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 そんな殴り合いがどれだけ続いたろうか、向こうは、こんな喧嘩にはなれているのだろうか、それとも私が喧嘩さえ下手なのか、私ばかりが消耗して、我ながら情けない。
 それでもまだ、殴りかかろうとする意欲が、私にはあった。その足を踏み出そうとした時、
「もういい加減におやめなさい!」
というお声とともに、私達にばっしゃりと冷たい水がかけられる。人垣の何人かも、同じような被害にあった。振り向くと、空の水桶をわきにして、まだなみなみとしたもう一杯かけようとしているエスリン様が立っておられた。
「全く、妙に騒がしいと思ったら、何であなたがこんなことをしているの!」
「はあ…」
「ベオウルフ、あなたもです。ナニがどうしてこうなったのか、説明なさい」
「へいへい」

 私達二人は、キュアン様のお部屋に呼ばれて、エスリン様からみっちり油を絞られた。キュアン様は、笑っているだけで、何の助け舟も出しては下さらない。
「あなたほどの人が」
と、私に向かってエスリン様が仰る。
「なんでああいう行動が、あの方をいっそう噂の中に落とし込んでしまうのを、どうして気がつかないの」
「…面目ありません」
「ベオウルフ、あなたがエルト様の友人で、姫君とも親しいことは、話に聞いています。でも、噂を助長するような発言は許されません、以後はお控えなさい」
「…了解しました」
「さあエスリン、それぐらいにしよう」
そこでやっと、キュアン様が口を開かれた。
「ベオウルフは自分の部屋に戻ると良いだろう。でもこいつには、今夜最終の見張りがあるんだ、そろそろ休ませてあげてくれ」
「…そうね、まだ絞り足りないけれども、これぐらいにしてあげるわ」
エスリン様は、まだまだ何か仰りたいようでいらっしゃったが、私達二人に、それぞれ戻るよう仰った。
 部屋を出て、宿舎に行く分かれ道に差し掛かって、ベオウルフが口を開いた。
「いい拳だったぜ」
何のことだが、私には分からなかったが、それ以降、ベオウルフが変に身の上について喧伝することはなくなったのは確かだ。

 その後、早めに仮眠を取り、今夜最後の見張りにたつ。
 アグストリアは秋にさりかかり、朝夕がだいぶ冷えるようになってきた。こと、こんな星空の翌朝は、実に冷える。私は、隊員に冷えないように注意して、持ち場につくよう指示を出した。
 が、その一角がなかなか動かない。見ると、かの王女が、騎兵達とお話をしていた。
 朝までおられるという王女を、そのまま返すわけにもいかず、私は困りながら立っているよりなかった。
 ついでに、あの喧嘩のあと、アグスティ城内では例の噂については緘口令が敷かれたらしい。私は眠っていたから知らなかったが、聞かされて安心した。これで、王女のお身の上について、やましい噂が少なくとも城内で流れることはないのだ。
 そのうち、王女が私の顔に傷が残っているのに気がつかれた。
「ライブ、しましょうか?」
とお尋ねになられたが、この傷は、王女の名誉の維持と引き換えに負ったものだ。すぐ消えてしまうだろうが、私はそれをあえて断った。その私の傷をよく見ようと、私を見上げられる王女の瞳は、かがり火に柔らかくかがいて、幻想的な色をしていた。
 動揺しているのを気取られないように、
「朝までここにいらっしゃる、何か理由でも?」
と伺ってみた。王女は
「夜明けの青が見たいの」
と仰った。
「夜明けの青、ですか」
確かに、夜が朝に変わる時、日の昇りにあわせて夜の色は薄れてゆく。それだけのことで、朝になったら、私達はまた、その日すべきことをはじめるだけのことだ。
「ほんとうに一瞬だから、見逃してはダメよ、…ほら」
王女が天をさされた。日が昇る寸前、小さな星の輝きだけを残して、天一面に広がる青。
 圧倒された。教えてくださらなければ、私はこの青を見ず、すぐにやってくる朝日だけを見続けていただろう。
「綺麗でしょう?」
と仰る王女に、私は圧倒されるままに、
「はい…本当に、一瞬でしたね。
 ですが、眼福でした」
と言い、王女を返そうと思い、向き直った。王女は、その場を動けないほど感動しておられたようだった。
「隊長、見張りの交代ですよ」
と声がかかって、私はそのほうに向かっていった。

 見張りの間、王女を冷やしてはいけないと、貸して差し上げていたローブは、その日のうちに、綺麗に埃を払われて戻ってきた。
 身に着けようと無造作に広げると、小さなカードが落ちてきた。
「?」
それを見る。王女ご本人の筆跡だろうか。柔らかな線が
<今日の青を、あなたと見ることができて、幸せでした>
と、つづられていた。
 今までと比べ物にならない、あの痛みが、ずきっと体を震わせた。息が詰まりそうだった。 それでも、ローブを羽織ると、殺風景な自分の部屋には不似合いなほどの香りが広がった。 そして不謹慎にも、あの方がまだ傍にいるような、そんな錯覚さえ覚えた。
 ただでさえ、普段からおそばにいられるのが、うらやまれるほど名誉だというのに。

 事態は急速に変化してゆく。
 一年であった休戦協定は、後半年を残し、たれあろう、シャガール王によって破られた。
 シャガール王は、シルベールに守られ、マディノにあった。しかし、この半年の間、グランベルとの停戦交渉に何の進展もないことに痺れを切らしたに違いないというのが、大方の見方だった。
 このマディノ城の動きに対して、シルベールは沈黙している。シグルド様は、迎撃に徹するよう指示を出された。
 ベオウルフは、この戦いから、増えてきた傭兵を束ねるように、シグルド様から依頼されたらしい。
「お前さんに姫さんを預けるのは、まだ少し不安なところもあるが、まあなんとかやってくれな」
そう、わけの分からない激励を受けた。

 私達は、そのマディノ軍に翻弄された。マディノは傭兵に守られ、シャガール王本人は、我々が到達する前にシルベールに転進していた。
「愚将のすることはわけがわからん」
キュアン様がため息を疲れた。
「これでいよいよシルベールも、他人事じゃなくなってしまったな」
「そうね、でも…まさか…」
エスリン様がしんみりと仰る。
 我々部隊がマディノに到達したころ、アグスティの城で不思議な事件があった。
 シグルド様の奥方が、謎の失踪をされた。拉致か誘拐か、思い当たる理由もなく、実に、謎と言うより仕方がない失踪だった。
「お兄様、大丈夫かしら。お姉様のことがあって、立て続けにシルベールとの停戦交渉なんて…」
「無理だろう、今まで自覚もしていなかった逆境の厚い壁が、これでもかと言うほどに立ちはだかってるんだ、何枚となく、ね。
乗り越えられるだけの気力はあるのかな。キュアン様のお言葉は、実に神妙だった。

 シルベールに目標を変更して何日かたったある夜のこと、私はキュアン様に、馬を仕立ててくるよう言われた。
 予想外の夜の外出で、不安がるサブリナをなだめるようにして出てくると、身を隠すように暗い色の外套に包まれた王女が、キュアン様のお隣に立っておられた。
「停戦の予備交渉を、彼女が申し出てくれてね。
 シルベールまで、送り届けてあげてほしい」
「お願いします」
王女までが頭を下げられた。
「え、あ」
戸惑う私に、
「朝になったら戦場になる。急ぎなさい」
キュアン様はそう仰った。私は、王女を馬の後ろに乗せ上げ、わけの分からないままに馬を進めた。
「あの」
王女が後ろで仰った。
「この間は…ローブを貸してくれて…ありがとう。
 何の御礼もできなくて」
私の胸がずき、と痛む。まだあのカードを服の下に隠してあると知ったら、王女はなんて仰るだろう。
「王女がお風邪を召されたらいけないと思っただけのことですから、どうぞお気になさらないでください」
私はそれだけ言った。
 王女は、この行動に思い立つまでのことを、いろいろとお話して下さった。
 自分が原因の一端になったこのアグストリアの動乱の行く末を見るのは、自分の使命だ、そんなことを仰った。私はそのご覚悟に、感服するよりない。
 会話が途切れた。もとより話題のない私には、こんな時に何の話をしてよいものか分からない。話題を探そうとしている時に、王女が静かに仰った。
「この馬、すごく優しく歩いてくれるのね。全然揺れない」
「有り難うございます」
「あなたの馬だって知らなかった。時々馬小屋を見ているけど、自分の馬以外に一番最初になれてくれたのがこの子だったの。
 あまり綺麗だったから、誰か、公子様の馬かと思っていたわ」
「馬の調子を整えるのも、騎士の仕事の一つです。それを覚えるようにと…このサブリナは主君から賜りました」
「サブリナというの? この子は」
「はい。エスリン様が名付けてくださったのですが…」
王女は、私の返事に意外な反応をされた、お笑いになっているのだろうか、お体が小刻みに震えているのが背中越しに伝わってくる。
「…王女?」
どういうことか分からなくて、私はつい怪訝な声を上げてしまった。
「う、うふふ、ほんとうに、エスリン様は、ご冗談が、お好き、なんだから」
笑いの合間合間に王女が仰る
「ずいぶん私になついていたので、その名前がよいと…おかしいでしょうか」
「全然。おかしくないわ。でも…」
エスリン様がサブリナと馬を名づけてくださったゆえんは、後で書庫からおとぎ話を読んで納得した。伝承に出る美しい妖精の名前。彼女が夫と定めた英雄は…あろうことか、私と同じ名前なのだ。王女もその機微をご存知の上での反応だから、いいとがめるのも無粋だが、こんな大笑いしていい状況ではない。
「あの、王女」
「…御免なさい、笑うつもりはないのだけれど、…とまらなくなっちゃって」
そのうち、闇の中に、かがり火にぼんやりと浮かび上がった、シルベールが見えてきた。

 できることなら、このまま王女の後を守っていきたかったが、王女はここからはお一人で行くのを決心されたのだ。
 アグスティに帰るよういわれたが、決裂した場合のことを考えると、…最悪、私は処断された王女をお連れしなければならないことになる。
 できれば、そんなことにならないように。シルベールの門に向かって歩いてゆくお姿に聖印をきって、私は近くの、砦が見える木立の中にサブリナを隠し、自分もそのそばで、兄妹のお話が終わるのを、待つことにした。

 秋深い夜に、いつまでも消えない、明かりが一つ。
 それを見ながら、私は、あの明かりの下で、何が話されているのだろうかと思った。
 停戦は成功するだろうか。そうでなかったら、王女は兄上にも出会えずに、賊として投獄されたか…
 私は、服の下から、いつかのカードを取り出した。
<今日の青を、あなたと見ることができて、幸せでした>
 私も幸せでした。かがり火に光る王女のお目はとても綺麗でした。
 また、あの青を、二人で見ましょう…できれば、二人だけで。
 ここまでお送りするまでに、こんな言葉の少しでも出せていたら。
 私は、忍び寄る寒さから、身をちぢこませて耐えた。

 夜が明けようとしていた。うつろに目を開けていた私は、視界の色の変化に顔を上げた。
 青。
 この青だ。朝が来る。
 私はサブリナをつないだ枝からはずし、静かに、シルベールに近づいた。
 王女は、砦に近い茂みの中におられた。
「かえらなかったの?」
とお尋ねになる。
「はい。無事送りとどけて、無事アグスティまでお返しするのが私の使命ですから」
私は、王女を鞍に乗せあげて、その後ろから手綱を取った。王女のお顔は、激論の興奮からまださめていらっしゃらないようで、少し赤みをさしておられた。
 結果から言えば、停戦交渉は予備交渉の段階から決裂していた。
 しかし、王女の必死の訴えが、シャガール王の命ずるまま戦うだけだった陛下のお心を動かし、停戦奏上を一度だけ試みてくださるという。
「それが奏効しなかった場合は、我々はシルベールに突入するだけだ」
キュアン様がおっしゃった。
「彼女は、今日は後衛にいるよ。一晩中待っていたお前に礼を言ってほしいと言っていた」
「…はい」
「少しつらかろうが、今日は前線につっこませてやる。暴れて来い」
 私は文字通り、前線で暴れた。王女が身を投げ出されてまで止めようとなされた戦いであるのに、シルベールからの兵は引きもきらない。
 陛下は、本当に王女のお心をわかっておられるのか。
 こんな不毛な戦いに、ただ仕える騎士というだけで、シャガールの言うままに兵を出されるのか。
 十何人目か、槍で敵の騎兵を馬から払い落とした。
 私の勇者の槍は、今日ばかりは、柄を掴む手が真っ赤になるほど血にぬれた。

 シャガールの処断で、アグストリアは事実上の崩壊を見た。
 諸侯も、それぞれ離散し、グランベルの官吏が本格的に内政に手を伸ばすのも、時間の問題だろう。それについて、私の口から語ることは、さしてない。
 ただ、惜しむらくは、王女のご本懐が最悪の終末を迎えたことだ。
 私は、キュアン様に伴われて、アグスティ城の地下にあるモルグ…遺体置き場にいた。
 何十と言う、無名戦士や騎士の遺体が、葬列を組まれるのを待っている。深閑として、しかしよどんだ空気の中で、輝くように、陛下のご遺体があった。
「こんな形での再会になるなんて」
シグルド様が声を詰まらせた。シャガール王が、完全に絶命されるまでに行わせた辱めの痕を残すご遺体は、モルグの薄明かりでなければ、正視できたかも怪しい。
 そのうち、遺体の処理人と祈りをささげる神官が来たが、神官は聖典の一説を読み上げると、逃げるように戻っていった。
「まあ、そうしたくなるのも仕方ねぇな、この有様じゃ」
と、ベオウルフが言う。遺体の処理人はなれたもので、「失礼します」と聖印をきってから、おもむろに作業を始める。流しつくされた血をぬぐい清め、剣や槍による傷を縫い合わせ、少しでももとのお姿に戻そうということなのだろう。
 完全に顔を背けられてしまったシグルド様の肩を支えられながら、キュアン様が仰った。
「こいつにできる精一杯をしてくれたんだ。そうだろう」
「そうだが、そうなんだが、停戦奏上の返答が処断なんて」
「その処断したシャガールも、今はシルベールのモルグのどこかにいようさ。仇は取ったんだ」
「…ああ」
士官学校以来、何よりの親友として三人同体のように、その夢を追い続けてきたお三方は、今その一角を失い、ひどく不安定そうに見えた。
 シグルド様はお話もままならない。ベオウルフは、終始無言で、ご遺体の処理を見ている。私は、おぞけ立つような雰囲気を少しでもしずめようと、腕をさすりながら立っていた。その私に、キュアン様が仰った。
「お前をここまで連れてきたのは、他でもない」
「はい」
「俺に万が一のことがあったら、お前がする仕事だ。処理人なんかに任せるな。いいな」
「…はい」
そういう間にも、陛下のご遺体は、一応もとのお姿を取り戻され、改めて入ってきた神官達によって、礼拝堂へと運ばれて行く。キュアン様は、シグルド様の歩みを支えれるようにされながら、ご葬礼のことを相談されているようだった。その後をついていく道で、
「辛ぇなぁ、姫さんにあんな姿見させるのは」
と、ベオウルフが言った。
「でも、あの姫さんのことだから、きっとしゃんとした顔でお迎えなさるんだろうなぁ…」

 ご葬礼はノディオンで行われることになった。アレス王子にご神器を継承させなければならないと、王女はそう仰った。
「…残念だが、私達は参加できない」
とシグルド様が仰った。
「マディノの向こう側のオーガヒル海賊の征伐をしなければならないから」
しかし、実際は、シグルド様たちがご葬礼に参加されると、グランベルの心象が悪くなりそうな政局になりつつあった。
 王女は、しずかに、
「いたし方ありません。そのご弔意は私が受け取って、兄に届けて差し上げようと思います」
と仰った。
 陛下のご遺体とご面会されてからこの方、王女は一応立ち動いてはおられる。お話があればちゃんとご返答もなさる。しかし、そのお目は完全に焦点を失って、こういうのもなんだが、動いて話すことを仕込まれた、高級な人形に見えた。
「ノディオンまでの道、彼女を頼む」
とキュアン様が仰る。
「お前に話しては、負担になると思っていい控えていたんだが、今の彼女は、無意識にお前を探している。お前がいないと、不安にでもなるのだろうか、変に落ち着かないのだ」
「何故私なのですか」
「理由はわからない。たぶん、長く近くにいるから見慣れていたものがいないのが不安になるんだろう。
 マディノに、彼女の実家がある。ノディオンですることを全部済ませたら、そこに運んで、休ませてあげてくれ。お前が薬だと言うようなことなら、そのままお前もいるといい」
「…わかりました」
 にわかに、キュアンさまの仰ることの意味がはかりかねた。人が薬になるなんて、そんなことがあるのだろうか?


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