから、そんなことをしたらどうなることやら。
 ぼんやりとしていたのだろう、後ろからつつかれて、私は正気を取り戻す。王女が私の前に立っていた。
「ご推薦を頂き、ありがとうございました」
そう仰って、私に向かって膝を折られる。「そんなことを」と言いかけて、やめた。推薦してくださった方々にご挨拶をすることは儀礼のうちだったからだ。
「ご期待にそえるように、これからも私をお導きください」
「更なるご精進を。たゆまぬ探求こそが、これからの貴女を磨きます」
「…はい」

 シレジアで与えられた時間は、未来と希望を紡ぐ時間。どなたかがそう仰ったそうだ。
 もしかしたら、私が鈍感なだけなのかもしれない。セイレーンでは、戦場の中でひっそりと暖められてきた方々の想いが、気がつけばそこここで花開き、実を結んでいる。しかし傍から見れば、私もその中の一人に見えていただろう。
 王女とは不即不離の間柄で続いている。人目を忍ぶ、というのは言い過ぎかもしれないが、毎夜うかがうということはない。
 しかし、王女の変貌ぶりは、いかに野暮天と後ろ指さされる私でも、目を疑うものがあった。はじめのうちは、「まだ痛いの」などと仰っておつらそうな顔をされたが、ある時ふと
「今日は、痛くなかったわ」
と仰って、お互い聞きかじりのあれこれを試しながら、王女はその素振りに艶かしさを増して、ともすれば、私のほうが、それに惹かれてなにかのタガをはずしてしまいそうだ。王女のお好みについては、これは黙秘事項と心得ている。

 マディノから呼び寄せられた例の古い侍女は、ことごとく王女のご都合を把握していて、このあいだなどは、つい合図を送ってしまったら、「ばあやがだめっていたから」と仰って、私は能動的なことは何一つできず、教えられた言葉で言えば「生殺し」を始めて味わった。
「昨晩は、本当にごめんなさい」
王女は明けた朝、わざわざ私の部屋にまでおいでになって、そう謝られた、というのも、後になれば笑い話になるというもので…

「理由はよくわからないのだけど、ばあやが大丈夫といった時以外は、呼んではダメって言われてしまったの」
ある時王女は、そんなことを私に仰った。
「でも私、本当はもっと一緒にいたい。怖い夢も見ないし」
「お気持ちはよくわかりますが、現にご都合が悪いことがおありなのはわかっていますから、お気になさらず」
私も、そう返答せざるを得ない。王女に限らず、女性の体のことなど、私には、考えを及ばせることが出来ないほど不思議なのだ。私が見たのは、そのうわべだけでしかない。
「彼女は、王女のご体調をよく考えて、あまり無理はなさらないよう取り計らっているのではないでしょうか」
「そうなのかしら」
「そうだと思います」
「じゃあ、私が変なんだわ」
なんだか不安そうなお顔で、王女がうつむかれた。
「どうかなさいましたか」
「だから…ばあやはダメって言うのだけど、私は逢いたい時があるの」
「はぁ」
「生返事しないで、私真剣なんだから」
王女が私の返事にご機嫌を損ねかけたとき、
「姫さん、そりゃ普通だよ」
と頭の上から声がした。
「わああ」
「そんな大きい声上げるなよ少年、弟子の危機に師匠が出てきたんだ、ありがたく教えを請うんだな」
声…ベオウルフは、私達の反対にどっかと腰掛けて、
「そういうときは、ばあやさんの言うことは、とりあえずはいはいって流してな、姫さんが夜のお散歩にでりゃいいだけの話さ」
何もそんなに、四角く考えるこたぁない。ベオウルフはもっともらしく言った。
「どうせほとんどバレてんだ、それぐらいのお転婆したって、誰もおどろかないよ」
「そうかしら」
「考えるなら、一度やってみな」
彼はにんまりと笑った。しかしその後、神妙に、
「しかし、この城にいるやんごとないあたりことごとくが寄ると触るとその話ってのは、どうも生々しくていけねぇな」
と言った。
「なんか、急いでる気がしてよ」
「急いでる?」
「ああ、何とか子供だけでも作っとけつう、あせりみたいなもんかな」
自らを省みて、私はやっぱり、そういう風に見えていたかと思う。
「まあ落ち込むな少年、毎日顔つき合わせてるよりかは、少しは日を置いたほうが、見違えるもんだぜ」
「はぁ」
「城の中に閉じこもってるからいけねぇんだ」
ベオウルフはすくりと立ち上がる。もうどこかに行くようだった。
「明日かあさってか、城下町で収穫祭があるってよ。
 余計なことは抜きにして、遊びに出てみるのもいいんじゃねぇか?」

 収穫祭。もうそんな季節になっていたのか。もうシレジアに半年以上いることになる。収穫祭の記憶は、あまりない。王宮に預けられる前、母と二人で見て歩いたような記憶があるが、それもなんとなくおぼろげだ。
 加えて王女は、収穫祭のような城下町の祭りに、ほとんどおいでになったことがないと仰る。
「城下町のお祭り、あるところにはあるのは知っているけれど、いい思い出はないの」
と仰るからには、何か過去によくない目にお遭いになったのだろう。特に、取り立てて聞き出すことでもないから、私はそれを聞き流す。
「行かれますか? 彼の言うように、お城の中だけではお退屈でしょう」
とたずねてみる。そうならば、それなりに準備が必要だ。
「んー…」
と考えられる王女に、
「ちゃんとお供しますから」
と念を押す。
「じゃあ、行く」
王女はいともあっさり仰った。


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