前へor戻る

 この国では、結婚というものには、自分が今まで考えていたものと違う何かがある。
 遅ればせながら、そう感じはじめていたユリアだった。
 王宮住まいをするような立場に近づくほど、自分の意志で相手を見つけることすら難しくなってくる。自分はまだ幸せなほうだ。そう言い聞かせるユリアであったが、割り切れない部分もある。
「女には女のいくさというものがございましてな」
というダーヤの言葉は、イザークの王宮で長く、王の妻と呼ばれた女性達の確執を見てきた身ならではのおもさがある。
 彼女がユリアに譲った衣装箱から飛び出た「前夜の絵巻」。あれも、王の寵愛を少しでも長く自分の元にとどめるための閨の技を鍛えるために必要なものだったのに違いない。

 どうやって、スカサハのもとにたどり着いたのか、ユリアは、その部屋の前に立ってから、やっと我に返った。
 手には、前夜の絵巻。それを、一度すがるように握り締め、ほとほとと、その扉をたたく。
「誰?」
「あ、あの」
声だけで、扉の向こうはすぐユリアとわかったのだろう。扉を開けたのは、ほかならぬスカサハ本人だった。
「どうしたんだ、こんな遅くに」
「は、はい…その」
「立ち話もなんだし、入りなよ」
促されるままに、その部屋の中に入っていくと、城勤めの武官や文官の姿がニ三みえた。みな一様に、こんな時間に入ってきたユリアを、平伏はしながらも怪訝そうな顔をしている。
「あの、お仕事中でしたか?」
「仕事なんてご大層なものじゃないよ。むしろ勉強かな。城のことはよく知らないから」
「あの、お邪魔ならば」
ユリアはいって、きびすを返そうとする。それをスカサハは手を引いてとめた。
「そんな必要はない。自分から来たくなった理由があるんだろう?」
そういうやり取りに、官吏達は変に機微を悟ったものか、
「ではスカサハさま、今宵はここまでに」
といいながら、さっさと部屋を出て行ってしまう。部屋の中には、二人だけが残された。

 「正直さ、ユリアが来てくれて嬉しいし、安心しているんだ」
と、スカサハは言った。
「このごろオレを避けてるみたいだし、なんだか気づかれをしているみたいだし」
「実は、その」
ユリアはうつむく。
「あの、スカサハさま」
「なに?」
「ひとつ、お願い聞いてくださいますか」
「いいよ」
その返答に、ユリアのほほが紅をさしたように真っ赤になる。
「あの、お願いというのは他でもなくて…」
「うん」
「その…」
と口を開きかけたユリアの手から、絵巻がことん、と落ちた。落ちた絵巻は押さえがはずれ、
「あ、あ、あ」
と、ユリアが捕まえようと追いかける前に、ぐるぐるとその中身を広げてゆく。彼女がうずくまって、やっと芯を押さえたときには、その全部があらわになっていた。
「ユリア…なに、これ」
巻き取る余裕もなく、スカサハの問いにユリアは硬直した。
「もしかして、お願いって…」
「お願いスカハサさま、その先はおっしゃらないで!」
あえかな身のどこにそんな声が入っていたのかというほどの強い声で、ユリアは返し、絵巻をくるくるとまき戻した。そして、再びスカサハに近づき、言った。
「それは、私に言わせてくださいまし」
と、向きなおす顔は、怒りなのか羞恥なのか、まだ真っ赤のままだ。
「…私と、この部屋でお休みになって…いただけ…ますか?」
でも最後の方は、消えそうな声だった。スカサハも、柄になく赤くなりながら、しばし天井を仰ぐ。しかし、次の瞬間にはあっさり
「いいよ」
といった。
「え」
ユリアが拍子抜けした顔をする。
「でもね、君のシャーマンの力はまだ必要だ。僕とここで寝てもいいけど、僕は君にはなにもしないよ。それでいいなら」
「あの、あの、それでは、困ります」
ユリアの顔はだんだん必死になってゆく。
「だって、私…」
そんなつもりはまったくないのに、涙さえにじんでくる。目じりからその涙が落ちそうになったとき、ユリアの体はぎゅうっと音が立ちそうなほどに抱きしめられた。
「あ」
そのままスカサハは、ユリアが
「く、苦しい」
と言い出すまで腕を話さなかった。その後で
「これで、僕は十分なんだけどね」
と言う。
「もちろん、変な意味でじゃないよ」
「あの、それではスカサハ様、お辛いのでは」
しどろもどろに言うのを、スカサハは聞きとがめたような顔をする。
「それはもしかして、イネスのこと?」
図星を疲れて、ユリアはうなずく。
「なんていったっけ、あのお年寄りの侍女は。そういうことは、若い当事者に任せておけばいいのに」
「でも、ダーヤさんは、私を心配して」
「わかってる。でもドタールさんがそう言ってた。
 ユリア、本当に、気にすることとはないから」
「…はい」
ユリアは今更に、自分の今の振る舞いがあまりに自分らしからぬことに、穴が有ったら入りたいような気分になった。その彼女の耳に、スカサハが耳打ちする。
「それともやっぱり、君が言うように、既成事実はあった方がいい?」
「な」
「あはは」
目を白黒させるユリアを見て、スカサハは笑っている。
「いいんじゃない? 一晩、一緒にいようよ。それで周りが変に思わないなら」
「…はい」
スカサハが差し出した手を、ユリアはそっと握った。

 明けて。
 ユリアが、いささかぼんやりとした顔で自分の部屋に戻ってくると、イネスがいた。
「イネス」
イネスは、このしばらく悶着に巻き込まれたことに、いささか疲れたような顔をしていたが、それ以外は、別段変わったところはないようだった。
「ドタール様がおいでです」
と言う。イネスのさすところで、ドタールが深く会釈をしていた。
「おはようございます、皇女様」
「おはようございます。ドタール様」
形通りの挨拶を交わして、ユリアがふとした表情で言う。
「ダーヤさんは?」
「は、そのことですが」
ドタールが、苦み走った顔を一瞬だけ緩めた。
「突然隠居を言い出しまして」
「え?」
「その、理由というのがなんというか」
「はい」
「昨晩、皇女様がよそでお休みになったから、と」
「は?」
ユリアの声は裏返ったもので、合わせてまた紅潮する。
「出過ぎたまねをしたと。イネス殿もこうしてまた出仕をし、自分の後を補えと」
「はあ…」
間の抜けた返答をしながら、ユリアは昨晩のことを思い出す。
「母も、潮時を探していたのでしょうな」
というドタールの言葉には何も返さずに、その記憶を反芻していた。確かに、自分がシャーマンとしての力を失うようなことは何もなかった。しかし、ユリアの持っていた前夜の絵巻を二人で広げているうちに…その、なんというか…
「私、力を無くしてしまっても構わない気がした」
「は?」
ユリアのつぶやきに、ドタールがけげんな返答を返す。でもユリアはそれを聞き返すことはしなかった。

をはり。
←読了記念に拍手をどうぞ


次へ or戻る