眠ったはずの、私。
ヘズルの血を持つ、私。
お母さまの魂を、継いだ私。
その私が、ずっと泣き続ける。
可哀想に、あの子、一人きりで寂しい思いをしていないかしら。
ちゃんと食べているかしら、眠れているかしら。
優しい人に守られて、愛されているかしら。
アレスは。
「!」
目をさますと、レンスターの城。あてがわれた、中庭に面したアルフィオナ様のお部屋で、私は一人で眠っていた。
トラキアの竜がやってきていると、城は、人気を失わない。彼の話によれば、収穫期が近付くと、いつも以上に、城下町に入ろうとしつこくなると言う。城下町から出た小さな農村は毎年相当に被害を受けるのだ。
外を見ると、月が眩しかった。ナンナの泣く声が小さくする。彼女の部屋には明かりがついている。乳母が起きているのだろう。彼女の泣く声を聞くと、両の乳房が痛くなる。その時、武具馬具の擦れる金属音が遠くでした。
勘の働くまま詰め所に顔を出すと、彼はちょうど、部隊を引き連れて戻ってきたところだった。その様子を見ると、例によって、うまく撃退せしめたらしい。
「まだ起きていらしたのですか?」
彼の槍に、払いきれないドラゴンの血が赤黒く残っていた。
「かえって来たかも知れないと思って起きたの…怪我は無い?」
「御心配にはおよびません。月の明るさに竜が迷い出ただけです」
「そうね、あなたは強い人だもの」
「有り難うございます」
気を利かせてくれたように騎兵達が去るのを見計らってから、私は彼の首に腕をまわしてみた。
「「王女、お衣装がよごれます」
「どうせ脱がせてもらえるもの」
ね。わざと耳もとで、彼の名前を呼んであげる。Fで始まる名前はゆっくり囁くと、愛撫のように彼の耳を撫でるらしい。というより、私に名前で呼ばれることが、彼にはとんでもなく恥ずかしいことらしい。
『ね、私を部屋までつれていって』
「…なんて言葉をお覚えになりましたか」
首にかかる私の重さを支えるように、彼の手が腰に回ってくる。
『身支度を整えてから、改めてお部屋に伺います。…今はどうかお戻りください」
つま先で浮いていた私の体が、つと床に立たされる。その時言われた言葉の半分ぐらいは、まだ聞き取れなかった。私はてっきりこのまま戻るように言われたものだと思って、いつもより足音を大きくして部屋に戻った。
だから、彼が入ってきてから、私は彼の言っていた言葉の残りをやっと把握したのだ。彼は来ると言ったのだ。
もう一人の私は、もう私の奥深くで泣き寝入りをしていた。今の私は彼の訪れに、潤んだ喜びをも感じて震えている。
「来てくれたの?」
と聞くと、
「こちらから伺うと申し上げたはずです」
と答えられた。
「どうか、軽はずみなことはおひかえ下さい」
「お説教?」
言いながら、部屋のロウソクを消した。部屋には、月の光だけが青白く、彼はその光に溶けるように、部屋の入り口に立っていた。薄ら寒くなる程に、彼に焦がれている自分を思い知らされた。
そうよ、だから私はここにいる。他に何の理由があると言うの?
彼の与えてくれる波に、体と心を預けた。
彼が月の光にそのまま溶けてしまうと思った。だから抱き締めた。
彼を思う心のたけを、どうにか言葉にして伝えたかった。でも、まともな言葉を出す息を吸う暇など、もう彼は与えてくれなかった。
唇が重なる。手を重ねる。体が、かさなる。
目の奥で光が交錯した。その光の眩しさに、私がこらえきれずに声をあげると、彼が獣のように喘いだ。
楔のように打ち込まれた、彼の熱い、声にならない言葉。
その熱さをゆっくりと、からだの中で溶かしながら、私はもう一度、夢の中に落ちる。
眠っている、私の中のもう一人のわたし。
幼い頃の、守ってくれる手の内だけが世界のすべてだったあの頃。
その手が、私を意図的に解き放った時、それは、新しい私の内側で、ずっと眠っていたはずなのだ。
それは、やってきたその知らせを、待ち受けるための、ただのまどろみの時間だったのかも知れない。
それは、ナンナが三つになった時の事だった。
「また、地図を御覧になっていたのですか」
と声をかけられて、私は改めて彼の顔を見た。言葉の通り、私の目の前には、マンスター地方と呼ばれる、トラキア半島北部とその周辺の地図が広げられていた。
「…デューの話は、本当なのでしょうか」
彼の言葉はいつになく訝しみを含んでいる。
「…王女への方便だとしたら、余りにも由々しいことです。
まさか砂漠に」
「…本当だとしたら、あなたどうするの?」
「…」
彼の顔が難しくなる。私は、ついと彼から視線をはずした。
二三日前の事だ、デューがレンスターの城を訪れた。
リューベックで別れて以来、音信不通だったのだが、中庭で私達を待っていたデューは、もう立派に盗賊のような顔をしていた。コノートという住まいの近さに、私達は驚いた。放浪をしている間にブリギッドと再会し、今は彼女の子供達と一緒に、とある孤児院に暮らしているらしい。暮らし向きは悪くはないらしいが、私達は、聞かずにおいた。ブリギッドは、当局の追求の格好の的になって、デューに子供達を託した後、ホリンと二人で身を隠したと言う。
「…で、デュー、話は何なの?」
と聞く私に、
「姫様、巷ではね、慌てる何とかは儲けが少ないって言うんだよ」
と軽口を叩きながら、話を続けた。
「今オイラは、コノートの町で古物商の見習いをしているんだ。職業柄、あちこち回ってる商人の話もよく聞くんだけどね、砂漠から、こんな話が届いたよ」
「砂漠から?」
「ああ、聖戦士様の奇跡のあったダーナ砦の事なんだけど…あの町は今、ユグドラルのどの勢力にも関わってなくて、商人たちが町の事を何でもきめている。
最近あそこの頭目になったブラムセルっていうのがね、町の警備に傭兵団を使うようになったんだ。戦いがおさまって傭兵には食い扶持がない、ダーナの町としてはいろんな国からの町の中に横やり入れられたくない。利害の一致ってやつだね」
「それで?」
「…修理屋も、その傭兵達のおかげでそれなりに儲かっているんたけど…変な剣が持ち込まれたって」
「剣」
どきん、と、一瞬胸が高鳴った。
「その剣、大剣より長いんだ。刃が黒くて、翠色に光ってるって。研ぎが終わって、試し切りをしようとしても、誰も重くて持てないんだ。
でも、飾りじゃないのは確かさ。剣の修理の依頼主が、『この剣は人を選ぶ』ってさ、つれてた子供に持たせたら、その子供、大人でも持てなかったのを軽々持って試し切りの肉を真っ二つにしたって」
「…」
私も彼も、言葉を出せなかった。私が、やっと言葉を出す。
「デュー、どうして、そんな話を私にするの?」
「…姫様だから話すんだよ。姫様なら、その剣の事に思い当たる節があるだろうからさ」
デューは、私の心を見すかしているようだった。
確かに、アレスとミストルティン捜索は、私がレンスターに来て以来ずっと続けさせていることだった。しかし、全く手がかりすら発見できず、どちらも諦めかけていた、矢先の出来事だったのだから。
あるいは、その話をデューは聞いていて、だから私に話をしたのかも知れない。
そこにならば、答えがあるよ、と。
持つものを選ぶ、翠色に輝く黒い刀身の剣。そんな剣、世界中探しても、ひと振りしかないはずなのだから。
砂漠は、地図からすれば、本当に近い。
「探しにいけないことは、ないわね」
と言ったら、
「砂漠は危険な場所です。お言葉ですが、王女のようなお方が旅をしおおせるとは」
と、彼は敏感に難色を示した。
「慣れた隊商でさえ、ほんの一つの気のゆるみだけで道に迷うような場所なのです。そんな場所に、まして王女お一人とは」
「でも、私は砂漠は未経験ではないわ。ダーナの町も、行ったことはあるし、それに、ダーナは砂漠のほんの入口よ」
「ですが」
彼の頭の中には、ほぼ間違いなく、キュアン様エスリン様の事が思い浮かんでいたはずだ。
「分かってるわ。私には、あなたもいるし、ナンナもいる。そう簡単に、ここは離れられない」
「どうしてもと仰るのなら、私がお供いたします。いえ、王女はここにおいでになって下さい。私が王子をお迎えに参ります」
彼はほとんど、むきになるような口ぶりで、私に言っていた。
「…デューの話を元に、新たに捜索の手をダーナにのばしました。
吉報を、待ちましょう」
「そうね」
それでも、私の心は動き続けていた。もう一人の私が、目を開けたり閉じたりしている。
私が覚えているアレスは、ほんの一つばかりの、まだ言葉さえも満足に操れない子供だった。そのアレスが大きくなって、剣を振れるほどになっている。
その間、あの子の身の上には何があったのだろう。お姉様は慈しんで下さっただろうか、お姉様の心を、その養い人はどう受け取ったのだろうか。
会って聞きたいことは山とある。
胸が苦しい。
もう一人の私…お母さまの面影が、私の頭の中に、浮かんでは消えてゆく。
わかっています。私は与えられた名前の力で、人の運命をあやつります。
ヘズルの血をもつアレスの、決して良いとは断言できない今の運命から救い上げるのは、縁者として、同じきヘズルの末裔として、義務でもあります。
わかっています。
でも、お母さま。
私の両手は、守らなければならない運命でこぼれ落ちそうな程です。
このまま誰かに守ってもらいたいと思うのは…いけませんか?
|