「海が近いのですね?」
シルヴィアに導かれて、クロード神父が話の輪に加わった。
あの火の海の中、奇跡的に生き残った数少ない一人だった。ただ、天使が羽を落としたようと讃えられたそのお姿から、視力もなくし、焼けただれた髪を切り落とし、全くの青年の格好をするそのお姿からは、やがて衰微してゆくであろうエッダ教の最高権力者だとは誰も察する余地はない。
主は神父の問いかけに答えた。
「すぐ向こうに(と彼は東を指した)岬があって、ミレトスの街が一望できます」
「ねえねえ、あのお城は?」
ところがシルヴィアはあさっての方向を見て、はるか西に見える白亜の殿堂を見ていた。精悍そうなたたずまいだ。
シルヴィアの問いには、主が答えるより先に、エーディンが口を開いた。
「あら、シアルフィがこんなにきれいに見える場所なのね」
「!」
シグルド様の面影が、一様に思い出されていたと思う。その言葉から、一瞬に何かのイメージを膨らましたようで、さすがのシルヴィアも、神妙な顔をした。
「この辺りにも、よく遠乗りで連れてきてもらいましたわ。岬にまで行って、ミレトスの街を見ながら、いつかあそこで銀のティアラを誂えてくれる、なんて言葉をだいぶ後まで半ば本気で信じていました」
「本当になれば、こんなことにはならなかったのだろうけれど」
ブリギッドの言葉は、今の私たちには重い戯れ言だった。でも、それを口に出せるこの女性は、私が考えるよりも、はるかに芯が強いのだと、思う。
「それじゃ、ユングヴィも近いんだね」
「お姉様」
一緒に帰ろうといったのに、かなえられなくてご免なさい。そんなことをエーディンは言って、ブリギッドは
「安心しな、あんな御時世だったもの。あてにはしていないさ。
それより、そんなに思い詰めていると、体に悪いよ」
と言い、妹の目立ち始めたお腹を愛しそうに撫でた。身重であっても、そのあえかさにかわりのない姿を、ジャムカ様もすっと見守っていたかったろうに、このあらわれた小さい命を残して、非運にも、劫火に焼かれてしまった。
「ブリギッド、それより、これからの身の振り方を決めなければ。いつまでも主人に世話になっているのではないだろう?」
そばで、二人の様子を見守っていた剣士がやっと口を開いた。オードの血を隠し持つ剣士ホリン。あの地獄は、彼からも才能を奪っていた。メティオの直撃を受け、真っ黒に焼け焦げたホリンの利き腕は、手当のかいあって切断は免れたものの、もう二度と剣を持てないらしい。しかし本人は飄々と、手は二本ある、と言い、逆腕で剣をとる修行を始めている。私も何度か練習台になったが、逆腕であっても、所詮貴族の剣法は相手にならない。
とにかく、ブリギッドは、面々をぐるりと見回した。そこで、ホリンは、探るような言葉を出す。
「そうだね。こんなに大勢でいれば、いつかはわかってしまう」
「…考えていたのだが、」
ホリンは、商隊の用心棒としてこのまま雇われたいそうだ。
「あたしも一緒にいていい?」
名案だったようだ。ブリギットは目を細めて夫の目を見た。まるで長年連れ添った夫婦のように、気心の知れたそぶりだった。
「俺は一行に構いませんぜ」
主が口をはさむ。
「どうだい、そこのお嬢ちゃんたちも、どうせ行く当てはないんだろう」
そして彼は、少し離れて耳打ちあっていたシルヴィアたちに声をかけた。クロード神父が、声の聞こえた方向を探るように顔をあげ、
「ダーナの方角には行かれますか?」
といった。
「行きますぜ。俺たちは世界中を回っているんだから、いかない場所なんてありゃしませんよ」
「どうしてダーナなの? 神父様」
「聖戦士の砦のあった場所ですよ。機会があるのなら、そんな聖地をゆっくり巡礼してみたいと思っていたのですよ」
「なにも見えないのに?」
「シルヴィア、見ることは万能ではないのですよ」
「神父様のお話しはつまらないよお」
シルヴィアはいつも明るい。彼女には悪いがその大雑把な明るさが、バーハラの地獄を潜り抜け心身消耗していた私たちには、真夏の太陽のように刺激は強かったが、失っていた自分を取り戻す大きい助けになっていた。そんな彼女も母親とは、知らない人が見たらすぐには信じないだろう。だが現に馬車の中で眠っている小さなリーンは、誰かの口ずさむ歌に合わせて身体を揺らす、そんな子供だ。とにかく。
「ダーナか…何だ、結局このまま一緒にいることになるんですかい」
主は目を丸くした。
「エーディンはどうするの」
ブリギッドに水を向けられて、思案顔のエーディンはは、と顔をあげた。
「もう一度、ヴェルダンに行きたいの。出来れば、その前に、イザークにレスターを迎えに行って」
「無茶はしないで。もうすぐ子供が生まれるっていうのに」
「ヴェルダンは今、王家を失って治安が極端に悪化しつつある。ジャムカの祖国でレスターを育てたい君の気持ちはわかるが、そんな格好で、ここでわかれて一人旅は無茶だ」
「…」
エーディンはまた思案顔をした。
「では、イザークまで同行致します。他の子供たちも、そこにいるのでしょう? オイフェとシャナン王子だけでは心もとないですわね」
彼女はイザークで、子供たちの成長を見守るというのだ。美しいが苦しい決心だろう。
ホリンは「イザークか」、と遠い目をした。始まったばかりの旅の中で聞いた話には、イザークはホリンの故郷でもあるという。アイラを本家とすれば分家の出身なんだと言う。ただ、アグストリアの商人生まれの母親が早くにイザークから出てしまったために、故郷と言うほどに思い入れはないそうだ。
とはいえ、ブリギッドと、元手下という主の会話に、興味深そうに耳を傾けているあたり、腕利きの剣士の他に持つ、もう半分の商人の血が騒ぐのだろう。
着々と、周りが進路について相談をまとめてゆく中で、私はぽつりと取り残されたように、それぞれの言い分を聞いていた。そこで
「ねえ、それじゃ姫様はどうするの?」
突然、シルヴィアに聞かれて、私は戸惑った。
目の前で片付けられていることを望んでいる問題は、単純だがそれぞれが険しい山のようだ。
何よりもまず、私はイザークに向って、デルムッドを迎えに行かなければならない。
しかし、迎えに行ってどうしよう。彼の行く先は、漠然とイザークと言うほかには何も知らず…私はそこより他に行くあてがないのだ。
お姉様とアレスの行方を、今の私には到底、知るすべもない。お姉様の御実家は、バーハラでの粛正が行われて間もなく、トラキア半島本部に進出したフリージ家をさけるように、とうに一族が離散していったあとだと聞いた。
私は、その二人の行方も探さなければならない…私の旅の荷物の底には、シルベール砦を守っていた兵士からあずかった、何通かの手紙が眠っている。
「私…私は…」
我が身のあまりの寄る辺なさにうちひしがれそうになったとき、ホリンの声が、私を我に帰らせた。
「悩む必要はない。君の行く先は決まっているはずだ。そうだろう?」
全員がそれで納得した顔をしているので、私は圧倒された。
「え?」
「私、あなたは最初から、レンスターに行くつもりだと思っていたわ」
とエーディンがいう。
「あの場所には、あなたを待っている人がいるじゃない」
そうだ。私はデルムッドを処女生誕したわけではないのだ。でもその父親たる男は、今はここにはいない。その彼が、何故そこにいるのか、私なりによく理解しているつもりだ。
大きいよりどころを失って、フリージとトラキアに脅かされ、あの国は私を喜んで受け入れてくれる余地などないだろう。
「多分、私が行ったら、お荷物が増えるだけなのよ…ブリギッド、エーディン、私もイザークに行くのは駄目?」
「駄目だよ」
きっぱりと言ったのはブリギッドだった。
「気持ちは分かるけど、最悪の場合を考えるの。アレスが見つからない場合、もうヘズルの血を持つのはあんたとあんたの子供だけになる。あんたがデルムッドと一緒にイザークにいて、万が一手入れがあって二人とも死んでしまったら、ヘズルの血は絶えるんだ」
心を鬼にして、デルムッドとは離れていたほうがいい。ブリギッドはそう言った。
「あまり胸を張るような話ではないけれど、デルムッドに万が一のことがあってもあんたがいれば、ふたたびヘズルの血が続いていく可能性は残されて行くってことさ。逆もまたしかり。
なにか、言い返すことはある?」
「…」
「よし決まり。いずれにしても、また暫くはみんな一緒なんだね」
言い返す言葉を探っているうちに、ブリギッドはあっさり言った。
商人の一行は、ミレトスを東に横断し、トラキア半島の西を北上する。その間の街という街に立ちよっては、商売をしていた。治安についての情報はいよいよ芳しくない。アルヴィスによる全土統一も、おそらく時間の問題なのだろう。
市場の中に店をだし、かわるがわるにその番をする。シルヴィアは店を広げる横で踊り、小銭を稼いでいるようだった。
「私の目を直したいそうです」
クロード神父が切なそうにいった。その胸で、シルヴィアによく似たリーンがおとなしく眠っている。
「無理ですよ。あの時収容された教会の医師に、眼球が焼けていると診断されました。でも私はそれをいいません。それを言ってしまったら、彼女は生きる希望をなくしてしまいそうで…」
彼はリーンをあやしながら、落とすように言った。
「山を超えると、いよいよダーナの街に入るそうです。教会の一つでもあるでしょう。この子と、彼女と…、墓守でもしましょうか」
「そんな。神父様ならきっと誰かが気がついて下さいます」
私が、いつになく投げやりな彼に当惑して返すと、かれはかぶりを振った。
「気がついていながらそれを避けるための努力が足りなかった、これは私が一生かかって乗り越えるべき試練です」
結局、ダーナの街で、クロード神父とシルヴィアは去っていった。世間慣れしているシルヴィアのことだから、きっとうまくしていけるだろう、と、ブリギットが言った。そんな彼女も、いよいよ二人目を身ごもったらしい、時々辛そうだ。それを心配するエーディンはといえば、主の言葉を借りると「いつ破裂してもおかしくない」のだが。
ダーナの町で、シルヴィアたちを見送った私たちに、周辺を回ってきた主が泡を食った風にいう。
「レンスターの城下町に、バーハラのフリージ公爵家がいよいよ侵攻を始めているそうです。あそこはもともと、南にあるトラキア王国にも何度となく狙われていたんですが…
それにしても、良く耐えていますよ。前門の虎、とかいうことでしょうに」
みんなが一斉に、私の顔をみた。それぐらい、私の顔は驚きに歪んでいたのだろう。主が訳知りたそうな顔をした。だが、ブリギッドが、適当に言い濁した。
「で、それに対するレンスター当局の動きはどうなんだい」
「レンスター以外の全ての城と城下町を占拠されたようで。かろうじて、王都レンスターだけは、守り抜いたとか。ランスリッターてのは強いんですね」
「へえ、でも、ランスリッターといえば王太子の直属部隊じゃないか。でもバーハラの戦いで王太子と后もろとも砂漠に消えたはずだ」
「なんでも、留守を任された中に、滅茶苦茶腕の立つのがいるそうで、結局フリージもトラキアも手が出せなかったそうですよ」
「へえ」
「砂漠のこと」にも、全く人事のように答えて、(…そこが町の往来だったからかもしれない)でも最後に、彼女は私に片目をつむった。
「それで、これからの進路は?」
「なんにせよ、複雑な事情のおありになる方々を抱えて、非常線を突破するとなると、いくら昔姐御に鍛えられたといっても首が寒くなりまさぁ」
「あたしはそんな悪事を働いた覚えはないけど」
私の問いに、主は首をすくめた。ブリギッドはそばで元手下の言葉を少し聞きとがめた様だ。
「おーこわ。それに、お妹さんがあんな状態じゃ、一刻も早くイザークに入るべきでしょう」
「それは確かにそうだね。確かに、あたしはあんたたちを多少はいろいろ危なっかしい目にあわせたよ。…うまくなんとかならないかい?」
主は、ブリギッドに肩をたたかれて、ややあってから、にんやりと笑った。
「しょうがねぇな…姐御のお願いとあっちゃあ…」
私達は、無事元イザーク王国はリボーの町に入ることができた。
当局の目を回避するために、昼間は行商人にみをやつす。
港町で店を広げる手伝いをしていて、私は何気なく、沖の方を見遣っていた。
海原にポッカリと、なにかの影が見える。
「あら、あんなところに島があったのかしら」
という私の言葉に、たまたま同じ方向を見ていたのだろう、隊商の一人が
「あれは島じゃないよ、レンスターの町だ」
と言った。
「海流に逆らって船を出すから、あそこからここまでたっぷり一晩以上はかかる。イードの悪魔に飲まれたくない物見遊山のお金持ちは、船を使ったりするね」
「そう…」
私は、その影をずっと見ていた。
明日も早いはずだ。私は、宿であてがわれた部屋の冷えた寝台に潜り込み、無理に眠ろうとした。だが、眠れない。
今の季節は風向きが悪いときいた。しかし、手をのばせば届きそうなところに、その場所はある。もどかしいけれど、どうにもならない。
所在なく、明かりをつけなおして周りを見巡らすと、枕上に手紙を起きっぱなしにしているのに気がついた。
あの村に救われて、彼のいない世界に今助け出されたところでなんとなるだろう、できれば自分もここからいなくなってしまいたい、そう思っていたころ手紙がとどいた。
こんな御時世に、と、最初はその言葉さえ疑った。だが、
『少年が死んだ、それが本当かどうかは姫さん、あんた自身の体に聞いて見ろ!』
この言葉が過った。ならば、私の体の中に聞いてみよう。私は手紙を受け取り、広げていた。
すぐに、足の先から震えが駆け抜けてゆく。
手紙はまず、自分の足が地についている理由を述べていた、そして、本来なら主人の供を無理を押してもするはずの所をそれができず、主人の死に目にもあえず、死出の旅の供を出来ない自分のいたらなさをつらつらとしたためてあった。
…バーハラの悲劇のことを人づてに聞いて、よもや貴女も、と思ったとたん、いいようのない寂しさが襲ってきて、しばらくは何の手もつかぬ有様でした。そこに、旅回りの商人が、生き残った方々のお手紙を携え訪ねて参りました。それによれば貴女は御健在で、デルムッドもまた無事イザークに落ちのびたよし、不心得ではありましょうが私には幸いでした。
人間は勝手なものです。主人を失い、心から哀悼の意をもちつつも、貴女が御健在と知ってからは、夜な夜なまぶたの裏に面影が浮かんで参ります。とはいえ、この混乱に乗じて世界がどう動こうとするのか誰にも予想の出来ない今、矮小な人間一人のささやかな望みは消え入るべき運命の様な気がしてなりません。
それでも私は切に願ってやまないのです。私が何をいわんとするかはお察しください。うまく言葉になりません。…
署名の、二つ重なったNのあたりに、ぽつんとにじんだ跡。
間違いない!
彼は生きているのだ!
だからなのだ。私が旅に加わろうと思ったのは。
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