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 王女のご教練が始まった。
 何の素養もなかった私に引き換え、王女は剣と乗馬に関しては、十分に素養をもっておられる。私は、馬上での槍の扱いをおしえてさしあげるのだが、この方の飲み込みはとても早い。私が年をかけて覚えたことを、数日でほぼ確実にモノになされる。腕の上がらない騎兵などは、もう王女のお相手にもならない。
 その王女が、ふとある時、
「私、少しは上達した?」
と仰る。私は、感じたことを素直に答える。
「少しどころか、だいぶご上達されました、ここにつめている騎兵では、そろそろ物足りなくなられるのではないでしょうか」
「まだまだ、あなたから一本取らなきゃ」
王女は無邪気にお笑いになって、
「今日はもう遅いから、戻りましょう」
と立ち上がられた。お庭からの入り口から数歩入ったら、私達は、部屋の関係で正反対の方に向かわなければいけない。
「また、明日もよろしくね。
 ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます、王女も、ごゆっくりと」
「ありがとう」
王女の姿が、曲がり角に消えるまで、私は見送って、自分の部屋に帰るべく、その方向を向いた。
 先日の領主殿とのお話。
 あの方は何を考えて、私にあんな話をなさったのだろう。

 「マグダレナが」
と、王女がばあやと慕う古い侍女の名前を持ち出して、領主殿が私に仰った。
「教練の間のあの子がとても楽しそうで、と言うのですよ」
「王女は前から、ご教練についてはノディオンからなさってることで、格別に不思議なことではないとおっしゃいますが」
「いや、彼女は、そういう武張ったところを説明して納得してもらえる手合いではない。
 それに、彼女の言う楽しそうという次元は、娯楽として楽しんでいるとか、そういうものではないのですよ」
「…はぁ」
私は、話の方向が見えなくて、生返事をするしかなかった。領主殿はしばらく静かに、お手元の本をめくられてから、
「卿は、レンスターに許婚などおられるのですか」
と、実に単純にお尋ねになられる。そのお口ぶりがあまりに淡白で、私は抵抗なくその質問に答えることができた。
「いえ…」
「お持ちの紋章から察するに、レンスターでもかなりの旧家のご出身と見受けましたが」
「旧家と言っても、その所領は王家預かりで、私が戻って相続しなければ絶えてしまう家です。
 おまけに私はその方面には不調法で、縁もなく」
「さようですか」
領主殿は、しばらく考えておられた、そして
「孫思いからの世迷い言と、聞き流されて結構です。
 あの子のこれからを、お願いはできませんかな」
「…は?」
「聞き返されても困りますな。ご縁もなく、お相手もいないならば、孫のあの子をとお勧めしているまでのこと」
私も困ってしまった。領主殿との顔も合わせづらく、私はうつむいてしまう。
「しかし王女は…いずれノディオンを再興される大事なお方、私は、主君の都合しだいで、いつレンスターに帰ってもおかしくない身です。
 それに、私では、王女もお困りになるでしょう。私は、あの方が理想とされている、兄王陛下には遠く及びません」
「そこでマグダレナの言葉ですよ」
領主殿が、私を試すような笑んだお顔で仰る。
「女のカンと言うものは、時に本人より的確にその心理を言い当てる。
 彼女は、あの子が楽しそうに教練している姿を見て、
『よほど、あの騎士様を好いてらっしゃるのですねぇ』
と、そう言ったのですよ。おそらく、あの子はまだその自覚もしていないのではないでしょうかな。人に好かれることは知っていても、人を心から好くということを、おそらく彼女は知らない」
「…」
「あとは、卿のご一存です。卿があの子を望まれているなら、私に否を申し上げる理由は、もうありません」

 すっきりとしないまま、前線に戻り、新しい情報や、王女のご様子などを報告する。
 でもさすがに、件の領主からのお話は、言うことができなかった。言えばたぶんおそらく、祝福してくださるだろう。しかし、既成事実して捉えられると、王女の今後に差しさわりがあるかと思って、言い出すことができなかったのだ。
 その帰る道、
「お、久しぶりに見る顔だ」
と声をかけられて、振り向くとベオウルフがいた。
「どうだい、姫さんは元気なんか」
「ええ」
「そりゃよかった。お前さんも四六時中一緒にいられて、満足だろう」
その言葉には何も返せなった。
「図星か」
「取り立てて用がないなら帰りますよ」
と言いかけたが、私は思いなおして、足を止めた。
 この人物ならあるいは、という、奇妙な期待感がふと持ち上がったのだ。
「…いや、ベオウルフ卿」
「だから卿はやめてくれっての、かゆくなるから」
「相談があるのです」
「相談?」
私から相談、と言う言葉が出て、ベオウルフは明らかに戸惑った顔をしていた。
 とにかく、私は人気のないところまで彼を連れ出して、一切合財を説明した。
 ベオウルフが、私の話を聞き終えて、まず発した言葉は、
「で、お前さんは結局どうしたいんだ?」
「どう、と、言われても」
そこが問題なのだ。
「お前が言ってることを単純に言うとだな、腹が減ってるお前の前にメシが出てきて、お前は腹が減っているにもかかわらず『これ、本当に自分が食べて良いんですか?』って、バカな質問を投げてるのと、ほとんど同じことだぞ」
自分のために出された飯なら遠慮しねぇで食うもんだ。ベオウルフは言った。
「それはつまり、領主殿がご希望の通りにしろ、と」
「まあ、そういうこっちゃな」
「ですが」
「また、ですが、か」
「王女のご意思はどうなりますか。このことについて、私はまだ王女のご意志を確認してません」
「肘鉄食らうのが怖けりゃ、断るんだな」
ベオウルフはそういって、私をついと突き放した。
「そしたら、また誰か見繕われて、そいつに話が行くだけのことだ」
「そんな」
「当然だろう。あっちは、頼るよすがをなくした孫娘を、安心して預けられる相手を、今必死に探しているところなんだ」
「…」
「それこそ、今度は、姫さんの意思とかいうのは、無視されるわな」
「…」
「少年、基本的なことをひとつ聞くぞ」
「何でしょう」
「お前、姫さん好きか」
「え」
突然尋ねられて、私の頭は動転した。今のままお側にいられる状況は嬉しいけれど、それと個人的感情は別のような気がして、ベオウルフの質問があまりに単純過ぎて、私は答えようを見失った。
「よく、わかりません」
「わからないことあるか、自分のことだぞ」
「ええ、そうなんですけど」
「んー」
ベオウルフは、思案するように、後頭に手をあてていた。
「参ったね、姫さんのおじじが言ったのと、同じ状態だよ、お前は」
「は?」
「お前も損得抜きで人に惚れるってのを知らねぇんだ」
「…はぁ」
「そこまで根本的な事まで、俺は教えられるほど人間はできてねぇ。
 でき上がってから、悪知恵吹き込むのはむしろ得意だがな」
「そうですか」
結局、ベオウルフでも答えられない質問だったか。得るものはあったけれども、私の迷いの根本的な解決にはならない。
「時間を取らせてしまって、すみませんでした。
 私は戻ります」
馬の所に戻ろうとする私の手を、
「待て待て少年」
ベオウルフが引いて、私はのけ反りそうになった。
「わ」
「何を納得したのか知らねぇが、言っとくぞ」
「何でしょう」
「姫さんが泣いてここに帰ってくることだけはすんなよ」
「…はい、努力します」
そうだ、それが一番大切だ。ご休養のためにいらっしゃるあの町で、悲しいことなど起こしてはいけない。
 噛みしめながら、私は町に戻った。

 私の出自を詳しく調べられたせいなのか、それとも、いつぞやの話が全く進まないのを心配されてか、領主殿がたびたび、ご夕食などに呼んでくださる。
 しかし私は、ここで大失態を犯した。
「去年がちょうど当たり年で」
と持ってきてくださったワインで、見事につぶれたのだ。聞けばグラス半分で椅子から転げ落ちたそうだ。気がついたら、長いすで、頭に冷えた布が当てられている。
「いや、失礼をしました」
と私を見下ろす領主殿は、口では謝っておられるが、おかしかったのだろう、目が笑っておられた。
「心配は要りませんよ、私も卿ほどの年はそうでした、今にいけるようになりますから、あせらずに」
「はぁ」
「少し酔いを醒まされるとよいでしょう。
 私は調べものがありますので、失礼しますが」
「すみません…」
「卿、ワインは確かに年を経るほどに豊かにその味わいを増してゆきますが、」
去りしな、領主殿が言う。
「保管の方法を間違えると、どんなよいワインも、手に負えないビネガーになってしまうものなのですよ」
「はぁ…」
「ごゆっくり」

 私の頭は、ふわりとした柔らかいものに当てられていて、心地よかった。当てられた布が再び冷やされる隙に、周りを確認しようとして、
「!」
私は飛び起きようとして、ぐら、とまたその柔らかいものに倒れこんだ。
「無理するとダメよ」
と、ひやりとした感触と一緒に声がした。
「で、ですが」
よりによって王女の膝枕だなんて、領主殿はこうなることを見込んで私に飲ませたとしか思えない。
「あなたが飲めなかった残りは、私とおじい様で頂いたわ。おいしかったわよ。さすが当たり年のワインだわ」
ワインの味よりも、今はこの状況から脱出したかった。恐れ多すぎる。
「…重くありませんか」
「全然」
「申し訳ありません、王女にこんなことをさせてしまうなんて」
「気にしない気にしない、後営でけが人の手当てをするのも変わらないから」
「…はぁ」
はからずも、ずれてきた布の下から見上げる王女のお顔は、程よく赤らんで、かわいらしい。
「あら」
それに気がついたのか、王女が顔を向けられた。
「…」
ひとしきり、私の顔を見て、
「綺麗な目」
と仰った。
「目、ですか」
「私の大好きな夜明け間際の空と同じ色。
 どうしたら、そんな色の目を持って生まれてこられるの?」
「どうと仰られても」
持って生まれたものだから、その理由は私こそ泉下の父母に聞きたい。でも、母の目は青くなかったから、きっとこれは、父譲りなんだろうなと、漠然と思う。
「じっと見ていると、吸い込まれそうで…」
王女はそう仰りながら、私に顔を近づけてこられる。視界がそのお顔で完全にふさがれて…
 私は、足の指まで痙攣するような、軽い衝撃を覚えた。床に転げ落ちて、ぐらぐらしながらでも身を持ち上げると、王女のお顔は、明らかにお酒だけではない何かに真っ赤に紅潮しておられて、ことさらに私から顔を背けられた。
 冷や汗のようなものが滲んできた顔を、とにかく拭こうと、落ちた布で拭くと、唇の辺りに王女の紅の色が残っていた。脈打つごとに、私の頭は、耳元で鍋でも叩かれているように痛い。王女は私を横目でちらりとみて、隣に座るように、椅子を指差された。
「頭が痛いのでしょう?」
「はい…」
「もう少し寝てるといいわ」
「ですが」
「いいから」
横にされて、額に新しい布が当てられる。そのあとで、王女が仰った。
「ひどい人ね」
「は?」
「デュークナイトに推挙されたことを、私に隠していたでしょう」
「どこからそれを」
「前線に出している補給物資は、ここから運ばれているのよ。そういう話が入ってくるの」
「ああ…そうでしたね」
「あっさりいうのね、キュアン様も同じ称号を持ってらっしゃるのよ、デュークナイトっていったら、槍騎士の最上級格じゃない。私とほとんど年も変わらないのに」
「正式ではありません。たまたま前線にクロード神父がいらっしゃって、仮ながらと…
 それに、前線ではあまり喜ばしくない話が多くて、一人だけ浮かれているのも不遜に思いまして…」
「あなたがどんなに立派な働きをしているか、見ている人は見ているってことよ。
 素直に喜びなさい」
「徽章に見合う働きができるか、私は不安ですが」
「ご謙遜」
王女はくすくす、と笑われた。
「あなたのそういう偉ぶらないところ、嫌いじゃないわ」
その言葉が、ずきっと胸をさす。これが王女のご本心だとしたら…
「…おじい様もひどいわ、あなたにこういうことを言わせたくて、私に飲ませたりなさったのかしら」
そう、つぶやくように仰った。
 私の記憶はここで途切れている。猛烈な眠気が襲ってきて、もう一度目をさましたときには、頭痛と一緒に、王女のお姿もさっぱりと消えていて、夜は白みかけていた。


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