「病が篤くなれば、いつもこんなふうに不安になるものらしいのだが、今度ばかりは長く国を留守にしてしまった。
トラキアの様子も少しおかしいらしい。
父上の紋章がおされた、正式な召還要請が来た」
「私が、兄上が心配だからって、ずっとキュアンにわがまま言い続けてきたの。
でも、それはもう通用しなさそうね」
「…私は、大丈夫だと、さっきから言っているだろう」
シグルド様の声はまだ、私がよく知っていたあの方の、キュアン様に負けないぐらい活気にあふれたものではない。
「やせ我慢するな。今だって平気で一日食べなかったり寝なかったりしてるじゃないか」
「そうよ。…自分でなんでも決定できるのは兄上のいいところだけれど、たまには人の言うことも聞いて」
「…」
「それで、君を呼んだのは他でもなく」
「ええ、わかります」
彼は、キュアン様と一緒に、レンスターに帰っていくのだ。私は、自分が不思議な程神妙に、それを咀嚼していた。
「出立は、いつになりますか?」
「…事態が事態だ、南回りは時間もかかるし物騒だ。
シレジア北をゆくことになる。海の氷がなくなるころだから…あと一月ぐらいの話になるだろう」
「寂しい思いをさせるわ。ごめんなさい。
グラーニェ様の御縁もあることだし、成るべく早く、あなたをレンスターにお招きできるようにしたいわ。
でも、今あなたが一緒にレンスターに行くことは、ちょっと」
「ええ、そうでしょう」
まだ、ほとぼりはさめたとは言いがたいのだ。私がヘズルの眷属として、ノディオンを背負ってレンスターに行くと言うことは、グランベルにとって脅威になりかねないのだ。
あの場所には、お姉様とアレスがいることがわかっている。その上に、私が行くことは、ヘズルの血がそこにあって、レンスターを背後に足掛かりに、新しく立ち上がろうとする動きに捕らえられかねないことなのだ。
形ばかりの王女の名前が、私の足を引く。ちらりと、彼を見た。彼は、心無しか、青ざめて見えた。
私はその名前を捨てたつもりだった。
ノディオンはおろか、アグストリアそのものが、シルベールでのてん末で、シャガールが処断されたことで崩壊したと思っていた。
でも、その亡霊が、私の背後には張り付いているのだ。
思い知らされた重さ。
彼をレンスターに戻すのは、エスリン様のお思いつきと聞いた。
「ごめんなさい。そうして欲しいと言ったのは、私なの。国を離れて2年以上、彼は本当に立派になったわ。リーフやアルテナの養育を彼に任せたくて」
そうおっしゃっていた。
彼は、エスリン様に対してあるいはキュアン様以上に一目置いている。一緒にやってきたほかのレンスター騎士の話では、国元のトーナメントで彼はずっと勝利をささげ続けたそうだ。そんな方のたっての頼みでは断わりきれないだろう。
その一方で、私は言葉を待っていた節がある。諾々と主君に従うだけの彼が、一転して私を伴うようにその場で主張してくれるだろうことを…物語なのかも知れないが。
とにかく、彼が一言、「一緒に来て欲しい」と言ってくれれば、私は、これまでの一切を初期化してレンスターに行くことも辞さない覚悟だった。でも、その言葉は出なかった。それをエスリン様に言うと、彼女は答えた。
「気後れしているんだわ。それともまだ自覚がないのかしら? 貴女みたいな素敵な人がいてくれることに」
「私が王女だったから、ですか?」
「今でもそうでしょう」
「機能していない国の王女の称号なんて、ないも同然なのに?」
「それでも彼は気にするのよ」
エスリン様はもっともそうな顔をした。
「…あの、差し出がましいお願いとは思いますが、『御命令』には、なりませんか?
情勢として、それが厳しいことは、私も分かります。
でも」
「…」
エスリン様はかぶりをふられた。
「キュアンからは、言えないわ。
だも、私がなんとか言ってみます…そうでないと、あなたが可哀想だもの」
今考えれば、彼は悩んでいたのだ。それをもっと早く悟るべきだった。
でも、出発の前夜になっても、彼の口からは、なにも返答はなく、私は、あの言葉欲しさに彼に聞いていた。
「どうしたいの?」
彼はやっぱり、なにも言わなかった。私は焦れたが、それ以上の催促はしなかった。
彼の腕の中は、いつもと変わらず暖かかった。
「目が覚めたらいなかったなんて、そんなことはなしにしてね?」
きれいに刈込まれた後ろ髪をなでながら、私は身に襲う予感と戦っていた。国を遂われ、後を断たれた私には、今しかない。
私は、ともすれば奈落に突き落とされそうになるところをしっかりと抱きとめて欲しくて、彼はそうしてくれた。
そして、目がさめた時、私は一人きりだった。
彼がいた空間はとうに冷えていた。
侍女がくる気配がして、私は身を起こした。侍女は私の問いに対して、
「出発は早朝でございました。眠っているなら無理にお起こしするなとおっしゃられて」
と答え、すぐ温かい朝食が運ばれてきたが、私は食べる気が起こらなかった。
全裸の上に簡単なものだけを羽織って、私は呆然とした。窓から見えるセイレーン中庭の雪は日の光に真っ白に輝くけれど、その光の一体何割が、今の私に届いているだろう。
寝台に突っ伏して、泣いてしまった。その時は本当に、それ限りだと思っていた。
そのまますごし夕方近くになって、起き出そうと思ったが、私の体は動かない。
猛烈な目眩、内臓がねじれるような悪寒。七転八倒の騒ぎの後、機微を心得ていそうな部屋付きの侍女がざっと私を診て、
「御懐妊かも知れません。おめでとうございます」
と言った。
こんな皮肉があっていいものなのだろうか。
私に、典医を連れてきたくれたのはフュリーだった。なんとなれば、セイレーン城は彼女の庭である。シレジアの四天馬騎士は、一人一人が、シレジアの四つの城の守護隊長でもある。彼女の預かっていたセイレーンは、前シレジア王夫妻のワタクシの居城(一切のオオヤケはシレジア城で処理される)であり、フュリーは、シレジア城を守護する姉の天馬騎士マーニャ共々、彼らには娘同然の寵愛を得ていたという話しである。いきおい、彼女は、セイレーン城では、われわれと先方との窓口として、特に言葉の面で奔走していた。レヴィンはそれを楽しそうに見ているだけだったが。
とにかく、医者の診察も、侍女がした物と大差なかった。陳腐な表現になるが、私の中に、彼が生き続けているのだ。…でも、素直には、喜べなかった。
「私、あの人に悪気があったとは思えませんわ」
医者を下がらせて、彼女はぽつりと言う。
「…教錬となればいつも一緒でしたから、王女様ほどではないにしても、彼の人となりは少しは理解しているつもりです。彼は真面目で、誠実で、…」
彼に悪気のないことは私にもわかっている。
「王女様を傷つけたくなくて、とうとう言い出せなかったのですわ。本当に、彼は王女を大切にしておりましたもの。王女様をそのままお連れしても、自分には相応しくないとそう思ったのですわ」
「それがわからないの。どうしてなにも言わずに行ってしまうの? それがあの人のやさしさなの?」
「王女様」
フュリーは実に申し訳なさそうな顔をしたが、申し訳ない思いなのは、彼女にあたってしまった私の方だ。でも私は、直りかけの傷をえぐられたような鈍い心の痛みと、まったく先の見当もつかない自分のからだのこれからに、憤りと不安をない混ぜにしてぶつける相手がほしかったのだ。
そして、シレジア王位継承に絡む内乱がぼっ発する。
失礼とは思うが、この内乱は、一時でも彼の事を考えずにすむ暇を与えてくれた。
戦いに出る前に、部隊が分けられて、私はベオウルフと同じ部隊に配属された。私に会うなり彼は、
「まだ腹は出ちゃないようだな。あたりまえか。」
と言った。そういう点で、この男は、彼よりは物知りだ。セイレーンで徒然にしている兵士たちに鬱憤の解消法を教えたのは、そのために兵士たちへの報酬を少し値上げするよう、シグルド様ややラーナ王妃に進言したのは誰あろうこの男なのだ。私としてはなんて野卑な、と鼻白んだ事はあったものの、結果として、客分である我々とセイレーン城下町の民との軋轢を減らしたという事実を認めることに吝かではない。
「しかし、あいつもでかしたもんだ。ついこの間まで、そんなことは知りません、なんて顔をしていたのに」
だが、もうちっといたわってやってもいいところなんだな。すこし知っているような顔で言う。
あまりにもかけ離れているが故にお互いを認めあう。あの喧嘩の当事者となって以来の彼とベオウルフの関係は、そんな様な感じだったらしい。私の知らないところで、彼等は沢山語り合っていた。
「ちょっと姫様には毒気の強い話も、ずいぶんしたな。あいつはまるでラテン語の講義でも受けている顔をして聞いてたが。
変なところで真面目な奴だった」
たしかに、そうだった。つい、ふ、と笑い声が漏れた。
「ほらな」
するとベオウルフはしてやったり、という顔をして笑った。
「そういう愛嬌がなきゃだめだ。草葉の陰で兄貴が泣くぜ」
「そうね」
「ああ、むかしマディノであった頃の、あの噛み付くような眼差しがなつかしいね」
「あら」
はじめて家をひとりで出た日、見兼ねて救ってくれたのがこのベオウルフだった。
アグストリアとの繋がりを断たれた私には、兄と言う人間の思いでを語り合える数少ない人間の一人でもある。彼は私を盛り上げようとしている。私は、それに応えるつもりでいた。
「そうね。ありがとう」
「よっしゃ、わかったんなら出撃準備だ。あいつ程は役に立たねえかも知れねえが、まあかんべんしてくれ」
回復頼むぜ。彼はそう言った。
戦いの間は、少なくとも、襲う悪寒に震えることはなかったが、夜の帳が降りて、一時休戦となると、気にならなかった間溜まっていたものが一気にやってくる。救護の天幕の辺りにいくと、兵士達の血の匂いが堪らなかった。
「食えるかい?」
私の眠っている天幕にベオウルフはやってきた。手には簡単な食事が乗っている。だが、戦の匂いの全てが今の私には拷問のようだった。
「ライブは効かねえ領分だからな、こればっかりは我慢してもらわにゃ」
私はけだるい気持ちで起き上がった。ベオウルフには、その時の私が、機嫌の悪いように見えたらしい。
「かってにここまで来たことなら、すまねぇ。ただ、俺は、『あんたを守ってくれ』って頼まれたからな、そのために、大将(シグルド様のことらしい)にたのみこんで、部署まで一緒にしてもらった」
「私を守れって…兄様に?」
「いや、あいつに」
ここであんたになにかあったら、俺はあわせる顔がない、と、続けた。
「あいつ、あんたには、なにも言わなかったらしいな」
「ええ」
「国に帰るって事を言ったとしたら、あんたがいかに悲しい顔をするだろうと思うと、言えなくなるってさ、言ってたよ。一緒についてきてもらうにしても、あんたみたいな育ちのいい姫様にうだつの上がらない生活で苦労をさせるわけにもいかねえって」
「そんなこと、わからないのに。考えられるだけの不幸せと、同じだけの幸せが待っていたかもしれないのに」
「俺も言ったさ。先のことはわからないって。でもあいつにゃ悲観主義の気があるのか、そう大船に乗っている気分ではいられねえって」
どこまで固い野郎だ。かれはそんなことを言った。
「一度言ってやったよ。まさかおまえ、夜もそんな調子じゃねーだろーなって。図星をさされたようだったがな。それでもあんたがボテレンてことぁ、モノの役にはたったらしいがな」
たしかに、彼の口はそういう甘い言葉を出す様には出来ていなかったらしい。そんなことは聞いていない。
「そんなこっちゃ駄目だ。ひとこと「Je te voux」って言やあそれ以上のクスリはないって」
でもあいつは、いいかげんアグストリア語の発音は最悪だったな。
私は、ベオウルフが、必死に私の機嫌をとろうとしているのかがわかった。いつの間にか笑っていた。
「Je te voux」。「お前が欲しい」。そんな気の聞いた台詞、言えた彼ではない。
私は、動けなくなるまで動いた。
シグルド様はグランベルへの帰還を御決心された。その御英断に従おうと、みんなで決心しあった。
寝台の上で、私は身動きも満足にとれない。手足はそれまでと、ほとんど変わりがないのに、お腹だけが自己主張するように大きくなっていて、何週間もしない内に、ここから子供がうまれてくると言うのだ。
「…」
いつか、アレスをうまれる間際の、お姉様のお顔を思い出した。いったいどこをどうすれば、あのような笑顔を、私もできると言うのだろう。なにか一言あってしかるべき彼は、半年以上前突然いなくなったきり、なんの音沙汰もない。
「…あなたのお父様って…」
呟くと、ぐるり、と、その中が動いた。まるで、愚痴を言うなと言うように。
「はいはい、わかりましたとも」
出産が終われば、すぐリューベックに移動することになっていた。その時期がいつになるか、指を数えていた時…
目の前に渡されたのは、私の元につくまでの間、多くの人々の間を右往左往した手紙だった。
けば立ちかけた封筒をあけると、見慣れた端正な文字が、つづられている。
…ラーナ様より直々に新書をいただきました。私の不調法をいささかも責められることもなく、親となる私を祝福下さいました。
この度の御懐妊、王女には無上の慶事ではありながら、私のことと考えると面映くもあります。主君の言うことには、そうとわかっていれば、私をその場に残してもしかるべきだったとのことですが、どちらも大事な私は、シレジアとレンスター、二つの土地に一つずつ、からだが欲しいところです。
どうか、御身を大切に為さって、よい御出産をお迎えされますように。きっとお兄上とお母上様がお守り下さいましょう。私も僭越ながら、遠い空の下より、無事をお祈りいたします。
追伸:エスリン様がこの手紙を御覧になって、父親は子供に名前を贈るものだとおっしゃられました。男児であれば「デルムッド」とお名付けいただければ幸いです。私の家で代々使われてきた名で、古の名騎士にあやかった佳名と、手前勝手に存じております…
読み終わるのを待ちもしないで、私は潤んでくる目をとめられなかった。手紙を抱き締めていた。
それから間もなくして、…デルムッドがやってきた。
彼と同じ、夜明けの青の瞳を持って。
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