リーフ様のもとに伺い、用を果たした後で、解放軍戦士の食堂に当てられている部屋に入ると、人々の喧噪の中にもしっかりと存在感を持ってアレス様がおられた。
解放軍に志願した無銘の騎士達を相手に、…どうも娘の話をしているようだった。
「男手一つで育てられて、やましいことは何も知らないっていうか、なんか、ほっとけないよな、ナンナは。
…え、リーン? あいつとは長い付き合いだな。俺がダーナに来てからだ。
…ま、な。両方とも、妹みたいなもんだよ。
…おいおい、冗談はよしてくれよ、たしかに、そのテの遊びもしたけど、あの二人にはそんな気おきないって」
他の者達の言葉が、全て喧噪にかき消されている中で、アレス様のお声は、凛とはりをもって、聞くに飽きさせない。そのお声で、軍に檄を飛ばされるようなことがあれば、命をもって、この方に尽くしたいと思わせうるだろう。
しかし、私は、アレス様のお声を、やや尋常ならざる思いで聞いていた。娘が気になると、先におっしゃられていたことが思いだされる。以来、アレス様の、娘への態度に少々の変化はたしかに有るらしく、リーンは、それが面白くないようであからさまに言及するのもまた、揶揄や風評を助長する一因にもなっているとか。娘がある方面では良からぬ評価をされていることに、父親としては、なんとも複雑な気分だ。
「…うわさ? ああ、俺も知ってる。でもな、そういわれても、俺にはピンとこないんだ。
従兄妹で血が繋がってるって言っても、ついこの間会ったばかりだし。
でも、なぁ、リーンより早く会っていたら、分からないな。そんな気がする。…もしかしたら、そんな噂に踊らされてもいいと、俺、思いはじめているのかな」
はは、と短い笑い。だが、それをリーフさまの声が吹き飛ばした。
「アレス! ああいううわさがたって、困っているのはナンナ本人なんだぞ
仮にも仲間で、親戚じゃないか! かばってやるぐらいの気遣いはないのか!」
アレスさまは、突然のリーフ様の剣幕に驚かれた顔をされ、そして、唇の端をにや、と持ち上げられた。
「…悪いことしたな。お前の未来の花嫁だったな、あの娘は」
「今まで二人でこの城で育ってきて、単純な言葉でなんて割り切れるわけがないよ」
「素直じゃないな、そんな意地はってると、俺みたいなのが取ってくぞ」
その時である。人数人を飛び越えん勢いでアレス様に近付かれて、リーフ様はその拳をアレスさまの頬に渾身の力で叩き込まれたのだ! 派手な音をたてて、アレス様は椅子ごと後ろに倒れられた。
「そういう言い方も無い! ナンナはモノじゃないんだ!」
「ただの例えだ、お前の教育係はそんなことも教えなかったのか?」
アレス様がぐらりと立ち上がられた。唇を切られたらしい。
「でも、こういう話は、口じゃ無くこいつで、語りたいもんだ」
そして、御自分も拳を握られる。人々は遠巻きになって、そのてん末を見守ろうとしている。
「リーフ様」
ここで、お二人がケガでもされたら、発端に関わる人間と仕手は放っておけない所である。たまりかねた私は飛び出そうとしてが、たまたま後ろにやってきておられたレヴィン様に肩を掴まれた。
「やめろ、お前が出ても、何の解決にもならん」
「しかし、お怪我でもされたら」
「多少の怪我なら、あとで誰かにライブをかけてもらえばすむことだ。
いいか、邪魔するなよ。いっくらリーフが心配だってもな、馬に蹴られて、死ぬぞ」
まあほっとけ。あぜんとする私と、
「子供らは放っといて、大人は軍議だ」
と、レヴィン様に引きずられるようにして、部屋を離れるよりなかった。
そのしばらくあと、やってこられたリーフ様は、ライブを受けられたものの、まだ顔に少々傷を残しておられた。
「折り入って話がある」
そうあらたまれて、リーフ様は、
「決めた」
とおっしゃった。
「は、何を、ですか」
「ナンナのことだよ」
「ナンナの?」
「アレスなんかにわたすもんか。ナンナは私が一生大事にするって決めたんだ」
「…はあ」
思っても見ない言葉だった。いままで兄妹同然に育たれて、あの娘には特殊な感情などもたれていないと、私はタカを括っていたのだ。娘が王子のお眼鏡にかなうとは、世が世なら一族中の栄誉だろう。だが、未来の王妃になりそうな娘の父親として、どんな言葉を、この王子にかけていいものやら、私は見当もつかなかった。喜ぶべきなのか、果たして。
「許してくれるよね?」
「それは、私ごときにはとても判断できかねることです。リーフ様のおきに召すままに」
「返答を逃げるな、ナンナはお前の娘だろう?」
「ですが、彼女は立派にヘズルの血脈を持つ、聖戦士の枝葉です。私一人の判断とは荷が重すぎます」
「…お前の奥方にも、本当なら通さなきゃならない話だろう。
だが」
リーフ様は毅然と私の前に立っておられる。
「私は、その奥方から、ナンナを頼まれている身なんだ、十二年前からね」
「え?」
「先方は、子供との他愛のない約束と思っただろうね、なにせ私はやっと七つ、ナンナは三つだった。でも、デルムッドと、アレスのことで、砂漠を渡られる覚悟の奥方から、『私のいない間、ナンナをよろしくね』って、そう言われたのを、私は今でも覚えているんだ!」
「…王子」
「お前と奥方とが、離ればなれになって、悲しかったのはお前一人じゃない。ナンナも私も、帰らぬ奥方を待つ、お前の涙の味を…知っているつもりだ」
「…」
「砂漠の彼方の奥方とお前とを、これ以上悲しませたくない。
正式なことは、まだまだ先のことになるだろうけど、…」
リーフ様は、しばらく言い淀まれた。だが、また顔をあげ、
「ナンナに私のこの気持ちだけは、ちゃんと分かってもらうつもりだ」
とおっしゃった。
「いいね」
私は、結局返答できなかった。王子が、磐石の将来を期されて、妃候補をあげられたのは、無き主君に泣いて報告したいぐらいだ。だが、その相手がよりによって自分の娘とは。
夕食の後、私の部屋に酒持参でやってこられたレヴィン様は、私のそういう言葉を聞いても、やはり
「それこそ、しらんぷりしておくのがいいのさ」
とおっしゃった。
「もっと嬉しそうな顔をしろ」
なあオイフェ。同室のオイフェ殿は、話の水を向けられて、あおりかけていたワインにむせた。
そのうち、シャナン王子まで入って来られて、しばらくはたあい無い話にわきあがっていた。だが私は、なんとなく嫌な予感に縛られて、レヴィン様が持ってきて下さったのが私の年と同じ36年もののアグストリアワインだと言うこともわからなかった。
そのうち、レヴィン様が笑いはじめられる。つづいてオイフェ殿も、ふだんは理知的に冷静なシャナン王子までも、いたく相好を崩される。
共通に記憶されてある、ふた昔前のことが肴になろうとしていることにはまず間違い無かった。風に当たることを口実に席を離れようとしたが、足にごつりと感触があって、下を見れば鞘入りの神剣バルムンク。
「逃がさんぞ、当事者」
酒杯をあおられながら、シャナン王子のお声。
「か、勘弁して下さい、あの時のことは」
と言っては見るものの、その声は上ずって説得力などまるでなかった。レヴィン様がひとしきり笑われてから仰る。
「まあ聞けよ。騒ぎがおさまった頃合に顔出してな、あの話をしたんだ。…もちろん、ナンナもそこにしてな。
そりゃ、受けたぜ」
さては、夕食時の少女達のは視線はそういうことだったのか。さぞや道化じみた目でみていたのだろう。
「おまけに、あのケンカをとめに入ろうとしたのがナンナで、そのナンナを止めたのがラクチェで、その時の言葉が
『今あんたが言っても、火に油注ぐだけだ』
だもんな、歴史はくり返すとはよく言ったもんだ」
「まさしくですな」
笑い話ではある。だがそれにしても、レヴィン様のお言葉が、心に痛い。
忘れようにしても忘れられないてん末だった。
ふた昔前、やむなき事情で動けぬクロスナイツを補完する意味で、我々レンスターの従騎士隊が戦場での王女護衛の任を主君より命ぜられた。
忠誠と友誼とに板挟まれて、果て無き苦悩をされているだろう兄王を案じられ、また御自分をも、そのような果て無き苦悩に苛まれる王女を、私なりに案じながらも、その従騎士隊の頭目として誰よりも側近い場所にいられることに、私は不遜にも舞い上がっていた。
折から、王女従軍のその御真意について、不面目な噂の流れているさなかのことだった。兄王の御友人と言う鳴り物入りで、遠征軍に雇用された傭兵ベオウルフは、その噂に対して、先刻のアレス様同様に、にべない態度をとっていた。
それでも、縁者として説明を求められた彼は、
「どうだかな。奴の家庭の事情までは知らんさ」
と言いおきながら、
「ただな、やつは妹を大事にし過ぎるのさ。城の中でも、その扱いは王妃と同じらしいし、妹のためなら多少懐が痛かろうがこたえんやつだ。
奥方が隠れみのと言われても、あるいは仕方なかろうよ」
だから、その場に居合わせていた私は言ったのだ。
「そういう噂をたてられて、困って折られるのは王女御本人なんだ、ノディオン陛下の友人だと言うなら、少しはかばって差し上げる気はないのか?」
ベオウルフは、突然の私の言葉に、うさん臭そうな視線を向け、
「噂だぜ? そんなムキになるなよ」
と言った。
「ははぁん、お前の了見、大体読めるぜ。だがな、一国の王が目の中に入れても痛く無い妹だ、半人前の騎士風情にゃ高嶺の花だぜ? 今のうちに諦めて、そこらの街でそれなりの娘探すんだな」
「そうじゃない!」
「嘘は体に悪いぜ少年?」
何か言い返したかったが、どんな言葉を選んでも、結局は自分の感情を認めて追い込まれることになりそうだった。だが、認めてしまったところで、事態がよくなるわけでは無い。今の王女では、私の気持ちなど黙殺されてしまうだろう。
「…たしかに、王女はノディオン陛下には掌中の珠とも思し召しの存在、その王女を縁あって守護する任を賜った従騎士隊の隊長として、王女の不面目は断つべきだと思っている。風聞をひけらかすヤカラは許せない」
「バカタレ、そんな大義名分なんて捨てちまえ。
そんなこと言って手ぇこまねいてると、とっちまうぜ、俺みたいなのがな」
だから、私の拳が飛んだのである。
「とるのとらぬの、王女はモノではらっしゃらない!」
もっとも、リーフ様の時と違って、ベオウルフはよろめきこそしたものの、倒れたりはしなかった。
「つうう」
切れた唇を押さえながら、ベオウルフがニヤリと笑った。
「みかけに因らず、たいした力だ、この少年は。
まあいいや、そうこなくちゃ面白くねぇ」
胸の前で拳を握る。それまでそこそこに賑わしかったアグスティ城の大食堂は、しん、と静まり返っていた。
そこに、
「今あんたが行ったら火に油注ぐだけなんだよ、ほっといたほうがいいよ!」
というアイラ様のお声と一緒に…城下にて修繕された剣をそのまま手にされたかの王女が、呆然とお出ましになっていた。
だが、私はそこまでしか見なかった。ベオウルフの重い拳が私の顔に炸裂していた。
「一人の女を巡って男二人が拳をかわす、いい構図じゃねーか!」
私は背中のローブを取り放り投げ、服の襟を開けた。また賑わしくなったのは、デューを胴元に賭けが始まったためらしい。
アイラ様やエーディン様に支えられて、部屋を出られる王女のお背が見えた。
結局、二人とも退かず床の上に倒れこんでからエスリン様の仲裁が入り、厳重に注意を受けたと言うのがこのてん末のオチなのである。
「…あのときは、一人だけ引き分けか水入りに賭けてたアーダンの総取りだったんだ」
とレヴィン様。
「あの後でな、俺はフュリーにそりゃ怒られた。人の気持ちをおもちゃにするなってな。とんだ濡れ衣だ、おれは賭けにゃ参加していなかったのに」
「御冗談を」
オイフェ殿が茶々を入れると、レヴィン様は、座っておられる私の寝台の面をぱん、と叩き、
「バードがどっちかに肩入れしてどうするよ」
と仰った。そして、ひとくちあおられてから、
「何にせよ、あの頃は楽しかったよ、…平和じゃ、確かに、なかったけどな」
「うむ」
シャナン様が短く返答された。
かの方々が部屋を出られて、私はふと一人だけになった。見計られたように、ノックの音がする。
「お父様?」
ナンナの声だった。扉をあけると、何かから追われてきたように、するりと慌ただしく入ってくる。
「よかった、みなさんなかなかかえってくださらなくて、困っていたの」
「え?」
「私、お父様とお話がしたくて、まっていたの」
わたしは多分とぼけたような顔をしているのだろう。ナンナは、私の顔を見るか見ぬかの角度でくすくすと笑った。
「ならば、遠慮せず入れば良かった」
「そうじゃありません、やっぱり」
「え?」
「…レヴィン様から、お話を聞いて…」
ああ、そのことか。私は盛大にため息を付いた。笑いに来たのだろう。今も昔も、惚れたはれたには縁もなかった私の、若気故の大失態である。
「面白かっただろう」
「面白いだなんて、そんな。
お父様、リーフ様と同じことしていたのですね」
「…勢いだ。あれだけだ」
「はい。わかってます。だって、喧嘩されてまで守りたかった方が私のお母様ですもの」
「そういうことだ」
「お話のお父様…すごく、素敵でした。
それが言いたかったの」
私は、娘に顔が上がらなかった。娘の気配が、私に近寄ってくる。
「…おやすみなさい」
ナンナは、私の頬に唇をおし当てた。
「私、お父様の娘で良かった」
朝になって、メイド長が、王女のお部屋に使用された跡があると困惑ぎみに報告してきた。
なるほど、そういうことか。私はそこであっただろうことを、何となく察した。
ただ黙って元のように整えておくようにとだけ、指示を出した。
父そして家臣は…無言で祝福をすることに決めた。
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