シグルド様が、兄に対して、グランベル本国を説得する時間として提示されたのは、一年。
しかし、シグルド様の行動は、アグストリアとグランベルの間に、微妙な影を落としていた。
友誼のためにとは言え、アグストリア諸候を次々にやぶるシグルド様は、シャガールにとってすれば国を食う竜のように見えただろうし、グランベルでは、他力本願に国土拡大の一因と、捕らえられている節も、ないではないらしい。
アグスティ城から西に、森に隠れるようにして、シルベールの姿が見える。手が届きそうで、届かない場所。私は、ため息ばかりを付いていると、心配されていた。
それを見兼ねたのだろう。小盗賊デューが、武器の修繕のお使いがてら、私を城下町に連れ出してくれた。
「当たり前だよ、姫様に真っ暗な顔されちゃ、たまんないよ。
あっちでいらいらこっちでおどおど、うんざりしてるのはオイラだけじゃないって」
「ごめんなさい、でも私」
「わかってるよ。シルベールの兄上様が心配なんだろう?
でもさ、まだまだ半年以上も時間があるんだ、それまでにはどうにかなるって。
えらい人の考えてることなんか、オイラにゃわかりっこないけれど、幸せは諦めたつもりで待つもんだって、ね」
「…そうね」
私が不安な態度をとって、沢山の人間を心配させているらしい。いやが上にも、心の通りの顔をすることは…できなかった。
「ありがとうデュー。心配してくれて」
「なんのなんの。オイラぐらいじゃあ、まだまだ心配なんて、言わないよ」
デューは、あははは、と屈託のない声で笑った。そのうち、声がする。
「おわったらしいね。
どう、姫様? オイラいう通りに、してみる?」
「なに?」
デューが、私に耳打ちする。 私は、特に他意を感じることもなく、店のカウンターに武器を並べる、炉の火に焼けた顔をした主人の前にたった。
「有り難うございます」
「頼まれたのは、剣がこれだけと…ん?」
主人は、私の顔を見入る。
「…お嬢さん、前に会ったことあったかね」
「さあ、私、ここに来たのは初めてよ」
「…そうだっけねぇ。あんたみたいに綺麗な人は、一度見れば忘れやしないものだが…夢で見たかな。
さあ、代金はこれだけだ」
と、主人が代金を提示する。私はデューを振り返ると、デューは笑って、促した。
「あの、店主さん」
「なんだね? びた一文まからないよ。剣を打ちなおすだって、材料を足したり…」
「ええ、わかります。
でも、いいお仕事するんですね。
これからも、こちらにお任せしたいと思いますから…」
顎を引いて、上目遣いに、主人を見た。主人の顔が、急に、困ったような顔になる。
「え、あ?」
カウンターには、言い値の金額が置いてあった。だが主人は、大雑把に金貨を拾った後は、
「…後ろのは、弟さんかい? 何か、おいしいものでも買ってあげな」
といった。後ろで、デューが吹き出すような声を出した。
「やったね、大成功だ」
デューはほくほくした顔で、主人がとらなかった代金を自分の袋の中にいそいそとおしこんだ。
「あらまあ、デュー、余りは返さないの? みんなから預かったのではなくて?」
「いいんだよ、のこりはオイラのおだちんさ、武器屋のおやじだってそういったじゃないか」
「…盗賊として大成するわよ、あなた」
「ありがとう」
デューは、今の時間なら、皆大食堂で暇を持て余しているはずだ、といった。私は、重たそうに抱えるデューから剣を何本か預かって、城の大食堂に入ろうとした…が、大きい物音がして、戸口で足が止まってしまった。一足先に中に入っていたデューは、何がおこったのか分かったらしい。
「やっぱり始まったか!
さあさあ、みんなオイラに注目! どっちが勝つかやってみない?」
と、手近の机に立ち上がって、兵士から金を集めはじめる。
「?」
立ちすくんだ私の前に、飛び出してくるのはエーディン様とアイラ。
「…一体、何が」
「ええ、あなたは見てもわからないことですわ。男の人って、血の気があって…ね。
あちらでお茶にしましょう。誰か、お荷物を預かって差し上げて」
「今、あんたがいったら、火に油をそそぐだけだ。いない方がいい」
私は、お二人に、両脇を抱えられるようにして、自分にあてがわれていた部屋につれていかれてしまった。
話によれば、兵士が、女性のことについて、喧嘩をはじめただけらしい。
「でもそれが、私とどう」
「…話が、複雑なんだよ。端的にいえば、あんたが、」
と、アイラ。
「お兄様のような方でなければ、誰とつきあいそうか…意見が別れたんだ」
「はあ」
「やることがなくて、そんなことばかり考えているんだわ」
と、エーディンがため息をついた。
「…兄上が判断基準の一つの方法というのは、私も分からなくはない」
と、呟くようにアイラが言う。
「アイラが?」
「アイラにも、お兄様がいるのよね。シャナンのお父様だったかしら」
「そう。よく冷やかし半分にいわれていた。兄と戦って最低互角でないと、私の相手として安心できないと。私も、そう思っていた所があった」
「だからといって…今度のことは、喧嘩する程ではないですわ」
「今頃は、さんざ殴り合った挙げ句に、エスリン殿あたりが止めに入っているだろう」
私は、すすめられたお茶を二人の会話に耳を傾けながら、黙々と飲んでいた。兄が「彼ならお前の相手として信用できる」と、誰かを私にあてがおうとする姿は…実際想像できなかった。兄が、理屈はどうあれ盲目的にそそいでくれた愛情というものに、浸り過ぎていたのかも知れない。
「…エーディンが時々かしてくれる本では…女性を巡って決闘をするというのは、よくある話だな」
「そうね。戦ってまで人を退けて獲得したい存在があるということは確かなのでしょうね」
「…妙に、あなたがいうと説得力がある」
「…アイラ、茶化さないでくださいな」
…立ちすくんだ私にも、ほんの少しだが、その光景は見えていた。遠めすぎて、正確には分からなかったけれども、二人とも、ただの兵士じゃない、私の知っている人間だった。
でも、それ以上のことは分からなかった。その先を思いだそうとすると、青白い光が弾けて、頭の奥が痛む感覚さえする。
…お兄様のような方が本当に、どこかにいるとしたら…私は、どうする?
そういう存在が、兄につれられて出てくるのか…自分からあらわれてくるのか…
…それとも、私が探し出してくれるのを、まっている?
見つけた時、私はどういう顔をして、その人に向かうだろう。どんな顔で迎えてくれるのだろう…その人は。
…兄でない、誰でもない、まだ見たこともない存在に、こんなにまで心を馳せたのは、はじめてのことだったかも、しれない。
つかの間の、凪の時間だった。
約束の時間は、一年。しかし、その時間が果てるのももどかしいように…シャガールが、動いた。半年、それが、堪えることを知らないあの男が待てる、極限だったのだ。
ジャガールは、この半年というもの、アグステイに遠く離れたマディノに逃れていた。
そのシャガールを、アグスティ陥落直前に助け、マディノに逃してたのは、ほかならぬ兄なのだそうだ。投獄されていたはずの身柄は、突然シャガールによって解放され、マディノへの後退を助ける様、命じられたとも聞く。信じたくないが、シグルド様が直に御会いになり、その事実を聞いたというのだから…間違いはないのだろう。解放されなくても、兄は自ら脱獄までして、それを実行するはずだ。ただ、兄にも私にも因縁浅からぬマディノを後退場所に選んだシャガールに…何の苦言も呈さなかったのは、兄も動転していたからか。
兄はクロスナイツとともに、アグスティに近い砦シルベールに、こちらを牽制するように、見守っているように留まっている。
何度か手紙を出したが、返事は来ない。
とまれ、シャガールの軍勢はじりじりと、アグスティにむけ展開されていた。
「かなり好戦的な雰囲気です。城を出て間もなく、大規模な戦闘に入ることは間違いありません」
と、地図を開きながらオイフェが言う。
「シルベールの動きはどうだ」
苦しい顔でその先を促すシグルド様に、奥様は細いからだを一層折り込むようにされて、寄りそっていらっしゃる。
「シルベールでも、把握できなかった動きかと思われます。一年という時間はきっと守らせると、シャガールは約束させられているはずですから」
「軍を出して来ない所が、せめてものやつの抵抗で、シャガールにとっては誤算だろう。
きっと、シルベールの援軍を期待しての行動なのだからな」
と、キュアン様。
「どうするんだ、シグルド? このまま、アグスティを包囲させておくのか?
明らかに、向こうの約定違反だぞ。
友誼を持って耐えて、あいつが動くのを待ってもいいが…」
「義理を欠くのが何より嫌いなあいつのことだ。
それに、相手が曲がりなりにも御主君様となれば、欠きたい義理も欠けねぇでいるんだ。
大将、根性据えちまえ」
待切れないというように、ベオウルフも口を出す。どちらも、何の一隣をよく分かっての言葉なのだ。シグルドさまは、その二つの言葉を黙って受けられた。長い沈黙の後に、
「制圧するのではない」
と、口を開かれる。
「マディノにて、約定の期間を改めてお守りいただく為の出陣と心得てくれ。
…布陣をする」
しかし、シャガールの暴走は止まらなかった。説得の準備のため城に近付く途中、シャガールはマディノを放棄、あろうことかシルベールに逃れた。
結局軍を出さなかった兄を、おそらくシャガールは怒髪天の勢いでなじり、貶めているだろう。
アグスティと、シルベールの間に、決定的に引かれた、埋めがたい溝。目眩すら覚えるような心持ちだった。近くて遠くなってしまったシルベール。すぐあえると信じていたそのひとのは、今は余りにも遠すぎる。
「今度ばかりはシルベールからも、軍をだねばならないだろう。マディノを放棄した今は、シルベールのみが、アグストリアなのだから」
シグルド様のお声は、限り無く暗い。シャガールがシルベールに逃れた時と同じくして、アグスティから奥様が謎の失跡をされたのだ。その悲しみを押されての軍議。誰も、声を出さない。
私は、何の為にここにいるのだろう。その沈黙の中、私はひたすらに、それを思っていた。
私はノディオンから、兄の帰還について全権を預かってきた。三つ子の騎士や廷臣のみならず、城下の民のことごとくが、私と共に兄がかえってくるのを心待ちにしている。
兄は、確かに、今は不条理な辱めをこそ受けてはいないものの、シャガールのもとに束縛され続けているということは、捕われていることと、何のかわりもない。
剰え。
私は軍議の終わりに、シグルド様に呼ばれた。そして、いわれた言葉に愕然とした。
「君には、後営に下がっていて貰いたい」
シグルド様は、確かにそうおっしゃった。
「…え?」
「君等兄妹が争う姿は、私は見たくないんだよ。
…すまない」
そして、立ち上がり、頭を下げられた。
「君のためにも、何とか事態を押さえようと努めてきた。もっと強硬にアグストリアを管理せよというバーハラの言葉に逆らいもした…
しかし、戦いは終わらない」
「兄も、この事態は予測し得なかったのです。シャガールは、兄と一年待つと、約束したはずです。
その一年を守らせられなかった、兄はその責任も感じていると思います」
「その一年をもっと短くし、早く元に戻したいのは、私もおなじだ。
しかし、シャガール自らが、アグストリア早期平常化の道を自分で閉ざしたことを、どこまで気がついているのだか」
「シグルド様」
私は、いよいよ兄の意向を確かめたくなってきた。こんなに事態を難しくさせる一方のシャガールに、どうしてついているのか。
「どうか、私を前方に置いてくださいまし。決して足手まといには」
「それはできない」
お答えは、私の言葉が終わるのも待たない勢いだった。
「君は確かに、自分から志願して、この軍の昇降の一人に名前を列ねていようが、大切な預かりものと思っている。君にもしものことがあったら」
「戦の成りゆき次第では、身内の不幸も余儀無いことと、そう兄より教えられてきました。覚悟はできています。
それに、本来これは、アグストリアの中だけで処理すべきこと、それを私の独断でシグルド様キュアン様に援軍の申し出をしたのですから」
「しかし」
「シグルド、だから俺はいっただろう? 急に下がれといっても納得しないって」
キュアン様がおっしゃる。
「いいから、前方に置いてあげてくれ。最前線とはさすがに俺も言えないが、第二線にはいられるだろう」
「…」
「な、シグルド、後は俺とエスリンとオイフェに任せて、眠ってくれ。
何日起きていると思っている」
「そうよ兄上、お義姉様のことは、探してくださる方に任せて」
「そうもいかない…正念場なんだ。あいつもつらいんだ」
「馬鹿野郎!体調を崩さないのも指揮官の仕事のうちだ!」
すくみ上がる程の強いお声。驚いて、二三人入って来た兵士に、キュアン様はシグルド様をお部屋につれていくように指示をされた。
「待ってくれ、キュアン、私は」
「ディアドラがいないと眠れないなんて、ナマな言い訳は聞かないぞ!」
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