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 「奥様も人が悪くてらっしゃいますね」
と、ベオウルフもさすがに苦い顔をする。
「姫様と少年と、仲直りをさせるだけじゃないですか、何でここまで」
「…退屈だった私の前にあらわれたのがエリオットの不幸だわ。大丈夫、表ざたになるようなことは何もしないし、物騒なことも何もしないし、ね」
「…やれやれ」
ベオウルフが肩を竦める。
「そんな顔しないで。これからあなたにも協力してもらうんだから、気を抜いちゃダメよ」
「はいはい」
楽しそうなエスリンの後ろ姿に、ベオウルフはそれからの一切の毒気を抜かれてしまった。

 エスリンは、その足で、ラケシスの部屋を訪れた。ラケシスは、侍女を相手にチェスをしていたが、形勢は不利のようだ。一瞥して、盤では、ラケシスのクィーンが取られそうでも取られていない。侍女の配慮なのだろう。その盤から目を離さず、ラケシスはぼんやりと言う。
「エスリンさま、遅くていらしたのね。キュアン様がさがしておられたわ」
「あらそう」
エスリンは笑いながら、メイドにお茶の用意を言い付けた。空いた席に座る。
「行かなくてよろしいの?」
「ええ、大した用ではないでしょう。それより」
エスリンがあらたまる。
「実は私、先日シレジアのお城においでになった時に大変なお話を伺ってしまいました」
「はい」
「ラーナ様が、たくさんやんごとない辺りの方をご紹介くださったでしょう?」
「はい」
「…名前はあかせないけれども、大層に高貴な方が…ラケシス様をお気に召した…とか」
「え?」
盤の上で指を動かして、駒の動きを考え込んでいたラケシスは、は、と顔をあげる。
「どういうこと、エスリンさま?」
「どういうことも…こういうこと」
「でもあの中には、そんなお若い方が居られたとは思えませんわ。…誰かのまちがいじゃなくて?」
「私と貴女のほかには、セイレーンの人間はいませんでしたわよ」
エスリンが、至極当たり前、という顔をする。
「およろしければすぐすすむお話ですの。でも、ラケシス様にもご都合が有るからと、ひとまずお話だけとおもって」
「…」
ラケシスは気乗りのしなさそうな顔をした。さりげなく言われてしまったが、自分の人生も決定しうる一大事とも思える。一人での判断なんて出来そうにない。とはいえ、誰かに相談しようにも、出来なさそうに思えた。その誰かを部屋から追い出したのは、誰でもない自分なのだから。ラケシスの都合優先とエスリンが断わったのも、そういうことなのだろう。ラケシスは、盤の上からナイトの駒を一つ摘まみ上げて、弄ぶ。
「私」
断わるか否か、ぎりぎりのところで天秤は揺れた。エスリンの顔をちらりと見るが、エスリンは悠然とお茶を飲んでいる。視線に気がついたのか、エスリンは
「私は、お勧めしますわ」
と言った。
「え?」
「…フィンのこと、だいたい聞いています。気がきくのがあの子のいいところなんだけれども、ラケシス様のお世話向き、ではないとおもって。
 そもそも、ノディオンの部隊のみで本来お身柄をお守りすべきところ、なぜかあの子だけが貴女にはりついているのか、けげんに思う声もないわけではないし」
「それは、私が今まで望んでいたことでもありますし…」
「それ以上にあの子が望んでいたことでもありましたの。でも、あまり失礼が多いと、主人としては、いさめないことには」
エスリンが部下とはいえ人をあげつらう。そんな場面など初めてだったものだから、ラケシスもきょとん、とした。
「…エスリン、さま?」
「私、ラケシス様のことは妹のように大切ですわ。
 だから…お勧め致しますの。
 先様は、貴族として非のうち所のない方ですわ。
 きっと、なくなられたお兄様も…喜んでくださると思います」
「…」
ラケシスは、半分泣きそうな顔になりながら、侍女が出してきたお茶を一口含んだ。正直、「お兄さまのため」と言う大義名分は、判断に迷ってその上あれこれ思い悩む身にとっては反則に近い説得力だ。それを、エスリンがつと背を押すように声をかける。
「ね? きっと御会いになれば、ラケシス様のお気も変わると思いますわ」
「…会うだけで、よろしいのですか?」
「そう、まずはそこから」
エスリンは、『動いた』というような顔を、ラケシスが俯いているのをいいことに、した。
「ラーナ様も乗り気でいらしてるのよ。ラケシス様のような方がシレジアに身を寄せてくださることが、何よりの誇りになると」
「ラーナさまも」
「ええ、そのお話もありますから、もう一度シレジアにいらっしゃって、とラーナ様がおっしゃっておられました」
ラケシスは、
「少し、考えさせてください」
と言った。ラケシスは、エリオットより格段にいろいろの回る部分のある彼女には、これ以上の言葉は混乱になると思って、「ええ、ゆっくりおかんがえなさいね」と言い、部屋を去った。
 ラケシスは、摘まみ上げたナイトの駒を、テーブルに置き直す。

 数日後、ラケシスの荷物が簡単に片付けられ、急ぎの馬車がセイレーンを出る。
 怒濤のようにその作業が完了されてから、エスリンは改まって、フィンを部屋に呼びつけた。彼女の知謀溢れる行動は、ひとまず、これでとどめをさすことにする。
「…そういうことだそうです。先様がことに望まれて、ラケシス様はすでに、シレジア本城へお入りになりました。
 キュアンがあなたに申し渡したラケシス様護衛の任務は、解除ということになります。
 おつかれさま、フィン」
「…は」
主人の前に片膝をついたまま、フィンは微動だにしない。突然の話に疑問一つ提示するわけでもなく、彼は諾々と主人からの申し渡しを聞いている。部屋の隅に立っているベオウルフは、その彼の無表情な顔を、ぶ然そうに見ていた。

 「少年お前、そんな簡単に姫様諦めちまうんかよ」
深夜の食堂。ベオウルフは、自主的にフィンの深酒につきあっていた。深酒といっても…ボトル一本のワインを飲み切らない内に、融けたように壁にもたれるばかりなのだが。「いやなことを忘れるには飲むに限る」というベオウルフの教えを、忠実に再現しようとしているのかもしれない。つまり、フィンにとっては、今回の「任務解除」はいやなこと、というわけだ。さもありなん、とベオウルフは事情を知っていても同情する。
 ベオウルフの問いに、絞り出すような返答が返ってくる。
「仕方ありませんよ、…時世に会わない、いたずらに長い任務でしたから。当面武力衝突がないところでは、私みたいな武張った護衛は必要ないということなのだと思っています」
「…お前、つくっづく、そのへんのキビってやつに疎いな」
「別に、敏感になろうとも思いません」
「…珍しいね、お前がそんなに投げやりになってるなんざ」
ベオウルフは、ずる、と、飲み残しをかき集めてすすった。
「でもな、…今度ばっかりは、分かってあげなくちゃ、いけねぇ事態だと思うぜ。
 姫さんに試されてるんだと思うよお前。…あちらも、自覚はしてねぇけどね」
「試されてる」
「そうさ。姫さんにしてみりゃ、お前は部下であって部下じゃない。妙にへりくだってるのが物足りなさそうな顔なさってんのを、見たことないのかい」
「ですが、やんごと無い人に礼をとるのは、騎士として当然の」
「それじゃなにかね、姫さん抱くのも騎士の礼儀か?」
それにたいする言葉は帰ってこない。答えられない質問なのはわかっていた。この年ごろでは抑えきれない衝動があるのは、人生の先達である分通ってきた道だからでもある。あくまで任務対象として敬意と配慮をはらわねばならないはずを、時として当然のように劣情を解放する対象にしてしまうことに、機微のないなりにフィンはフィンで悩んでいるわけだ。
「…」
「いいかげん分かれ。お前がどう言う人間なのかな」
相づちも返ってこなかった。本当はもろもろに言いたいことがあるだろう、しかしそのほとんどをフィンは、慣れないアルコールと一緒に飲み込んで、床にのめり込んで眠ってしまっていた。
 ベオウルフは、それを肴に飲み続けてる。
「…そう言う所が、ウィグラフに似過ぎてる、つうの」
ついつぶやきがもれた。

 数日後、エリオットは、シレジア城に近い林の中の、閑静な屋敷にうつされる。ここが件の貴族の館となり、今日はラケシスが面会に来る日だった。エスリンは二人の間に立って、直接会話させないことによってこの遊戯を複雑にさせていた。
 エリオットは、この一晩をまったく眠らないものと見受けられた。白目は赤く、まぶたがくすんで見える。しわのよった寝巻きは、新しいもののはずなのにくたびれた風情になり、なにやら複雑な香りがする。ベオウルフには、夜の間、このバカ王子が何を思ってなぜ寝もやらずあったのか、何となく察されて…やはりいい気分はしなかった。
 エリオットはそのまま寝台の中に戻される。香水が振りまかれ、落ち着かせたところでラケシスを中に入れる。
「例の方はこちらにいらっしゃいますの」
と言われて、ラケシスはことさらに取り繕った顔をする。
「まだ少しお休みらしいの。お医者様は起きるまで起こさないようにとおっしゃられているそうだから、しばらく、待って差し上げて」
「はい」
ラケシスは、すすめられた椅子につとこしかけて、すこし左右を見やった後は、す、と表情をなくす。その物腰にはソツもスキもない。
 自然でありながら、これ以上もない様式美すらかんじさせるのが、椅子に頼らずにするりと伸びるその背筋であろう。自然な曲線に、二十四金色の神を結い上げた、その後れ毛がちらちらと輝く。
 冬のシレジアの日ざしは決して強くはない。しかし、地を覆う雪に跳ね返った日ざしが、窓から部屋に満ちている。石造りの部屋は色彩が薄いが、その中で腰をかけたまま、案内を待ち微動だにしない姿ははっきりと浮かび上がって、あたかも等身大の人形がそこに座っているようだ。しかし、程よい肉付きの肩が、呼吸にあわせて幽かに動く所を見ると、やはり間違いなく生きている。
 うつ向きがちの面立ちには、不如意暮しのはずの憂いはかけらもなく、かえって肌は艶めいて、当たる日ざしに焼き物のような陰影さえ浮かばせるのだ。
 …と、彼女をいつも見ている目ならこう表現するだろう。しかし、部屋に設えてある寝室の帳の内側から、視線だけをのぞかせてそれを見ているエリオットには、詩的にかつ風景然として、目の前のラケシスを捕らえることなど、やれと言う方が無理と言うものだった。
 顔にさされた紅も濃からず薄からず、あしらわれた宝石やドレスの色とも絶妙のコンビネーションだ。そのドレスも、小娘がいたずらに好みそうなデザインではなく、やはり二年という時間が、彼女にこれだけの色気を自らかもし出させたのだ、おそらく。
 想像していたより、色っぽい。最後に女を買ったのはいつだっけ。そんな記憶さえどうでも良くなってくる。
「うむむ」
 なにより目を奪われるのが、大きくあけられたそのドレスの襟刳りだ。雪程の白さの胸元に…深く食い込んだ谷間。記憶に確かなら、前よりも確実に格段に丸みとボリュームがましている。もう誰かにそれを許したか、いやいや自分こそがあの未開の雪原に最初に足を踏み入れるはず、エリオットはつい余計なことまで考えると、
「…むぐ」
どうにも臍の下が黙っていないようだ。エリオットは掛け布団の中におもむろに手を突っ込む。
「殿下…」
あからさまなその様子に、エスリンは瞳だけで天を仰いだ。
「あまりお急ぎになって、元も子もないようには為さらないで下さいましね」
と、面白くないことの一言もで出てきてしまう。ここでエリオットのさせたいようにしたら、本末転倒も甚だしい所で、ラケシス達に…いや、今一身にワリをくっているフィンにどんなわびを入れても足りないことになる。エリオットはいかにも
「うむ、うむうむ」
話半分の風情だ。エスリンは、ここでひと悶着が起きないことをただ祈るよりなかった。


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