そして。
 私の目の前には、兄が立っている。輝くような王の正装が、事態のただならない予感を、言葉より重く語っている。私は、腕にしっかりと、ミストルティンを抱きかかえて、兄のアグスティ登城の準備を見守っていた。
「どうか、早まったことはなさらないでくださいましね、兄上。もう、今までとは、勝手が違うのですから」
と、つい口になる。アグストリア盟主の、突然の代替わり。それにまつわる黒いうわさが、宮廷を席巻していた。
「お前まで、あのうわさを信じているのか」
兄は笑った。笑った顔まで、王の顔だった。
「シャガール王は、イムカ様とは逆に、これまでも兄上を目の敵にされてきました。…どんな方法であったにせよ、盟主となって、どんな仕返しが兄上にあるかと思うと」
「アグスティ本城に登れば、俺はアグストリア盟主に仕える騎士になる。騎士たるもの、逆に主君からその不名誉を除き、守り立てる努力をせねばならん」
「…ハイラインのボルドー親子が、先だっての兄上のお振る舞いについて、アグスティに報告をしたそうです」
「ああ、そうらしいな」
同盟を組んでいたはずのヴェルダン王国から突然の襲撃を受け、ユングヴィ公国を襲撃され、シアルフィのシグルド様が隣国のよしみでヴェルダンに進出、ついには国土をグランベル領に接収したことは、アグストリアにも伝わっていた。過去のものだとばかり思われてきた暗黒教団に毒されていたヴェルダンからその勢力を排除したシグルド様は、バーハラよりエバンスの城主に任ぜられ、国内よりお妃を迎えられて、そのお暮らしを落ち着きつつある。
 しかし、それまでに至る出来事によって、アグストリアの中には、要らぬ曲解が芽生えてしまった。
 エバンスをまず接収されたシグルド様は、そこを拠点に、さらに首都まで南進されることを決定されたそうだ。その時、兄はエバンスに向い、ヴェルダンと同じく国境を接するアグストリアには、十分な報告をするとし、シグルド様も、空当然になるエバンスの守護について、全幅の信頼を兄に預けてくださった。
「…シグルド様の行動はここに影響をおよぼすものではないとの兄上の報告を、アグスティでは正しく理解下さったのでしょうか」
「…」
問題は、その時起きた。守備の薄くなったエバンス城を、ハイラインのエリオットが向かったことが、事態を複雑にさせてしまう。全ては、あの男の、兄を困らせたいという屈折した感情からはじまったとしても過言ではないだろう。
 兄は、友誼によりエリオットを退けた。それに、ハイラインは過敏に反応したのである。
「ヴェルダンを突然制圧するに及んだグランベルの動きは当然看過するべきものではなく、ハイラインは、友誼によらぬ客観的な視点で、エバンスの主人シグルドの意志を確認する為、かの地におもむいた。そこをノディオンが、個人的な友誼をもってハイラインを退けたことは、在エバンスのグランベル勢力の意志を代弁にしたにほかならず、それはすなわち、ヴェルダンはあらぬ異端の嫌疑をかけられ、グランベルにたおされたとなり、次は国境をあい接するアグストリアへの進出を企み、ノディオンはそれを友誼のかさをきて支援しているのだ、と。
 このノディオンの行動は、アグスティに対する謀反にほかならず、今後のアグストリアのためにも許すことは出来ない」
との声明を明らかにし、アグスティ新盟主シャガールの覚えを勝ち得たと言うのだ。
「ハイラインに踊らされて、アグスティの廷臣は続々と反ノディオンに回りつつ有ると言いますが」
兄は、苦い顔をした。
「おそらく…それは、俺の報告の方法が悪かったからだろう。
 あらぬ疑いが、シグルドにかけられることになってしまった。すまないと思っている」
「兄上のせいでは有りません。自分だけが尊いとする、アグストリアの…いえ、シャガール王の増上慢のせいですわ」
すると、兄は、
「今お前が言ったことはすぐに取り消せ」
と、厳しい声をした。
「…何処で誰が聞くかもわからん。考えていたとしても、口には出すな。それが国を預かるものの行動だ。自らの尺度で、全ての物事を判断しようとするんじゃない」
「…はい。もうしわけありません」
「…今度のことは、客観的で中央に納得の行く説明をしなかった俺の落ち度だ。
 ヴェルダンに兵をすすめようと為さる陛下のお振る舞いは、やつのためにも俺が止めねばならんのだ」
兄は言い、最後に羽織ったローブを、一度手で払った。
「ミストルティンを」
「…はい」
私は、ミストルティンを渡し、帯に据え付けられるまでをじっと見つめた。その後、兄は私の横ながらの視線に気がついたのか、こう言う。
「…心配か」
とくに取り繕う必要もなかったので、素直に返答した。
「はい」
「どうして」
理由を聞かれても、にわかには説明できなかった。一切の政治的な事項が、兄の予測した通りに好転したとしても、兄の身を離れない一抹の不安。得体の知れない、何か大きいものが、その後ろにずっと張り付いているような… 昔、お母様に見たものとは、異質であり、おなじであるような…
「…言葉には、なりません」
「直感と言うやつか?
 大丈夫だ。ノディオンはあけるが、いつものことだ。俺はどうにもならん。
 お前にそんな顔をされたら、俺も出立しにくくなる」
「…はい…でも…」
「見送るなら、笑ってくれ」
俯き加減の私の顔を、下に入り込むようにしてのぞきながら、兄は笑った。
 そう。そういう不安を取り除くのが、お母様に誓った、兄上を見守る私の使命だもの。私は
「はい」
できる限りの笑顔で、兄を見返した。兄は、私の手をとり、それで自分の両手で、あたためるように包んだ。
「その笑顔が、一番よく似ている。
 何があるとしても、おまえの笑顔のためになら、俺は笑って耐えられる。
 守ってくれ、…俺の女神」
「はい」

 そのとき、
「難しいお話は終わりまして?」
と、お姉様が入って来られた。いつにもまして、身綺麗に装われるのが、兄を見送るお姉様の作法だった。
「ああ」
兄は私から少し離れ、お姉様と、その腕の中のアレスに向き直った。
「アレスも一緒か…
 よく笑うようになったな」
「はい、アレスはお父上が大好きですわ」
ヴェルダン侵攻の前に生まれたアレスは、そろそろ一つになろうとする可愛い盛りだ。兄も、内政の間をかいくぐるように、お姉様達のそばにいることが多い。
「グラーニェ。たびたびの外出で心細い思いをさせてしまうな。…すまない」
お姉様に、そう優しく言った。
「アグスティについたら、たよりをだそう。なるべく早く帰る」
「はい。お帰りをお待ちしますわ」
お姉様はそう鷹揚におっしゃって、お土産の無心など始められる。
 そのうち、三つ子の騎士の一人が来て、出立の時刻を告げる。
「陛下、お発ちの前に、アレスを抱き締めて差し上げて」
兄は、それに頷いて、お姉様からアレスを渡される。
「…重いな」
そう笑った。そして、騎士に言う。
「エヴァ、お前達三人は、部隊ごとノディオンにのこるように。すぐ帰る予定だ。しきたり通りでは仰々しい」
「御意」
アレスを腕の中にして窓の外を望む兄の表情は伺い知れない。しかし…装われたいい口には、やはり、私を不安にさせるものが滲んでいた。
「俺のいない間、ノディオンを頼む」
その言葉は、私にむけられたものだと、信じている。

 兄が、三つ子の騎士を部隊ごと残した理由は、…やはり…中央に対する遠慮ではなかった。
 ほどなく、兄が投獄されたという報告があり…ノディオンの謀反は疑いなしと、シャガールは「粛正」を決定した。
 そして、今、城には、ハイラインからノディオンに向かって、エリオットの手勢が再び迫っていた。
「陛下の御英断には感服するばかり、こうなればノディオンは死守せねば」
と、アルヴァ。
「姫様、後事を陛下より託された以上は、我々が命にかえてもお守り致します」
と、エヴァ。
「…御心配なく、我々がおります。陛下との演習を踏まえられて、宜しく御裁可を」
と、イーヴ。
私は、兄の執務室で、広げられた地図に軍勢の位置と大きさを示す印がたてられてゆくのを、冷や汗が吹き出すような緊張感をもって見つめていた。予想されるハイラインとアグスティの勢力にくらべて、我々ノディオン軍の、なんて小さいことか。
「こと、ただいまノディオンに向かっておりますエリオット王子には御注意召しませ、姫様。王子のかねてからの御執心をかんがみれば」
「話によれば、シャガール王は、美姫の誉れ高い姫様のお身柄と陛下とで、取引をも考えられている由」
「しかしエリオットのこと、姫様ははやアグストリアの至宝とまで讃えられておりますゆえに、それに先立っての御乱心の懸念も捨てられませぬ」
三つ子が、同じような声で、地図のそこここをさしながら何か言い合う。私は
「シャガール王はもちろんです。エリオットなど論外です。私は、兄上のような方でなければ、誰の所にも嫁くつもりはありません」
と言った。一度お姉様に言ったこの方便は、子供じみたいい口ではあったが、それ以上この話をさせない為には実に便利だった。
「姫様、弟達に釣られませぬように。今は姫様よりはご裁断を仰ぎたく」
案の定、イーヴが苦い顔をする。
「いかがされますか? エリオットは愚将ですが、愚かゆえになにをしでかすかわかりませぬ」
私は、こうしている合間にも、エリオットが、自らに吹く追い風に頼んで、脂下がった顔を妄想にゆがめながら迫ってくる形相が想像されて、不快なものに突き上げられる胸を抑えてしまった。
「…アグストリアの内に、ノディオンに友誼を感じている勢力はないの?」
「…申し訳ございませんが」
「お祖父様が生きておられたら、きっとお力になってくださるのに…」
「古い勢力は、飛ぶ鳥落とすシャガール王の勢力におされて、鳴りを潜めております。元来、イムカ様はいたずらに激しいことはお好みになりませんゆえに…」
苦しい声だった。マディノのお祖父様も、先年なくなられた。それが悔やまれる。
「ノディオンの周りがどうなっているか、ちゃんと教えて」
「は」
イーヴが、長い棒で地図のあちこちを押さえはじめた。
「ハイラインはご存知の通り、アグスティの先鋒となって、ノディオンに兵をすすめております。
 アンフォニーとマッキリーは、優位になる勢力を見極める意図が有るものと思われ、今はこの動乱にに表立っての立場をしめしておりません。が、いずれ、我々に敵対することは明白と考えます。
 クロスナイツはアグスティを守護する特別部隊として、かの地にて拘束を受けております。事実上、ノディオンを守護するのは、われわれの部隊のみ、と、いうことに」
私は、奥歯を噛んだ。ここまで劣勢なことなど、今までの演習にはなかったことだった。本当なら、ここで、アグストリアに有るだけの呪いと罵りの言葉を吐き出したかったが、そうした私の取り乱す姿は、きっと周りを不安にさせることだろう。

 国内に味方のない今、わずか残された勢力でノディオンをまもりきることができるか。そういう問いに対して、私の頭の中は、絶対的に不可能と、叫び続けている。
「姫様、ご裁断を」
そう促されて、私は、
「アルヴァ、ここからエバンスまで、どれくらいかかる?」
そう口にしていた。