シグルド様を頼るのは、ノディオンがこうなった事情の一端でもあり…兄は、望んでいなかった行動だと思う。だが、私と三つ子の出した結論は、それしか、我々が生き延びる方法はないと言うことだった。
「シグルド様はきっと来てくださいます。だから、それまでの辛抱…
 エリオットの軍勢が来ても、こちらから攻撃はしないで」
「かしこまりました、姫様」
三つ子は、私に、兄にするような最敬礼をして、執務室を出て行った。私も、そこを出て、城の東の棟…お姉様とアレスの所に向かう。
 兄を襲った不幸の報を受け、お姉様は卒倒されてしまった。お気がつかれても、そのまま、起き上がられる気配もない。
「もう、私、どうしたらよいものか、もうわかりません。
 アグスティの盟主陛下をうらみます、私の陛下が何をされたと…」
私が入ってくるなり、お姉様は、寝台でそう泣き崩れられた。枕の色が変わる程に、涙しておられる。レンスターから直接ノディオンにお入りになって、国内の事も良くわからないのに、今回の動乱…、おそらくお姉様のお心は、それまで経験されたことがない程押しひしがれていることだろう。
「今、援軍を要請致しました。エバンスにおられるシグルド様に。援軍が到着するまでのせめて数日、持ちこたえられれば、きっとノディオンは助かります」
そう言うと、お姉様は少し安心されたお顔で、
「よかった…ノディオンは助かりますのね…陛下も御安心になりますわ」
とおっしゃった。
「ノディオンが無事であれば、陛下がお帰りになる場所がありますものね…陛下さえお戻りならば…全て元の通りになりますものね…」
「申し訳ありません。兄上の御身の上が穏やかならないことは分かっておりました…もっと私が強くお引き止めしていれば…」
「ええ、ええ、あなたはいいのよ…それより方法がなかったと言うなら…陛下も御責めにはなりませんでしょう…私はここで、陛下のためにお祈りをするだけ…」
お姉様のお目は、どこかを見ているようで、どこも御覧になっていなかった。おそらく…どんな話をしてもきちんと聞いては下さらないだろう。お姉様の側を、離れるべきか否か、ふと迷った時、アレスの泣き声が聞こえた。侍女が遠慮がちに進み出てきて、
「お妃さまを」
と言う。でも私は、
「お姉様は、少しゆっくりさせて差し上げて。私が行くわ。
 アレスは、何故泣いたの?」
「はい、それが…ああいうお小さい方は、何故とお尋ねになられましても」
「そう」
私が、アレスの部屋に入ると、確かに彼は、侍女とおもちゃに囲まれながら、不機嫌をまき散らすように泣いていた。
 抱き上げる。しっくりと重い。アレスはすぐに泣き止んで、まぢかの私の顔に触れてくる。小さい、柔らかい指。頬を指先で触れると、アレスはすぐ笑い顔になる。細くなる目が兄にそっくりだ。
「どうしたの?もう笑って」
眠そうに肩に顔を預けるアレス。その時、脇の方から侍女が、やはり控えめに言ってくる。
「何?」
「姫様、どうか、お妃様に、少しでも王子様の元にいらっしゃるようにおっしゃってくださいまし」
「どういうこと? お姉様、ここにいらっしゃらないの?」
「はい…陛下を思いだされるということで」
私は、アレスの背中を叩きながら、少し考えた。お姉様の御考えは…わからないではない。私だって、こうしている間にも、兄の顔が、目の前を離れないのだから。
「そっとしてさしあげて。お姉様は、兄上が心配で心配でたまらなくてらっしゃるのよ」
「はあ、ですが」
「あなたたちも、兄上がこんなことになって、不安なのもわかるわ。でも、兄上がおられない間を、淋しくさせないのも、貴女達の仕事でしょう?」
「は、はい…申し訳ありません」
「ごめんなさいね、貴女達に当たるつもりなんてないの。少しの辛抱だから…ここには、表の不安を持って来ないでね」
「はい」
私は、アレスを侍女にあずけて、東の棟を守る兵士を二三呼び、ここには戦局を話題にしないようにいい、そのまま執務室の前を通り過ぎてしまったのか、気が次いだら、お母様の部屋の前にいた。

 うすぐらい部屋のカーテンをあけると、ふわりと光が入って、それまでと変わらない部屋があらわれた。お母様が、どちらかにお出かけになったままになっているようで、居心地が良かった。お母様の微笑みが、私を見下ろしている。
「お母様、ノディオンと、兄上を守ってくださいましね」
つい言葉になった。何もおっしゃらないけれど、私の体の内側には、暖かく点るものを感じていた。このあたたかさのうちに、いつもお母様がいらっしゃると、私は信じている。

 エリオット隊は、援軍の一足先にノディオンを包囲した。こちらの戦力を試すような、小規模な小競り合いがときどきおこる。とはいえ、ノディオンが赤裸同然なのは、クロスナイツが動けないと言うだけで、エリオットの頭でも自動的に導かれることであったから、おそらくは、強硬的に突入して、私の身柄に万が一のことがないように、あるいはこちらの白旗を待っているフシもあるのだろう。

 私は、その日も城の塔に登って、形の変わらないエリオットの布陣を見て、ため息を付いていた。一体、彼の頭の中では、何度私はこの身ぐるみを剥がされたのだろう。それを考えると、悪寒が走った。
 それを見たくなかったから、意識的に視線をそらした。その時、きら、と、光が入って来た。
 顔をあげる。東の方から、誰かが捧げ持ってくる槍の穂先なのだろうか、あきらかに金属的な輝きが向かってくる。
 直感した。援軍だ!

 私が何を見たのかもわからなかったらしい、戸惑うばかりの側の兵士をおしのけるようにして、私は一足飛びに、塔の階段を駆け降りた。
 執務室の三つ子に、声高く告げた。
「援軍よ! シグルド様がいらっしゃるわよ!」
張り詰めた数日の疲労か、集まっても言葉のない三つ子が、私の声で、一斉に立ち上がった。
「援軍、ですか!」
「そうよ、援軍よ! もう少し、もう少し我慢して、援軍と一緒に反撃するの!」
三つ子は、それぞれに、新しい戦の準備を始める。私は、地図の、東からの街道の上に、援軍の軍勢を表す新しい旗を立てた。

 シアルフィの他にも、グランベル他公爵家の旗も見えたような気がした。まったく意匠がことなってみえるのは、キュアン様の率いるレンスターの勢かもしれない。キュアン様もエバンスにお留まりだったのか、状況がひと段落したら、お姉様に会っていただこう、そんなことを考えていた。
 三つ子達の指揮をしようと外に出た時、私は名前を呼ばれた。
「シグルド様!」
「遅くなってすまない。さあ、援護をするからエリオットを退けよう!」
シグルド様はそうおっしゃられて、馬の首を旋回させて、戦闘の中に戻ってゆかれる。
 エリオット隊は、エバンスからの遠征軍の勢いにどんどん圧倒されてゆく。遠目にも、大将のエリオットが、遠征軍の騎士に落馬させられているのが見えて、じつに快かった。

 兄の執務室に、シグルド様達をお招きした。
「申し訳ありません」
お二人の姿を見て、私は反射的に頭を下げていた。
「私の勝手な振る舞いが、お二人にまで御迷惑を…」
としか、言えなかった。自国の動乱に、友誼とはいえ他国にその援助を要請する。それは、軍を指揮するものとして下策とすべきことと、兄はそう言った。その言葉が今さらに、国が救い上げられた喜びに変わって刺さってくる。
 シグルド様は、
「いや、何よりよく私達に教えてくれた」
とおっしゃった。
「どうやって、いつかの恩に報いようか、考えていた所だったんだ」
「一人で、恐い思いさせてしまったわね、でも、もう大丈夫」
エスリン様のお手が伸びできて、私を抱き締めてくださる。
「したことはしたことだ。今さら悔やむな、帳じりあわせは後で幾らでもできる」
とは、キュアン様のお言葉。
「こういう発想は、あいつは一番嫌ったが」
「おそらく、今度の事は、もうアグスティに伝わっていると思います。兄上が、それにより、またシャガールに辱められるのかと思うと」
「そんな心配はするな。シャガールは小人物と聞いている。あいつが睨み付けるだけで、震え上がっているだろう」
「ええ、そうならばいいのですけれど」
「とにかく」
シグルド様が、私の肩を叩かれた。
「君は、この城を預かる者として、その時とれる最上の策をとったと思う。それは、賞賛に値すると思うよ。私が君の立場だったら、何処まででできただろう」
「そんな…私は…」
「あいつは、いい生徒を持ったよ。
もし、君がしかられるなんて事になったら、…私達がたしなめるよ」

 エスリン様につれられて、ノディオンの大食堂に入ると、わあっと、歓声が上がった。私は、目を丸くする。入り口で、足を止めた私の背中を、エスリン様は押してくださる。
「ほら、勇敢な王女様。みんな、貴女のことを誉めているのよ」
シグルド様のお人柄に触れて、ここまで付いて来られた方達なのだ。グランベルの諸公子たち、シァルフィの騎士達、その他にも、沢山の人たち…
 名前も知らない誰彼に、声をかけられて、微笑みをかけられて、私は、その輪の中に加わりながら、涙が落ちてくるのを止められなかった。

 この御恩を、ほかならぬ自分で報いたいという思い立ちを、三つ子は止めなかった。
「ノディオンは姫様に全幅の信頼をお預けして、ひたすらに耐えることを、廷臣の総意と致しました。
 どうか陛下との御対面を果たされて、お早い御帰還となるよう、お計らいくださいませ」
と、イーヴ。
「近衛部隊と、我らの聖騎士隊から、それぞれ選りすぐって、守護部隊を編成致しました。御武運を、お祈り致します」
と、エヴァ。
「ありがとう…ごめんなさい。わたし、ノディオンを捨てるみたいで…」
「そんなこと、おっしゃらないでください。きっと陛下も、姫様がいらっしゃることを心待ちにされておいでです」
と、アルヴァ。
「吉報をお待ちしています」

 私の危惧は、あたってしまったらしい…。
 このことは、すぐアグスティに伝わった。シャガールは、ノディオンが他国に援軍を求めたことを、限り無く自分に都合よく受け取って、あるはずもない、兄の翻意をといただそうとして、筆舌に尽くせない酷い辱しめを味わわせているらしい。
 もちろん、こんなことは、お姉様には言えなかった。お姉様はすっかりお心を弱くされて、お部屋の寝台から、お祈りばかりされる日々になってしまわれた。
「お早いお帰りをお願いしてくださいましね…グラーニェは、陛下がいらっしゃらないと、寂しくて死んでしまいそう、と」
「はい。アレスのこともお伝えします…だから、お兄様のためにも、もうお泣きにならないで」
「はい…私、貴女がうらやましいですわ…私…外に出るなてとてもとても無理になりました」
おっしゃる側から、お姉様は涙を流される。私は、お姉様に、深く膝を折って一礼してから、部屋を出た。

 手の中に、お母様とお兄様を描かせた、小さい額を持って。
 私は、ノディオンを後にした。
 いつ帰って来られるか、そんなことは考えなかった。