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 目を覚まして、部屋の天井の色が急に見慣れていない物に見えて、
「ああ、ここはアレンの家でも王宮でもなかったんだ」
と、僕はそんな事を思って起き上がった。
 今日一日が無事であるように、聖印をきる。
 と、
「起きたな」
と声がした。その声がキュアン様のものだと分かるまで、少し時間があって、僕はその後、跳ね起きるようにして、その足元にひざまずいた。
 寝坊をしたのかもしれない。そんなことを思って、どんなお言葉がかかるのか、少しびくびくしながら待っていると、
「多少の寝坊で俺がじきじきに怒りに来るものか。
 堅苦しいことはこの際抜きだ。
 母上がお呼びだ、きちんと支度して、行って来い」
「は、はい」
いわれて、キュアン様を見送ってから、レンスター兵士のお仕着せを着る。いつも教練着だから、こんな格好をするのも悪くはないけど、王妃アルフィオナ様が今、僕に一体何の御用なんだろう。

 「まあ、かわいらしい兵士さんがひとりやってきたこと」
お部屋に入って良いかうかがったあと、中に入ると、王妃アルフィオナ様は書類が何枚か置かれたお机に向かっておられるところだった。
「どうです? あなたを私からキュアンのところに預けてしばらくになりますけど、あの子はあなたに優しくて?」
とお尋ねになるので、僕は
「は、はい。本格的に馬と槍の練習を始めました。キュアン様は、僕が失敗しても、怒らずに励ましてくれるので…えー、と」
「ああ、そう」
アルフィオナ様はそれだけで、僕がその後言いたかったことを分かってくださったようだった。そして、改まって、
「早くに呼びつけてごめんなさいね。でも、アレンの町のことについて、やっと係争が収まったことを、早くあなたに知らせたくて、キュアンに無理を言って起こさせたの」
とおっしゃった。
「アレンの?」
僕はきょとん、とした。アレンといえば、レンスターの城下町を出て少しのところにある、僕の生まれた町のことだ。もう、だいぶ帰っていないけれど。でもそれが、僕と何の関係があるのだろう。
「ああ、あなたはまた小さかったから、わからないのも無理はありません」
アルフィオナ様は納得されるようにうなずかれてから、僕に、顛末を話してくださった。
 僕の父は、僕が物心つく前に亡くなった。父はアレンの領主でレンスターの廷臣であり、国王陛下の信頼も厚かったらしい。
 今レンスターの王宮にいるのは、やはり先日亡くなった母の、
「年齢がきたら王宮に上がり、レンスターを守り支える、立派な騎士になりなさい」
こんな遺言があったからだ。
 とにかく父は、僕がまだ小さかったから、跡継ぎを決めていなかった。
 息子だからと、あくまでも僕を跡継ぎにしようとする母と、せめて成人までは年長のものに譲るべきだという一族との間で、僕の知らないところで静かな戦いがあったのだ。母は、その係争ごとに巻き込まれて僕にもしものことがないように、アルフィオナ様に僕の身柄を託していたのだ。
 その係争の処理が終わったというわけで、
「アレンの土地は、あなたのものになります」
あっさり、アルフィオナ様は仰った。
「でも、あなたはまだ、従騎士にもならない…いくつになるかしら」
「はい、十二歳になりました」
「だから、あなたがこのまま立身して、一人前になるまで、私があずかることにしました。アレンのあなたの一族は、私からの依頼を受けるかたちで、領土の運営を続けますが」
「…はぁ」
僕にはまだよくわからなかった。アルフィオナ様は、それもわかっておられるようで、
「とにかく、あなたのお母様がご心配だったことは、すべて解決した、そういうことです。
 本当は、彼女が元気なうちに納めたかったけれど」
そう仰った。
「私の用はこれだけです。
 ああそれから、キュアンのところに預け物をしてありますから、戻ったらお受け取りなさい」
「はい」
僕は、扉の前で一礼して、半分小走りで自分の部屋に戻ろうとしていた。帰ったら、教練が待っている。僕はその教練が待ち遠しかった。

 着替えて、王太子宮殿にある教練場についたときには、もうみんな、槍の練習を始めていた。
「遅かったな、母上の話はなんだったんだ」
とキュアン様はおっしゃるけど、もうその中身はご存知に違いない。
「僕に関する係争が収まったという話でした」
「ああ、そのことだったのか。
 あまり長いことねちねち続けているから、次期国王の重臣という前途ある少年をこの年から路頭に迷わすのかと一喝したら、それだけですんだ」
「それと、キュアンさまにお預けしておられるものがあるから受け取るように、と」
「…ああ」
キュアン様はすこし困った顔をされた。
「それは今手元になくてな…後で渡そう。
 それより、教練には遅れてきたのだから、遅れたぶんみっちり鍛えてやる。
 手始めに、馬で外を回って来い」
「はいっ」

 馬を引き出して、並足で走る。最初は馬に乗り終わると、座れないほど痛かったけど、今はそういうことはほとんどない。
 遠くに、ランスリッターの方々の教練の様子が見えた。大陸屈指の槍騎士団。レンスターに生まれた男子なら、一度はあこがれる騎士たち。その様子を見ていると、僕たちの槍の練習なんか、まるで子供の遊びだ。それでも、辛抱強く、自ら教えてくださるキュアン様は、本当にすごい方なのだと思う。
「いけないいけない」
考え事をしながらいると、馬はすぐに停まってしまう。僕はもう一度、馬に拍車をくれようとして、
「あれ」
教練場の隅の木立の中に、誰かがいるのを見つけた。

 ここにはおおよそにつかわしくない、柔らかいドレス姿で、その方はそこにいらした。
 誰だったろうか。見たことがあるような気がするけれど、今は思い出せない。
 でも、こんな上品な姿をなさってる方にふさわしい場所じゃない。僕は、馬でそっと近づいて、
「あの」
と声をかけてみた。その方は、一瞬肩を震わせて、僕の方を向き直られる。
「何?」
と仰るそのお顔は、すこし泣いておられるように見えた。
「どうかなさいましたか? 道に迷われましたか?」
とたずねてみると、
「そんなことないわ。一人になるのに、都合がよかっただけ。
 …あなた」
貴婦人は、馬から下りた僕の姿を見て、
「このごろキュアンが目をかけている子ね。ちょうど良いわ。あの人を呼んでほしいの」
「キュアン様を、ですか」
「ええ。それだけ言えばわかるわ」
「わ、わかりました」
馬に乗りなおして、一度キュアンさまのところに戻ろうとしたら、
「俺ならここにいるぞ」
とキュアンさまのお声がする。
「ずいぶん遠くまで泣きに来たんだなエスリン、折角の母上の誂えなのに、裾が土だらけじゃないか」
「だって、…コーマック夫人が」
「あー、またあのご夫人か」
キュアンさまががっくり頭をさげられる。
「気にするな、君には関係ないから」
「そうじゃないのよ。私が言われることなら、もう慣れたわ。
 でも、最近キュアンが」
仰りながら、少し僕をご覧になって、
「子供たちを世話しているのを知ってる上で、『お妃をお迎えになっているのに若い少年をたくさんお集めになって、ひょっとしてそちらのご趣味が』なんて…あの方、キュアンをバカにしすぎよ」
「うんうん、わかったから」
キュアン様はそのお言葉に、少し大げさに頷かれた。そして、まだ僕がここに残っていたのを見ると、
「サボるんじゃない。
 一周追加で走って来い、槍の教練はそれからだ」
とおっしゃった。

 教練の時間はもう終わってしまっていたと思っていたのに、馬を片付け、教練用の槍を持って飛び込むと、教練場には、まだ誰かが残っていた。グレイドだった。
「遅いなぁ。どこで馬に道草食わせてたんだよ」
と軽口をたたくのに
「うん、ちょっといろいろあって」
としか、僕は答えようがなかった。
「そういえば、キュアン様が馬で飛び出していったけど、その件かな」
僕はかくかくしかじかと見たことを話してから、
「なぁグレイド、あのご夫人、見たことがあるような気がするんだけど、誰だったかな。思い出せなくて」
ときいてみた。グレイドは、一瞬目を点にして、
「お前、正気で言ってるのか」
明らかにあきれた顔で僕に言った。
「エスリン様だぞ、キュアン様の奥方じゃないか」
「…ああ」
僕は、やっと溜飲が下りた気がした。道理で見たことがあると思った。
「まだ、はっきりと見たことがなかったから、わからなかったよ」
「そうだろうな、お前、全然女の子に興味がなさそうだからな」
グレイドがいうのに、僕はつい言い返していた。
「ないわけじゃないよ」
「へぇ、じゃ、もう誰か彼女でもいるのか」
「いるわけないじゃないか、僕は、まだそれより優先することがあると思ってるだけだ」
「それを興味がないって言うんだけどなぁ」
グレイドがため息をついたとき、
「そうだぞ、お前らには最優先事項があるはずだ」
と、僕たちの背後でキュアン様の声がした。
「わっ」
「わっ、じゃない。
 手合わせをしていると思ったらこの有様だ。二人とも、特別にしっかりやってやるから、覚悟しておけ、な」
「は、はい…」
キュアン様の顔は笑っておられたが、目は笑ってなかった。
 この後僕とグレイドは、文字通り、足腰が言うことをきかなくなるまでみっちりとしごかれたのだ。

 その後で、僕はキュアン様の執務室に呼ばれた。
 今日の教練の態度が悪かったせいかもしれない。僕は少しだけ身震いを感じて、恐る恐る執務室の扉を叩いた。
「開いてるぞ、入って来い」
という声で、そっと扉を開けると、昼間のご夫人…もとい、エスリン様も、そこにはいらっしゃって、僕は思わず直立不動で固まってしまった。
「何してる、もっと近くまで来い」
というお声に、右足と右手が一緒に出そうなほどギクシャクと近づくと、
「母上から預かっているものを渡すのを忘れていただけだ。楽にしろ」
キュアン様が笑った。エスリン様が、ビロードの布を開くと、キュアン様がその中から何かを取り出す。
「これを預かっていたんだ」
「あ」
僕はそこが執務室なのも忘れて声を上げていた。
「従騎士になるのに特別な儀式はないからな」
とおっしゃって、キュアン様は僕の服の襟と胸にその徽章をつけてくださった。
「それが早く、後一段上に上がるのを、楽しみにしてるぞ」
「はいっ」
僕は、直立不動のままで返事をしていた。

 僕の中で、何かの時間が動き出した。なんだろう。よくわからない。
 ただわかるのは、これがただの始まりでしかないことだけだ。
 従騎士徽章を拝受してからは、僕は一層努力しようと思った。
 僕にはまだ、力もないし、知恵もない。父がたまたま陛下やキュアン様に目をかけられていた廷臣だったから、僕に王宮住まいをさせてまで、その縁を切るまいとしているんだと、一族を悪し様に言うものもあった。でもそれも、いつか僕が正騎士になり、まじめにお仕えしていれば、見方も変えてくださるだろうと、それだけを考えていた。
 王宮から渡り廊下が続いて、王宮ほど大きくはないけど、ランスリッター本部をかねた王太子宮殿がある。王太子はランスリッターの総指揮官だから、ある意味武官の筆頭なのだ。
 その王太子宮殿に貴婦人の来客があったという話があって、教練生が遠巻きに、ご夫妻とアルフィオナ様、そしてお客様の会談風景を見ていた。
「何やってるんだグレイド、教練の時間だろう」
とその服を引くと、別の誰かが「しーっ」と黙るように唇に指を当てた。
「グラーニェ様だぞ、コーマック卿のご息女の」
「今日が最後になるかもしれないんだ、今のうちに見ておかないと」
「今日が最後?」
とまた質問する僕に、一人が人の山から顔を向けて、
「全く、お前ほんと疎いな」
と言った。僕は、正直、それにむっとしたが、こんなところでけんかしても一ゴールドの儲けにもならない。
「グラーニェ様は、もしかしたら王太子妃になってたかもしれない人なんだ」
「へぇ」
人だかりから抜けてきたグレイドは、
「キュアン様が、バーハラの士官学校に行っていらしたのは、さすがのお前も知ってるだろう」
「ああ」
「そのときキュアン様は、誰とご婚約の相手もおられなかった。まあ、都市で言えば、俺たちよりもっと下だったから、当たり前だけどな」
「まあ、そうだね」
「士官学校から戻られてから決めても良いという両陛下のお言葉に、最後までゴネていたのがコーマック卿なんだ、ドリアス卿も、出立までに言質をいただけるよう配慮を、なんていわれて困ったらしい」
「そんなことがあったんだ」
「その間もなくだよ、グラーニェさまに縁談が来られたのは」
いつの間にか、僕のほかにも、人だかりがグレイドの周りにできていた。
「西の大国アグストリアにあるノディオン王家から、王子にちょうどいい年回りの娘はいないかとといあわせがあって、グラーニェ様に白羽の矢が立った。
 それが、今から十年前で…」
「グラーニェ様、10年も待たされたのか」
「そういうことになるけど、キュアンさまに悪気はないんだ。
 エスリン様だって、士官学校においでの間に知り合われたバーハラ王国のとある公女様なんだから、わるいはなしじゃない。
 まあ、珍しいことといったら、政略結婚じゃない、ぐらいかな」
「ぐらい、ですむ話なのか? 跡継ぎの王子様が、国の損得抜きで結婚なんて、できるかよ」
「グランベルと縁がつながるのは、悪い話じゃないよ」
「ああ、その方とキュアン様と、エスリン様の兄上は、同年代の神器継承者同士のせいか、自他共に認める大親友らしいからな」
「両陛下はそれをお受けになって、行き先がノディオンならと、コーマック卿もあきらめざるを得なかったと」
「でも、たまに愚痴るらしいな」
「そりゃ、グチりたくもなろうさ、婚約から10年も待たされて、その間にキュアン様は先にご結婚してしまうし」
「あっちもあっちで、腹違いの妹が見つかったとかで、そっちのほうが可愛くてたまらない状態だったのを、やっと家臣が説得して、お輿入れの日取りが決まったんだ」
情報の奔流が僕の耳に流れ込んでくる。でも、僕はそれのどれだけを理解できただろう。
 とにかく、他国に行かれる方が、今日はご面会にいらしただけで、そういう方たちとはまだ別の次元にいると思っている僕の日常は変わらない。僕は、練習用の人形を相手に、槍を振り上げていた。
 あさっての方向で、噂話はまだ続いている。

 数日後に行われた出立の式典には、僕も、ほんの端からだけど見ることができた。
 僕は、女性の美醜については、あまりよくわからない。でも、遠くからでも見た限り、グラーニェ様はお美しいというか、穏やかな、とても優しそうなお顔をしていらした。
 きっと、嫁がれた先でも、大切にされるだろうと思った。夫となる方が、本当に誠実な人であれば。


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