そして、そのころから、キュアン様のご機嫌が大分斜めになってこられる。
僕達への教練は、まるで何かに対する八つ当たりのように厳しさを増して、毎日誰かが、傷を作ってはプリーストのライブを受けるような有様だった。でもおかげで、僕の槍の腕は、自分でも相当上がったと思うけど。
まだ消えないあざの上に、新しいあざがまた一つ増えて、
「どうしたのかな、最近キュアン様が殺気だってる気がする」
と僕が何の気はなしにつぶやくと、
「ああ、キュアン様は今相当あれておられるぞ。正規のランスリッターも悲鳴を上げるような教練をされるし、謁見の間では学者相手にソモサンセッパの大応酬らしい」
とグレイドがため息混じりにつぶやく。
グレイドは、本当は、キュアン様の側近のドリアス卿の部下なのだが、僕達と同年代だから一緒に教練を受けている。だから、教練の時間以外はドリアス卿の傍にいて、その分宮廷のことに詳しいのだ。
「キュアン様に、何かあったのか? またトラキアともめてるとか」
「そうじゃない。何かあったのはエスリン様のほうだ」
「え?」
「知らないのか?
エスリン様、ご懐妊なんだ、もうお披露目も終わって、無事生まれるのを待つだけなんだぞ」
「知らなかった」
そういえばこのしばらくエスリン様の姿を見ないと思ってはいたけど。
「でも、それとキュアン様のご機嫌と、何の関係が」
「何分はじめてのご出産だから、周りが心配しすぎて、近づけさせてくれないって話らしい。
キュアン様が一番心配してるのにってやつさ」
「ふぅん」
僕は納得した。でも、その相槌が、グレイドには気に入らなかったらしい。
「お前、本当に教練以外には興味ないんだな」
「そんなことないよ、ただ、今は」
「教練が第一、だろ。聞き飽きた」
グレイドが肩をすくめた。
「その分じゃ、お前、王宮でメイドたちに人気が有るって言っても驚かないだろうな」
「僕が?」
「まあ、それはおおげさだけどな。でも今日はほら、お前宛に」
グレイドが、宮廷服を探って、封筒を手渡してきた。
「これを預かってきた。安心しろ、中身は見てないから」
「僕あてに?」
「そうだよ。結構、可愛い子だったぞ。
よく読んで、少し考えて、返事出すなら相談乗るぞ」
僕宛に来た、僕には名前も知らない王宮付きのメイドからの手紙。
僕はそれを、自分の馬がいる厩舎で読んだ。馬は、僕がまた外に出してくれるものだと思って、鼻面を僕にこすり付けてくる。
手紙の中身は、僕には半分も入ってこない。
何か用事があったときに、王宮に行くことが何回かあったから、そのとき姿を見られたのだということは分かった。それと、できれば、顔を合わせれば少し話をする時間を持てるぐらいの友達から「はじめたい」と。
「はじめたい? なりたい、じゃないのかな」
僕はそうつぶやいた。そこに
「はじめたい、であっているのよ」
と声がする。びっくりして振り向くと、そこにはエスリン様のお姿があった。他には誰もいず、おひとりだった。グレイドから、ご懐妊の話を聞いた後だったから、
「お体は大丈夫なんですか」
とたずねてみる。
「大丈夫よ。馬に乗ったりはできないけど、歩く分には差し支えなし」
エスリン様はさらりと仰って、
「こういう手紙で友達からはじめたいっていうのは、気持ちさえ合えば恋人にしてほしいっていう含みがあるのよ」
僕の手紙を指差された。
「どうするつもりなの?」
と返事を促されても、僕にはどう答えていいものか。
「恋人といわれても… 僕はまだそんなことを考えていい時期じゃないと思います」
「なら、そのように返事をしてあげたら良いんじゃないかしら?」
エスリン様はそう仰った。
「でも、試しに話だけでもして見るのも、楽しいかもしれないわよ?」
とも。でも僕には、女性が好みそうな話題が何なのかも知らないし、話をしてみても、きっとそれを見切られて、その後は相手にされないような気がした。
「今は、早くお二人のためになれるための修行の身ですから」
「あら、そう」
エスリン様は少し残念そうなお声を出された。手紙の主には悪いことをしそうだな。そう思っていていると、馬がせかすように、鼻面で僕を小突いた。
「わ」
思わずよろけると、エスリン様は健やかなお声でお笑いになって、
「馬がやきもちやいてるわよ」
と仰った。
「ち、違いますよ、僕がここに来ると外に出してもらえると思って」
「でもその子、女の子でしょ。キュアンが用意してくれた」
「そうですけど」
「名前とかあるの?」
「いえ」
仕方なく、馬に鞍を載せながら、僕はエスリン様のご質問に答えた。外に出してもらえるのが分かったのか、馬は嬉しそうにひづめを鳴らす。今は自由な時間だから、外を回るぐらいの時間はあるはずだ。
「じゃあ、名前をあげましょうか」
と、エスリン様が仰った。
「よろしいのですか」
「ええ。それに、名前があったほうが呼びかけやすいでしょう?」
「そうですね、おねがいします」
僕がそう答えると、エスリン様はほとんど考えるお時間もなく
「サブリナ、ってどうかしら」
「サブリナ?」
「そう。悪い魔法使いを嫌ったせいで小鹿に姿を変えられた妖精。あなたもおとぎ話ぐらい聞いているでしょう」
「…はぁ」
「あなたと同じ名前の騎士が、その妖精にかけられた魔法を解くのよ。そして二人はいつまでも、幸せに暮らしました。めでたしめでたし。
その子は、あなたにだいぶなついているから、ちょうど良いのではなくて?」
「ありがとうございます、今後、そう呼ぶことにします」
あとになって知るのだが、僕は混ぜ返されたのだ。からかわれたといってもいい。でもこのときはそんなことも分からなくて、純粋にエスリン様のご配慮に感謝していた。
手綱を引いて、外を出ようとして、
「お妃様ぁ」
と、侍女達の声がした。
「あらやだ、ここまで迎えに着たわ」
エスリン様はその声に振り返り、僕に
「ちゃんと返事をしてあげるのよ、それが一番大切なことよ」
と仰って、声のほうに歩いてゆかれた。
断る返事か。あまりいい気分がしない。僕はぼんやり考えた。でも、返事がないまま気をもませるのも悪いことなんだろう。でも、どういった返事で断ろうか。
考えた。でもよく分からない。僕は鞍の上に乗り、
「じゃあ、少しだけ回ろうか、サブリナ」
と、馬の首を叩いた。
エスリン様がご配慮くださって、王宮に入る時間を少しだけ下さった。アルフィオナ様もいらっしゃって、
「あら、見ない間にずいぶんたくましくなったこと」
とお笑いになった。
「そうでしょうか」
「そうですよ、毎日見ている人にはこういうことはわからないものです」
アルフィオナ様がそう仰るので、毎日の教練も無駄ではなかったんだと思えて、少し嬉しくなった。エスリン様が僕の肩を軽く叩いて、
「あの子よ」
と仰った。何人か、王宮付きのメイドが、これから開くアルフィオナ様のサロンの準備に追われていて、その中の一人だった。
「返事は決まっているのでしょう? いってらっしゃい」
「…はい」
でも僕は、立ち動くメイドたちに、どう声をかけて良いのかわからなくて、しばらくその場に立っていた。そのうち、一人と目があって、その子が顔を赤くする。
「この間、僕に手紙を下さった人ですね」
と問うと、その子はうなずいた。
「手紙をありがとうございました。はじめてもらったもので、どうしていいかわからなくて、返事が遅れました」
「あの…それで…」
「ご覧の通り、僕はまだ従騎士、修行の身です。キュアン様のお力に、早くなれることを第一にここにいます。この間のお話、まだ僕には荷が重くて…」
「…」
「こんな返事しか、お聞かせできなくて、すみません」
僕はその子に、深く一礼した。お二人のところに戻って
「時間をくださって、ありがとうございました」
と言った。エスリン様がすこしあきれたようなお顔をされていたけど、何も仰らなかった。
帰るときに、部屋の中が一度見えた。突然仕事をやめて泣き出してしまったらしいその子に、他のメイドたちが心配して話しかけていた。
その後で、何週間かぶりでエスリン様とご面会できたキュアン様は、至極ご機嫌がよさそうに教練においでになって、僕があったことを話すと
「ああ、それな。エスリンが呆れてたぞ」
と仰った。
「人のいる前で堂々と交際お断りの宣言する奴なんか初めてみた、ってな」
「…いけなかったでしょうか。僕も初めてのことだったので、やり方がわからなくて」
「いけなかったというよりも」
とキュアン様も説明に少し困っておられるようだ。
「お前はもう少し、不真面目になったほうがいい」
「不真面目、ですか」
「そう、不真面目だ」
と、キュアン様は大真面目で仰る。
「馬に乗ったり、槍を振る時間の何分の一かでも、出会って、話して、別れて、そういう蹉跌を味わうのが、より深い人間になると、俺は思うけどな。
現に、俺はお前達に、恋愛を禁じた覚えはない」
「…はぁ」
「もちろん、それが逆転したら、問題になるけどな」
「僕は逆転させたくないので、このままで行きたいと思います」
「ああ、それも選択肢だろう」
僕の言葉に、キュアン様は大きくうなずかれた。
「それぞれ考え方は違ってしかるべきだしな」
「ありがとうございます」
「それに」
キュアン様が、ふふ、と、含むような笑いをされる。
「そういう奴ほど、いざ自分のことになったら、大恋愛をするもんだ」
「そうなんですか」
と尋ねる僕に、やっぱりキュアン様は複雑な顔をされた。
「そういう可能性もある、と、お前には言い直したほうがよさそうだな。
身近な例であげれば、そうだな、エスリンの兄上が…」
「シアルフィのシグルド様ですね」
「ああ、奴は『運命の出会い』を信じて、いまだに妻帯してない。バイロン卿が不憫だよ」
「大変なんですね」
「エスリンから子供がうまれるといっても、半分レンスターの話だからな、何よりシグルド本人がその気になってくれないと。
孫の顔を見るまで、おちおち隠居もおできになれんだろうに、とんだ親不孝な息子だ」
それにだ。キュアン様が改めて、僕に向き直られる。
「お前だって、いつかは腹をすえなければいけないんだぞ。アレンの領地は今は母上がお預かりしているようだが、一人前っていうのは、正騎士になるのももちろんだが、身を固めることも入っているんだからな」
「え」
僕の頭の中が凍りついたように止まった。
「だから、妥協はするなよ。この人と決める瞬間まで、お前は必要以上の生真面目でいい」
「は、はい」
さっきとは全然逆のことを言われて、なんだかよく分からないけど、僕にとって恋愛というものは、ものすごく責任のあるものなんだと思った。
そして、この人と決めた、生涯ただ一回の恋愛が僕のそれからの人生を変えるなんて、その時には全然、自覚する隙間もなかった。
そのうち、レンスターの王宮が、揺れるばかりの大騒ぎになる。
エスリン様からお生まれになったのは、ノヴァの聖痕も鮮やかな姫様だったからだ。
僕は、そのときも、教練をしていて漠然とその知らせをきいただけだったけれども、そもそもゲイボルグと一緒にこの地をお守りになられた聖ノヴァが女性だったという話とあわせると、大きくなられたら、聖ノヴァはこんな方だったんだろうなというような方になるだろうと思った。
キュアン様は
「やれやれ、肩の荷が下りた」
と仰った。
「どうしてですか」
と僕が尋ねると、
「ん、もし、エスリンが聖痕を持たない子を産んでいたとしたら、そういう子が生まれるまで大変な思いをさせるのかと思ってな」
とキュアン様は仰った。
「大変なんですか」
「男には想像も及ばない大仕事なんだそうだよ、子供一人産むっていうのは」
キュアンさまが想像がつかずにおられるのだから、僕にはまして、どう反応していいかわからない。
「お前は当然、わかるまいが」
「…はぁ」
「聖痕に関係ない、普通の子供が生まれることだって、女が味わう苦労が同じなら、男が背負う責任も同じさ」
「はぁ」
「俺は今まで、ランスリッターを率いて、この国と父上母上を守ればいいだけだと思っていた。
でもこれからは、それにエスリンとアルテナもついてくるんだなと思ってな」
キュアンさまはそう仰りながら、執務室に置かれてある書類や手紙の山を一つ一つ、丁寧にご覧になっている。
と、はたと膝を打たれて、
「そうか、エルトの奴、やっと喪が明けて根性決めたか」
と、いかにも面白そうに仰った。僕が、その面白さがわからない顔をしていると、
「ああ、驚かせたか」
とおっしゃって、
「レンスターから、グランベルをはさんで、アグストリアという国があるのは知っているな?」
「はい」
「士官学校で友人だった奴が、急死した父上の後をついで即位していたんだが、この間こちらから送り出したグラーニェ、知ってるな」
「はい、話には」
「やっと式を挙げるところまで来たらしい。しばらくぶりに、シグルドとも会えそうだ」
キュアン様は楽しそうだ。士官学校にいらした間のご友人の話は良く聞かされていた。
「エスリン様をお連れするのですか?」
「いや、ノディオンまでの道は遠い、まだ彼女には無理はさせられないから、俺だけになりそうだな。
お前も来るか?」
「僕もですか?」
「グラーニェからの手紙で、エルトに妹がいるのがわかってね。まあ奴の妹なら、美少女間違いなしだが…
顔見知りぐらいになって、損はないと思うぞ」
そうキュアン様は仰る。でも僕は、
「この人と決めるまで、生真面目でいいと仰ったのはキュアン様ですよ。そういう不純
な動機なら、僕はお供するのは遠慮します」
と答えた。キュアン様は、僕を、少し呆れたようなお顔でご覧になっていたが、
「お前がそういうなら仕方ない、ドリアスかゼーベイアをつれて行くとするか」
と苦笑いをされた。
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