「そして君を探しに行く」第2部
夜明けの青


 早く、アグスティに帰ろう。

 朝の冷たい風は、私を急に、夢から呼び覚ましたようだった。
 我にかえって身を竦めた時、もう空は、あの深い青を日の光の裏に隠して、人々の動き出すのを待つばかりになっている。
 これからの時間、私はどう過ごそう。そんなことを漠然と考えていた。
 ただ覚悟していたのは、ただ泣いているだけの時間にはしたくないと言うことで、…数時間前、身と心に刻まれたものを思い返しながら…その遺志に添い報いるように、歩かなければいけないのかもしれない、そんなことを考えていた。

 改めて四方を見巡らして、私は、一つの場所に目が釘付けになった。
 砦のわきの木立に、見なれた人陰が一つ。私は駆け出していた。
 でも、彼の方が先に、私に気がついていた。数歩前で立ち止まった私に、うやうやしく片膝をつく。馬のサブリナが、私を見つけたのか、嬉しそうに息を震わせた。
「よく御無事で…お戻りになりました」
「あなたなぜ、こんなところにいるの。帰って大丈夫って、あれほど言ったじゃない」
「…おそれながら、事は最悪の事態もつねに考えよと、主君よりの言葉があります」
立ち上がり、枝にからめてあった馬のつなをほどきながら、彼はたんたんと口を開いた。
「もし、王女の説得空しい時は…アグスティとシルベールは全面戦争になりましょう。かくのごとき戦場で、王女お一人にさせることは許されません」
「それで、待っていたの?」
「はい」
私は、その場所から動けなかった。彼は、準備の手をとめて私に近付いてきた。
「どうされました、王女?
 戻りましょう。早く陛下とのお話をシグルド様に伝えなければ」
「…あなた…」
「はい」
「何も言わないの? 気がつかないの?」
彼の振る舞いが、あまりに淡々としているので、私はつい、こう尋ねてしまっていた。
「ただ停戦の話し合いをしていただけなのに、こんなに長い時間がかかって…
 私どこか、かわってしまっているでしょう? わからない?」
「…私は、王女の御様子には、別段変わりはなくお見受けしましたが」
「え?」
「…長い時間がかかったとは言え、時局を左右するお話、慎重に図られてしかるべきことではありませんか。
 結果がどうであれ、その時間を費やしただけの価値はあるはずです」
私は、伏せていた顔をあげた。
 私を見ていたのは、夜明けの数分、空を覆うあの青。いつも私をおいてきぼりにしてゆく青が…私の前に留まって、二つの衒いない瞳になって、私を見つめている。
 人間にも、こんな青を持つことができるんだ。
 …こんなに、優しいまなざしになれるんだ。
「勘ぐったり、しないの?」
「何をでしょう」
「何をって…」
気がつかない振りをしているのか、本当に気がついていないのか、その時の私には、考える余裕もなかった。ただ言えるのは、目の前の彼は、時局が好転されることを、信じていると言うことだ。…私は、その期待を裏切ってしまっていると言うのに。

 「王女?いかがされました?」
その瞳が、不安そうな声を出した。私は、呆然と彼の目を見つめていたのだ。
「戻りましょう」
手を引かれた。私は、その手を拒むように、にじるように後ずさっていた。
 そのまま、帰れるわけがない。
 私には何もかえられなかった。戦局も、何も。すくいたい人の運命を、名前とは裏腹に変えることはできなかったのだから。
「…ごめんなさい…」
そのまま、泣き崩れていた。彼は、私の涙には何も言わなかった。何も言わずに、私をサブリナに乗せ、アグスティまでの道を、また歩くような速さで戻っていった。

 その日、私は、かねてよりシグルド様が指示くださったように、後営に下がった。
 大きい戦いはおこらず、私が報告したように、シルベールの中で停戦の奏上が行われ、…容れられぬまま処断が行われた報告を、夕方に聞いた。
 沈黙を、見ていられなかった。
 この軍が、こんなに静かだったのは、初めてだった。
「…シグルド様、申し訳ありません。
 私が、せめて停戦の奏上に付き従っていればこんなことには…」
軍議の席から、動かれぬシグルド様に、私はそう言っていた。私では結局、事態の収拾には役には立たぬ、肉親の情にほだされた挙げ句、いいように言い包められて戻ってくる。そんな穿った声があるとも、聞いている。
「…君は、できる最上の事をした。そうなんだろう?」
シグルド様の声が、地面を這うように聞こえてくる。
「…あいつの人となりは、私も良く分かっているつもりだ…遅かれ早かれ、こんな形になることを覚悟していたはずなのに…いざそうなると…何も言えないものだね」
「…」
私は、もう一度、「もうしわけありません」と、頭を下げた。

 軍議は、兄の弔い合戦の様相一色に染まった。熱く空しいその話し合いは、私には、暗に自分を責めているように聞こえたのだ。私は役立たずだったと、思い知らされるように思えた。
 その軍議が果てて、それぞれの場所に戻ろうとした時に、一瞬、彼の青い瞳と視線が合った。キュアン様と一緒に、行ってしまおうとする後ろ姿を、反射的に捕まえていた。
『みんな眠ってしまったら、私の部屋に来て』

 何故、彼にそんなことを「お願い」してしまったのか、しばらくは、自分でもわからなかった。
 自分のしたことは、結局実を結ばなかった。私でもどうにもならなかった、そもそも私に期待することが間違っていた。ほんの少しだったけれども、そんな思惑があることも、私は分かっている。
 …こんな結末になって、なによりその行動が報われなかったのは、彼なのではないかと思った。
 秋深い一晩、肩を露に濡らす程に私を待っていてくれたのに。私は何の結果も持帰れなかった。彼は私のこの体たらくを、どう思っているのだろう。
 それを聞きたかったのかも知れない。けれども。
 まんじりともしないままに、夜半過ぎて、彼が来た。
 青い瞳。暗がりの中にもそれが分かって、私は思わず、言っていた。
「お願い…わたしを…助けて」

 まだ、月は出ていた。昨日と同じはずの光が、アグスティ城の部屋には、大窓一杯に入ってくる。青い光に融けるようにして彼が眠っているのを、私はじっと見守っていた。
 あの優しい瞳からは、考えられない程、その腕は強かった。無我夢中に高ぶるままの自分を、どこにおさめるのも分からずに、がむしゃらに私の腕を押さえ付けてきた。かぶさってくるうなじに、彼の息を感じながら、しばらくののちには、私は、昨晩まで覚えていた優しい導きを忘れていた。
 この人は本当に、幸せな人だ。疑うことを知らないのだろうか、それとも?
 私とほとんど年がかわらないのに、たくさんの方々の間に立ち混じり、報われて愛されている。
 落ち着いてきて、いろいろと、前にあったことを思い出していた。
 穏やかそうなこの人が、私のために人と争ったりもした。この人にとって、私はそれ程の人間なのだ。
 私はそれに報いることはできるのだろうか。
 衒いない、悪意のない、…不器用でまっすぐな心。
 その心とまなざしとで、ずっと私を見守ってほしい。
 そんなことを感じはじめていた。

 その彼が、急に目を覚ました。
「!」
起き上がり方が余りにおもむろだったので、私は目を瞬いた。
「も、申し訳ありません。つい気を許して眠り込んでしまいました」
彼は寝台から転げるように起き上がって、身支度を整えはじめる。
「そんなに急がなくたっていいじゃない。まだ、夜明けには先があるのよ」
「いえ、ほんのしばらく、お話だけ伺うつもりでした。
 それが、こんなことに」
「…そんなことない。ありがとう。あなたがいてくれて助かったわ」
「…有り難うございます」
身支度を終わらせて、彼はあたふたと帰っていこうとする。
「ねぇ!」
それを呼び止めた。
「…また、話を聞いて」
「…」
戸口で立ち止まって、彼は、分かる程赤くなって、一礼の後、また走り出していった。

 本当は、その背中を引き止めたかったけれど。

 それから先、戦局は、私達に不利に傾く一方だった。
 ブラギの塔に神託をうかがいに向われたクロード神父を助け…気がついた時には、アグスティがグランベルからの軍勢に包囲され、私達はつかの間の拠点であったはずのマディノから動けなくなっていた。
 それを救ってくれたのはシレジア。
 建国以来気高く中立を謳う北のシレジアに、私達は雪と一緒に入っていった。

 シレジアでの一年。
 私は、あの時間を、神様が私達に血を残すために与えてくれた最後の凪の時間だと思っている。
 これまで、戦場の中で密やかに育まれていたそれぞれの思いが、シレジアの凪に誘われて大きく華開いた…口できれいに言うのは幾らでもできる。
 私達に貸し与えられたのは、王子の居城として今まで空になっていた支城セイレーン。ことラーナ王妃は、私の身の上を不憫に思し召されて、城の東翼の、一番眺めのいい部屋を用意して下さったと聞く。
 そこで営まれた生活と言えば…突き詰めていってしまえば、おのが恋人を他人に取り違えないだけましだったということも出来るぐらい、各人の寝台はその温もりを忘れる隙さえ与えられなかった。セイレーン城の使用人達も、恋人達に一つずつ部屋がわたるように中の調度を整えてくれるという気の回しようであり、私の部屋も、最初から二人で暮らせるようになっていたのだ。

 そのような中で、シグルド様だけは、じっと、お一人を守られた。セイレーンについてからしばらくは、シレジアに慣れることと、奥様の捜索とに徒然を感じる暇さえおありでなかったようで、その忙殺の中、ときおり笑顔が戻られるようにはなったものの、まだ、左右の言葉尻の奥様を感じ取ってはエスリンさまも手がおえないほどに暗く沈まれてしまうのである。
 こんな出来事があった。
 いちど、イザークから流れてきた雑技団がやってきたことがあった。シタールをかき鳴らして、吟遊詩人が謡い始めた段になって、場はすこしずつ冷え始めた。
 …灯火を掲げ尽くしても 眠りは訪れず 秋深き宮殿の庭に置く霜の白さにつけても 柔らかい布団のうちに 共に温めあいながらそれを愛でた人はいない…
古の王が、最愛の妻を失い嘆く様を切々に謡うものだった。
 …愛しい妻の幻は言う 覚えてますかしら あなた 星祭りの夜 変わり身の早い月をあてにせず 一年ごとに必ず廻る星の誓い…
あの方は、玉座のなかで、手で面を覆ってしまわれた。だれかが、その唄をやめるようにいいかけたが、あの方はそれを手で制し、一人で奥に入ってしまわれた。
…巣籠りの鳥が羽うち交すように 並び立つ樹の枝がお互いを支えるように 例え天裂け地割れるとも 私達は 永遠に 変わらない…
 でも私はその頃には、それを横目で見ながら、とれぬ体の浮くようなけだるさに、わからないように彼にもたれながら、「巣籠りの鳥が羽うち交」す時間が早く訪れる様にとなんとなく思っていた。

 セイレーンのけだるい生活は、彼と私の上にも同じように訪れていた。
 人のいるところでは、彼は全くと言っていい程、そのそぶりを見せない。焦れったい程に、私を王女として遇するし、食事すら、一緒にとることはほとんどない。
 それでも、私は、眠る段になって、部屋の扉が開く音を、心待ちにしているのだ。
 部屋に入る気配の後、明かりを遠ざける。
 私が眠っているのを確かめるように、ごく小さく囁くように呼び掛けてくれる。
「王女」
彼は私を、絶対に名前で呼ばない。国を遂われた私を、いつもそうやって呼ぶ。私はそれに答える代わりに身をいなし、かぶさるようなからだに腕を回すのだ。
 木立を縫って、月光が細く部屋の中にはいってくる。その光が枷をとくのだろう、彼のよく馴らされた獣はそこから、ようよう牙をむき始める。

 シレジアで春を迎え、再び冬を越し、二度目の春もそう遠くない頃には、城は新しい命の話で、もちきりになっていた。
 私は、シルヴィアが、彼女そっくりの娘を産んだと聞いて、その部屋を訪ねた。部屋には、先客のティルテュがいる。彼女も、ほんの一ヶ月くらい前に、男の子を産んだばかりだ。神父の姿が見えないと言ったら、明日早々に洗礼をすると、名前探しに一所懸命らしい。
「今ね、アーサーとこの子が将来結婚したら面白いのにねって、話をしていたの」
と、シルヴィアが言う。
「気が早いでしょ? まだこんな小さいのに」
ティルテュが笑った。
「あら、ティルテュだって、アーサーがうまれた時に言ってたでしょ、『ラクチェにどうかしら?』なんて。アイラすごく困ってたじゃない」
「ほらほら、二人とも」
そばでアゼルが笑いながら二人を制した。そして私に言う。
「今はひとり?」
「ええ。キュアン様がなにか大切な話があるといって」
「寂しいんじゃない?」
シルヴィアが言う。
「まさか、同じ城の中よ」
「それだってもさ。あたしなんか、神父様とまる一日会ってないわ」
「名前の件で?」
「そう」
「神父様の事だから、きっと凄くいい名前持ってきてくれると思うわよ」
とティルテュ。
「悔しいけどね、姪の名前が凄くきれいで、あれだけは参ったと思った」
母親は気に入らないけどね。彼女はくすくすくす、と笑う。
「そうだそうだ。姫様はまだなの?」
「まだ?」
「シルヴィアだめだよ。そんなこと突然聞いたら」
どういうこと?と聞き直した私に、笑うばかりで答えようとしない彼女らの変わりに、アゼルが言った。
「…君にね、まだ子供はできないのかなって」
「私に?」
「だって、仲がよさそうな割には、それらしいことは何もないし」
「ねえねえ、まさか、ほんとになんでもないなんこと、ないよね?」
「…」
「ほらほら、やっぱり困ってるじゃないか」
アゼルが呆れていた。そして、私にだけ聞こえる声で言う。
「どうしてなんだろうね。自分に子供ができると、周りもそうなんじゃないかって気になるらしいよ」
「そういうものなの?」
「僕は気にならないけど」
その時、城の小間使いが、私を呼んだ。

 私は、シグルド様と、キュアン様達がお話されている場所にとおされた。エスリン様が促すようなお顔をされる。
「…急な話なんだが…レンスターに、帰るようになりそうだ」