そして、お母様の事が公になる。
それから御葬式までの二三日と言うもの、お兄様は、今まで見せていた笑顔を見せなかった。
「家族として…父上が出来なかった分も、あつく見送りたい」
お兄様は、御葬式の準備を手伝う家臣達に、そう言ったそうだ。
私は、それまで、一人になると時々泣けてしまうのを、止めようと思った。
なにより、お母様は涙がお嫌いだったもの。
当日、全ての予定を終えてから、お兄様が城の何処にもいないと誰かが言い出した。お姉様も、心配そうなお顔をされる。
でも私は、心当たりが有るような気がして、
「お兄様を探さないで」
と言いおいてから、お兄様のいる場所に走った。
私の思っていることが正しければ、お兄様は、お母様のお部屋にいるはず。臨終の時まで、お兄様をいれて差し上げなかった、お母様のお部屋に。
案の定、だった。
お兄様は、お母様の部屋の、寝台に座っていた。お父様が描かせたのだろうか、お若い頃のお母様の肖像が壁にかかげられているのを、ろうそくの明かりだけでじっと見ていた。
邪魔をしてはいけないような気がした。声をかけ倦ねていると、私の気配が分かったのか、振り向いて
「本当に、いなくなってしまったのだな」
と、言った。
「一ヶ月、忘れていられるかどうか…自分を試していたつもりだ。作法にある喪の期間が過ぎたら…俺はクレイスの事など、知らなかったようにふるまわねばならん」
「そうですね。王様が暗いお顔をしていたら、みな心配しますものね」
と言うと、
「よそ事のように言うんだな」
と、笑った。
「…そうだ、皆はどうしている?
俺がいないのが、そろそろわかる頃かと思うが」
「はい。でも、私はお兄様のいらっしゃる場所がわかりましたから、誰にも探すなと言ってきました」
「グラーニェは」
「お母様の為にお祈りをされるそうです」
「そうか」
お兄様は、ふう、とため息をついた。
「考えていたんだ。もっと早く、迎えれてあげれば良かったと」
「お姉様を?」
「いや、クレイスを。
そうすれば…もう少し、長く生きてもらえていたかも知れない」
お兄様は、ぐっと背中を折ってうなだれた。私は、その隣に座って、お母様の笑顔の肖像を見上げた。
「グラーニェには、こんなところを見せて心配をかけたくない」
そう言ったのは、確かに聞こえた。でも、お兄様の言葉は、途絶えた。顔を手で覆う。その隙間から、震える息が聞こえる。いつかお母様が、お部屋に帰りながらもらされた、あの声と、おなじ。
「お兄様?」
「…すまん…」
この一ヶ月の間耐えていたものが、今迫っているのだろう。震えている肩に手を乗せると、お兄様はその手を引き寄せ、両手で握りしめた。涙で、湿っていた。
「何も、してあげられなかった」
「そんなことありません。ノディオンに呼び寄せていただけて、お母様、本当にお幸せそうでした」
「あれ以上の扱いは、できなかった」
「…」
「できれば、お前も、俺の娘として出会いたかった」
「…」
それが、今まで隠されてきたお兄様の心なのかも知れない。恐いくらいに、刺さってくる。
「俺が…もう三年早く、生まれていたら…」
涙が出てきた。なんて真直ぐで、切なくて、壊れそうな程綺麗なこころなんだろう。お母様も、この心がわかっていたから…ノディオンとマディノに離れても、ずっと忘れずにいられたのだ。
「今の言葉…お母様に、聞かせてあげたい…」
「いいんだ。クレイスは…俺の中にいる。俺だけのものになった。もう離さない」
その時、私は、ふと、お姉様の事が気になった。お母様のためにお祈りをされるお姉様、お母様の臨終に、涙を流されたお姉様。
「お姉様は?」
「…」
「お兄様、お姉様は…」
「…自信がない」
お兄様の声は、弱かった。
「…対面を取り繕うのは幾らでもできる。しかし、それ以上の事は…」
「お母様のお願いは、お姉様を、御自分の代わりに、王妃として大切にして差し上げることだと、思います。だから、最後は…お兄様と御会いにならなかったのですわ」
「…そうしなければ、ならないか」
「…たぶん」
お兄様は、私の方を見ずに、顔をあげた。
「ヘズルの血は…お兄様とお姉様でなければ、伝えることは出来ないのです。
もしお母様が生きていらしても…体面的には母となった方を妻に迎えるのは…よくないことですもの」
「…」
「ね、お兄様」
「…」
お兄様は立ち上がって、お母様の顔をじっと見た。
「私も、お母様を忘れずに、生きて行きますから。一緒に、思い出話を…しましょ」
とたん、お兄様が、私の顔を見た。視線で射すくめられる。お兄様の顔から、目が離せない。
「どこにも行くな」
「え?」
「離れるな、俺の側にいろ!」
むき出しの感情が突き刺さる。お母様に言えなかったその言葉が突き刺さる。一生抱き締めるその思いを包む、その心の綺麗さと危うさを…お母様から血をわけた私でなしに、誰が守りうるだろう。お姉様は…こういうお兄様へ、全てを預け、守ってもらいたがっておられるけれども…
私も立ち上がれ、お兄様が引き寄せるままに、その胸におさまった。
「わかりました。どこにも、行きません」
「本当に?」
「はい。神様が、そうお決めになっていたとしても」
お兄様は、私に、長い口付けをした。
「守ってくれ…俺の女神」
「はい、お兄様」
私が、兄の側で内政の補佐をしようと思い立ったのは、お母様の御葬式が終わって、何ヶ月かたったころだと思う。
お姉様は、
「王女が内政のお勉強なんて」
と、拍子抜けの顔をされた。おそらく、たいがいの王女は、内政などと言う四角いことよりは、もっと王女らしい習い事をするだろう。私は、その時間を削って、内政を、兄や三つ子の騎士や家臣から学ぶことに決めた。王としてアグスティにたびたび参上する時、せめて心配をしてもらいたくなかったから。
兄は、私が書類を覗き込むと、見やすいように持たせてくれるし、精通者が吹き出してしまうような簡単な質問も、快く答えてくれる。私を側に置くことが、たまらなく嬉しいようだった。私も、その心に答えたい一身で、兄の側をできる限り離れなかった。もちろん、お姉様の邪魔はしない程度に。
そのお姉様が、
「一体どういった方がお好み?」
と、お尋ねになる。サロンの貴婦人や家臣の方々からお預かりした手紙を、私が一通も手に取らずに侍女に預けた時だった。
「二年も三年もお手紙にお返事がなくて、みなさまいぶかしんでおられます。もうどこかに、お心がお有りなら、陛下に申し上げてお話をすすめていただいたら?」
お姉様のお言葉には、他意はない。ただ、お母様がいなくなって一人きりの私をご心配されての事だ。
「陛下のことですもの、きっと悪くはおっしゃりませんわ。貴女のお眼鏡にかなったお幸せな方の顔を私も見たいですわ」
だが私は、その時、内政の役に立つも知れないと、兄の蔵書から歴史書を借り受けていた所だった。見たこともないような難しい単語が、私に他の考えをさせることを妨害する。だから私は、これ以上率直にしようもなく、お姉様に答えた。
「廷臣や、その御子弟の方々には、まったく興味ありません」
「あらま」
お姉様は、困ったような呆れたようなお顔をされた。それから
「では、お国の外になりますか? シアルフィのシグルド様は、お隣のよしみでよくおいでになりますけれども」
とおっしゃる。探るようだったが、やや決めつけた感もあって、私はつい笑ってしまった。
「ちがいます。それはシグルド様に失礼ですわ」
「あら、そう」
お姉様は、じつに寂しそうなお顔をした。
「私はまだ、お嫁の行き先は決めていません」
と言うと、
「ええ、でも」
とおっしゃる。
「そのうち、お決めになりませんと。今日お会いしたハイラインのエリオット王子など、うんともすんともお返事がなくてもう眠れないと恨み言を」
言われて、私は、エリオットの脂下がった顔を思いだした。会うたびの肘鉄砲など、もう痛くも痒くもないらしい。
「お話は聞きますわ。ボルドー様も乗り気でいらっしゃるとか」
喉元にまで、なにか不快なものが上がってくるような気分だった。いつか私を城に押し込んだ、王子の風下にもおけない王子…最っ低。
それをそのまま口にしたら、お姉様は卒倒されるだろう。だから
「でも私」
と、言いたいことは全て飲んだ顔をした。
「ええ、あの方に限っては、陛下は論外とおっしゃって。安心なさいまし」
お姉様は、気が乗られたらしく、くすくすと笑われた。だがすぐ真面目なお顔になって、
「陛下は、どう御考えなのでしょうね。何度か、申し上げたことが有りますけれども、『まだ先の話だ』とおっしゃるばかり」
「…」
その真意は、私にしかわからない。
「ですから、私が独断でお世話差し上げてもよいものかしら?」
「…」
お姉様は…お嫁に来ることで、今の幸せを得たと思っていらっしゃる。それは真だ。お母様を失って、よりどころをなくした私に、新しいよりどころを得ることで、幸せになってもらいたいのだ。その心が伝わってくる。
「私…」
でも、お姉様とお話をしているその最中にも、私からは、兄の顔がはなれなかった。
内政を執る兄は、ノディオン王であり、アグストリア盟主に忠義を尽くす騎士である。響きやすい、壊れやすい、悲しいまでの綺麗な心を毅然と王たる自覚で鎧う姿が離れない。私がいなくなって…誰が支えてあげられるだろう。
「私…」
「ええ」
「お兄様のような方が、どこかにいらっしゃるなら、その方の所には、いっても良いと、思います」
苦しい言葉だった。でもお姉様は、言葉に無邪気さを感じたものらしい。
「あらまあ、それは到底無理なお話。私達の陛下程のお方なんて、二人といらっしゃるなんて、私には考えられませんわ」
「…」
「はいはい、わかりました。このお話は、しばらくしないことに致しましょうね」
お姉様は、たあい無く笑っておられた。そして、お立ちになる。
「サロンに、いらっしゃる?」
と聞かれて、私は、
「申し訳有りません、この本を早く読み終えたいので」
と、読みかけの歴史書をお姉様にかかげてみせた。
「では、気が向いたらおいでなさいまし」
お姉様は軽く頭を下げられた。
もう、御出産が近いのだ。左右を侍女に支えられるようにして、お姉様は、持て余しそうな程に大きくなられたお腹に手を添えられる。
「あらあら…私が立ち上がって楽になると、暴れん坊さんになるのね…困った子」
と、笑いながら、お部屋を出てゆかれた。
私は、そのお姉様を、少し苦い思いで見送って、また歴史書に目を落とした。
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