ナンナは、日々を重ねるごとに、かわいらしさを増してゆく。父親たる彼の後になり先になり、時には仕事場に出入りしようとする時すらあるが、彼はそれをむげにも突き放せず、ときにずいぶん困っているようだ。
 それでも、ナンナを見る時の眼差しは柔らかい。それを見るだけでも、ナンナがここにいて良かったと、私は切に思うのだ。
 リーフ様も、ずいぶん大きくなられた。もう私をお母さまと間違えられることもなく、この頃は、私や彼や出入りの騎士に真似事のようではあるが、武芸の稽古をせがまれるようになった。
 考えてみれば、この王子はエスリン様からバルドの血を受け継いでいらっしゃる。剣の扱いには、大器を感じさせた。
「リーフ様はずいぶん、剣がご上達されましたね」
と言うと、リーフ様は汗を手首で拭ってから
「先生がいいから」
とおっしゃった。
「まあ、そんな冗談、誰がリーフ様に教えました?」
「冗談じゃないよ。
 今の僕は、もうどんな剣でも持てそうだ」
リーフ様はそうおっしゃって、剣を大事そうにしまわれる。そして、改まられた。
「…旅に、出るの?」
「はい?」
「ずっと探している人が見つかったって、聞いたんだ。迎えにいくんでしょ?」
意外な言葉だ。大方彼が話をしたことは想像できた。
「ええ、行きたいのはやまやまですけれども。砂漠は危ない所と、とめられてしまいました。砂漠の砂も気にならない、天馬の翼でもあればいいのですけれども」
と言うと、リーフ様は
「行っても、いいんだよ。僕やナンナの事は心配しないで。この城の中にいる限り、トラキアに手は出させないって、みんな僕に誓って暮れた」
「リーフ様」
「その人、一人で寂しいよ。知ってる人が誰もいなくて、きっと寂しいよ」
「でもリーフさま、私がここを離れてしまったら、誰よりもナンナが寂しいですわ。ナンナはまだ、母親がいないとだめですもの」
「大丈夫だよ。ナンナには僕がいるから。
 今はまだ、お城のみんなの手助けがいるけど、きっと僕一人で、ナンナを守れるようになるから」
「リーフさま?」
たった七つの子供から、こんな台詞を聞くとは思わなかった。でも同時に、この王子に任せてるいいような、予感がした。この、誰かがそう育てた通りの、まっすぐの、きれいな心が、このままであり続けるなら、きっとあの可愛い子を守って、慈しんで、愛してくれるだろう。
「…そうですね。
 そうされることが許されるなら、砂漠まで迎えに行きましょう。
 …その時は」
デルムッドを迎えに行ける時だ。万が一、アレスの話が誤報だとしたら、私と子供達をおいて、誰が魔剣の血を守れるのだろう。…砦の奇跡で下された神器は、永劫保ち続けるのが聖者との約束…それが絶えてしまうことは、大きな違約だ。
「…リーフ様に、お友達をお連れできるかもしれませんね」
「…子供なんだ?」
「それは、お楽しみです。
 ありがとうございます、リーフ様。旅に出ることをお許しくださって」
「でも、約束してよ。絶対帰るって」
「はい、それはもちろん」
「ナンナとも、ちゃんと約束するんだよ」
「はい」

 とはいえ、ナンナにはこのことの、どれほどが分かろうか。
 そして、少しの恐怖。彼がこの決心を知ったら、どんな顔をするだろう。
 シレジアの事を思い出した。
 出立の事がなかなか言えなかった彼。
 私一人をそっとおいて行ってしまった彼。
 こんな刺すような思いをしていたなんて。
 私は、旅立つ私と離れることを悲しがる、多くの人とあえて離れていかなくてはならない。

  「王女」
 控えめだが、慌てたふうの呼び掛けで、私は目を覚ました。その直前まで見ていたと思う夢は、瞬間的に消えた。
「あ…」
「うなされておいででした」
彼は汗ばんで妙に湿った私の身体の上にかぶさるようにしている。その首に手をかけて、彼の頭を引き寄せて、私は
「嫌な夢を、見ていたみたいよ」
と呟いた。
「…アレス王子のお名前をずっと、くり返しておられました」
「…」
「それ程にまでお思いなら、私はもうとめません。どうか、砂漠に」
「…でも」
「お忘れのなきように。王女は、ノディオン王妹殿下、ヘズルの末裔としてその血脈を保つことは義務でございます」
私と彼の間に、壁のようなものが突然現れた気がした。
「私、砂漠にはいけないわ。
 私と貴方でなしに、誰がナンナをまもってあげられるの?」
「なんと仰られても、ダーナの奇跡以来百年、お見守り下さる聖ヘズルと、代々魔剣を受け継いていかれる方々に対して、不実でございましょう」
その顔は、決して明るいものではない。暗いと言ってもいい。離れる寂しさと、恐怖と…死の砂漠とさえ言われるその場所に、私の足を向わせるものへの、嫉妬の陰影。私は彼に思わず背中を向けた。
「おねがい、そんなこと言わないで、私、ほんとはここを離れたくないの。わかって、ね、お願いだから」
「…」
背にふれた彼の手が、慣れたふうに、私の、淡いヘズルの印を撫でた。意に関わらず背筋に何かが走る。そして、背後からこの上もなく優しく抱き締められた。
「!」
「可能性がある限り、進むことしか、我々には出来ない」
声が、背中のほうから、穏やかに聞こえてきた。その声が暖かい。
「…許してくれるの?私が砂漠に行くのを」
「誰が異を唱えられましょうか…
 私は、アレス王子のお顔を知らないのです」
「まあ」
落ち着くそばから、笑いが込み上げていた。
「じゃあ、デルムッドも、私が迎えに行かなければダメじゃない」
「そういうことに、なりますね」
二人とも、私しかその顔を知らない。
 私の奥底に刻み込まれた面影をそのまま写したアレス。
 私のすべてを包む、彼の面影を宿したデルムッド。
「私に任せてくれるのね? 本当に?」
念をおしてみる。しかし。一度彼はそう決心をしたら、ゆらぐことはないのだ。
「どうか、シレジアでの私の不調法は大目に見て下さいますように」
「え?」
いったが、すぐに察しはついた。シレジアで私を突然一人きりにしたこと。
「ええ、ちゃんと、お別れするわ」
「お別れではありません」
「ええ、そうね」
私達の間の壁は再び取り払われた。いつになく安らいで、彼の心とそのつながりを感じた。このつながりは、きっと解けることはないだろう。

 彼は、私の出発の準備をすすんで手伝ってくれる。リ−フ様は、自分から、私が忙しい間のナンナの世話を任されて下さる。
 その日も、ナンナは、日にすかされると鮮やかな翠色になる木の葉をとりたいと、半分泣きべそをかいていた。
「おとーしゃま、おとーしゃま〜」
と訴えるのは、単に、彼にそれを助けてほしいからだ。しかし、呼んですぐ来るような場所に、彼はいない。
「しょうがないなあ」
リ−フ様が、かがみこんだ。
「ほらナンナ、肩車してあげるよ」
二人とも、非常に危なっかしい姿だ。それでも、やっと、葉を一枚もぎ取ったナンナは、いたく嬉しそうに、私にそれを差し出した。
「おかーしゃま、はい」
「ナンナ、先に言うことがあるでしょう。
 リ−フ様に『ありがとうございます』は?」
ナンナは、一度目を丸くしてから、リ−フ様に
「あいがとー、ます」
と言った。

 「申し訳ありません、ナンナはすっかりリーフ様にあまえるようになってしまいました」
と言うと、
「ううん。かまわないよ」
とリーフ様はおっしゃる。
「いつ出るの?」
「そうですね、準備できれば、すぐ。
 先様は私を心待ちにしているかも知れませんからね」
「そうなんだ」
リーフ様も、寂しそうなお顔をなさる。エスリン様より長くこの方を見てきた私としては、もうひとり息子があるようで離れがたいのもまた確かだ。
「いつ帰ってくるの?」
「いつになりましょうね。早くもなるでしょうし、遅くも」
「ちゃんと、帰ってきてよ。僕、いないとさみしいから」
「はい」
「ナンナ達も寂しがるだろうしね」
「はい。
 …リ−フ様、ひとつ、お願いできますか?」
「いいよ」
「もし、私が長いこと帰って来なかったとしても、ずっと、ナンナと一緒にいていただけますよね」
「いいよ。前にもちゃんと約束したもの。僕がナンナとずっと一緒にいるから、寂しくなんかさせないよ。トラキアの竜からも、フリージからも、守ってあげるから、心配しないで」
「有り難うございます」
私は、そばにおいてあった歯を、興味深そうに眺めまわしているナンナを膝の上に抱き上げた。
「ナンナ、リーフ様は好き?」
単純に聞くと、ナンナも単純に首をたてに振った。
「リーフ様と、ずっと仲良くできる?」
「うん」
「お母さまは長い旅に出るけれど、帰ってきた時も仲良く出てきていたら、あなたにこの耳飾りをあげましょうね。
 私がお父様からはじめてもらったものよ。お父様に預けておきますからね。大切にしなさい」

 間もない夜の事だった。
 トラキアの竜が、またレンスターの東にさざめいている。知らせを受けて彼は、寝る時間もなく飛び出して行った。
 私は、二人の子供を『勇者の槍』亭に預けていった。
「大変なことだね、隊長さんも」
と、女将はため息まじりに言った。
「なんでもなければいいね」
「ほんとうに。
 あの、女将さん」
「なに?」
「子供たちをよろしく、お願いします。
 私も、出なければ行けません」
「出る?」
女将は、とても洞察ふかそうな瞳で私を見た。だが、すぐ笑顔になる。
「わかったよ、いっといで。子供達は私が預かった。きっと迎えに来なきゃいけないよ」
「有り難うございます」
私は、『勇者の槍』亭を飛び出した。

 それは、彼につげてあった旅立ちの日の、ほんの一日前の事。
 でも、私は一日早く、レンスターを後にした。
 …どうしてそうしたか、…私には言えない。
 準備を終え、外に出た時には、真夜中を過ぎて、朝を待つ方が早い時間になっていた。
 それでも、彼は帰ってこなかった。彼は追撃はしない人なのに。

 日の出の直前だった。
 こえればトラキアという山脈の稜線が、ぼんやりと色をわけるようにあらわれる。
 それまで、限り無く黒かった夜空は、星の光を逐い落としながら、鮮やかにその青みをましてくる。
 馬をすすめた。西の地平線に、昨日の太陽の光を残したようなイード砂漠の砂の色が見えた。
 空を見上げた。明け切らない夜明けの空が、言葉を失うぐらい、青くて、きれいだった。

 彼の瞳の色に、よく似ていた。

 
夜明けの青 をはり