トラバントは、トラキア王として相応しい体裁で、捕虜達の手によってトラキア本城に返された。
そして、アルテナ様は、あの竜に乗って、セリス様の元にいらっしゃった。
セリス様やレヴィン様としばらく会談された後、アルテナ様がリーフ様の元にいらっしゃる。
「姉上!」
リーフ様は、その時だけ、相応なお顔に戻られた。アルテナ様は、レヴィン様の御指導で、ゲイボルグの力に触れられたようだ。
「リーフ、やっぱりお前は私のうでにはおさまらないのですね」
幼い頃の記憶を探るように、アルテナ様はリーフ様を抱き締められる。私はしばらくそっとしておいて差し上げることにした。
トラキアは、王トラバントの喪に服す意味での、数日の停戦に応じはしたものの、それ以上の停戦は、「逆に今ある敵を排除することが王への追善である」と主張、事態は、解放軍とトラキアの全面衝突がさけられなくなりつつあった。
「あなたは、何も自分を責めることはありません」
てん末をお聞きになったセリス様は、私にそうおっしゃった。
「僕は、起きたことに責任を持つと言いました。リーフの決断、あなたの行動、すべてが僕の前に帰します。
逆にあなたは、騎士として、すべきことにしました。オイフェが、あなたを見習うように、と言っています」
騎士の本懐を遂げたものとして、私の名声とか言うものは、いっそう、解放軍の中で高くなったらしい。そういうことを、煩わしいと思うのは、本当はすべきことではないのだろうが、本当に、私は、すべきことをしただけだ。
トラキアと静かに対峙した数日の間、アルテナ様はここに馴染むことに実に忙しそうにしていらした。
そして、ある深夜、私のもとにおいでになった。跳ね起きた私を、アルテナ様はやや驚いたように気遣いされながら、
「どうしてもあなたと話がしたくて」
と、おっしゃる。
「…リーフのこと、あれほどまっすぐに良い子になったのは、ひとえにあなたのおかげなのでしょうね」
私は、思いがけずお言葉をいただき、控えたまま言葉をうしなった。やっと、
「何もかも、いたらぬことばかりです」
と声が出せた。
「あなたの名前は聞いていました。その忠誠心、トラキアでも見習うべきものが多いと、評価にやぶさかでない人も多々おりました」
「勿体無い」
「まさか、その時は、私にこうして縁深い人とは、思いもしませんでしたけれど」
「…もうしわけありません」
私は、今になって、ひしひしと、我が身が情けなくなってきた。トラキアでも、王女という表立つ場が多いお身柄ならば、居場所を尋ね当て奪回することもできただろうに、私は目の前にばかり捕われていた。私に、もう少し、トラキアにふかく関わろうとする勇気があれば、この方が今のようになるまでを、…主君の変わりに見届けることもできたはず。
しかし、アルテナ様は、トラキア王女として生きて来られた日々には、何も悲しむことはなかった、と、そうおっしゃった。さもあらん、トラバントがいかに、この方を慈しんだかは、この軍に合流されてこの方のアルテナ様を見れば瞭然である。
アルテナ様は、しばらくして口を開かれた。
「トラキアとの間に、これ以上の流血を望まないことについて、セリス様と私は同じ意見です」
「トラキアは、本来我々が対するべき敵ではありません。できることなら、バーハラの手の内から脱する支援をし、ともにバーハラに立ち向かえぬものか、セリスさまはそう御考えのようです」
「私で良いのなら、そういうように、幾らでも働きかけはしましょうが…おそらく、トラキアは聞き入れないでしょう」
アルテナ様のお顔が、急に悲壮みを帯びられた。
「それが、トラキアの誇りです。
王を弑したほどのやからと、改めて和を講ずることは敗北より恥ずかしいことです」
「私達のしたことは、許されませんか」
「…」
アルテナ様は、複雑なお顔をされた。
「新しい歴史の礎となることと、割り切れるものばかりではありません」
「やはり」
「トラバントを失ったことについて、あなたを名指しして、その命を奪い、徹底交戦すべきという主張がありました。程度の差はあれ、もう他者の侵略を受けるのは堪えかねるとの、強行的な意見をすべて黙殺し、この数日の停戦を決定したのは、アリオーン…王子です。
ですが得られた時間はほんの数日…私は、これからは、慣れ親しんだトラキアに、弓引く人間になります…」
アルテナ様はそこまでおっしゃってから、しばらく、私と顔をあわせたくないように、視線を泳がせた。そして、ついて出たお言葉が
「私…兄上とは、戦えません」
だった。トラキア風の衣装の膝に、ぽつりと、涙が落ちる。
「兄上なら、トラバントにできなかったことができるでしょう」
「停戦…を、ですか」
「トラキアから、どんなそしりを受けてもかまいません、それが…今の私にできることだと、思いますから。ですが、兄上はもはやトラキア王…ただでさえ、他者の侵略と国王の死に直面している時に、こんな話は夢と断じられても仕方のないことでしょう」
「アルテナ様」
私は、アルテナ様の悲壮なお顔を見ているに忍びなかった。
「アリオーン王子も、アルテナ様と同じお心なのですか?」
アルテナ様は、ややあってから、うなずくだけで肯定された。
「貴女様は、我々には分からないトラキアをよく御存じです。
貴女様とアリオーン王子、お二人がトラキアの情勢を左右すると言っても過言ではありません。
血で血を洗う不毛な戦いか、手を取り合い、双方に同じき進む道を歩かれるか」
「ええ、そうでしょう。
でも」
呟くようなお声。
「そのために、さけられぬものであっても、私は彼とは戦いたくはない」
「…」
「ですがもう、私達の間には、決定的な異なる運命が渡されてあります。
今は…アリオーンをうつものが、私でないことを、ただ、祈るばかり」
アルテナ様は棟の前で手をあわされた。私は、そのとき、アルテナ様のお体に、淡く光るような高雅なたたずまいとともに一抹のデジャヴを見る。
「兄は、トラキアという国を主君に選んだ騎士…
騎士として、トラキア一流の武人として、あのひとはあのひとの道を歩むのだと、思います」
私は、アルテナ様のお顔を見ることしかできなかった。
そして、その数日と言うものは、実に静かだった。
事態と言えば、我々は、トラキア本城以外の拠点をすべて押さえた、事実上の包囲を続けている。
以前なら、偵察なのか訓練なのか、空には常に二三頭のの竜が飛んでいたものだ。その竜の姿を、見なくなった。
「おそらく、トラキア全軍に結集の命令が下ったのだろう。近いうちに、なにかあるかも知れないぞ」
軍議の席で、レヴィン様がそうおっしゃった。
「トラキアの民は、みな進んで兵になる」
と、ハンニバル将軍。主だったものが参加する中、アルテナ様は欠席された。
「今こそ、予断は許されぬ」
「しかし、こう相手に動きがないと、こっちも作戦のたてようがないね」
とリーフ様が首をひねられる。
「この状態のまま、和平に持っていければいいけれど」
セリス様がそう呟かれたとき、だん、と、扉が開かれた。
「報告!」
本陣はグルティア城にある。黒い煙のように、竜の大部隊が、すでに制圧した他の三城に向かってゆくのが見えた。兵力が手薄になっている箇所を襲撃して、逆に我々を孤立される計画なのか。
既に知らせを受けて物見におられたアルテナ様があおざめたお顔で
「…三頭の竜」
と呟かれた。
「三頭の竜?」
「なんと…早まられたものか…アリオーン殿下…」
ハンニバル将軍が拳をにぎられた。
「三頭の竜は、まさに、今のような時…トラキアが存亡の危機に陥った時に限って使用せよと、堅く守られてきた禁断の戦術、トラキアにとっては起死回生を期する最後の手段…
すべての兵力を、本陣守護をのこして三つにわけ、奪回するべき拠点に送り込む…」
慌ただしく、各拠点に、竜に強い弓部隊や魔道士がつぎつぎとワープされてゆく。
トラキア本城に立てこもった形になったアリオーン王子の部隊は、「三頭の竜」を送りだした後は沈黙を守っている。
この城は、竜でなければ行き来もかなわないような、険しい山の上に聳え立っている。
トラバントに譲られた竜が、懐かし気に寄せてくる首を叩きながら、アルテナ様は城を眺めておられた。
「そう、アイオロス、あなたにはわかるのね。あそこには…オルティアがいるもの」
「オルティア?」
「兄の竜です。小さい頃私はトラバントとこの竜に乗って、兄はオルティアと、…トラキアの空を飛びました。険しい山を緑でうめるのだと…兄は言っていました…」
アルテナ様は、
「竜はいいわ、ただ、人を乗せて飛べば良いもの」
とおっしゃる。
「何も考えずに…」
「…」
アルテナさまは、それこそしばらく、何か考えておられた。私は、再び、一抹のデジャヴに襲われる。忘れかけた過去に、ぽつりと、記憶の一部が投げられる。
私は以前、こんな思いを、もっと切なく抱いていたような気がする。
「姉上!」
そこにリーフ様がおいでになった。
「…お願いがあります」
「何?」
「…後営の守備を」
「どうして」
「どうしてって」
リーフ様は一瞬言い淀まれた。
「…トラキアと戦うことは、お辛いでしょう。後営にいらっしゃれば、少しは…」
「いいえ」
アルテナ様は頭を振られた。
「トラキア城に突入するという事態になったら、私がいなければ」
「ならばその時まででも」
「私がトラキアと戦えないと、そう言いたいの? あなたは」
「…アリオーン王子に対すことは無理でしょう。
十数年もの間、ごきょうだいでいらしたものを、急にたもとをわけて、ということは、厳しすぎるのではないでしょうか。
姉上にとって兄なら、私にとっても兄と同様です。これから本陣の手勢と戦うことになっても、無用の流血をされるようにと、今指示を」
「…トラキアの兵には、そういう情けは侮辱と写ります」
リーフ様の探るようなおこ場に、アルテナ様は毅然と返された。
「一兵たりとも、立ち向かってくるなら容赦はしないように。情けをかければ、死ぬのはこちらの方です」
アルテナ様の竜が、その感情を読んだのか、ばさりと一度翼を広げた。
そして我々は再び、異様な光景を見ることになる。
アリオーン王子の竜が、襲い掛かる魔法に方向感覚を狂わされる。
その勢いに竜から払い落とされたアリオーン王子が、急に、黒い何かに包み込まれ、消えた。
誰も、何も言わずとも、この光景をつくり出したただ一人の人物に思い当たった。
森羅万象に等しき闇の王子、バーハラのユリウス。
ただひとつ、アリオーン王子について明らかなことは、その失踪(なのだろうか)に、バーハラが一枚噛んでいる、と言うことだった。
アリオーン王子が闇の中に飲まれて行った一瞬、側にいたものの話しでは、…ユリウス皇子の姿がその闇の中に浮かんでいたとか。人を竜もろとも、我が手に呼び寄せる等と言う魔法は、宿老の高司祭でさえ、自分を中心にした限られ範囲の中でしか可能ではないと聞く。トラキア軍には、かような高度な魔法をあやつれる存在はなかったと言うことで…だから、レヴィン様が
「アリオ−ンは、おそらく、生きながらユリウスにからめ取られたのであろう」
というのは、もっともなお言葉であった。
「ユリウスが、アリオーンを助けて、一体何に利用するのかなど、おれたちにはもちろん、わかりっこない。ただ、事態の深層は、たんなるセリスとユリウスの兄弟喧嘩ではすまされない所に向かっている。神器がふた手に別れ、真っ向から対立しそうなことを見れば、楽に分かるだろう」
ミレトスと、我々にとってはバーハラ帝国の足掛かりとなるシアルフィ公領とを隔てる海峡は、そこに非常線のある見える証として、橋が落とされている。
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