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 その彼女はイネスという。まだユリアが幼く、母ディアドラとともに会ったころ、あそび相手の1人として見いだされたというが、顔立ちも背格好もなんとなくユリアに似て、物慣れぬ侍女などは間違えもした程だったという。
 とまれそのイネスが、スカサハに呼び止められ何やら会話をしたわけであるが… 王宮の中の新邸の増築には、よんどころなく、多くの人間を王宮の中に招き入れることとなり、スカサハとイネスの長い語らいも、当然多少の人間の目にも触れられることになる。ユリアが、まだ不可侵のシャーマンの体であるというその事実と相まって、ユリアに似ているというイネスが、抑制しきれなかったスカサハの本能の部分を、あるいは開放したかもしれない(あくまで「かもしれない」)と言う噂は、半可通の絶好の興味の的となって、ひそひそとこぼれていった。もちろん、そういう噂は、ユリアの耳にははいらないようにされ、イネスが急病として自分の側に上がらなくなったことを除けば、全く普段の生活であった。
「イネスはどうしましたか?」
と、ある日ユリアが聞いてみる。女官達は、一様に肩をすくませて、病からの回復が芳しくなく、復帰にはまだまだ時間がかかるだろう、そんなことを言った。
「まあ、そんなに重いのなら、一度お見舞いに行って元気づけてあげなくては」
と言うと、感染るかもしれないからその必要はないと言い、それはイネス本人がそう言ったのだと、ご丁寧にもそうつけ加えられていた。
「じゃあ、手紙でも」
と言うと、手紙を読むと、お城が気になって療治に専念できないからその必要もない、と言われる。さすがに、ユリアも片方の眉を上げて、
「本当に、イネスは病気なの?」
と、怪訝な声の一つも出てしまう。どういう返答をしようか、顔を見せ合う女官達の中で、ダーヤだけは平然としたもので、
「いかにも、イネス殿は、イザークの水が合わずににわかに病あつしくなられた模様。
 何よりの治療は、バーハラ本国に送り返すことであるとの、医師の処方でございます」
と言う。
「え?」
「厳に、そのように準備が整えられている最中でありまして」
「ちょっと待って下さい、イネスが帰ってしまうのですか?」
「その方が良いとの医師の判断でございます、お寂しいことはお察ししますが」
ダーヤはそう淡々と言って、ぽんぽんと手をたたいた。
「皇女様は王宮に行きなさる。さあ、準備じゃ準備じゃ」

 ユリアは、ダーヤの態度に怪訝なものを感じたとはいっても、それを問い詰めるほど強い姿勢には出られなかった。その内、本当に病気になったのかもしれない、そんなことを考えながら、イネスにあえないことを、さして気にもしなくなった。王宮内の邸宅の完成も間近で、内装の相談が婚礼の打ち合わせに上乗せされたり、忙しさに紛れたのが理由でもある。
 その話し合いの中で、スカサハの態度は相変わらずだ。いつか、ユリアの期限を損ねたのを気にしているのか、あれこれと、彼女の希望に添うようにことをすすめてくれる。自分を、怪訝そうに見ているユリアに、やっと気がついたようにスカサハは、
「ユリア、どうしたの」
と聞くが、ユリアはそのたびに
「なんでもないわ」
と返す。本当に何でもない。彼の態度の微妙な変化から、何か伺えるものがないかとは思っていたが、そういうものがないのだ。

 「あの、ダーヤさん」
「何でございましょう」
改まれてユリアは、次の言葉を出す勇気がなかなかなかった。
「あの、ですね」
「はい」
「前に、ドタールさんから聞いたのだと思うのですが」
ユリアはそう、探るように言った。
「イザークでは、その…正式に結婚した相手はまた別に、妻を持つことが許されると聞いたのですが」
「側室のことでございますか? ええ、持つことを咎められることはありませんな」
ダーヤは、それが長く王宮で続いた慣習であるということを生き字引として理解している。だから、ユリアの今更のような問いにあっさりとそう返答した。
「あの、そういう人がいるとわかったときには、私はどうしていたらいいのでしょう」
「それは、皇女様のお気のすむようにされることです」
「…というと?」
「ご夫君を責めて、関係を切らせるもよし、おおように許して差し上げるもよし」
「はぁ」
ユリアは、ますますわからない、という顔でいた。
「ダーヤさん」
「はい」
「私は…スカサハがそうしたいことは、とめたくありません」
「ならば、見て見ぬふりをしてさしあげるべきです。おうわさによれば、そろそろお一人ほどはそれと目されたよし、皇女様のお気に触ろうとわしらは黙っておりましたが、皇女様はお許しになるとおっしゃる、イネス殿も、皇女様と妍を競われるにあたり」
「イネス?」
ダーヤは、明らかにしまった、と言う顔をした。しかしすぐ平然を取り繕い
「皇女様はご存じかと思っていました」
と言った。
「イネスが、どうかしたのですか?」
「うわさによれば、スカサハ様はイネス殿を第一の側室として、すでにそうお扱いのよし」
「え?」
「皇女様ご自身がシャーマンでおられるゆえに、不如意なところのお相手をと、お命じになったとも」
「私はそんなことはしていません」
ユリアの声は当惑しきっていた。相手が、たとえば自分のいないバーハラで見知った誰かとか、王宮の中でも自分の行かない場所にいる誰かだというなら、まだ割り切りもできる。しかし、よりによって相手が、自分に近い場所にいて、また面立ちも似通うと言われているイネスとなると、そのままにしていいものかどうなのか、その時のユリアには、判断のつけようがなかった。
「…つまり」
ただわかるのが、ただそのままにしていては、自分やスカサハだけでなくイネスまで傷つけるということだった。
「イネスは、私とスカサハ様を争うから、そうなる前にバーハラに帰される、と、そういうことなんですね」
「そう思ってもよございますよ」
ダーヤの声はすっかり開き直っていた。
「今はお許しになるといっても、いずれ御憂いのもととなるのでしたらば、むしろ今のうちにバーハラにおかえしなさるのが、八方丸く収まるというもの」
その後も、ダーヤの「お妃教育」は続く。しかしユリアは、目の中が正気を失ったような表情のままで、その半分も聞いていなかった。そっと席を立つ。
「どちらに?」
といぶかしむダーヤに、ユリアは小引き出しの中から何やらとり出し、
「スカサハのところにいってきます」
と言った。


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