城の中はしんと静まっている。その中に、瓏々と彼の声が通る。その響きが体に染み渡る快さを長く味わっていたくて、私は彼になにか話をするように求め続けた。
 彼は、私の求めに応じるままに、身の上を語ってくれた。
 レンスターの旧家に生まれ、早くに両親をなくし、キュアン様のもとで騎士を志すようになり…
「初めて与えられた使命、それが、グランベルへの遠征でした」
「そう」
「そして、アグストリアへの遠征…私は、そこで、初めて王女をお見受けしたのです。覚えておいででしょうか」
 彼の話を言い直すと、こんな感じらしい。
 ノディオンの攻防時、彼はまだ一介の従騎士で、「運よく」従軍を許可されたからには、足手まといにならぬよう、戦いと戦いの間のわずかな休息でさえも、己の鍛練に費やさなければならないと躍起になっていたらしい。彼はそんなことをいうが、彼の先天的な槍の才能は、この当時を回想するキュアン様に、ひとしきり唸らせるものがあった。現にその当時から、彼の槍の相手を出来るのはキュアン様だけで、私がその教錬の場をエスリン様と通りかかったときも、そうだった。
「キュアン、またけいこをしているの? あの子へとへとになっちゃうわよ」
「うむ…」
キュアン様は、そのまま教錬を終りにするようだったが、彼はそれを止めた。
「いえ、キュアン様、私は、己の力量というものをわきまえているつもりでございます。今のままでは、きっと、お方々の足手まといともなりましょう! なにとぞ、今しばらく」
「いや、戦いと戦いの間は休んで、体力を温存するべきだ」
「ですが」
「大丈夫だ。お前は十分役に立っている。私も信頼しているのだ」
「は」
まだ彼は腑に落ちなかったが、キュアン様たちは、とうに建物のなかに入っている。エスリン様は、夫君の導きに連れられて、私を取り残した。
「私も、キュアン様のおっしゃるとおりだと思います」
私は、彼に、そう言ったらしい。
「あの様に、ご自分の家臣を大事に思って下さるなんて」
「…!」
彼はとっさに、私が兄のことを始終憂えていることを悟ったとか。自分が、自分の主人となれている姿が、私に、兄とその主人との確執を思わせて、気苦労の種になりはしないかと、反射的に思ったらしい。
「申し訳ありません。王女は… 兄上が」
「お兄様のご主人が、キュアン様みたいな方だったら、どんなにか」
その時の彼の思惑は、きっと当たっている。キュアン様は、各々のワタクシを投げ出して仕える家臣達(彼だけに限らない)に、見合った敬意と待遇をもって接していたと見え、実際、エスリン様はそれを承知の上で、夫君を評価している。私は、それだけ言うに言って、さっさと建物に消えて行ってしまったそうだ。
 とにかく、私は泣いているようにもみえたという。

 言い訳でしかないような気がしないでもないが、その頃私は、兄が囚われ、城までも陥落寸前になったことに対して、消耗仕切っていたと思う。
「そんなことがあったの…ごめんなさい、わたし、覚えてないわ」
私は、寝台の上でつくねんとうずくまっていた。
 前にそんなことを言っていた自分が、今は兄について、一体一日のどれくらい思っているだろう。ただ前そうしていた徒然のあいだ、私には見つめるべきものがあって、それは窓からの、強烈な太陽を背負っている。
「ここに帰ってきてからも、さまざまにありましたが、貴女がであって来られたご苦労に比べれば、どうということもございません」
窓の光を避けて、彼は私に近付いてきた。
「申し開きのしようもありません。本来なら、私が、何があっても出向くべきでした」
「いいのよ。トラキアやフリージのことを考えると、あなたがこういうことになっているかもしれないってことは、覚悟してたもの」
私は、寝台から手招きをして、彼をその縁にすわらせた。
「自分を責めてどうするのよ。こんな時なんだもの」
「…」
「それより、私を怒らないの?」
「え?」
彼は、呆然と私を見た。
「どこで誰が、私に気がついてもおかしくないのに、私はここまで来た。今までの、どんなことよりも無茶なことをしたのよ」
「王女」
「…あなたのために」
「私のために?」
彼の瞳の中に、光が灯るようだった。でも、まだ、何かが、彼の感情に絡んでいるようで、精彩はない。
「そうよ」
「…もったいのうございます。そうおっしゃっていただけるとは」
「お世辞に思えるの?」
「いえ、」
私は、彼の手を私の頬に押し当てた。誰よりも「私」を知る、大きな、槍の柄に硬くなった手のひらが、少し震えていた。それが、大きく震えて、私を包んできた。
「どうしてこんな無茶をなさるんです。わずかなりとも知らせていただければ、私が、何があってもお側に参りましたのに!」
「だってあなたに会いたかったんだもの」
今自分を飾って何になる。
「どこにいても、何をしても、兄様を思った日がなくても、あなたを思わなかった日はなかったもの!」
「…」
彼の細く吐く息が震えていた。私は彼の顔は見ないことにした。

 彼はひとしきり忍び泣いた後は、数日の疲労と緊張がとけたものか、私の手を握り締めたまま前後なく眠ってしまった。
 その寝姿といえば、寝台の上で手足を折り曲げて、これ以上はできない程に丸まるのだ。それをつくづく眺め見て、私はつい笑っていた。その姿と寝顔の、なんとまあデルムッドにそっくりなことか。私は、私が処女生誕をしたわけでないことを再び痛感し、喜びすら感じていた。
 ティルナノグにいる間、デルムッドにずっとそうしてきたように、丸くなる相手の頭を胸のあたりに包むように横になった。
 私は彼の元に帰ってきて、彼は私の元に帰ってきた。
 これ以上の一体何が、幸せというのだろう。

 浅くまどろみながら、窓の外の太陽の勢いが弱くなっているのを感じていた。私の手から、彼の指がすり抜ける感覚がした。
 斜めになっていた身体を抱き上げて、まっすぐ直すようだったが、私は彼の首に手を回して、離さない。軽い眠気が媚薬のようだった。くすくすと笑いながら、眠っているあいだに着崩れた服の胸のあたりに彼の頭を押さえる。
「あ、あ、あの」
彼はこもった声を上げた。そして、私の手を振り払って、薄暗いなかで私の顔を見つめる彼の表情は、眠れる獣を召喚するときのような匂いがした。
「…今、灯りを持って参りますので」

 部屋に明かりがともされる。眩しからず暗からず、私は自分の胸が自然と高鳴ってくるのをおさえられずにいた。
 それでも、明かりの来る間に眠ってしまったふりをしていると、さわ、と気配がかぶさってくる。気配を辿り、見つけた彼の服のそでをにぎり、あとは…久しぶりに私達に訪れた時間の、進み行くままにまかせた。

 寝入ったのは朝方のことだったと思う。私は、かたわらで彼が勢いよく跳ね起きる気配で目を覚ました。
「リーフ様をお迎えに上がることをすっかり忘れていました」
彼は昨晩押しやったままになっている服のしわを払い伸ばしながら引っかけるように着る。私も、取りも直さず手近の服をつかんで、彼の服の襟を整えながら、
「そういえば、荷物がまだ宿に預けたままなの」
と、気がついたことを口にした。
「一緒に受け取って参ります」
と彼がいったとき、扉をたたく音がして、聞いた覚えのある声がした。
『隊長、「勇者の槍」亭の女将が、王子を連れて参りました』
『え?』
彼は呆然と、扉を見た。
「どうしたの?」
「リーフ様が戻っていらしたそうです」
彼は軽く退室の礼をして、扉の外に消えた。
『それとメイド長がお二人の食事のことを心配しておりましたが』
『私は王子にお目通りした後いつものように食べる。王女にはしかるべく身支度を整えいただいてから恥ずかしくないものをお出しするように』
消えてゆく彼の、私には聞きなれないレンスター語の響きを聞きながら、私はやっと落ち着きを取り戻した。落ち着いたとたんに、下半身がくたっとして、寝台の縁に、尻餅をつくように座り込んでしまった。覚えがある。セイレーンで、眠りにつく暇もなかった朝に、よくこんなことが起きた。私はついくす、と笑い、それから吸った息を吐くだけの間大いに笑った。

 レンスターでの、新しい生活が始まった。
 私は、キュアン様のお母上・アルフィオナ様から愛用のお部屋を譲られた。私は最初、そのお計らいに戸惑ったが、アルフィオナ様はすでに御実家でお暮らしになって、私が暮らす分に何の不都合もないとおっしゃる。
 リーフ様も私に懐いて下さる。時々、私を本当のおかあさまと勘違い為さっている節があるようなのが、気掛かりと言えば気掛かりだ。イザークに残してきたデルムッドは元気でいるだろうかと時々考えて、涙が落ちるときもある。
  彼は、レンスターの唯一にして頑強な砦として、大勢の竜からレンスターの城下町を守っていた。事実上、彼の腕一本に城下町の命運がかかっていると言うことは奇跡のようだった。私の知らない場所で、彼も少しずつ変わっていたのだ。私も、名前で許されたマスターナイト称号ではない、できるだけ彼のそばにいて、トラキアの竜から町を守り続けた。戦のない時はない時で、私達はそれなりに、穏やかに、絆を確かめ、深めていった。

 そして。
 私の腕の中には、小さなナンナが眠っている。
 私がレンスターに来て、ちょうど1年程経っていた。その時間が、彼と私とに、こんなに小さくて愛らしくてかなしくなるものをさずけてくれた。
 「ねぇ」
庭の日溜まりで特に何も話すことなくいた時に、彼に声をかけてみた。
「ナンナの瞳の色はあなたに似た方が、もっと可愛いのでは無いかしら」
「は、はい」
彼は一瞬の間をおいてから、思い立ったように答えた。この子が生まれた日にも、トラキアの部隊がやってきて、私はやっぱり、出産の間に手を握ってもらうことすらできなかった。
 まだ彼は、ナンナが本当に自分の娘なのか、実感が湧かないらしい。あごの線やまだ薄いけれど眉の形も、私が見れば本当に良く似ている。もうすこし注文をつければ、この子にも、レンスターの澄んだ空のような、真っ青な瞳をもって欲しかった。
 彼はナンナの顔をしばらく見た。そして言った。
「…デルムッドがここにいなくて、お寂しくはありませんか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「いえ」
特に理由はありませんが。彼はそういい差してから、
「寂しいのは、私の方かも知れません」
と、意外なことを言った。
「海を渡れば、彼のいるイザークなど、一日の旅ですむというのに」
確かに、ここにデルムッドがいさえすれば、この上のないことなのだろう。
「なんのかのと理由をつけて、この場所にとらわれている自分が、時に情けなくなります」
彼は拳をきゆっと握った。人間らしかった。
「ですが、いつか王女がお話して下さったことが、どうしても引っ掛かります」
「何を話したかしら、私」
「ヘズルの血統のことです。
 行方不明になっておられるアレス王子が最悪そのままになってしまわれれば、ヘズルの血脈を継ぐのは貴女とデルムッド、そしてこのナンナだけになってしまいます」
「…当局の追捕がある限り、私達はまとまってはいられないって、ことよね」
「はい」
ナンナが、話に加わりたいように身じろいだ。
「…オイフェ達を信じましょうよ」
それ以上は話したくなかった。
『ね、お父様』
『え』
覚えたてのレンスター語が場をふわりと浮かせた。
「いつか絶対に、二人であの子を迎えに行きましょ」
「…はい」

 封印が、解かれた。
 気がつかなかった。
 彼の心が、私の封印を解いたなんて。