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 そして、数日の時間が空いてから、アイラとの面会のツテを何とか手にしたレックスは、彼女の前にいた。アイラはまだ寝台の上にあったが、エーディンの話によれば、本人次第ですぐにも起き上がれるそうだ。
 しかし二人の間には、どこから調達したのか、イザーク風に模様を彫り込んだ衝立があり、直接彼女の顔を見ることも出来ない。衝立の向うの寝台のとばりもおとされて、アイラは気配でしか、そこにいるということがわからなかった。
「…いつものことながら」
不自然な沈黙がしばらく続いて、衝立の向こうのアイラがやっと口を開いた。
「シャナンがお前を邪険にしているようで…保護者として申し訳ない」
「気にするな、まえから子供と年寄りにゃウケが悪いんだ」
レックスは平然そうに返して、すすめられていた傍らのイスにどっかと腰をかけた。
「それより、自分の心配しろよ。体はもういいのか」
「…多分。今になって気が抜けたのかもしれない…今までは、シャナンを護ってゆくことでいっぱいいっぱいだったから…」
ふふ、と笑うような息が一緒に聞えた。
「なあ、アイラ」
「何だ」
「…その」
言いにくい言葉だったが、レックスはなんとか、その言葉を続ける。
「やっぱり、うれしくなかったか?」
「ん?」
「ほら、あの剣」
アイラの体が震えでもしたのか、さわ、と衝立の向こうで音がした。
「…そんなことは、ない。
 王家に伝わる名剣なのだ。リボーの反乱で流出したのが、こんなところで見つかるとは思わなかった。見つけ出してくれたお前には、何をしても感謝をあらわしきれない」
「ふぅん」
感情のうすい言葉に、レックスは鼻で返答した。
 そしてアイラが、今度は話題を投げてくる。
「お前も、私など心配するよりは、もう少し心配のしがいのありそうな方に行ったほうがよいのではないか?」
「ああ…」
確かに、このマディノの城には、破綻した人間関係に血の涙を流しても足りないのが何人かいた。しかし、飄々としたレックスの性格には、その現場は重過ぎる。
「俺、湿っぽいのは苦手だ」
アイラはまた笑ったようだった。
「悠長なことだ。当事者の一人になっていることに、自覚はないのか」
「そういう政治ごっこは、親父や兄貴の仕事だったからな。いまさら俺がそこにとびこんで、何が出来るよ」
「そうだな。机の前で頭を悩ましているよりは、戦場で何も考えず斧を振るっている姿の方がお前らしい」
それを聞いて、レックスが伏せていた顔を上げる。
「褒めてくれたのか?今のは」
「好きにとってくれ」
「図に乗るぞ?」
「今のお前には、その資格がある」
とばりの中で、アイラはこほ、と咳をした。
「大丈夫か」
「ああ…すまない、今日はもう」
エーディンを呼んでくれ。そう言うアイラの声は、少し枯れているように聞こえた。衝立も帳もけり倒し払いのけして、その顔を見たかったが、それをしたら最後だなと、レックスはすんでのところで理性を働かせた。

 その夜は、ひとしきり雨が強かった。
 アグスティの城に詰めていた兵士が逃げるようにマディノにきて、グランベルの者たちがあわてたようにひとところに集まったようだ。
 遊び相手もいないシャナンは、散々に暇をもてあました挙句に、早々と眠ってしまった。
 アイラは寝台の中に明かりを灯させて、城の書庫から適当に持ってこさせた本を読んでいる。恋愛詩集を持ってこられるとは思わなかったが、何も考えず無聊を慰めるには、ちょうどいいぐらいだと思いながら、ページをめくっていた。その手がとまる。
 <寝乱れた髪は夜の名残 かきなでた手が思い出されて>
その一節が、なぜにかずきりとアイラの胸に刺さった。それをごまかすように、窓をたたく雨の音に目をやろうとして、それより高く聞こえる足音に、アイラは本を閉じて、明かりを消し、布団にもぐりこんで息を潜めた。
 足音は、いささかに乱れた調子で、自分の部屋に入ってくる。
「アイラ、おきてるかぁ?」
無造作に寝台の帳をあけ、靴をぽこんぽこんと脱ぎ落として、身をちぢこめたアイラにかぶさってくるその気配は、整髪油に、少し酒の混じったにおいがした。気配の正体がわかってしまうと、アイラは体の中がわけもなく熱くなっているのを気取られまいと、絡まってくる腕を解くようににじり去ろうとする。
「逃げないでくれよ…ひどいことなんか、何もしやしないから」
しかし、手は器用に、薄暗い中アイラを絡めとり、うなじに唇を吸いつけてくる。イザーク風に仕立てられた寝巻きは、胸高にしめられた柔らかい帯を解いてしまえば、それ以上自分の体をかばいようもない。そのまま、転がすように押し倒されて、アイラの耳には、自分たちの息遣いと雨の音以外、もう聞こえなくなった。

 ああ、あの時は、逆に自分が突然訪ねたのだった、と、アイラは眠れぬままに思い返していた。
 どうあっても、自分の力でその謝意を表したかったのだ。しかし、イザークから出てくる時に渡された幾許かの金品も、ヴェルダンにたどり着くまでにはそれなりに使い込んでいた。この勢にすくい上げられていなかったら、おそらく、それらを使い果たした後は収入の手だてもなく、最悪はやましい家業に身を削ってゆくことになっていったかもしれない。
 今ここにいる自分達は、幸せ過ぎる。そこに帰ってきたオードの宝剣。その返礼をだれかに頼って済ませることは、アイラには到底できないことだったのだ。
 方法を考えている間に自分たちの周辺はどんどんと変化し、マディノに落ち着いたあの時でなくては、アイラはその決心がつかなかった。
 ともあれ、夜、ひっそりとレックスのもとを訪れたアイラに、彼は寝入ろうとしていた体をやおらもたげたのだ。アイラの用向きを聞き、その姿を上から下まで見て、
「明日じゃダメなのか」
と言った。しかしアイラはかぶりをふり、
「今でなくては、困る」
と答えた。決心を揺るがせてはいけないと、震えそうになる足に力をいれた。
「何が礼になるのか、ずっと考えた。イザークを出たときに持っていたたくわえも、今はない。
 残っているのは、これだけだ」
というアイラは、特に何も持っているわけでもない。
「つまり」
レックスは、眠りかけた頭をぶる、と振ってさましてから、
「自分が、その礼ってわけか」
「…わかってるなら、話は早い」
言いながらアイラは、その場で服を脱ぎ落とす。はっきりと、レックスが息を呑んだ気配をみせた。
 招かれるままにそこに横たわると、自分の上で
「後悔しないな?」
と声がした。アイラは目を閉じて
「…しない」
といった。
 そうして最初の情事は始まった。

 いやしくも一公国の公子だから、国元に戻れば恋人の一人二人いただろう。そういう存在に比べたら、自分の閨での振る舞いは拙いものだったに違いない。そう考えながら、アイラは夜が明けるか明けないかの時間をなるのを待ち、レックスを自分の部屋に帰るよう促した。明るくなるまでここに留めて、もし彼に何らかの迷惑がかかったらと思うと、つれなくみえるようなこともせざるを得なかった。案の定、レックスは目を覚ましているのかいないのか、長く寝床を輾転としたが、やがて物憂げに、自分の部屋に帰って行った。
 明るくなってゆく窓の外を、ぼんやりと眺めて、アイラはまた大きく溜め息をついた。
 剣士でない自分にとって、この世界はわからないことだらけだ。

 アイラの体は、少しずつ回復しているようだった。
 食欲も戻り、部屋の外にもでることが多くなる。エーディンは、心配性の虫が疼くのか、彼女の後先になってなにくれと世話を続けているらしい。
 そのアイラが、シャナンに剣の稽古を付けなくては、といい出す。
「まだいけませんわ、大人しくしていただかないと。ケガがあってからでは」
とエーディンは渋る。
「剣の上手はたくさんおられますわ、アイラがいかなくても」
「流星剣は、私でないと教えられないのだ」
と言うと、さしものエーディンも黙るよりない。諦めたように、それでも、
「お手合わせは他の方にお頼みなさいましね」
と言った。
 シャナンは、かいがいしくも、一人でずっと稽古を続けていた。剣だけ持って出てきたアイラをみつけるや駆け寄って、
「アイラ、もう治ったの?」
と聞いてくる。
「ああ、心配をかけたな」
「心配だったよ、アイラが死んじゃうかもって思ったんだから」
「小心なことを」
シャナンの心配を高雅な笑みでいなして、
「流星の奇跡は、お前にもみえたか?」
と、直入に聞いた。
「うーん、何だかよくわからないよ」
「わかってもらわねば困る。もっとも、本来ならもう少し大人にならねばわからぬ所を、今お前に教えようというのだから多少は戸惑うだろう」
「…うん」
「流星剣は大いなるオードが私達に遺された真に末裔の証、お前が体得できるようになれば、兄も草葉の陰で喜ぼう」
そう言ってアイラは、剣をシャナンに向けた。回廊の下からエーディンが声を上げる。
「アイラ、お手合わせはダメと」
その声に、アイラは振り返って薄い笑みを漏らした。
「心配はいらない、直接相対するわけではない。
 シャナン、お前の感じた流星の奇跡を、私に向けてくるがいい」
「わかった」
「…しょうのないこと」
エーディンは、こうなれば見守るよりない。シャナンは、アイラが差し出した剣の切っ先をにらんで、じっと間合いを取っている。逃避行で、戦場で、アイラの起こす流星の奇跡を、何度も彼は見てきたはずだ。それに共感し、体得しおおせたといえなくても、その片鱗を見せられなければ、まだシャナンは流星剣を得るには幼いということになる。
 アイラは、ちらりと切っ先を動かして、あえて隙を作った。シャナンはその隙を見逃さずに突っ込んでくる。
「でゃああっ」
流れてくる剣を、アイラは切っ先で弾き体をいなす。冬の始まりの、つんとした空気に黒髪がもまれ、一瞬の後、アイラの頬をしっとりと覆った。
「どう? どうだった? 僕の流星剣」
彼なりに手ごたえがあったのだろう。小走りに近づいて、シャナンはアイラの言葉を待つ。
「…悪くない」
「本当?」
やった! シャナンがその場で飛び上がり、全身で喜びを表す。
「今度戦があったら、僕も戦場にでられる?」
「それは無理だな」
しかし、意外に辛い言葉の続きに、シャナンは上げた手をだらりと落とす。
「どうして?」
「お前は、流星剣の型を覚えたに過ぎない。それを使いこなし、自分のものにするには、もっと長い時間をかける必要がある」
「そうなんだ」
「…しかし、さすがオードの本流、兄上の子だ。
 じきに、流星の奇跡はお前のものになるだろう」
最後に、アイラはくしゃりとシャナンの髪をなでた。微笑むシャナンの顔が、兄マリクルに似てきて、アイラはじんと胸が痛くなった。
「…エーディンが心配しているから、私は中に戻る」
剣をしまいながら、アイラが言った。
「ここには、よい剣士が大勢いる。教えを乞えば、お前の剣の腕はより速く上がるだろう」
「うん」
シャナンはひとつ、子供らしくうなずいた。
「ねえ、アイラの流星剣を見せてよ、お手本にするから」
「私の?」
帰ろうとした所を、アイラの足がぴったりと止まる。
「戦場で何度も見ているだろう」
「一回だけ」
下からのぞき込まれるようにされて、アイラの表情がややゆるむ。
「一回だけだぞ」

 しまった剣をもう一度抜き、アイラは目の前に作り出した、見えない仮想敵との合間をとる。仮想敵は、にやりと笑って、アイラの姿をねめ回しているが、そんなことは関係ない。今は、この目の前の仮想敵をいかに倒そう。
 一気に間合いをつめる。
 流星の奇跡を信じる。
 それだけでいい。これまで、何度も何度もやって来た。それで、自分たちの血路を切り開いてきた。
 剣をにぎりなおす。息を吸う。とめる。 相手は隙だらけだ、どこから斬りかかっても、きっとしとめられる。
 一足飛びで仮想敵の胸の中に入っていく。
 しかし。
 奴の動きは速かった。
 切り込もうとした時には、もう、アイラの身体はハスに両断されていた。
 アイラは動けなかった。自分の思うように動かないからだの、その理由を思い返す暇もなく、真っ暗な目の前にがっくりとひざを落とした。

 剣を構えたまま動かなくなり、ややあってへたり込んだアイラに、シャナンがかけよる。
「アイラ、どうしたの?」
「アイラ」
エーディンもたまらず走り出してきた。
「アイラってば」
シャナンがアイラの肩をつかみ、がくがくとゆする。アイラの目は焦点を無くし、やがて自分の体を支えることもできなくなった。
「ほらごらんなさい、無理をするから」
エーディンがやや声を荒げ、アイラの脇を支えてたちあがらせた。
「戻りましょう、シャナン、あなたも手を貸して」
「う、うん」

 医者が呼ばれ、処置が施され、アイラは数日の絶対安静を言い渡される。
「ひと月も横になっていた人が立ち上がっていきなり剣のお稽古なんかするからです」
エーディンはぷりぷりと頭から湯気を出している。
「アイラ、あまり向こう見ずなことはなさらないでね」
寝台に寝かせられて、アイラはバツが悪そうな顔をした。
「…情けない格好だな」
「今度こそ、ゆっくりおやすみなさいましね」
「…そうする。
 あと、シャナンには」
部屋を出て行こうとするエーディンに、アイラは自分の唇に指を当てて、黙っていてくれという身振りをした。
「ええ、いずれ誰もがおわかりになりましょうけどね」
エーディンは、そのしぐさに不承不承の返答をした。

 さぱさぱと歩いている間に、エーディンはどん、と誰かにぶつかった。
「あ」
「わ」
ぶつかった鼻を押さえて見ると、レックスがぬば、と立っている。
「ご、ごめん、ケガないか」
「ええ、どこにも」
「よかった」
とレックスは口だけでいい、その後
「アイラが倒れたって聞いたんだけど」
と続けてくる。
「あら、ご存知なの」
「シャナンが俺達のたむろってるとこまできてぴーぴー泣いてたからな」
「そう。
 残念だけど、アイラはしばらく一人にして差し上げて。本人は元気といっているのだけど、休んでいないといけないの」
「アイラ、そんなに悪いのか?」
レックスが眉間に皺を寄せた。
「この間逢った時は普通に元気だったのに」
「あら、アイラと逢ったの、あなた?」
「ああ、…あの、アグスティから使いが来た夜だよ。朝になる前に部屋を追い出されたけどな」
「まあ、それはお気の毒に」
と言ってから、
「え、それじゃあ」
と改まった声を出した。
「知らなかったのか? 俺はてっきり、あんたには話したのかと思ってた」
「私、何も聞いてないわ」
「そうか」
レックスは、なで付けた髪をさらに撫でるように頭に手を当て、
「聞きたいなら話すぜ? あいつが調子悪いの、俺が原因みたいな所もあるみたいだし」
と、いかにも気まずそうに言う。しかしエーディンは艶然と笑みを浮かべ、
「ええ、懺悔のつもりでお話なさいな」
と返した。
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