存外に、『マイラの末裔』亭の夜は静かだった。
自棄酒不貞寝のいびきも聞こえないわけではないが、それを無視して、そっと耳を凝らすと、温泉でお肌ぷるぷるつやつやの恋人(ないしは妻)を放っておけないささやきが、こそこそと、もれてくる。
さて。
「誰もいない?」
露天風呂への階段のあたりで、こそ、と声がした。ロビー階は実に静かで、自販機のコンプレッサーの音だけが、時々ぶん、となるだけだ。自販機が何故あるのか、突っ込んではいけない。
「鍵かして。先に行ってる」
「お気をつけて」
たぱたぱたぱ、と旅館スリッパの音が部屋の方に向かってゆくのを見送って、
「…なぜ、私たちここまでこそこそする必要があるんです?」
いやそう書き手に向き直られても。それより、大概が部屋に引っ込んだような時間まで何をしていたのか、ぜひここは本人からの説明を聞きたいところである。
「秘密です」
秘密にされてもスジは書き手が作るのだから秘密ではない。
「…ご想像のとおりですよ」
よろしい。とにかくフィンは、ぼんやりとひかる自販機の前で、がしゃんがしゃん、と買出しを済ませる。何気に、Sドリンクのボタンが売り切れ表示になっていた。
と、
「きしさまみつけたー」
と声がして、フィンは心臓が飛び出たような顔で振り向いた。エスリンが、アルテナを抱き上げて立っている。
「お疲れ様」
「とんでもありません」
「まだ気は抜けないわねぇ。エリオット王子さえいなければ、あなたも今頃お楽しみなのに」
「そ、それは」
「それとも?」
「何か御用ですか」
はぐらかすフィンにエスリンは目を細めて、何かの袋と一緒に「はい」とアルテナを渡した。
「しばらく、お願いね」
「エスリン様、しばらくって」
「あなたが上がってくるまでもうずいぶん待ったのよ。じきにむかえに来るから」
すたすたすた、ともと来た道を帰って行くエスリンの後姿は有無を言わさない力があった。
「…」
袋の中には、売り切れランプのついていたSドリンクが二、三本。そして腕にはアルテナ。
「きしさまとおねむなのー」
とすりついてくるアルテナをむげに両親の元に送り返す、ましてや置き去りにすることもできず、「たはぁ」と、フィンは己の便利さを今回ばかりは悔やむのであった。
人目を避けるように、そっと階段をすすむラケシスの視線の上に、白い姿がぼんやりとみえて、手招きをしているように見えた。
「ひ」
しかし、それは幸いにも幽霊ではなく、グラーニェの姿だった。
「お姉様」
「ごめんなさい、驚かせて」
「どうされたのですか、兄上は」
「お部屋です」
グラーニェは
「あなたのこと、ずっと秘密にしておきますから」
といって、手の袋をそと握らせた。
「ご安心なさって」
「は、はい」
後ろを振り向きながら、心配そうに帰ってゆく義姉の姿を、思わず呆然と見送って、袋の中を見る。ジュースがふたつ、それと、やっぱりSドリンク。
静まった廊下に、部屋の明かりがすう、と漏れた。
「お前、ホントにやるの?」
とデューがあきれ返ったように言う。
「やる」
「とめないけどさぁ…そこで寝てるオイフェ起こすのオイラごめんだからね」
「わかってる」
シャナンが部屋を出て行った。デューはふう、ため息をついて、後ろを見る。泥のように眠り込んでいるのは幹事の実行部隊だったオイフェ、さらにもう向こうに一山あるのは、同室の有象無象の余りの酔い乱れように貞操の危機を感じて半泣きで駆け込んできたミデェールである。どこまで行ってもかわいそう。
非常口ランプの緑の淡い光の中、抜き足差し足で、
「えーと、ここだな」
部屋の番号を、薄明かりで確認する。
「まさかもうあいつ、いるとか言わないよね?」
シャナンは、ぺた、と、片耳を部屋の扉につけた。
万事イザーク風のアイラの部屋には、すでに布団がのべられて、すでにくんづほぐれつの…マッサージがおこなわれていた。
「い、痛い痛い」
珍しく、アイラが弱った声を出す。
「痛いところがこってんだよ。お前毎日肩肘張って暮らしてんだろ、がちがちだぞ」
うつ伏せになったアイラの腰の辺りにレックスが乗り上げ、ぐきぐきと肩をもんでいる。
「指圧のココロは母ゴコロってな」
といいながら、背筋をよいしょ、と押してゆくと
「いたたたたたたた」
とアイラが身をよじらせる。
「素人が無理に押しても痛いだけだ、止めてくれ」
「そういうなって。今抜いていつサービスできると思ってんの。
それより、お前、背骨曲がってるん違うか? 椅子座って足組むのは曲がってる証拠だぜ」
「お前だって、そうだろう」
「俺はいいの」
ごきぐきっ
「ううう」
「ふむふむ、あとは、背筋を摩擦して温める、と」
背筋を手のひらで押して行くと、アイラが
「ふぇ」
らしからぬ声をあげて、急に枕に布団を押し付けて震え始める。
「何だよ」
「な、なんでもない…」
「ホントになんでもなくないのか?」
もみもみ、もみもみ。そのうちアイラが
「か、勘弁してくれ」
と声を出した。
「指がわき腹に当たってくすぐったい」
「我慢しろよ、それっくらい」
身を丸くしたアイラの脇に胡坐をかいて、レックスはしばらく「しょうがないね」とした顔をした後、にか、と笑う。
「そういえば、お前のオードの聖痕、俺見たことないんだよね…」
途端アイラはかっと顔を赤くして、
「さ、探さなくていい、探さなくて!」
「体ほぐしながら探すんだから幸せってもんじゃないか、ほれほれ」
また浴衣の帯がしゅるしゅるっとほどかれて…
暗転しばし。しばらくそのままでお待ちください。
暗転といっても、本当に暗くしていたわけでない。聖痕の場所まで見つけられてしまって、いつになく情熱的に「いぢめられて」しまったアイラが、ゆるゆると浴衣の前を直す。
「…これでは入り直しじゃないか」
「何度でも入ってくりゃいいさ。それだけぷるぷるつやつやになって俺としては嬉しい限りだ」
「…黙れ」
きゅ、と帯を締めなおし、部屋を空けようとする、が、
「ん?」
「どうした?」
「扉が開かない」
「まさか」
二人でよいしょ、と扉を開けると、急に扉が軽くなって、
「あ」
二人は前のめりになった。と、その視界にシャナンがいる。
「シャナン、どうした」
アイラが尋ねると
「やっぱり、お前いたんだな!」
シャナンは剣をレックスの鼻先に突きつけた。
「聞いたぞ、アイラが痛がるようなことしたり、くすぐったり、アイラに聖痕の場所聞いたりしただろう」
「シャナン…」
部屋のあかりで逆光になっていたが、アイラの顔はシャナンのセリフに青くなり赤くなりする。
「アイラ、いやならいやって、ちゃんと言えって言ってるのはいつもアイラじゃないか、なんで黙って言うとおりになってるの?」
やっぱり、僕がいないとだめじゃないか。シャナンは、レックスを押し出すように部屋の扉から放して、
「アイラは僕が守る。自分の部屋に戻るんだな」
という。が、その首根っこがぐい、と掴まれた。
「自分の部屋に戻るのは、お前のほうだシャナン」
「え?」
聖痕の場所探しまで聞かれていたとなれば、一部始終を聞かれたも同じである。それに、無理やり素人指圧のイケニエになってはいたが、むしろ、いつもの世界に戻ったらまずできないスキンシップであったのに。
いつもならこれこれと理論立ててシャナンの誤解を諭すアイラも、このときはなぜか彼を許すような雰囲気でなく、シャナンが着ていた子供用の浴衣の後ろをまくると、その尻ぺたにぱしぱしぱしぱしぱし、と流星びんたを叩き込み、くるっと、浴場に向かって歩いていった。その尻ぺたを押さえながら
「僕、ひょっとしてアイラ怒らせた?」
「ひょっとしなくても怒らせた、かもな」
レックスは処置なし、という顔をして、
「姐さんが戻ってこないうちに、部屋に戻ったほうがいいぜ」
と言った。
「お前は?」
「とりあえず、帰りを待つさ。姐さんを痛がらせたりくすぐったりしたのを、一応謝らにゃならねぇしな」
「ちゃんと謝るんだぞ、謝ったら、ちゃんと自分の部屋に帰れよ」
シャナンはぶす、っとして、自分の部屋に帰ってゆくらしい。
「まあ、かえれったって、俺の部屋もここなんだがね」
一方、超小型にして超強力リーサルウェポンのアルテナはといえば。
さしものラケシスも、あずかったと言われたときには呆れたような顔をしていたが、アルテナがじっと見あげて、
「かわいいおねぇちゃま」
といった途端、ころん、と態度を変えた。
「こんな女の子が私にも欲しい」
ほいと預けられて遊ばせているあいだ、ついこんな言葉を漏らすと、応接セットのあるほうで、何か作業をしていたらしいフィンがorzとなっていた。
「あのね、あのね、アルテナね」
ベッドの上でぴょこんぴょこんとはねながら、
「きしさまとここでおねむするの」
という。ラケシスの顔が笑顔のまま引きつった。
「あらそう、それは楽しみねぇ」
ちなみに、この部屋はツインではなくダブルである。
「それでね、きしさまのおよめさんになるの」
「あらまあ」
ぴしぴしぴしっ。彼女の体から、負の波動のようなものが出た気がした。
「王女、真に受けられずに…」
応接セットで仕切るようにして、フィンは予備の寝具で寝る用意をしているらしい。それを見てみぬふりをして、
「どうしましょう、私も騎士様のお嫁さんになりたいの」
「ふたりでなるのよ。そしたらいっぱいしあわせよ」
「ああ、それはいい考えかも知れないわ」
ねー。一見とても仲のよい顔をしたが、3つのアルテナに、ラケシスの背後の負の波動が見えないのは、リーサルウェポンのリーサルウェポンたる所以である。
「と、とにかく」
準備をあらかたおえたフィンが
「アルテナ様をこちらに」
と手を出すが、ラケシスはぷん、とあさってのほうを向いて
「アルテナちゃんはこっちで、私と一緒におねむなの」
と言う。
「いいことアルテナちゃん、女の子は、本当にお嫁さんになるひととは、お式まで一緒におねむしたらいけないのよ」
もちろん、大嘘である。しかしアルテナには説得力絶大であったらしく
「そうなの?」
と聞き返してくる。
「そうなのよ、だから、私とおねむしましょ、ね?」
「うん」
そんなとき、とんとん、と戸がなる。
「アルテナ、眠っちゃった?」
というのは、エスリンの声だ。
「ああ、よかった、エスリン様」
ラケシスが、アルテナを抱き上げて、扉の方に向かう。
「とても元気でしたら」
「迷惑でなかったかしら」
「いいえ、全然」
「そう」
あれよあれよとアルテナが帰っていって、部屋はぽつん、と二人だけになる。
ぱたん、かち、とラケシスは内から鍵をかけて、フィンを一瞥して、少し恨めしそうな顔をした。せっかく二人になったのに、ここまで完璧に別に寝る用意がしてあるなんて。
「もうしわけありません、これには理由が」
といおうとしたフィンを見やりもせず、
「おやすみなさい」
ぷいっとそれだけ言って、彼女はさっさとベッドの中に入ってしまった。
「ほかの創作になると途端に私の分が悪くなるのは一体何かの陰謀ですか?」
…陰謀というか、なんというか、…まぁ、気にするな。
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