現在、セリス様のいらっしゃる本陣は、イード砂漠の東端を南下し、メルゲン城に近いという。
 フリージ勢はそれに応戦するために、ほんの一時であるが、レンスター城攻勢を後回しにしたようだ。だが、まだ、私達がレンスター領内から出るには、辺境部隊と一悶着起さねばなるまい。
 そういう私達に援軍とは、願ってもないことである。消耗仕切っていたナンナは、巧みなフィーの話術で人心地を取り戻したように見える。
 この少女は、母親とは違い、私には冬の記憶しかないシレジアで、雪間からさす日の光のように、あざやかな印象を与えた。希望のある人間というものは、かくも明るいものか。
 私は、リーフ様と娘たちが四方山話に華を咲かせているのを、いつになく腰を落ち着けて聞いていた。お互いの家族構成に始まり、出身国の風俗、などなど。とくに、リーフ様と娘は、シレジアにしか自生しないというペガサスに、いたく興味を抱いた様子である。
「ペガサスはね、人間ぐらい長生きなの。マーニャは私より少し年上。…そう、母様のペガサスの娘なのよ。伯母様の名前をもらったの」
そう語るフィーの熱っぽい表情は、姉マーニャ殿の話をするフュリーによく似ていた。話によれば、シレジアは、とうに皇帝アルヴィス率いるグランベル帝国に制圧され、王太后ラーナ陛下…レヴィン様の御母上である…は、むしろ敵に捕らわれるよりはと、グランベル諸将の面前で毒杯をあおられたと聞く。シレジアの中枢は北部に逃れ、レヴィン様に望まれ王妃になったフュリーに導かれ、回生の機会を窺い、雌伏の時間に甘んじていると言う。

 フュリーの娘であるなら、ここではただの天馬騎士のフィーは、その実れっきとしたシレジア王女になることになる。しかし、本人はそう大仰に扱われたくないからやめてくれと言った。フィーが、私に槍の指南をしてほしいと言ってきたことのことだったが。
 突然指南を請われて、私は面喰らっていた。
「私に?」
「はい。母が、お会いできれば是非指南を受けなさいと言っていました。あなたのお名前はシレジアでも有名です。槍のレンスターで一番なら、大陸で一番の人だからって」
「そういわれると、引き受けない訳には行かないね」
快く引き受けて、ひと段落ついたとき、彼女は、ことさら私にはなしたいように口を開いた。
「これ、母様の形見なんです」
と、見せられた槍には、見覚えがあった。
「セリス様のお父様達を、シレジアでお預かりしていた頃、離軍された騎士の方が、今までよくしてくれたお礼に、ぜひとっておいてくれって、譲ってくれたものなんだそうです。
 これが母の手の跡。これが私。でも、もう一つの、この跡が、ほんとうの持ち主の方のものと、聞きました。
 でも、この手の跡は私には遠すぎるの」
二つ、似たような場所にある手の後に少し離れて、消えかかっているが、手ずれの跡が見えた。私は、フィーに断わりもせず、その見慣れた槍をとっていた。騎馬と天馬との槍さばきのちがいというものか。彼女の言うもう一つの手の跡は、私の構えに寸分違わず沿った。数回型をとると、穂先が風邪を切る感覚が、実になつかしい。
 私が、余りに手慣れてその槍を扱うのが、フィーには不思議だったらしい。
「すごい。どうして」
めを丸くするフィーに私はつい、この槍の謂れを語ってしまった。
「え、それじゃ、貴方の槍なんですか?」
「レンスター式の鍛え方で、さる名工の傑作だ。時の王太子殿下が、私に下賜して下さったものだ」
「リーフ王子のお父様ですね」
「そう。…手放すのは惜しかったが、なにより君の母上には懇意にしてもらったし、殿下もよしと言って下さった所で、譲ることにした。十年以上もたっているのに、いい状態だね」
「こんなに汚しちゃったのに?」
「いや、これは年期というものだ。大事に使ってきてもらわないと、こうはならない。 …ありがとう」
「やだ、わたしじゃないですよ、母が大事にしてきてくれたんです」
フィーは少しの間だけ、本当に少女らしくはにかんだ。

 フュリー本人は、才能以上に努力をする人となりであった。槍を得手とする者どうし、よく教錬では一騎討ちの模擬をしたものだ。時にはわが王女の槍術の教授もしていたものである。王女とは、特に仲の好いという間柄ではなかったが、シレジアでいろいろと心を砕いてもらった恩というものをいつかは返さねばなるまいと考えることもあった。それを言うと、フィーは、
「お気持ちは有り難うございます。でも」
と、実に悲しそうな顔をした。すでに、鬼籍にあるそうなのだ。
「母の天馬は、ノエルと言う名前でした。羽としっぽが長くて綺麗な天馬でした」
と、フィーは、その記憶をぽつりと話してくれた。
「天馬騎士に、天馬は一頭だけなんです。天馬が先に死ねば、天馬騎士は廃業になるし、天馬騎士が死ぬと、天馬は処分されるの。主人を失った天馬は、他の人間には馴れないから…
 母とノエルが、一緒にうめられるのを見て、涙出てきちゃった。泣かないって、約束していたのに…」

 そのフィーは、父上であるはずのレヴィン様と、全くと言っていいほど会話をしない。フュリーの死亡のことも、伝えていないそうだ。
「だって、ここでは、私達は親子じゃ無いですから」
私がそれをそれとなく良いとがめようとしたら、フィーは半ば自棄ぎみに言った。
「しかし」
「ごめんなさい…そのことは…言ってほしく、ないです」
フィーは、思いつめた顔をしていた。前に年を聞いたが、ナンナと半年程しか違わない。その15才の少女が、じっと何かに叫びたいのを堪えている。
「だって、言ってもお父様は、悲しんだり、しないもの。決まってる」
「…」
「…あなたみたいなひとが、私のお父様だったらよかったのに」
「え?」
「お父様は、ひどい人だわ。何かを追っていく余りに、私と、お兄ちゃんと、…お母さまを、見捨てたの」
この親子の間に、深く溝が引かれていると納得がいったのは、アルスターの奥深くで、フィーが兄という賢者に再会してからのことだった。だがそれは、今語ることではない。

 ナンナが、いつになく青ざめた顔で、私の顔をじっと見つめているのに気がついたのは、その日の夜のことだった。
「どうした?」
あいまいな返事をされて、会話というものをさせてくれないものと覚悟して尋ねてみたら、意外にも、彼女は何かを話すつもりであったらしい。
「フィーから、聞いたの」
「何を?」
「セリス様の解放軍の中に、私のお兄様がいるって、本当なんですか?」
「…」
その事実の判明の仕方は、私にとっては、あまりいい状況ではなかった。いずれ合流してから、穏便に、引き合わせてあげたかったのだが、今まで話せ得る機会をないがしろにしてきた酬いであろうと思い直して、うなずいた。
「かくしていたわけではない」
続く言葉はどうしようもなく言い訳じみていた。
「…お前の兄といっても、私もまだ会ったことはないのだ。私が聞いているのは、セリス様と共にイザークに落ち延びたということだけだ」
「…」
ナンナは私の顔を見ていた。
「どうしてお母様と一緒にここにこなかったのですか」
私は、血統保持のために、離れなければならぬという事情を語ることしかできなかった。私はそれには反抗したつもりである。だからこそ、デルムッドをイザークより招き、アレス王子を保護し、五人で暮らすことを考えた。だが、実際というものは、運命というものは、まだ、やっと四半世紀を生きようとしてる我々には、厳しすぎた。
 どうして、王女のおっしゃることに、異を唱えることができなかったのだろう。リーフ様には、私より他に、レンスターのすべてという鎧があった。王女には、私以外、不肖の私以外、頼るものはなかったというのに。
「…お父様?」
促されて、私は、瞬きもせず、涙を落ちるにまかせていたということに気がついた。これ以上何か、それについて言おうと思えば、体面なく自らを罵ることになってしまいそうだった。
「近く、本隊に合流する。そのとき、デルムッドと共に、詳しいことは聞かせてあげよう」
確実に、ナンナは今のうちに、洗いざらいを知りたいと言う顔をしていた。だが、それに私の心の準備と言うものは追い付かない。何も言わない私をせつなそうに見て、ナンナはその場を離れていった。
 これでまた少し、娘との距離が広がっていくのだ。

 メルゲン城を陥落させたセリス様が、ごく内密にレンスターにいらっしゃった。
 レヴィン様からリーフ王子の事をお聞きになり、急ぎ御来城を決定されたそうで、全軍ではなく、数人の騎馬のみを随行させての、御友誼という感じのものであった。
 無理もない。お身寄りのないセリス様にとって、王子は、直接血が繋がっていると分かっている、いわば唯一の肉身でも在る。
 レヴィン様のお立ち会いのもと、お二人の水入らずの対面がされているあいだ、私にも大事な出会いがあった。
名前を呼ばれた気がして、振り向きはしたが、面識のなさそうな人物がメイドを従えて立っているだけだった。
「お忘れですか、ほら」
唾がかかるような距離まで顔を近付けられて、私はまじまじと、相手の顔を見た。
「…オイフェ殿か!」
「はい、お久しぶりです!」
美鬚の騎士は、そう答えて、これはかわっていない笑顔でうなずいた。
「私もいますよ」
と、オイフェ殿の後ろからフィーが顔をだした。
「少し、おやつれになりましたか」
彼は少し眉をひそめて言う。
「お話はレヴィン様から大体聞いております。気の毒なことをいたしました」
「過ぎたことだ。それに、これが運命と思えば」
「確かに、私がこうして生き存えているのもきっと、運命というものなのでしょう」
オイフェ殿と私の、今ここにこうしている事情は、情けないほどに良く似ている。主命を全うしたために、その主人の死に目にあえずに終わってしまった。彼の、セリス様の養育にかけているであろうその執念と言うものが、温厚な表情からも突き刺す程に伝わってきた。ひさしぶりの再会が、妙に重いものになってしまった。それに二人とも気がついて、オイフェ殿は無理矢理に、違うことを言おうとした。
「セリス様は今晩はここにお留まりになるようです。リーフ王子は分かっている限り、ただひとりの、血の繋がっておられるのがわかっているおいとこに当たります。とはいえ、以前にも御対面があったことは、覚えていらっしゃらないでしょうがね、お二方とも」
お酒でもいかがですか? と促されたとき、私の脳裏に一瞬ナンナの顔が浮かんだ。そういえば、レヴィン様がいらっしゃった朝からアルコールはやっていない。思い出話を肴にすると、また深酒をしそうだ。
「…オイフェさん、私、ナンナのところに行きたい」
いいでしょ? フィーが私に人なつこい顔を向けた。
「そうしてくれ。彼女も喜ぶ」
「奥様のお話は、私が帰ってくるまでとっておいて下さいね」
「おいおい」
勝手知ったるレンスター城を、ナンナの部屋にかけていくフィーを二人して見送る。そしてオイフェ殿は、思いだしたような声をあげた。。
「しまった。デルムッドのことを忘れていた」
「え」
「貴方達に会わせたくて連れてきたのですよ。いい男になりましたよ」
行きましょう。私はオイフェ殿に手を掴まれて、客室に引きづられるようにつれていかれた。

 連れられた客室には、若い騎士が二人程、就寝前の談笑を静かにしていた。ひとりが、私達の気配に気付いたようで、振り向いた。
「オイフェさん、遅かったじゃないですか」
「ああ、今、かれに出くわしてね」
どこかで見たような顔の、青い髪の騎士に言葉をかけられて、オイフェ殿は私をぐいと彼等の方に押し出した。
「そのかたは」
「うむ」
オイフェ殿は、ごく簡単に私の紹介をした。
「…というわけで、十数年ぶりに再会を果たしたというわけだ」
「そうですか。
よろしくお願いします。解放軍騎士のレスターです」
「レスター!」
差し出された手を握りかえして、私はその感触のまた懐かしいのに驚いた。
「いや…まさか、こんなになるとは思わなかった…お父上に、よく似ている」
「ありがとうございます。母もそう言います。貴方とは始めましての関係ではないんですが、なにせこっちは全然覚えてなくて…
 大陸一の槍騎士、忠義あつい騎士の鑑、オイフェさんからよく聞かされています」
その笑った目もとは、どことなく、エーディン公女に似ているようにも感じた。そこで、わきのオイフェ殿が笑う気配がした。
「何か?」
「いえ、他所様の息子は初対面ではないのに、御自分の御子息には全くの初対面と言うところが、おかしくて」
「…そういえば、そうだ」
改めて、部屋の奥、窓よりの、私達をやや遠巻きに眺めているもうひとりの若い騎士に目をやった。
「…デルムッド?」
「デルムッド、父上だぞ」
オイフェ殿の声に促されて、今見る息子は近寄ってくる。はたと対峙して、私を見る一瞬の仕種が、激しく私の胸のうちを揺さぶった。私の血でいささか劣化はしていようが、私には想像しかできないものが、そこにはある。
「君が、デルムッドか」
「はい。
 …初めまして、父上」
奇妙な挨拶もあったものだ。
「メルゲンの守りが手薄になると本人は渋っていたのですが、強いて連れてきてしまいました。本体に合流すればすぐ、アルスター攻城が開始されるでしょう。ゆっくり身の上が話せなくなるのではないかと思いましてね。
 それにむこうにはシャナン様もアレス王子もいらっしゃいますから、だからこそセリスさまも安心してここにおいでになっているのですよ」
その言い方が、余りに簡単だったから、私は一瞬聞き逃しそうになってしまった。
「アレス王子が??」
大声を出した私に、皆の視線が集中する。オイフェどのが当たり前のように行った。
「ええ、ダーナで傭兵をしていたそうです。メルゲン攻城から同行されておりますよ」
「…」
「ああ、まだ御存じではなかったのですね…」
アレス王子が生きている! それだけで私は動転しそうだった。
「やはり王女のお心づもりは確かだったのだ」
「王女の?」
自分の考えを言いさされたオイフェ殿の声は、私の考えをはかりあぐねている感じだった。私はデルムッドをちらりと見た。彼はまだ、突然あらわれて、おそらく挙動不審なようになっているだろう私をただ、少し陰った表情を崩さず見ている。よく見れば、成長しきっていない顔は、ナンナにも良く似ている。
「じつは」
話そうとして、扉があいて、私の倦んだ思考を日にさらすような声がした。
「ナンナ連れてきちゃった」