何かの導きとしか、私には思えない。
その時から、私はあの方の側にいたいと思った。いなければと思った。
理由なんて、考えてもわからない。ただ、そうしたかった。
私ではまだ何もかも足りないとも揶揄する向きもあるだろう。それでも。
領主殿のもとに伺う。領主は、私を見て
「お加減はいかがですかな」
と仰る。
「はい、昨晩は無様なところを見せて申し訳ありません」
「なんのなんの、あの後私は孫にしかられましたよ」
「…はぁ」
「ところで卿、今日に限って、デュークナイトの徽章をつけたご正装とは。前線からの使者の代わりですかな」
「あ、そうではなく」
私は、ぎり、と痛む胸を押さえながら言う。
「領主殿の先日の話、お受けしようと思って、そのことを申し上げにきました」
「受けてくださいますか」
領主殿は一抹の寂しさを含んだ顔で笑まれた。瞬間、私の胸の痛みは、何もなかったかのように収まっていた。
「そのために、ご正装を… 痛み入ります」
領主殿が、少しくくぐもった声で、何度もうなずかれた。
「ただ、ご存知のように私が属する隊は、主君の都合次第でいつ帰国とも分かりませんから…」
「なに、建前など何もなくて結構。卿がそう仰って、私がそれを伺った。それで十分です」
領主殿はそう仰った。
「そんなに簡単で、よろしいのですか」
「よろしいも何も、卿はまだご自分のことを買いかぶっておられるようですな」
領主殿はそう仰って、意味深な笑いをされた。まあ、おかけください、と、椅子を勧められる。座った私に
「卿には、全然関係のないことですが」
と、領主殿は前置きをされてから、
「私事で恐縮な話ですが、私はエッダの教えが広まる前の伝承に、大変興味がありましてね。今はおとぎ話となってしまった話を、集めているのですよ。
聖戦士の奇跡とエッダの教えが広まる前にも、神はあり、またそれに近しい存在はあったことを、古い文献は教えてくれます。
たとえば卿は、『運命』について、どう考えられますかな」
「運命、ですか」
「たとえば、よいことがあれば、それはエッダの神の祝福であり、悪いことがあれば、それはエッダの神の下した試練。そう考えることもおありでしょう」
「そう、ですね」
「すべてはエッダの神、あるいは、砦の聖者がおはかりなされること。今は大勢がそう思っているかもしれませんな。
しかし、それ以前、『神』と呼ばれるものはもっと大勢いた。天には天の神があり、大地には大地の神があり。すべてに『神』があり、人々はそのつど、かかわるものの『神』に祈りをささげる、そんな生活を送っていたのですよ。
しかし、その『神』達にも、ひとつだけ、どうにもならないことがあった。
それが『運命』」
領主殿が、そこで息をつかれる。
「『神』を束ねる高位の『神』も、その『運命』…あらかじめ決められている結末には、逆らえなかった。
ただひとり、それを自由に出来たのは、誰でもない、その『運命』をつかさどる存在。
あの子の名前は、その『運命の女神』と同じなのですよ」
領主殿は、何故突然、こんな哲学的な話を始めたのだろう。私がそのご真意をはかりかねていると、
「あの子は、出自に複雑な事情を抱えています。
クレイスのような、一侍女にかけられたお戯れがたまさかに実を結び、彼女そのものが運命のいたずらにもてあそばれるように生まれてきた。しかもヘズルのみしるしをもち、ことと次第によれば、神器を継ぐ大役を、あの子が担っていたかも知れない。
だからこそ、『神』の運命を手玉に取った古の偉大な女神のご加護を、私は願ったのですよ」
「…」
「…卿」
しばしの沈黙の後、領主殿が私に仰る。
「名前は大層に付けましたが、あの子はただ人に過ぎません。他人はおろか、自分の運命すら、その御する術を知らない」
「…」
「しかも、今まで守ってくれたものから急に解き放たれて、非常に不安定です。
そのあの子をお任せしたいと申し上げたら、卿は受けてくださると仰った」
「はい」
「このまま受けられると、少々、苦労なさるかもしれません。何分あの子の性格はああだから。
卿と私の間の話ですから、なかったことにするなら今ここでということになりますが」
「かまいません」
私は即答していた。運命とか、苦労とか、そんなことはもう、どうでもいい。私が側にあれば、王女はもう何もご心配なさることはない…と、本当はそこまで言いたかったが、そこまではまだいえなかった。
「王女にこの先、どんな困難があっても、それをともに考え、乗り越えたいと、私は思って、この話を受けるのです。
ご存知のように、私はまだ徽章ばかり大層で、人間はまだ未完成です。今はまだ、王女が私の手を引くようなこともあるかも知れません。でも、このまま王女をお守り続けて、いつかは、逆に手を引いて歩ける、そういう人間になりたいと思います」
「なるほど」
領主殿は深くうなずかれた。
「大層なご覚悟だ。ならば私は、もう何も申し上げない。
あの子を頼みます」
「はい」
私は、その返事に、まるで自分自身に言い聞かせでもするように、気概を込めた。
負担に思うなら断ってもいいと、領主殿は私に確認された。つまりそれは、私がただ一時の感情でお話を受けたのではないのだと確認したかった、そうに違いない。
『この人と決める瞬間まで、お前は必要以上の生真面目でいい』
という、いつかのキュアン様のお言葉が頭をよぎる。つまり、今は、その生真面目を脱却するときなのだ。
かといって、身についた生真面目を、どう脱却すればいいのやら。その方法を考えるのに、一晩二晩ぐらい、頭をひねってみる。町のどこそこに行ったとか、屋敷のだれそれとどうしたとか、私は、騎兵達のそういう話に、極力耳をふさいでいた。そういう不真面目にいそしむ彼らを見下していたからではない。私は「生真面目」を選んでいたからだ。
でも。なぜかそうしてきたことが、もったいないような気がしてきた。
「やっぱりもう少し、奴らの話を聞く程度には不真面目になっていたほうがよかったのかな」
書見台の前で、本など広げながら、そうつぶやいたときに、不自然に冷えた風が、どこかからそよいでいるのに気がついた。
「?」
窓を開けているつもりはない。窓の閉まり具合を一度確認したとき、寝台の側の壁に、不自然な線が入っているのに気がついた。
手を当てると、そこだけが、何かにすべるように開く。その奥に、深閑と冷えた闇があった。
書見台のろうそくを一本とり、その中に入る。闇は私の後先になり、私の足にあわせて、光の玉がぼんやりと、くみ上げたときそのままの岩肌をうつしだす。邸宅の中のこんな機構に、軽く既視感を感じながら、私は道の続くままに、歩いた。
途中、何度か階段があり、だんだん昇っていくような感じがした。そして、ぱったりと、行き止まりに行き当たる。分かれ道など、一本もなかった。行き当たった壁を押してみると、案の定、ゆっくりと開き、うっすらとした明かりがさした。
すぐわきに窓があり、結構高い階に来たことはわかった。しかし、どんな部屋なのか、私が左右を見めぐらしたとき、
「誰!」
と私の目の前にきらっと光るものが突き出てきて、
「わ」
私は口から肝が出てきそうな声を上げてしまった。
まさか、行き着いた先が王女の部屋だとは、領主殿のお考えになることはよく分からない。
そして、これも何かの因果なのだろう、私は、王女の手を引きながら、元来た道を戻っている。貴人の避難路がこんな屋敷にもあるのに、私は純粋に驚いていた。
最初、王女は足を止められた。暗がりが恐いと仰った。
「私が一緒ですから」
と差し出した手を、握ってくる王女の指は、細くて、柔らかい。時々、階段になったり、廊下になったり、足下がおぼつかなくなるたびに、ことさらに強く握ってこられる。
そうして、戻ってきた部屋は、王女がいらっしゃる所とは真逆の質素な部屋だった。もちろん、こんなことになろう事は想定もしていないから、生活感もむき出しだ。
何を話していいか、迷った。たまたま広げてあった本は戦術書だ、さすがの私も、こういう時に話題にできるものではないと思う。
困ったままでいると、王女は部屋をするするとお歩きになりながら、
「あら」
と声を上げられた。その前に、デュークナイトの制服がかかっている。
「デュークナイト徽章ね…レンスターはこういう制服になるのね」
と仰る。
「もう着た?」
と聞かれて、私はずき、と胸が痛くなる。初めて袖を通したのが先日、領主殿に話の返答をした時だとは言えなかった。
「何度か。ですが、今は取り立てて必要ではないので」
と言い繕ってみるが、詭弁で自分をやり過ごす自分が情けない。
「徽章は、貰ったらつけるものよ。だって、この徽章は、身分も家柄も関係ない、純粋に自分の働きで貰ったものでしょう? 他の徽章とは、重さが違うのよ」
王女はそう仰った。そして、
「着て見せて」
と私に、無垢な視線を向けられた。
その格好で王女をまた部屋にお送りする。
「そこにいて」
と仰るままにいると、やがて、クローゼットの扉を開けて、王女が顔を出される。夜のお衣装を、着替えておられたのだ。
「私があんな格好じゃ、失礼だものね」
と仰る。ここにいらしてこの方、王女は、母君の遺された服をお召しとは伺っていたが、私はそう指摘されるまで、王女のお持ち物だったのかと思っていたほど、全ての服が、王女のお体になじんでいた。しかし、今私の目の前におられる王女は、レンスター風の衣装でいらして、
「お姉様が、私に下さった服なの」
と仰りながら、椅子を勧めてくださる。断れる状況でもなさそうだったので、私はそこに座る。他愛のない話を、王女は私から目をそらさずに聞いてくださる。私は、勝手に顔が紅潮しそうになるのを、すんでの理性でとどめていた。
その王女がふと改まれる。私の手を軽く、ためらいがちに撫でられながら、
「騎士の誓約、お願いされた?」
と仰った。騎士叙勲の文言とはまた違うものらしい。王女は、ちょうどお読みになっていたらしい本を私に差し出されて、
「自分への誓い、あるいは、人から破らないでとお願いされる誓い。叙勲の誓約とはちがう、自分からあえて誓うもの」
と簡単に仰る。物語の騎士は、途中出会う貴婦人に、無理難題とも思えるような誓約をさせられて、守り通せば何らかの見返りがあるが、守りきれなかった場合、命を落とすか、あるいはそれに値する大きな不面目を被っている。
しかし、私もそういうことを自ら誓ったりしなければならないのだろうか。守れない時は命を失うような、そんな大願を。
「すぐには、思い浮かびません、何を誓っていいのか」
王女は、私がそう言うのをわかっておられたような雰囲気だった。
「あの、ね」
私の手を取られ
「私は、あるの。あなたに守って欲しいことが」
小さく仰る。そして紡がれた言葉は、私の動きを完全に止めた。王女が私に、自らのお心を預けてくださると仰る。命の限り供にいて欲しいと仰る。
私は、それを後悔した。王女に決して仰らせてはならないことを、私は無知を楯にさせてしまったのだ。
「なんとお答えすればいいのですか」
と言った。王女は、
「嫌なら、拒んで。そのまま帰って」
そう仰った。拒む理由など、どこにも無かった。王女の言葉はすなわち、私が申し上げたかったことと、同じだったからだ。
形のある言葉には、ほとんどならなかった。私は立ち上がり、王女をすくい上げるように抱きしめた。
ひたと合わせた王女の頬が、熱くなっておられた。ともすれば、泣き出してしまわれそうなそのお顔をみて、
「誓約を、完成させて、よろしいですか」
と言った。
「…ええ」
「この唇を持って、誓約の証に」
この世界に、これ以上しなやかなものがあるのかと思った。芳しい花の香りが、唇から立ち上っていた。
それからどこがどうなってそういうことになったのか、私はよくわからない。
そのほんの数分間の記憶はなく、王女の小さいお声で我に返るように、記憶は再び始まっている。
私が、枕元にあった最後の明かりを消そうとしたのを
「あ、それはつけていて」
と王女は仰った。寝台が窓から遠くて、消すと暗くなりすぎるのかもしれなかった。しかし、残されたひとつの明かりは、王女のすべてを目に留めておくには、十分なほどまばゆかった。
紡ぐ前の絹糸のような、柔らかな金色の髪と、涙がちに潤むはしばみ色の瞳。薄紅色に胸元まで染まったお肌に、体の線はたおやかな弧で描かれて、私はそれを、見入ることしか出来なかった。
私の視線は少し品がなさすぎたろうか、王女はにわかに顔を真っ赤に染められて、脱いだはずのお衣装をまとい、背中を向けてしまわれる。その背中に、ぼんやりと、何かの形があった。興味の進むままにそれに触れると、
「!」
王女の肩がぴくりと震えられた。
「もしかして、お痛みになりますか?」
「何のこと?」
「背中にあざのようなものが見えたので、ご教練の間に怪我でもされたのかと思って」
「違うわ…それ…ヘズルの…」
「これが、聖痕…ですか」
よく見れば、それは輪郭のはっきりしない剣の形を持っていた。その形をはっきり見ようと輪郭をなぞるうちに、王女はかたかたと震え始め、息が浅くなってこられる。
「お苦しいのですか?」
と問うても、王女からのお返事はない。
「王女?」
お顔を見てそのご機嫌を伺おうとすると、王女は頬を紅潮させたまま、涙をうるうると瞳にためられて、
「そこは…触っちゃダメなの…」
と仰った。本当の意味は後になって知るのだが、私はそのときは言葉通りに捕らえた。ご先祖からの譲り渡しものであるから、なれなれしく扱うな、そういうおつもりで仰ったのだろうとおもった。
「分かりました。…気をつけます」
ひたりと胸をあわせ、お互いの吐息を聞き、視線を合わせ、興がのればどちらからでもなく唇を合わせる。そんなことを何度も繰り返しているうちに、私の体が突然何かに反応した。全身の熱が、一部に集束され、脊髄に衝動が走る。
「…」
熱の集まった部分を、私は思わず見た。寝覚めに時折緊張することは知っていたが、これはその緊張を通り越している。お気づきになったのだろう、
「これ…」
王女も小さく声を上げられた。
「痛くない?」
「痛くはありませんが…どうしましょう」
正直、私はそれをもてあましていた。集束された熱が、逃げ道を求めている。しかし、それをどこにぶつけていいものか。
「あの…ね」
顔を背けがちになさりながら、王女が細く仰った。
「それを…ね」
と耳打ちなさる。私は思わず、飛びのくほど驚いた。王女に限らず、女性は、それを受け入れられる場所があるというのだ。
「本当ですか?」
「詳しいことは、私もよく知らないの…一度、お兄様とお姉様のを…聞いたことがあるだけで…」
仰りながら王女は、お衣装で隠していた部分を、明かりの下に見せられた、軽くおられていた膝を伸ばし、わずかにのぞくその奥は、すでに私の知識の範疇を超えていた。
結果を手短に言う。
私のうちにたぎっていた灼熱の何かは、試行錯誤の間にあっさりと散った。しかしその瞬間、頭の中が真っ白になるほどの、開放された感覚を味わった。長い道を全速力でかけた後のような息が、私の口から吐きだされる。しかしその後、漠然とした罪悪感が襲ってきて、しばらくそのお顔を見ることが出来なかった。王女は
「…恥ずかしかった?」
と尋ねられる。それを正直に肯定すると、至らなさばかりが私をさいなんで、私は王女に背を向けてしまった。
「でも私、嬉しい」
私の背中にぽふりと何かが押し付けられる。かの方のお胸と分かるまで、しばらく時間がかかった。
「こんなに私のことを知ってるのは、あなたしかいないのよ。
失敗したって、いいじゃない。代わりに何か覚えたはずだわ、そうじゃなくて?」
「…ですね」
私は、王女を寝台に戻して差し上げながら、
「精進いたします、王女がご満足いただけるように」
と言った。王女は、一瞬の間をおかれ、その後に、真っ赤に紅潮された。
布団を直しながら、
「私はこれで失礼します、ごゆっくりお休みを」
と言うが、王女は私の手を離してくださらない。
「帰っちゃダメ。
一緒にいて」
「ですが」
「いいの。私がいいんだから」
着ていた服を軽く脱ぎ、私はもう一度寝台の中に入る。その私の胸の辺りに、王女はことさらに額を当てられる。
「…私」
そして、小さく仰った。
「きっとこれからも、あなたをたくさん困らせるわ。
でも、嫌いにならないでね」
「…なりませんよ」
私の心は貴女にささげたのです。どうぞその御心のままに。
翌朝、前線に戻ると王女は仰った。
突然ではあったが、いずれそうなることであった。
領主殿と、屋敷の者たちと、王女がねんごろに別れの挨拶をなさる間、領主殿がことさらに私を見て、歯を見せて笑まれた。私は会釈して、それに答える。
この預けられたヌーヴォーを、私は、銘酒にまで醸さなければならないのだ。
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