がっくりと、首をうなだれた兄から、こういう言葉がもれたのは、座ったままの私の前にある、窓から見えていた月が見えなくなるまで、たっぷり時間がたった頃だった。
「…わからないんだ。もうどうすればいいのか」
「…」
「俺がしていることは間違いと、…自分でも、分かっている。しかし、捨てることは出来ないのだ。
 俺の生きている意味が…なくなってしまう…それでもお前は、俺に益のある道を選べと、ほかならぬお前が言うのか」
「…兄上は、私は良き政治の師となってくださいました… もし、シャガールがこのまま王として君臨するにしても、それからのアグストリアを支えるためには、兄上はもはや不可欠です」
「なるほど…賢い事を言うようになった」
兄上の悲壮な顔を、少しでもやわらげたかった。でも、その微笑みは…我ながら引きつっていたかも知れない。
「賢いなら、わかるだろう。今の俺が立つ場所というのも」
「はい。重々」
「もはや、友誼のためにこの身を二つにわけることは出来ない。お前も言ったように…俺が離れれば、陛下を御するものはない。さらに、戦局が悪化すると言うことも、十分に考えられる。どうすればいい」
「…」
私は、倒れそうな兄上を、寝台に座らせた。
 焦りを覆い隠すように、穏やかな諦めが、包んでいた。
 このひとは、もう私には説得が出来ないのではないだろうか。シャガールに刺さった最後の楔。この場所を動けないこの人が…この人と、この人の守りたい全てのために、せめて、できることは…
「停戦を…奏上なさいませ。とにかく、軍を引かせるのです。…シグルドさまは、それまでも迎撃に徹しております。シャガールさえ手を引けば、すぐに戦は終わります」
「ほんとうか? あいつも、グランベルから、追究を命じられているのではないか?」
「シグルド様も、兄上と同じように、恐くなる程に実直なお方です。厳罰を覚悟で背命されておられます」
「…あいつらしい」
兄が、やっと笑った。私は、それに一時心を緩めた。
「…私も、その時にはお供致しましょ…そのほうが、兄上も、安心できるでしょう?」
「いや」
しかし、兄上は、それをはねつけた。
「それは出来ない。表立つ所に出るならば、例え妹でも、お前を賊として突き出さねばならん。
 今、陛下をお守りしているのは、直属のわずかな兵を除けば、俺とクロスナイツのみなのだから」
「わかりました。…吉報をお待ち致します」
「夜があける前に、帰るんだ。明るくなると、砦の見張りに見つかる」
言ってはいるが、兄は、私の肩を掴む手を離さなかった。前よりも、節が目立つ手…ここに来る前は、投獄されて、酷い辱めを受けたと聞く。服の影になる手首には、明らかに、戒めの跡とわかる肌の黒ずみが消えていない。
 私は、その手に自分の手を重ねた。
「私、帰りません」
「え?」
「…今の兄上は、一人にはできません。…おそらく、御自分の命を持って停戦をお勧めになりましょうから」
「…」
「…そんな奏上など、徒に後世の好事家の哀れを誘うだけ。今のシャガールになんの動かす所もございません」
兄は、何も言わなかった。私も返答など、期待しなかった。主君となった人間に、ワタクシを投げ打っての忠誠を尽くすのが騎士と、その教えが血のように、体を巡っているのが、兄なのだから。
 私は
「今向こうにおいでになっても、お母様はあってくださいませんよ」
と、言った。やっばり兄は
「そうやって、お前は俺の決心をゆるがそうとする」
と、苦笑いをした。

 私と兄は、しばらく、昔の思い出を話した。そして私は、アグスティにいる人々の事を語った。
「そのもの達のおかげなのか…お前、すこし、変わったな」
と言う。私の目の奥まで見るような好奇心にすんだ目が面映くみえて、頭のうちになにやら、青白いものが弾ける。私は、思わず、目を瞬いた。
「変わりましたか?」
「ああ。…それが、本当のお前なのかも知れない。誰の支えがなくても、一人で美しく立っていられる」
「ひとりでは、ありません。あの場所にいる、多くの方達が、どこかで誰かを支えあいながら立っています」
「お前も?」
「はい。沢山の…支えがあります。
 私は、兄上にも、沢山の支えがあることを、お伝えに来たのですから」
「…ありがとう」
兄の声が、小さくなってゆく。
「支えの手を、俺は裏切ることになるのだな」
「…」
その言葉に、どうかえそうか、迷っていた時、兄は突然、私に倒れこんできた。
「!」
倒れそうな所を、背をそらしてその体を受け止める。私の目の前には、兄の金色の髪がいっぱいに広がっている。
 眠ってしまったのかと、おもった。でも、すぐ、そうではないと分かった。背中に手を回して、その体一杯に溢れるふるえを、抱き締めた。
「かわいそう…」
つい言葉になった。切ないまでに綺麗な心は、今その水晶のように透明でガラスのようにもろい殻をやぶられて、醜い政争に踏みにじられている。今になって、兄には、その痛みが襲ってきているのだ。
 私の胸に顔を埋めて、兄は慟哭した。言葉にならないほとばしりが、乳房を通して突き刺さってくる。
「こんなに、一所懸命なのに、その心を誰もわからなくて」
ほんのりと、胸の奥が熱かった。この綺麗な心を受け止める喜び。…私の中のお母様が、喘ぐ程に、喜んでいる。その胸の熱が、お母様がされていたような、柔らかい暖かい言葉になる。
「いつまでも、側に…」
視界が潤んできた。目を閉じて、頬に熱いものが流れるのを感じた。涙ごと、その頬を包むのは、兄の手。
ふうっと、その気配が近付いてきて…
 一瞬だけ、また、青白いものが、弾けた。

 夜明けかと思ったら、西の窓から差し込むその光は、落ちようとする月の明かりだった。しんと冷えた空気が、裸の胸をすり抜けて、私は自分の身を抱いた。その時、後ろで声がする。
「夜明けが来そうか?」
今目がさめたような声だ。私は
「いえ、月は満月ではありませんから、もうすこし」
と答えて、寝台の縁に腰をかけた。その腿の辺りに、手が触れてくる。
「…綺麗な体だ」
と、言う。
「有り難うございます」
私は、服を着なおしながら、柄にもない言葉に笑ってしまった。
「冷やかしじゃない。…こんなことば、グラーニェにも言ったことはなかった」
「はい、次はぜひ、直に会っておっしゃってくださいまし」
髪に手を通して、流れを整える。その時、ふっと、暗くなった。
「月が沈んだか、雲が出てきたか…夜明けが、近いな」
「はい」
立ち上がって、もう一度、窓に向かおうとした私の手が引かれた。
「…」
「ありがとう。俺の決心を許してくれて」
「…」
「お前がいたから、ここまで来られたんだ」
「はい」
「どこにいても、お前を感じた。
 言葉の通りに、お前は俺を守ってくれた…」
「これからも、そうですわ」
私は、ジッと、縋ってきそうな目を見つめた。
 その目は、せつなそうに輝いた。そして、王の笑顔で、厳かに、言い渡された。
「よかろう」
そして、手が離された。

 まだ、星が出ていた。冬の星座さえかたむきかけて、これから日が登るだろう東には、春の星が輝いている。
 振り返って、砦をみあげた。一つだけ、明かりの付いた窓があった。
 歩き出そうとして、風に吹かれた。いままで穏やかな空気の中だったものだから、私は、まとった外套のすそをあおられて、その寒さにすくんだ。
「!」
 もう一度振り返ろうと思ったのは、その風がなにかを言ったからか。
 振り返っても、何も…誰も、いなかった。
 いや、本当は、そこにいらっしゃるのだ。
 一度吹きはじめた風は、砦に少し植えられている木をかさかさとならしながら、戯れるようにながれてゆく。
「…お母様」
そこに立っていらっしゃる、お母様が見えた気がした。風の音が、お母様の声に聞こえた。
「運命を」
そんなふうに聞こえた。
 運命? それは私の運命のこと?
 お祖父様は、私の上に、出自よりおとしめられても臆することなく、自身の力でその運命を切り開けるようにと、古には神の命をも預かった偉大な女神の御名を与えてくださった。
 今私は、その女神が手玉にとりたもうた運命の狭間に放たれた。
 後も、先も…もちろん、今も、わからない。
 分かっているのは…私の中で生きてくださったお母様はそこに残られて、兄の最期を見届けること。そして、兄をより高みに導くこと。お母様が願われていた、たった一つの望みのために。
 お母様は、ほんのりと微笑んで、砦の中に消えてゆかれた。
「…」
私は、また前を向いた。

 砦の門をくぐり抜ける間に、それまでの熱と共に、引いて行ったものがある。しんと、今の空気のような、青白く凛としたものが、私の背に入り込んでいた。
 今まで私の中に感じていたあの優しい熱さに、私はもう会うことはないと、思う。
 私を導き、律してくださったお母様から譲られたものは、私もわからない私の底辺で、長く眠るのかも知れない。
 泣いちゃいけない。そうつぶやいた。私は…自分の足で、歩かなくちゃならないんだから。
 遠いアグスティの城が、薄明を背中に浴びて、浮かび上がった。空を仰ぐ。
 漆黒の闇が、まばたきの間もなく瑠璃色に輝く。降りた露が、薄明に照らされて、淡く銀色のかがやきを抱く。

 その銀に抱かれた夜明けの青に向かって、私はまっすぐ、歩いてゆく。


Innocent Days をはり。
「そして君を探しに行く」に、続く。