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前夜の絵巻

邦昭ふぃんさんに

 これはまた、別の話。

 イザーク家中ドタールといえば、過去の雌伏の時代をへてなお王家への忠誠揺るがなかったものとして、今でも王宮でも重く用にられている。
 長い戦乱の間に、妻子を亡くした彼は、現在は隠れ暮らしをしていた老母を見つけ、王宮に近い一等地に住んでいた。
 ドタールの老母ダーヤは、マナナン王以前からイザークの王家に仕え、長く城詰め侍女(イザークでは「女官」というらしい)の棟梁を務めた女性で、時に王子王女をも叱り飛ばしたという言動の歯切れの良さに、伝説の女官とさえ呼ばれていた。

 王宮に近い、ドタールの屋敷のある界隈は、にぎわしい朝の市場とは少し離れた、じつに閑静なところである。
 小鳥のかわいらしいさえずりが、小さいがはっきり聞こえてきて、陽気のいいこの季節は、その声を聞きながら、もう一眠りもしてみたいような、そういう、のどかな朝だった。
 そんな朝だったものだから、ダーヤの朝っぱらからの一喝は、向こう三軒両隣というにはいささか広い家並には、じつに通って聞こえたのだ。
「お前達はなにをしたか、わかっておるのか、このばかものども」
 七八十にはなろうという老女の、どこから出てくるのか見当もつかないしっかりした声に、枝でさえずっていたはずの鳥も飛び去り、彼女の前に並ばされていた数人の若い娘も、一様にびくびくっと体をすくませる。
「恐れ多くもバーハラの皇女様がこの屋敷にお出ましになっている、それだけでも大変な名誉というものを、その方の朝のお身支度を、お手ずからなされるのをぼさっと見ておるだけとは、お前たちはそれでも女官の玉子か、気配りが足りん!」
女官の玉子といっても、この数年の急速な宮廷の復興の一環として、名家と呼ばれた家からやっと集めてきた、普段は逆に小間使いの一人もつけられて任せっきりの娘達である。きつく言われるのにも慣れていないのだろう、ダーヤの頭ごなしの一言で涙ぐみさえしているものもいた。
「あの、ダーヤ様」
それを数歩離れて、はらはらと見ていたのが、ダーヤの言うバーハラの皇女様、ユリアである。この二三日は着付けを任されていたイザーク風の衣装を、今日は自分で着る練習でもしてみようと、手を出させずやっていたのがダーヤの目に留まり、こういうことになってしまった。
「あまり、皆さんを叱らないで差し上げてくださいな。私、小さい頃から、自分で出来ることはするように教えられていますから」
「いえいえ、めっそうもない。万事粗相のないように、誠心誠意お仕えすべきところを、不調法者がそろいもそろいまして、皇女様には大変なご迷惑を」
「そんなことないです。私、かえってそういう扱われ方の方が、こまってしまいますわ」
事実そうだった。シレジアの人里離れた場所で、全く普通の女の子として育ってきて、バーハラの皇女であるとわかったのもつい最近のことだ。ちやほやとされた扱いを素直に受け入れられるほどには、ユリアの神経は太くない。
「では、是非にもお慣れいただかないことには。何かの拍子にお手に傷でもと思うと、婆は冷や冷や致しまする」
「今日はもう、大丈夫です。女官の皆さんを許して差し上げてくださいな」
「聞いたか皆の者、皇女様のお計らいにより、これ以上のおとがめは無しじゃ。以後注意いたせよ」
「は、はい」
女官達は、ユリアに対してさっとヒザを折り、それぞれに当てられた仕事をこなそうと散っていく。
「あの、…ダーヤさん」
「もったいないお呼びかけ、婆のことはダーヤとそのままお呼びくだされ」
「いえ、そんなことできません。それより」
「はい」
言おうとして、くぅ、と腹がなる。「あ」と、その音に赤らんだユリアを見て、ダーヤが
「これはこれは、至りませぬで」
と泡を食った顔をした。
「誰か、誰かある。皇女様に朝のお食事を」

 「また母が皇女のお目の前で女官達を叱責したようで…お見苦しいところをお見せしました」
朝食を済ませてから、ドタールが来る。イザークの城に行くユリアを迎えに来たのだ。
「そんなことありません。ダーヤさんは女官さん達を思って、ああ言われるのだと思いますから」
「もったいないお言葉です」
ドタールはかるく礼をした。
「しかし…縁あって皇女様をお預かりいたすようになりましたが…バーハラの方はよろしゅうございますのか」
「はい?」
「…ざれ言と思われるなら、お聞き流しください」
ドタールの言動基準は、あるいは母仕込みの滅私奉公の精神なのかもしれない。ユリアは軽く笑んでから、
「セリスお兄さまが行くようにおっしゃってくださったのです。それに、私も、イザークに来たかったものですから」
と答えた。
「イザークからは、スカサハ様をバーハラに向かわせるようなお話があったようなのですが、私が断わったのです。あの方はイザークには必要ですから」
「さようでございますか」
「ナーガもおいてきました。私には、皇女でいるよりただのユリアでいるほうが嬉しいです」
「…」
ドタールは何も言わなかった。二人はすでに、イザーク城への道を進んでいる。
「母は」
ややあってからドタールが言う。
「この戦乱で無くした私の娘を、非常に惜しんでおりました。皇女にこれを申し上げるのは筋が違うとは存じますが、先のない母を哀れにおぼしめて、多少のことは大目に見て下されれば、バーハラの皇女をお世話したことを冥土の土産にできましょうから」
「まあドタールさん、そんなことおっしゃらないでください」
ユリアがふと顔を曇らせる。
「ダーヤさんは可愛らしいおばあさまですわ。私、おばあさまがいないから、お屋敷の生活がとても楽しいですわ」
「じきにお城に上がられることを、母には良く説明して置かないとならぬようですな。きっと、ずっとあの屋敷におられるものと 勘違いしています」
「?」
「以前のイザークでは、王以外の貴人は王宮に妻を置かぬ習わしとなっています。
 シャナン国王はそのために、先の動乱において、お父上のマナナン王に会うことがかなわなかった、それを大変遺憾に思し召しまして、その習わしは改めよとのお達しを下されました」
「はい」
「…長話を致しました、さあ、王宮でございます」

 このまま話が続けば、ユリアの「おばあさま孝行」の話となり、美談で終わりそうである。いや、これからのエピソードも、見ようによっては美談であり、おばあさま孝行なのかもしれない。
 しかし、その美談になりそうな雰囲気を壊したのは、ほかならぬダーヤおばあさまであった。
「どうぞ、皇女様、これらを納めてくださいませ」
と、ダーヤが衣装箱のようなものを持ってくる。
「孫が嫁ぐ折にと思い、かねてより用意させていたものですが、もしおよろしければ、普段遣いにでも、と」
ドタールの娘ならば、可能性さえあれば、地方の王の妻ぐらいならなれた可能性もあっただろう。しかし、いく当てもまだ決まっていない孫娘のために、嫁入りの道具だけはせっせとあつらえ続けたダーヤのいじましさに、ユリアはじつに心を動かされていた。
「ありがとうございます、私、大切に使いますわ」
 多少サイズが違っても、帯の締め具合一つでどうにもなるイザークの衣装は、こういうときにじつに便利だ。
 ところが。
 夜、1人の時間になって、衣装を箱から引っ張り出していたユリアの足下に、何か細長いものが転がっていた。それ気がついて、ユリアは取り上げる。
「なにかしら」
巻物だった。こういう形の絵物語を以前に見たことが会ったものだから、今回も、ユリアはためらわずとめて会ったヒモをゆるめる。くるくる、と、それを繰っていくうちに、彼女は真っ赤になった。慌てて、途中まで開いた巻物をもとに戻し、衣装箱に押し込む。がたん、とフタを閉めてから、その箱にもたれ掛かって、ふぅ、とため息をつく。
 意味がわかるようなわからないような、ユリアにとってはいかがわしいとしか言いようのない代物ではある。しかし、ダーヤの好意にけちを出すわけにも行かず、そのうち衣装箱から取り出し、適当な引き出しの奥に入れたまま、ユリアはそれをしまいなくすことにしたのだが… 数日後。ユリアの部屋に近い次女の控えから、さざめきのような笑い声が漏れてくる。

「?」

ユリアがいぶかしんでそこを覗き込むと、居並んだ侍女たちは一様に肝を冷やした顔をし、そして愛想笑いをしながら、それぞれの持ち場に散ってゆく。そのあとに残されたものは、件の絵巻。あられなく広げられたままであるのをあわてて巻きしまい、ユリアは深くため息をついた。


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