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 とはいえ、この絵巻がどういうモノか、今更の顔でダーヤに聞くのはためらわれた。スジが違かろうと思いながら、ドタールに、これこれと事情を話す。ドタールも、どういう反応をしていいのか、ややあってから珍しく口元をゆるませた。
「きっと母が、気を利かせて入れて差し上げたのでしょうな」
「え?」
「それは、前夜の絵巻、と俗に言うモノでして」
「前夜の絵巻、ですが」
「やんごとないあたりの子女が嫁ぐとき…まあ、なんといいますか、婚礼の夜夫の前であわてぬように、口では言いにくいことを説明する絵巻です」
「…ああ、そうだったのですか…」
そういわれてみれば、婚礼にはほぼ間違いなく初夜が付き物だ。
「当代のお考えは私にはわかりかねますが、古来イザークでは、王族に嫁ぐ女性は一度に一人とは限りません。
 寵愛の篤さにより後宮での立場も変わりますれば、勢いそのような学習を要求されるモノと、母からは聞かされておりますが…
 皇女はバーハラ当代の妹姫、かつ世界を鎮守せしめますナーガの化身、そのような小手先など労されませずとも」
「ええ、そうでしょうけども」
ユリアは、その先を言いよどんだ。しかし、聞かなければならないことであると思った。
「ドタールさま、男性は、婚礼の前には何か教えられますの?」
「は」
ドタールの顔は明らかに、いうのをためらう顔をしていた。しかし、ユリアに視線で促されて、ゆっくりと話し出す。
「男は…特に学習はいたしません。年頃になれば、誰ともなく察しまして…その…」
ユリアは、聞かなければよかった、という顔をした。
「ありがとうございます、ドタール様」
話の途中ではあったがドタールを下がらせ、ユリアは眉間にしわを寄せたままだった。
 まだ自分が、バーハラの皇女だなんて知らなかった頃、結婚には何より双方の意志が大切だと、育てられた環境では教えられてきた。それはセリスの解放軍に合流してからでも変わらず、スカサハの想いを受け止め、本当の身の上がわかってからも、きっと結ばれようと約束してきた。女性の魔力は処女性に左右されると聞いたスカサハは、それならば彼女の能力が必ずしも必要でなくなるときまで、婚礼はしても清らかな体でいてもいいと、そうとまで言ってくれたのである。
 それをユリアは知っているからこそ、自身がバーハラからイザークにくるのが、そのスカサハの計らいへの返答であると思ってきた。
 でも。いかに真摯な人柄であったといっても、男性には突発的な衝動があるというのも、解放軍の生活の中で、たびたび話題に上っていたことであった。恋人が友人と連れだって、町のその手の方面に繰り出したと、それが理由になったけんかも、いくつも見ている。それはずっと自分には関係のないことだと思っていたけれど…
「…ひょっとして」
スカサハさまも、そうなのかしら。追いつめられたに等しいユリアがそう考え始めたのも、あるいは詮無いことだろう。自分を待ってくれてはいるけれど、その間の抑えられない衝動は、いったいどうしているのだろう。そのうち誰かが、ほかの女性を近づけさせたりして…
「!」
ユリアはふるふる、と頭を振った。よりによって、明日何ヶ月ぶりかにスカサハに会えるという時に、どうしてこんなことに思い至るのだろう。

 スカサハは、ユリアとすれ違うように、バーハラの士官学校に入っていた。百戦錬磨の英雄で、出自も聖戦士の枝葉といっても、見るモノが見ればまだ年端もいかない少年少女だ。士官学校では特別なカリキュラムがくまれ、実践してきたことに理論面の裏付けをする時間が与えられたのだ。
 それが、「聖戦」の終了してまもなくのことである。あれから二三年もたっただろうか、同じバーハラの都市の中にあっても、士官学校の厳しい規律は、二人を一年に数度会えるかどうかの事態において、だからユリアはスカサハの卒業に会わせてイザークにやってきていたのだ。
 スカサハが帰ってくれば、まもなく婚礼になる。シャナンが、自分の時と負けないほどのモノを準備していると聞かされた。それだけに、一回でも疑心暗鬼になったユリアには、目の前のスカサハはまぶしすぎる。スカサハは、バーハラ士官学校の制服をじつにさりげなく自分のモノに着こなして、イザーク風の衣装で迎えたユリアに
「なんだか、逆になってしまったね」
と、面はゆそうな顔で言った。
「ご卒業おめでとうございます。聞けば大変優秀な成績とか、私にとっても大変な喜びです」
ユリアは、作ったような笑みで言う。
「どうしたんだユリア、そんな他人行儀に」
そばでシャナンが苦笑いするが、ユリアの笑いは引きつったままだ。
「ああなになに、皇女様は御夫君様がまばゆくておられるのでございましょう、ささ、皇女様、よって差し上げなされませ」
ユリアの物思いを作った元凶であるダーヤは、そんなことも露知らず、彼女とスカサハとを寄り添わせようとする。
「陛下、お二人にして差し上げませぬか」
と、ダーヤでなければ大きなお節介とはねられそうな言葉も、シャナンはおおように
「ああ、そうだな。
 スカサハ、おまえの屋敷を敷地に作らせている。もうすぐできあがるから、言ってみてみるといい」
と、席を立ってしまった。

 ユリアがずっと顔を伏せがちなのが、スカサハには気がかりだった。
「ユリアいったいどうしたんだ。
 何か、悩みでもあるのか?」
と聞いてみても、ユリアはそのときだけ顔をあげて、
「何でもないわ」
と言うだけだ。彼らがあてがわれるという王宮の中の屋敷は、こじんまりと見えているが、二人にはもてあましそうなほど広い。
「二人だけじゃ広すぎて、困るね」
「…ええ」
そのスカサハの言葉に、ユリアが言葉少なくかえす。
「でも、昔の仲間がいつも会いに来てくれるなら、そうでもないかな」
「…ええ」
「いつかは子供と一緒に住むんだしね」
「…ええ」
生返事。スカサハはため息をついて
「少し早い話だったかな?」
と言った。
「ううん、そんなことないわ」
「上の空だったじゃないか」
「そんなことないわよ」
「本当に、いったいどうしたんだよ」
「何でもないの」
「何でもなくないから聞いているのに」
スカサハの声がだんだん中っ腹になってくるのがわかる。でも、自分の今の心境を話して、彼の気を損ねるだろうことが、ユリアには恐かった。
「本当に、何でもないの。…いろんなことが決まるのに、心の準備が追いつかなくて」
と言う。そういう心境でも確かにあるから、あながち嘘でもない。
「それは、そうだね」
スカサハは機嫌をすぐに取り戻した。
「確かに俺もそうだ。戻ってくればこんな立派な屋敷は建ってるし、君はここにいるしで…」
「…」
「いやおうもなく、重鎮ってモノになってゆくんだなって、痛感しているところだよ」
「私もそうよ。もう少し、何にも知らない子供でいればよかったって」
ユリアのいいかたは、少しヤケにも聞こえた。
「でもさ」
しかしスカサハの返事は、そのユリアのひとひらの言葉のすさみを聞き逃さなかった。
「子供ではなくなったから、君とここで暮らせる」
突然言われた言葉を思わず真っ正面から受け取って、ユリアの顔がぽっと赤くなる。
「!」
「そうじゃない?」
「スカサハって、…お兄様みたいなこと平気で言うのね」
「そうかな」
「私、先に戻るわ」
ユリアは言うだけ言って、た、とその場をはなれた。呼び止めようとしたスカサハは、その機会を逃して
「…どうしたんだ、一体」
とつぶやいた。走り出してユリアは、どこに行ったかも、見失ったのかわからない。
「やれやれ」
そうつぶやいて、側を通りかかったユリアづきらしい侍女を見つけ、
「ごめん、ちょっと話を聞かせて欲しいんだけど…」
と声をかけた。


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