シグルド様が部屋から完全にいなくなられてから、キュアン様は改めて、地図にある布陣を確かめられた。日中、フュリーのペガサスを飛ばせた報告を元にして作られている。兄らしく、その布陣の形には、一部の隙もない。丘の上になるシルベール砦へは、一本きり、通行可能は道はなく、その道すら、進むことが困難に見えた。
「明日の君の居場所は、最前線のこのあたり、やや後方でいいな?」
「かまいません」
「周りは、守護部隊で守らせよう。俺が指示を出しておく」
「有り難うございます」
「…この布陣は、厄介だな。クロスナイツを全部撃破して、シルベール砦本体に進むまでには、たっぷり一日かかってしまうだろう」
「…はい」
見えない果てでは、なくなっていた。時間はかかっても、シルベールとりでに入れれば、兄にあえる。
「キュアン様。その停戦の会談は翌日になりますか?」
「決裂して戦闘になるだろうことを考えると、建て直しを夜の間にすることになるだろうが…何を考えている?」
「停戦の交渉を私におまかせいただけますか?
 その夜間に、直接兄の元に向かいたいのです」
「ひとりでか?」
「はい」
型で押したような停戦協議の席よりも、私のいうことならば、きっと考えてくれると、少しだけ、そういう打算もあった。
 キュアン様は暫く思案されていた。そして、顔をあげられた。
「成功するかどうかは分からないが、…試しもせずに否定をすることはできない。
 それに、このままでは、君がここにいる理由もうやむやになりそうだからな。
 シグルドにはよく言っておく」
「有り難うございます」
「ただし、行帰りの道中、守護部隊をつけさせてくれ」
「はい」
シルベールにいけることが分かっているなら、あとはどうでもよかった。私は、キュアン様に何度も念を押し、自分の部屋に戻った。
 眠れなかった。

 私は、自分から、自分の運命の扉に似たものを、叩く決心をしていた。
 シルベールを守るクロスナイツを退けるのには、予想通り、一日たっぷりかかった。翌日の停戦交渉の席を設ける次第が整った時には、日はすっかり傾いていた。
 完全に月が膨らみ切らない、細い光の照らす中で、私は、暗い色の外套で身を包むように隠して、馬上にあった。
「御英断、ですね」
と、随行の騎士が言う。一人で行くという私を心配して、キュアン様は一番たよりになるという、守護部隊の隊長をつけてくれた。
「英断なんかじゃない。私から始まったことだもの、自分で見届けたいだけ」
「勇気のある方だと、主君より話を承りつつ感服致しました」
「お願い、そんなに誉めないでよ。
 私、私のしたことの重さが、今になって刺さってきているの」
苦しそうな声に聞こえたのかも知れない。騎士は、黙って手綱をとる。
「アグストリアを乱した一因は私にもある。私が、その成りゆきを自分の目でみまもりたいというのは、いけないことなのかしら?
 王女なのに、王女ながらって、ずっと言われてきた。王女のくせに破天荒なのは、私も分かってる。
 だからといって、王女らしくお城の中にいることなんてコト、私一番したくなかったの」
いってから、はっとした。騎士はもくもくと、歩くような速さで馬をすすめてくれる。私は、その背中しか見えていない。
「御免なさい、あなたにこんなこと話ししても、仕方がないのに」
「いえ、私がお気がすむのでしたら、御存分にお話下さい。話すことで楽になることもあるから、お話は聞くようにと仰せつかって参りました。
 一介の騎士、お話相手には不足とは思いますが」
「そうなの。ありがとう」
私は、騎士の背中に、額を当てていた。まだノディオンに来たばかりの頃、遠乗りする兄の後ろで、話しつかれた後にしたことと、同じことをした。
 何も知らないこの騎士に、愚痴ばかりの今の私が、なんだか申し訳ないような気がした。だから、話を替えようとした。
「この馬、すごく優しく歩いてくれるのね。全然揺れない」
「有り難うございます」
「あなたの馬だって知らなかった。時々馬小屋を見ているけど、一番最初になれてくれたのがこの子だったの。
 あまり綺麗だったから、誰か、公子様の馬かと思っていたわ」
「馬の調子を整えるのも、騎士の仕事の一つです。それを覚えるようにと…このサブリナは主君から賜りました」
「サブリナというの? この子は」
「はい。エスリン様が名付けてくださったのですが…
 …王女?」
騎士は、実に困っているような声を上げた。無理もない、私はこの馬名前を聞いたとたんに吹き出していたのだ。
 エスリン様も酔狂を為さると、言葉にはしなかったけれども。
「私がこの馬を授かった当初、余りに始終共にいる、それならばと」
「なるほど、ね」
納得した、サブリナは、伝承に出る美しい妖精の名前。彼女が夫と定めた英雄は…私の記憶が間違っていなければ、この騎士と同じ名前の筈だった。
私が言葉もなく、体を震わせているのが腑に落ちないらしい。騎士の声がまたかかる。
「どうされました、王女」
「…御免なさい、笑うつもりはないのだけれど」
何度か深呼吸をしてから、私は言葉を続けた。
「…馬って、素直な生き物よね。可愛がる分だけこたえてくれるって、お兄様いつもおっしゃってたわ。
 …人間も、それぐらい素直になれたらいいのに」
でもやっぱり、最後には愚痴になっていた。騎士は、暫くしてから、実に静かに、
「…左様ですね」
といった。いつもなら、こんな味気のない返答には、私は少なからず機嫌を損ねていたものだった。でも今日に限っては、私はその返答が、無言の応援に聞こえたのだ。…私は、「動かされる人々」のためにも努力をしなければならない。
「…私、できる限りのことはするから。きっと、結果を出すから」
騎士の背中に、頼み込むようにいっていた。しかし、騎士はそれには何も返さず、
「王女」
と、私の視線を上に上げさせた。
「到着致しました。シルベール砦です」

 私は、騎士に帰るようにいった。話が終わり、帰るまでが任務だと、騎士は困った顔をしたが、私はそれをあえて帰した。
 次に私がここを出ていくのは、シャガールを見限った兄とともにか、賊として捕らえられ、無言の者になって出てゆくか。二つに一つ。
 そうして、自分を追い込んで、砦の門をくぐった。

 衛兵は、私を見ぬふりをしてくれたのか、何もいわなかった。ただ、私をその場所に止めて、将校を呼んでくれた。
 駆け付けた将校は私に膝を折り
「姫様のご用の向きは存じ上げております。
 陛下のお部屋まで御案内を」
と、先頭に立って歩いてくれた。しばらく階段を登って、通された部屋には、はたして、兄がいた。

 本当なら、ここで、何年と会えなかった分だけ喜びの対面になるはずだ。しかし、
「お前のいいたいことは、大体分かっている」
兄は、私の姿を見るなりそう言った。懐かしそうな顔を、しない。
「まず前置きしよう、俺は、…アグストリアの騎士だ」
「はい。そうでしょう。
 ですが、私もシグルド様からこの収拾をまかされた使者として、こうして兄上のもとに参っております。停戦か、さらなる交戦か、命運は今、私達の手の上にあること、どうか御理解下さいまし」
「…」
長い沈黙。それが、重かった。

 これが、何年とあいたかった兄なのだろうか。
 全身に焦りをみなぎらせ、明らかに数日起き続けた顔をしていた。何がこの人の人間らしい部分を奪ってしまったのか… 言葉にはできるが、今はためらわれる。
「まずシグルドに勘違いをしてもらいたくないのは、この半年という間、俺が決しててをこまねいていたのではないということだ」
「はい」
「シグルドが、バーハラに対して、できるだけ早期にアグストリア返還が実現できるように、再三働きかけていることも知っている。
 それに見合っただけの動きを、俺もしてきたはずだ」
「はい」
「それでも、奴は…不満なのか」
「…この、もはやさけられなくなってしまった戦いをつくり出してしまったのはシャガールです。保身のためになりふりのかまわない行動をとり…結果、こうして多くの人間を、戦に巻き込みました」
「陛下がとられた行動は、ある面ではごく当然のことだ。他国に占領されて、御自身は辺境におしやられ、それを不当と感ずれば感ずる程に、起死回生を計りたくなるものだ。
 …牢の中の俺も、そうだったからな」
「兄上は、シャガールの味方をされるのですか?」
自分でもどうしようもない程、嫌な質問だった。答えは分かっていても、口に出さずにはいられなかった。
「俺はアグストリアの騎士だ」
兄の返答は、判を押したように返ってくる。
「ただ一人になろうとも…陛下のために、この身を尽くさねばならない」
「こんな場所で、兄上を朽ちさせたくありません…
 おねがいします。どうか、シャガールを見限って、シルベールをお出になってくださいまし」
「そんなことができるか!」
兄が、机をだん! と叩いた。石造りの殺風景な部屋に、それが跳ね返って、私は思わず、身をすくませる。
「お前が言っているのは、俺に騎士道を外れろと、そそのかしているのと同じだ!
 いつのまに、お前はそんな、魔女のような物言いをするようになったんだ?」
兄の目が、正気を失おうとしていた。
「気紛れや、大儀の前には儚い程の友誼で、この忠義をゆがめてどうする? ノディオンに代々忠誠を誓ってきた、俺を信じて付いてきた、多くの騎士に道しるべを失わせることなど、できるはずがないだろう!」
「兄上こそが、アグストリアの新しい道しるべに相応しいことは、…シャガールと手の者以外全てが、思っていたことですわ」
「俺は、その器ではない」
「いえ」
言い知れぬ重圧に、押しひしがれそうな兄の姿は…見ていることに忍びなかった。私は、半分目を閉じて、言った。
「そうお思いなのも、兄上だけ。
 そもそも、ミストルティンを継承するものが、アグストリアの主になることは、不文律とはいえ当然の事でした。
 兄上。本来、このアグストリアは兄上のものでした。
 イムカさまも、それを御承知で、ゆくゆくは兄上にこの国の実権を委譲されるおつもりであったと」
「たとえ、そうであったとしても、俺はその話は受けるつもりはない」
「…兄上は、まるで子供のよう」
ただ、自らの信念にもとづいて、どんな話にもかぶりをふるだけ。でも、このかたくなな心が、私にはいとおしい。
 暖かいものが、私の中に帰ってくる。懐かしいその感じ。
 …お母様が、私に、兄に対峙する勇気を与えてくださる。
「俺は、そんな運命になど、生まれついてはいない」
「お目をお覚まし下さいませ」
兄を見る程に、私は冷静になってゆく。
「巷では、兄上を称して『眠れる獅子』ともうします。…真にアグストリアのためを思ってならば、暗君を捨てることも、騎士道にはもとりません。前例は限り無くございます」
「言っただろう、俺は」
「歪んだ騎士道にとらわれて、友誼をないがしろになさいますか。これが、以前陥落寸前のノディオンを助け、妹の私を助けてくださったシグルド様への友誼の証ですか」
「…」
「シグルド様、キュアン様…そういうかたがたが差しのべて下さる手を…兄上はお払いになるのですか?」
兄は、呆然としていた。長いこと、口を閉ざしていた。