我々はいよいよ、半島を南下して、トラキア王国の領内に入っていこうとしていた。
 トラキア。
 この地に足を踏み入れることなど、昔は想像しただろうか。恵まれた半島北部を羨み、その豊かさを掠めようとする。我々は、その南の竜の脅威に対して、先頭に立って対抗せねばならぬと、教えられた。端的に言えば、永遠にあい容れることのない敵同士、と。
 私は、竜から、私が生きる理由すべてを守って生きて来たつもりだ。
 レンスター奪回にいたるまで、共に戦ってきた、誰彼と言う同胞の顔が思い浮かぶ。非常時が続いて、音信も途絶えてしまったものも多いが、みな、無事でいるだろうか。
 しかし、マンスターを解放した勢いの中、トラキアへの進軍が決定された時、セリス様は明らかに難色を示された。
「…トラキアは、バーハラに騙されたために、現在も半島の南で、同盟とは名ばかりの、そのあしらいに耐えている。被害者じゃないか」
「何をおっしゃるのです、セリス様」
リーフ様は、その様子にやや激された様子である。
「それ以前に、トラキアは我が祖国を幾度となく侵し、領民を脅かしてきたのです! それには報いる必要があります!」
「それは、君の事情だよ、リーフ。私は、トラキアとは戦いたくない」
「セリス様」
トラキア倒すべし、そういう場の空気の中、セリス様は、ややうつむかれて、山ばかり目立つトラキア半島南部の地図を見ておられる。この方は、トラキアに対して、一抹の哀れと尊敬すら、催されておいでらしい。厳しい風土ゆえに、人間を資本として、さげすまされる運命を甘受している、そのトラキアびとの信念に感じ入っておられる。
 しばらく、重い沈黙があって、めい目されていたレヴィン様が口を開かれた。
「トラキアは、今やバーハラの手足の一部に過ぎない。トラキアの事情はトラキアの事情だ。仮に、十人のうち九人までが、お前のようにトラキアに対して憐憫の情を持っていたとしても、残る一人がその影におびえている限り、我々は必要悪となってもトラキアを討たねばならん」
「…僕は、そんなの嫌だよ」
「セリス」
レヴィン様の語気が途端強くなられる。
「お前はいつまでそんな甘いことを言っているのだ、もうコトはお前一人の思惑だけでカタがつく問題ではない、そんなに戦うのが嫌なら、今すぐティルナノグに帰れ!」
「!」
「いいかセリス。お前は、望まれているのだよ」
一度の激しい叱咤の後、レヴィン様はやや言葉を落ち着ける。
「望まれて?」
「そう、望まれているのだ。大陸に淀む闇を払う光だ。バーハラの圧政から解放してくれるのはお前だけだと、大陸全土が期待を寄せている」
「…」
「辛いよな。だが、人々がお前について思い描く虚像を演じなければならない時もあるんだよ」
セリス様はうつむかれたまま、
「…トラキア進軍に関することに、僕は何も手を出さないよ」
と言った。そして、顔をあげた。
「でも、起きてしまったことに対しての責任は持つつもりだ。
リーフ」
「はい!」
「進軍の指揮と、トラキア情勢のことは君たちに任せる」
「はい! 有り難うございます」
セリス様は、リーフ様が承諾されたのを見てから、軍議の席を離れられた。

 その日の夜、私にあてがわれた部屋には、珍しくアレス様のお姿があった。ナンナは私より託されていたことをうまく果たしおおせたものらしく、過去に関する疑念を払われたらしき現在では、セリス様に全幅の信頼をお預けになったようで、私についても、勿体無くも「叔父殿」と、よくお声をかけて下さるようになった。
「リーンも言っていたが、それがセリスのいいところらしい」
軍議の時のセリス様の態度について、アレス様はそうおっしゃった。
「誰にも優しい、敵にも優しい。だから、あいつを慕って、人が集ってくるのかもしれない」
「レヴィン様は、そういうところに対して、セリス様は人の身になって考え過ぎるから困るとおっしゃっておられますよ」
デルムッドがそれに返し、尋ねる。
「アレス王子は、トラキアと戦うことについてどうお考えですか」
「どうお考えといわれてもな」
アレス様はしばらく思案してからおっしゃる。
「傭兵とすれば、あれは敵だと示されれば斬るだけだ。だが、今回は話がちがうだろう。
 トラキアはあくまで、グランベルまでへの通過点の一つに過ぎないと思っていた。しかし、これからの動きいかんが、一つ間違えば、俺達をトラキアの敵にする」
それから、私の方をごらんになる。
「…叔父殿は、こういう考えが、トラキアに対して甘いと思うのだろう?」
 もとより、私には竜を討つことにためらいはない。なかったが。
「叔父殿に、トラキアに対して迷いがないのがうらやましい」
「迷いがないわけではありません。セリス様のおっしゃることはもっともです。私が過去に教えられたことは、あくまで北部に害をなすトラキア軍部への態度です。
 掠めないだけで、自国内に侵入するということについては、我々もトラキアを責められません」
「そうですよ、それに今は、トラキアより、背後にあるバーハラと暗黒教団のことをまず考えなければなりません。暗黒教団の脅威は大陸に共通するはずです。それがわかれば、トラキアも我々の通過をさまたげはしないはずです」
そしてデルムッドがいう。
「それならばいいな」
私は、つい、彼の言葉にそう答えていた。

 身のうちに、一抹の、予感のようなものが過った。
 例えとめられたとしても、私はきっと、竜に槍を突き立てねばならないだろう。
 ここは、「トラキア」なのだから。

 トラキアの領内には、平地が少ない。わずかな草木は谷を縫う緑の小川のようで、我々は峡谷の底を這うように進む。私は、立地を利用したトラキアの伏兵の存在を心配していた。谷底の我々には逃げ場がなく、奇襲には好適な立地条件と言える。
 マンスターの攻防で捕虜にしたトラキア兵の話では、部隊には指揮官が二人いたという。二人はしばらく何かを話し合った後、うち一人は攻略に加わらなかったという。その指揮官の正体については知らないと言う。
 その指揮官が、部隊を壊滅されたことについて、なんらかの報復を企ててくることは明らかだった。この軍にはその竜にたいして満足に抗戦できる体制が整っていない。フィーにはやや高度をとって伏兵を警戒してくれと言ったが、いたところで、何もできないと言うのが、目下正直なところだ。
 私の中のどこかがひどく疼いた。伏兵なのか。山の稜線を一巡見回そうとした時、
「!!」
鋭い光が、私の目を射た。最初、太陽が目にはいったのかと思った。顔を背けようとした。できなかった。
 その閃光に導かれて、忘れかけていたものが一気に蘇ってくる。
 この光を忘れるとは、…なんとも不遜であろうか。
 ゲイボルグのはなつ、ノヴァの聖光にほかならない。
「なぜここに!」
叫んだ。光源そのものが、稜線にまぎれてハッキリとはしない。だが、見えた。
 一人の若い女が竜に乗り、進軍する我々を、やや憂えたひとみで見下ろしていた。その顔だちは、毅然として王質を含み、気高く、なにより、面影がある。
 レンスターとすべての槍騎士の守護聖女ノヴァが、そのまま、再び、現し身をもたれたような。
 私に、疑う余地が有り様もなかった。それが誰かは、すぐ分かった。
「…アルテナ様!」

 「なに?」
 その日の野営になって、私からの報告を受けたレヴィン様は、怪訝そうに顔をあげられた。
「アルテナ王女がいた? そんなばかな、彼女は砂漠で」
「ええ、私も、そう思っていたのですが、ゲイボルグの輝きは、私が以前見受けたものとまったく同じでした。
 神器とその使い手は常にともにあること、レヴィン様もよく御存じのことではないですか」
「ああ、それはそうだが」
「ゲイボルグのみがトラキアの山中に放置されているとは、私は思えません。それよりなぜ、それがここにあるのか。砂漠で行方不明になっていても然るべきものが」
「推論として思い立つのが」
いつになく熱の入った語り口になってしまった私の言葉を遮るように、レヴィン様がおっしゃる。
「トラバントが、アルテナ王女だけを本国に連れ帰った、か」
「え?」
「興奮する前によく考えろ。アルテナ王女には、ノヴァの印があったのだな?」
「はい。お生まれになった時にはすでに確認されておいででした」
「トラバントにどういう思惑があったのか、それは、本人にしか分からないだろう。両親を失った彼女に父性を催したのか、あるいは、長い時間をかけてでも、彼女とゲイボルグの力を借りて、半島を我がものにしたかったのか」
「…」
「ただ、我々に言えるのは」
「はい」
「お前が見たという、その赤い竜騎士が、本当にアルテナ王女だったら、トラキアとの間の流血はあるいは…さけられるかもしれん」
「は?」
「セリスには言うなよ。言わなかったために、事態がきな臭くなっても、自分を責めたりもするな。前も言ったが、今はセリスにとっては試練の時なんだからな」
「はい」
「この軍で、ゲイボルグの真の力を見たものは、俺とオイフェとお前だけだ。俺はお前を信じるよ」
「ありがとうございます」
レヴィン様は、谷に開いた細い夜空に、月が差し掛かってきたのを、眩しそうに見上げられた。
「しかし、アルテナ王女のことは…お前と、リーフ王子に預けよう。私がしゃしゃり出る筋合いのことでは無さそうだからな」

 アルテナ様。
 遥かに、記憶が戻っていく。
 まだ、私にこんな運命の待ち受けていることなど悟りようもなく、王女お一人をシレジアに残してしまった自らの不甲斐なさをせめつつ、私は再びのレンスターの日々を過ごしていた。
 アルテナ様はやっと物心つかれたほどのお年頃になって、絵姿だけでしかお目になされなかった御両親のおそばをはなれず、また、初めてお顔をあわせられたリーフ様にも、よき姉上ぶりを見せておられたものであった。
 とはいえ、私はしばらくアルテナ様に、おそばちかくになることを許されなかった。
「びっくりしているみたいね。私達の姿は教えられていたけど、あなたのことは何も言わなかったし。
 突然あらわれた素敵なお兄さん、かしら? 意外と、今があの子の初恋なのかもね」
と、エスリン様はそう微笑まれた。
「…あのヒトには、これ、言っちゃだめよ」
 そしてある日、御家族の団らんに伺候している時、エスリン様から何か耳打ちを受けられたアルテナ様が、戸惑うような表情を浮かべられつつ私のそばまでいらっしゃる。つい腰をかがめつつ、
「どうされました」
と声をかけると、アルテナ様は後ろ手に持っておられた本を私にお見せになる。
「よんで」

 それが結果的に、私がアルテナ様のお眼鏡にかなうことに繋がったのかも知れない。アルテナ様は私を従えて城内を歩かれるのがお好きだった。
 そして、幼くておられる中に、なにかを予感されたのだろう、御両親にとうとうついてゆかれ…そのまま、砂漠に消えてゆかれた…そうと思っていた。
 しかし、アルテナ様は、何の因果か、トラキアにて生き延びておられる。この私が未だ半信半疑なのだ、まったく姉上のことを覚えておられないリーフ様は、やはり
「急に言われても、私は」
戸惑ったお顔をされた。
「あの赤い竜騎士が姉上だと聞いても、どう反応すればいいかわからないよ。
 お前を疑っているわけじゃないんだ、でも」
「お察しします」
「姉上のことは、お前しか知らないことだしな」
「そうなりますね」
リーフ様はしばらく、何か言いたそうなお顔をされた。そして、おっしゃる。
「本当に、姉上だったら、嬉しいだろうな。きょうだいなんて、私にはいないと同じことだから。ナンナを見ていると、羨ましいよ」
相応にはにかまれたお顔がある。
 だが、レヴィン様のおっしゃるように、アルテナ様のことを、純粋に喜べるものはリーフ様だけであろう。あの竜騎士がアルテナ様であれば、説得し自軍に招じいれて、…その可能性はないと、私の中では確信しているが…そうでなければ、捕縛して、トラキアとの取り引き材料になる。誰でも考えそうなことだ。
「トラキアと戦うことに、私はためらいはないよ。でも、姉上とは、戦えないよ」
リーフ様はそうおっしゃった。芯のない、ゆらいだお声だった。
「どうすればいい?」
私は、アルテナ様のことを今お耳にいれたのは、間違いなのかと思った。ここでリーフ様も挫けられたら、軍はなりたっていかない。
「…レヴィン様は、アルテナ様が、トラキアとの流血を少なくできるカギを握っておられると」
「え?」
「リーフ様、あなたのお心はきっと、アルテナ様に届きましょう」
「…セリス様はどうされると思う?」
「さあ。ですが、事情を御理解されれば、それでも無理して流血を望むことはないでしょう」
「…説得、できるかな」
「案じるならば、いっそそうなさいませ」